oldboy-elegy のブログ

ずいぶん長きにわたりグータラな人生を送ってきたもんです。これからもきっとこうでしょう、ハイ。

oldboy-elegy(10) むりやり母に水練学校に入れらるの巻

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水練学校のあった河原の雰囲気

   母は1年を通じて殆んど着物で通した人。
ただ例外は夏場で、それでも綿地や麻地の簡単なワンピース風のデザインで、見方によれば浴衣に見えなくもない。
以前ブログの何処かで記事にしたが、oldboy-elegy君の悪さで学校に呼び出されたおりも薄地の着物にベージュの日傘、手には小物入れの為の信玄袋と言ういで立ちで来校された事があった。
信玄袋の中身はタバコ、キセルにマッチも入っているはずである。
実際、学校の応接室で教頭先生、担任の前で紫煙をプカリとやられた母の姿を見て、恥ずかしさの中に何か「かっこいい」と思った事も事実である。

 
その母が今日は正真正銘の浴衣姿である。
それも簡易帯や細帯でなく、通常の広めの帯である。
まさしく正装でのいで立ちなのだ。
いったい何が始まろうとしているのか、彼、嫌な予感と不安の中にあった。
「あんた今から出かけるよって、タンスにある白の半袖と洗った半ズボン急いではいといで、下駄はあかんよ、ズック(白の運動靴)でええから」と命令口調。

oldboy君、身支度しながら、「どこへ行くんや」と母に聞くが返答はない。

 いつも母はこうである。
「行ったら分かる、あんたの為になることや!」とだけ言い、oldboy-elegy君の身支度を急かす母。

 あとは、転がるように付いて行くだけ、手を引かれるわけでもない。
ここで母に「どこへ、何しに?」など質問しても、まともな返事があるわけでもない事は百も承知である。

 その道の先には、隣町の真宗系の大寺がある、母は急に歩速を緩め、信玄袋からなにやら書き物を取り出し、あたりをキョロキョロ。
チョットした商店街の八百屋の前で「このへんで至心会(ししんかい)と言う水練学校の事務所、知ったはります?」と尋ねると、即刻判明。

 母、その八百屋でデッカイ西瓜を1個買う、手土産替わりにするのである。
oldboy-elegy君には単に「〇〇学校」と聞こえ恐れおののく、水練の意味が分からなかったようである。
基本、学校と名の付くところ、あまり好みで無いようである。
 母、デッカイ西瓜を彼に手渡し(あなたが持つのよ)と無言のアピール、ついでに「水泳の学校や、イヤは許せへんで」とご宣託。
母のやり口はいつもこうである。
「あんた落としたらあかんよスイカ」と、のたまう、必死になり、ひょこひょこ母を追いかけるoldboy君である。

 彼が逃げ腰になる事は先刻ご承知なのである、そのためにも有無を言わせぬ状態をこしらえてからご宣託されるのである。

 すぐに「至心会」と書かれた金属製のプレートを発見。
しもたや風の小ぎれいな普通の民家である。
小さな中庭の見える畳の部屋に通されると奥から白く長いあごひげを蓄えた初老の方が入って来られる。
この方が大和川水練学校・至心会の会長さんである。

 入会に際して皆さんに必ず確認していることが一つだけある、これだけご了承して頂けたらどなたでも大歓迎との事。
この水練学校、「至心会」は「速さを競う競技水泳は一切行っていないし、一線を隔している、それを求められるならお断りいたします、と。
「至心会は古泳法を基本に日本古来の泳法を教える場所で、子供たちが水を怖がらずに、慣れ親しむのが初期の目標であり・・・・」など今で言う「生活水泳」の考えを述べられ、「このことを了解の上、入会を判断して欲しい」との趣旨をお話になった。

 母はもとより依存があるわけでもなし、むしろ賛同の体である。
oldboy-elegy君はと言えば、内心「えらい事になってしもうた、電車の駅だけでも5個か6個目かの遠くの「河内国分」まで行き、そこから歩いて約30分、その上、宿題なんかしとったら、」もうまったく地獄の夏休みに。

 ただすぐ後で分かった事だが、oldboy-elegy君、週3回のコースである。
さすがに毎日は「こいつには無理」と母の御判断、的を射たものでさすがといいたくなる。

 考えてみるに初めから最後まで、母の手の平の上で踊らされていたのである。
この後、5年の長きに渡り「至心会・大和川水練学校」に通うことになり、お世話になるとは、自身にとっても驚き桃ノ木山椒の木を、地で行った感がある。
最後の年は、白帽子に黒線2本の教練助手で中学2年生の時であった。

 最初は赤帽、次に白帽、そして黒線が一本、2本と加わるのである。
教練助手と言っても小学生の赤帽くん(初心者)に「決して水を怖がらせず、水遊びを手伝う」のが与えられた仕事である。
もっとも、水練学校の会費がタダと言うだけで、アルバイト料や交通費が出るわけでもないが、別にそれで満足していた。
それまでの人生(大げさ)で何かを成し遂げた感とは無縁であった彼、誇らしい事でもあった。
白い帽子に黒線2本、これにoldboy君、カッコよさと、ある種のステイタスも感じている。


  母上曰く「もう何時やめてもええよ」の下知。
完全フリーな夏休み、1年ぐらいあってもいいだろう、と考える。
実はこれも手の内、同じことを思っておいでになる。

 ここで秘密を一つ、oldboy-elegy君、赤帽(初級者)を2年やっておいでなのである。
基本ドン臭いのである。
しかしこれには母は一言もなにも言わなっかたなあー、と思う、結果これが良かったのかも知れない。
水泳て不思議なもので、何か一つ上手く出来るようになれば、体がそれなりに順応し、初めての泳ぎ方でも、少しは恰好が付くのはどういう訳であろうか?。


 ここでこの水練学校が標榜する古泳法・または日本泳法なるものを少し紹介する。
浜寺にある有名水練学校「浜スイ」は基本、近代泳法の平泳ぎ・クロール・背泳ぎ・バタフライの4種で、日本泳法は「こんな泳ぎ方」ありますよ、程度教えると聞いているが、本当のところは知らない。

 基本、近代泳法は「スピード」、古泳法は「持久力」、この言葉に代表されのでは、と思う。
古泳法の基本中の基本は「立ち泳ぎ」と「浮き身」であると思うがどうであろう。

 「立ち泳ぎ」とは、、首から頭は水面より上にあり、呼吸は自由にできる。
足も含めて体全体は水中に対してほぼ垂直である。
足の動きは基本やや外向きに水を蹴り、場合により緩やかな円運動もある。
体力を温存しながら出来るだけ長時間保てるかが重要なことである。
浮きながら、流木をひろったり、浮き輪や(今ならペットボトルなど)を探すことも大切な付帯行動である。

 「浮き身」は体全体を水面上向きに無抵抗に投げ出し、全身の力を抜き水と一体になることである。両手はやや広げ、両足も同様である。
ここで肝心なのは呼吸法である。
ゆっくり、ゆったり と呼吸し、いつも肺に残存空気があるように意識すること、しかし上達すれば意識しなくとも浮けるようになる。
この2泳法、普段、川で練習している人なら、海でこれをする時、無敵で天下を取った気分になること請け合いである。
塩水と真水の比重の違いである。
上手い人なら、浮き身の状態で片足の膝立や、両手を胸の上で組む方もおられる。
急難時、天候さえ普通なら救援が来るまで相当の時間を稼げる。

 「抜き手」は見た目、近代泳法の平泳ぎに似ているが手の動きが全く違う。
足の動きは似ているが、平泳ぎの方がゆったりしている。
両手の動きは全く別物である、平泳ぎは、両手を同時に水中で拝むように顔の前に出す、次に力強く水を手の平で掴みそれを体に伝え、両脇まで掻き、前進する力を無駄なく体に伝える。
一方、「抜き手」の両手は基本、クロールの泳法に近い、両手が代わる代わる水を掻く、文字通り「抜き手」で、水しぶきはご法度である。
水面に対してやや立ち気味で、水音を消しながら、持ち物や刀剣を頭上に縛り急流の中、対岸にたどり着く泳法である。

 そのほか「天馬」「千鳥」などいくつかあるが割愛さしていただく。

 oldboy-elegy君の得意技はこれらの内、「立ち泳ぎ」であり、模範演技で、白扇子に墨汁で「心」の一字を書かしてもらったこともある。
諸兄よ、字の上手い下手は言うな、上手いはずはなかろう。

 この5年の間、母はoldboyくんにある餌を与え続けたことを告白しておく。
大粒の黒色とも濃紫とも見える河内ぶどう2房である。
今で言えばピレーネと言う品種かな、よく分からない。
現物の支給ではなく現金での支給である。
国分大橋の袂によしず張りでできたにわか創りのぶどうの販売店がこの時期オープンする、いくらだったかは憶えていないが、母からもらうお金で、少しおつりがあった。

 そのつりで近所の駄菓子屋の「チュウーコヒン」で何かしらの安物の菓子が買えた。
因みに「チュウコーヒン」とは「中古品」の子供言葉である。
クチサガない大人たちが「中古品、中古品」と揶揄するのを聞き、「中古品」の意味を知らない我らガキンチョは自然「チュウーコヒン」をそのまま店名として使っていたのである。
おばあさん「ごめんなさい」
何故おれはこんなに謝る人が多いのか。

 このぶどうの2房、河内国分で電車に乗り窓を上から下に大きく開放、山や田圃の心地良い 風に吹かれながら、口に入れ皮と種を電車の窓から「プープ~」と吐き出し、丁度最寄りの駅近くで、尽きるのである。

 「窓からプ~プ~吐き出す」oldboy-elegyくん、今では決して致しません、お許しあれ。

 もう一つ忘れられない記憶がある。
初めて死人?を見たのもこの水練学校でのことである。
当会の生徒ではない、一般の水泳客である。
練習場にしているこの辺りから少し上流で子供が見えなくなったとの連絡が水練学校の事務所に入ったらしい。

 すぐに練習中止になり、水練助手以上のものが呼ばれすぐに上流に移動。
oldboyくん、まだ白帽黒線1本で助手の一歩手前のことである。
やがて淵の深みの岩場で発見。
先に用意されていたゴザに運ばれ手当てが施されたのだが、救急車が来たような記憶はない。
大勢の人の間から、寝かされた子供の肌を少し見たと言うだけの事だが、不穏で強い印象を感じたのを今も憶えている。
ただその子が助かったのかダメだったのかの正確な情報はもたない。
時間の経過を考えると、どうしてもイヤな結果を想像する。



 この大和川水練学校、今はもう存在しない。
規模は小さいがそれなり存在価値はあったように思うが。

何時解散したかも判然としない。
しかし消滅理由は明瞭である。
日本の経済成長の所産である。
まず天然の川でプールは持たなかった水練学校である。
この大和川は汚染された川で有名であった。
1級河川中、常に全国ワースト1位か2位にランクイン、のひどさ。

 しかしoldboy-elegy君にとって母との思いでと合わせ大和川水練学校は、貴重な貴重な人生の一コマである。
終戦間際、船と言う船は(戦闘艦でもない船まで)軍に徴用され兵員移送や物資運搬に駆り出され、その多くが南方海域で潜水艦や爆撃で爆沈されて多くの人命が失われたのである。
国内に残った船は外洋はもとより近海を航海するのも難しいボロ船ばかり、こんな中、瀬戸内海や三河湾などでの相次ぐ水難事故が多発した時期があった。
修学旅行生など遭難。

 oldboy-elegy君の母もきっとこれらの事故、遭難の記事は知っていたのではないのか、いやきっとそうであるはずである。
これだからこうする、的な説明をする人ではなかった。
だから何か母が行動した時は、理由、説明は心の内、結論が即、行動の人であった。

 このoldboy-elegyくんのブログに母がよく登場されるが、すべてこの通りの人として書かれているはずである。
実際そうであったのだから。

 4・5年前、韓国で修学旅行生300人あまりが無くなった船舶事故があった。
これに関してはいろいろ思う事、書きたいことが山ほどあるが今日はやめておく。

 何も声高におしゃらなくとも、4年も5年もかけてある憂いを(水泳ができないoldboyくんの事)除去した母は偉大とは言わなくとも「母」であった。

 ただ。母なら絶対こう仰っているはずである。
「ソウル光化門広場や事故現場の高台に記念館を」の声に、
「なによそれ自分なら絶対いらない!!」と一蹴。

             了

           oldboy-elegy

  oldboy-elegyくんには7歳下の妹がいる。
彼女にはこのブログの存在は言っていない。
妹の知らないであろう母の若い頃の人と成りをいつか彼女に教えたいと思っている、それは50記事位をUPしたごろかなと予想している。
楽しみにしている。

 いろいろ記事中に母に登場願っているが、下記のリンク記事がその母の人と成りが如実に出ていると思う。
もし良かったら一読して頂けたら、当方(母にとっても)嬉しく、幸せなことである。
遺影の前の供物の塩豆入りの饅頭下ろさなくては、と今思い出した。
供物のタバコはそのまま仏前に。

                了

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