oldboy-elegy のブログ

ずいぶん長きにわたりグータラな人生を送ってきたもんです。これからもきっとこうでしょう、ハイ。

(雑感・雑記帳  NO.11)    子供たち(花)はどこに行ったの? oldboy-elegy君的「人口動態表」の見方

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内閣府発表の人口動態に関する統計資料です、都道府県別「合計特殊出生率」など興味がつきません。以下にリンクを貼っておきます。

出生数・出生率の推移: 子ども・子育て本部 - 内閣府

※上記のリンク案内、現在では「not found]」扱いになっています。申し訳
ありません。
記事内容は、上記グラフのみでも、通用いたします。
失礼します。 (2022年・04にて付記)

 

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  oldboy-elegy君、幼少のみぎり、大勢のガキンチョ(腕白坊主)の集団の中で生きるすべを学んで?来た様に思う、良し悪しは別にして。

 ブログ記事のいくつかは、その折の事をおもしろ、可笑しく、
そしてちょっぴり哀しく書き上げたつもりだ。
読んでいただいて、何か読者諸氏のためになるような情報があるのかと言えば皆無かも知れない。
食べ歩き?ないない、「本人、おなかが空いた時の食事が最高の御馳走」と思っている節がどこかにある。
パソコンのスキル情報の発信、これは絶対にない、「教わるスキルは山ほ
どある」が。
何か商品情報でも?これはもッとない、「壊れた時が買い替え時」ぐらいにしか思っていない。

 
それでは、何を売りにブログ記事を?
oldboy-elegy君の立ち位置、目的の事なら?、「コーヒーブレイク」のための「お休み処」ぐらいのつもりで書いている、と言えば良いのかな。
「チョットした懐かしさとelegy(哀しさ)」を感じ共有していただければ、それが嬉しい。
また、御同輩の方なら、今は亡き父母の事や、成就を得なかった彼女の事などに「人知れず、寸時の間」思いをはせ、頬を緩ませるのも、一興かもしれぬ。
まあ、そんなところである、自分が思うに、迫力の無い事、おびただしい。

 そして、また新たな気持ちで、戦いの大海原に出航して欲しいものである。

 自分(oldboy君)には戦いの場は似合わない。
これまでの人生、自分にプレッシャーを与える物事からは極力避けてきた経緯がある。
もし、この21世紀に社会人として出発せねばならぬなら、oldboy君、1年、いや数か月のうちに脱落すること請け合いである、すなわち天性の「根性」なしで「グータラ」な御仁なのである。
それが証拠にoldboy-elegy君の「ブログ一行紹介」ではこうなっている。

「ずいぶん長きにわたり、グータラな人生を送ってきたもんです。これからも
きっとこうでしょう、ハイ」

ふざけた野郎である。

 さて今日のトップ画像はいつものイラスト画像と違い「資料画像」である。
それも日本の「人口動態統計」と言う少々重い雰囲気のものだ。

 先ごろ、厚労省は、「今年中に(令和元年)新生児数は90万人を割るのが確実」と発表、これは統計を取り始めて(明治以後)初の事らしい。


 oldboy君のブログを読めば、ワイワイ、ガヤガヤと大勢の子供たちが登場するのが常である。
それに比べて21世紀の現在、彼等が街中や児童公園、広場などで学年に関係なく子供達だけの集団で遊ぶ姿は殆んど、いや全く見なくなったように思う。
たまさか見かけても、親の監視のもとに遊ぶ子たちだけである。


 そこで実際の人口「動態」、つまり「経年」に渡る「実数」を見たくなり、厚労省
(2016年・H28年)発表のこのグラフを記事に貼る事にした。
このグラフ、「出生数」の棒グラフのほかに「合計特殊出生率」なるものが、赤字の折れ線グラフで同時表示され、特異年のみではあるが、実数が記載されている。
oldboy君、「自身の感覚」と「事実」の間に「乖離」があるのか、もしあれば何故なのかとの思いで見たかったのである。

 つまるところ、「この少子化に対する危機的状況」に「政府がどうの、こうの」ではなく、単純に「oldboy君には、この実数以上に子供の姿が見えない」と言う「現実」の「意識と実感」に就いて書いて見たいのが主旨である。

  例えば、(若いお父さん、お母さんが、子連れで歩いてはいるが、その視線の先は自分達の、それぞれのスマートホンに一生懸命)、みたいな事である。
まあ、いつもの「彼、一流の独断と偏見に満ちた」感想だと思ってくれ。


 そこでこの記事のタイトルは「子供たち(花)はどこにいったの?」となっている、のである。

 往年のプロテスト、フォークソング「花はどこへ行った?」をもじったものだ。
「Where have  all the flowers gone」がそれである。
作詞、作曲は米国のフォーク歌手、ピート・シーガーで、後に多くの有名歌手がカバーを出している。
有名どころでは「キングストン・トリオ」「ブラザーズ・フォー」「PPMこと、ピーター・ポール&マリー」、日本人では「加藤登紀子」など大勢いる。

 今の若者たちには、上記の人達すべて「それだれ?」と言う事になるのかな?。

 実はこのピート・シーガー、oldboy-elegy君とは多少にして、大いなる縁?がある、と勝手に思っている。
彼(ピート・シーガー)の生年月日は1919年、5月3日生まれである、1919年を除いて月日はoldboyくんと全く同じである。
ここで「あほらし」と少し軽蔑の念をもって「笑えたくば笑え」、笑うのは自由である。
確率365分の1、稀有なことと俺は勝手に思っている。

 それにoldboy君、昔からの現行憲法の擁護(論)者である。
5月3日は祭日にして休日であることが、その主たる事由で、政治的意味は皆無であるのが彼らしい。

 歌詞の後半は「男たち、どこに行ったの? みんな戦場に行ったよ、それでみんな墓場に入ったよ、それで娘たちは墓場の花を摘んでいったよ」・・・意訳。

 その昔、その詩から強烈な印象を受けた事も憶えている。

 もう一つ「If ,I had a Hammer・天使のハンマー」なども欧米人特有のアイロニーが効いた作品であったように思う。
もし俺が訳詩するなら「天使のハンマー」ではなく、ここはストレートに「俺がハンマーを持ったなら」とするが。

 おまけにもう一つ、これは彼(ピート・シーガー)の原曲ではないが「We shall over come・進もう乗り越えて」も彼とともに、存在感を発揮した曲である。
合衆国60年代、マルチン・ルーサー・キング牧師を先頭に黒人解放のための「公民権運動」の原動力をなす「主題歌」でもあった。
ジョン・バエズもそこにいた。
またPPM(ピーター・ポール&マリー)のマリーはこう言った「社会の変革には必ず、音楽の声が、ともにあった」と。
21世紀のこの時代、歌の好みもあまりにセグメント化(細分化)され、マリーの言うような事が現実に起こる事があるのかどうか疑わしい。

 さて肝心のグラフに戻ろう。
「出生数」とは文字通り、その年に生まれた新生児の単純合計である。
S24年・1949年がベビーブーム頂点の年で新生児数は2.696.638人である。
ほぼoldboy君と同年配のかたがたである。
途中、丙午(ひのえうま)・新生児の厄年(やくどし)や第二次ベビーブームなど、曲折はあったものの漸減傾向に歯止ハドメがかかることはなかった。
最終、右端のH28年・2016年には百万人を切り、976.978人にまで落ち込む
ことになる。
S24年ピーク時の36~37%の水準である。
これが今年・令和元年末には90万人を下まわるらしい。

 それでもoldboy君、超満員の小学校の教室、70人越えの中学校の英語の教室などを経験してきたが、現在の今、数字以上に子供たちが少なくなったと感じてしまうのだが?
 
 これは実数の事より、社会の在り方、有り様が完全に様変わりした事の方が意味が大きいのではないか。
oldboy君、子供の頃、親と遊ぶ事なんてなかった、よしんばあったとしても、年1回遊園地に親の義務感で連れていかれるのが関の山、親は親、必死に働きづめ、こちら子供としても
「かえってアリガタ迷惑」で、その「ギコチナサの感覚」は「いかにも喜んで見せるが」正直、芯から喜んでる訳でもない。
イケ好かぬ子どもである、「どこか太宰」の「人間失格」を思いおこす。

 学校から帰るやいなや、玄関先にランドセルを投げ置き、すぐに外に飛び出し、暗くなるまでヤンチャし、遊びほけているほうがヨッポド良いのである。

 街の児童公園(今では街区公園と言うらしい)から子供が消えて久しい。
ボール投げ禁止、大声を出さない、走り回らないなどの注意書が書かれた街区公園もあるとのこと。
これでは子供達に静かに公園でケータイゲームでもしろと、それなら家でおやつを食べながらゲームをし、時おり親に勉強を強要されているほうがましかと思ってしまう。
 
 今の子供たちに「この広場自由に使って遊んでも良いよ」と言っても、ただただ戸惑うばかりで、あまり嬉しい事では無いのかもしれない。

●まず、他人との生身の接触がなく安全なのは自分の家
●住居形態の変化 特に都会では、戦後一貫して地方からの流入者は中層、高層のアパート、マンションに居住。隔絶された隣家、近所、町内、地域を長年にわたり形成
●両親の共働き、による子育ての物理的困難さ。
●極端な都会集中、東京一極集中と言っても良いかも
●PC,スマートホンの発達、それとともに、SNSによる人間関係の疑似体験(自分に合わないものは初めから関係は持たないし、煩わしい事は簡単にボタン1個で拒否・消去できる世界)
●人間同士の生身の接触は初めから「なかよし広場」、合わないもの、やっつける相手はいくらでもいる、ゲームの中に。
●大人も、同じく、この環境の中に入る、「帰宅して、少しでも気に入らない人」と「同居」するよりSNSの向こうの気の合う人とコンタクトする方が楽しい。そしてセックスレス化。

 こう列挙すれば、子供が危険を冒してまで、外に出る必要もないし、ある意味自己完結も可能である。
このように見て来ると、oldboy君、数字以上に子供達が眼前から消えてゆくのを納得せざるを得ない。

 結論として言えるのは、「文明の発達、進化が、これまで余り影響を受けなかった文化(民族としての美徳や特性)と言う牙城にまで変化をもたらし始めたのかも知れない」

 もう一つの聞きなれない言葉が「合計特殊出生率」であるが、一人の女性が生涯に産む新生児の平均の数である。(赤い折れ線グラフの部分)
中でもエポックメイキング的な年、二つのベビーブームや、ひのえうまの年、最低率の年などがピンクの棒グラフで記載されていて、それぞれ白枠に実数が書かれている。
条件として15才から49才までの間と言う縛りがある。

 夫婦2人で2人の子、大まかに言えば、かろうじて「人口の維持」が可能な数字で、「合計特殊出産率 2.0 」と言う事だ。

2016年・平成28年では
全国平均(1.44) 東京(最低で1.24)沖縄(最高値で1.95)
平均値以下、北海道、大阪を始め(11都道府県)
平均以上(36県)

注目すべきは、中国・四国・九州域の全ての県はこの平均値をうわまわっているのである、特に戦後一貫して若者が、関東、関西の工業地帯に移動して行ったことを考えると特筆ものであると思う。
ところが東北各県のこの数値は意外に低く、平均以下の県も数県存在する。
それだけ、特に関東以北(東北など)は東京への若者の吸引力が強力だったことが分かる。

 映画「ALWAYS 3丁目の夕日」の時代背景はこの頃のことである。

 oldboy-elegy君も若かりしころ九州は宮崎駅で「集団就職列車」に遭遇したことがあった。
このことは 「oldboy-elegy NO.8・初めて社会に出て働き始めたころの話」としてブログ化している。
 最下段に記事をリンクしておくので読んでいただいたら嬉しい、なお時代の雰囲気を感じてもらえば最高だ。

 文明、文化、移民、IT, 首都圏の分散化、などとトータル的に手を打つことができるのか、あるいは全て放置して流れるままに行きつくとこに行けば良いと「ケ・セラセラ」精神の無手のまま行くのか、勿論oldboy-elegy君にはわからない。

     oldboy-elegy君、当然この行く末を見ることは決してない。

                了
                oldboy-elegy

 

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