oldboy-elegy のブログ

ずいぶん長きにわたりグータラな人生を送ってきたもんです。これからもきっとこうでしょう、ハイ。

oldboy-elegy (7) サトウキビ、開聞岳、温泉、谷底の小川と「ルノアールの裸婦像」、軽石と一升瓶そしておばば

 oldboy-elegy君、おじいさん、おばあさん、などの親等間の呼び名が大の苦手。
なぜなら、母、父、僕の妹、そして父親の二人の子(義兄)以外近親者を誰一人として知らない.
かろうじての存在、母の母、おばばも「この人があなたのおばあさんよ」とハッキリ紹介されたこともない。
それゆえかどうか親等間の関係を実在の人を想定して考えることができいないのである。
小説を
読んでいる時など、ちょっとややこしい親等関係が出てくるとメモ用紙に鉛筆片手に図解して初めて「ふふ~ん」と言った感じである。
お前があほうなのだ、とは決して言わないで欲しいがどうであろう。by oldboy-elegy
 

f:id:oldboy-elegy:20190603213002j:plainこのイラストの植物の名わかります?
そうです、サトウキビです。
鹿児島では「トウキビ」単に「きび」でも通用します。
このイラストではまだ青々していますが、幾日か天日干しすれば糖度が格段に増すのです。、そうして束ねたものがいくつか土間の脇に積まれていたのを覚えている。


 



 「ほれっ!」とおばばがサトウキビの束からまるまる1本取り出し根っこの部分を鎌で払い投げよこすのである。
おやつである。
oldboy君これを担ぎ、穂先を引きずりながら土間から外に飛び出すのである。
しかし、こんな楽し気な時でも彼は母の姿から目を離すことはなかったように思う。
なぜなら、彼は常に母に対するある種の不安を胸に抱えていたのである。
その不安とは「母が自分をこの家に置いたまま何処かに行ってしまうのでないか」この恐れです。


 この辺りはシラス台地(火山灰台地)の南縁部にあたり、開聞岳が半分太平洋に沈むように屹立している姿は薩摩富士とも称されている。

 oldboy-elegy君の今いる家はそのすそ野にあり、山に近すぎるためか、ここからの山容は記憶にはありません。
この家がはたして母の実家だったのかどうか、サトウキビのおばばが母の母だったのかどうかも判然としないのです。
それに不思議なことに、この家での記憶に、おばば以外の人の姿や気配が一切なかったようにも感じている。

 ひょっとしたら、何回か母に連られてこの地に来て、断片的な記憶が何回も上書きされたのではと思うこともあるが、それもはっきりとしない。
oldboy君、5,6歳の頃の話のはずである。

 今に思えばシラスの台地での暮らしは大変なようでした。
電気は通っていたようだが、水道はなかった。
標高20~30Mの緩やかな丘のような連なりの火山灰台地で井戸を掘っても水は出ない。

   ただ幸運なことに、部落と山との境界の谷底に一筋の清流が流れていたのである。
その流れは、火山灰台地の縁部から解放されるとすぐに大海原へと姿を消してしまう運命でもある。


 母のこの家での一番重要な仕事、分かります?
朝夕の水くみ、水運びなのです。
あの谷底の小川までの行き帰り、相当の重労働である。
畑の中の狭い地道を少し行くと、やがて行き止まりに、そこから先はいっきに谷に落ち込み、その脇に、ここは「危ないよ」と言わんばりに大木が一本枝葉を張っていたのです。

 しかし、大木の影になっていたので見えなかったが、もっと狭い小道が右に向かって切れ込んでいたのです。
これを降りるのが谷底の清流にたどり着くただ一つの手立てなのである。
物理的な傾斜角度は相当なもので、もしこの道が直線で小川に繋がっていたら人間、ましてや、女性の水運びなど絶対無理なことである。

 そこはそれ、道は雷様のイナビカリ状のもので、右に少し降りれば、すぐに左にと、それを何回か繰り返しヤットコ谷底の清流にたどり着くのである。
その代わり距離は随分となるのは物理学の必然です。


 母はこの道を、天秤棒の両端にブリキのバケツを下げ、モンペ姿で上り降りしていたのである。
たどり着いた先の美しい流れの脇に苔むした石で設えられた角井戸が見える。
この井戸、普通我々がよく見る地面深く掘る、堀井戸ではなく、川の流れよりやや
深めの漉(こし)し井戸、つまり隣の綺麗な流れをさらに濾過したもので、井戸の中の水はそれはそれは美しいものでした。
角井戸の底は砂で小エビや小魚も見られる。
しかし労働は過酷で、そんな情緒で相殺できるものではありません。


 いまに思えば、この現実一つとっても、母が故郷を離れた理由がほんの少し分かったような気がしないでもありません。
oldboy-elegy君、このシラスの台地の深くを流れる美しい川の様子を今でも思い起すことができるのです。
川幅は3~4間程度かな、子供の頃の記憶はなんでも大きく見えるもの、といいますがさあどうでしょう。
両岸からそう太くはないが、背の高い竹が流れに沿い、頭上を覆い、その上から明るい陽光が差し込み、すべてが緩い黄色一色の世界を創り、深くない足元の流れがキラキラ煌めいているのです。

 oldboy-elegy君、ある時、この川の流れの中で見たのです、「ルノワールの裸婦」の絵を。
ここでの水事情を考えると、この台地の家々には当然風呂がありません。
だが幸運なことに町営の公衆温泉が歩いて行ける近場にあったのです。
しかしいかに町営と言えどもいくばくかのお金は必要です。


 したがって風呂に行かないときは濡れ手ぬぐい等で体を拭くのですがそれでも1週間の内、何回かは公衆温泉行かねばなりません。
ある日、いつものように母について谷底の漉(こ)し井戸に行った時のことです。
イナビカリ道の下からキャーキャーと楽し気な女の人の声が聞こえてくるのです。
降りきって下流方向の近場に3人(たぶん)の女の人が全裸で体を洗っている姿が目に飛びこんできたのです。
 
 見事な背景の中の裸婦像、そう、後に知ることになる「ルノアールの裸婦像」そのものだったように思い起こされるのです。
3人の裸婦は私oldboy-elegy君の存在を認めたのは確かなのですが何故か無関心なままで、まるで存在しないかの様子です。
しかしいくら幼少の身と言えども、こちとら、これでも男の子です、あちらが無関心ならこちらも表面的には無関心を装うのは難しいことではありません。
それが証拠に、ずっと後年になり、初めてルノアールのカラー印刷の絵を見た時、この画家、裸婦フェチでなく、お尻フェチなんだと直感したものです。
明らかに自分の深層心理に埋もれていたあの時の光景が具体化した瞬間だと思いますが
どうでしょうか?

 女性の方も気を付けてください、いくら幼少と言えども中身は男、幼いふりしてじっくり観察しているマセタやつもおるのですから。(俺がその証拠)


 開聞岳を背に海岸の砂浜をしばらく行くと、この町営の温泉銭湯が見えてきます。
当時(戦後10年ぐらい)の事と、田舎の温泉と聞けばなにかボロ臭く思わるかも知れないが、なかなか立派な造りで、浴場も広くかつ南向きには大きなガラス窓があり、足元の砂浜からそのまま広がる太平洋の光景をoldboy君、キッチリ憶えています。  
ここでの記憶はとりたて話すことはないのだが奇妙に思えることが一つだけあります。
 それは男湯と女湯を分ける仕切りのことである。
もちろん普通にあるのだが、仕切り板が湯舟の途中までで、oldboy-elegy君が潜って男風呂、女風呂の間を行き来、できたのである。

 なぜ俺はこんな是非でも無いことを覚えているのだろうか?

 この温泉銭湯からの帰りにいつもちょっとした仕事が待っていた。
その仕事は砂浜の波うち際を歩いて家に帰ることから始まる。
母の手には、薄汚れた綿布のズタ袋が握られている。
波風の強かった翌日とか、台風一過の後とかが効率が良いのである。
そう軽石拾いである。
海岸線の砂浜から離れるまでの道のりで結構拾える、ただ天候次第でもある。この仕事の主役は勿論oldboy-elegy君であり、砂浜を軽石拾いのため嬉々として走り回り、母に手渡すのが仕事。

 やがて砂浜が山に遮られ尽きる。
軽石拾いもここまでである。
収穫はズタ袋に半分ぐらい、まあまあである。
この軽石何に使うのかって?、まあ慌てずに。
すべての工程はoldboy-elegy君の手中にあり、また、それが気に入っている。

 作業は翌朝一番から始まる。
玄関先の脇にむしろを広げ、持ち帰った軽石を薄く、目一杯に広げ天日干しにする。

 ここで一升瓶の登場である。
母は横から嬉しそうに眺めているが決して手を貸すことはしない。
自身もあの水汲みの重労働が待ち受けている。

 夕方には、小さな軽石の欠片(かけら)や屑を集めて金槌でたたきほとんど粉末状態にまで加工する。
手製の紙の漏斗(じょろ)を一升瓶に差し込み、軽石の粉を流し入れる。
大きなものは元の形を尊重し、丸いものはより丸く、四角いものは角をとりやや楕円形にと手を加える、oldboy-elegy君、一連の工程ではこれが大好きである。
天然無比の形をした、これらの軽石は踵などの角質取や鍋釜のひつこい汚れ取に使用される。
当然、温泉銭湯に行くときも必ず一個は持参している。

 さて一升瓶の中の粉末軽石、これで終わりではない、彼はこの作業が反対に嫌いである、まず根気が必要とされる。
細い杵状の棒を差し込み又の間に一升瓶を挟みこみ、ただひたすらにつくのみ。
粉末の粒子が小さければ小さいほど上物であるとの事。
時折母が検査に来るが、なかなかOKがでない、退屈で根気のいる仕事で腕がすぐにだるくなる。
「もうやめて明日にしたら」とお声がかかり、おやつに黒糖のでかい欠片をもらった。
これが磨き砂である、食器を洗ったり、鍋や釜の裏底を磨き、農具を磨いたりと用途は多い。

 oldboy君後悔していることがある、それは生前の母に「あの時のおばば、俺のバッチャンか?」の一言である。

 oldboy-elegy君、母がこの故郷を出た訳がぼんやりではあるが納得できた気がした。母はそれでも高等女学校の2年だか3年だかまで在籍し、自ら出奔したらしい。

 真剣に探せばいとこや遠戚などにたどり着けると思うが、oldboy君が長じても、母が鹿児島の風物や風土を懐かしがることはあっても、そこに人物が入ることはない。

 以後、母が亡くなるまでoldboy-elegyくんは依然「私生児」のままで、母も親父の籍に入ることもなかった。
このあたりに母の田舎とは行き来がない原因だと思う。

 しかし、oldboy-elegyくん、全く不満や胸の内に「くすぶり」を感じたことはない。
むしろ母は自分の「同志」でもあると、今は思っている。

 

 

                  了

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