oldboy-elegy のブログ

ずいぶん長きにわたりグータラな人生を送ってきたもんです。これからもきっとこうでしょう、ハイ。

(雑感・雑記帳 No.12) 除夜の鐘、騒動記・「うるさい、騒音だ!」との声。 いつもの通り「独断と偏見でもって語ってみる」 by oldboy-elegy

 

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 oldboy-elegyくん、「さあーて、どこから書こうか」と思案中に、唐突に「木枯らしとだえーて、さゆる空より~・・・」の一節が機能障害一歩手前の脳に去来。たしか、文部省唱歌の「冬の星座」のはず、さっそくG検索を実行。ふだん検索で固めた(文)はoldboyくん、お好みではないのだが、なぜなら少々の「ボンヤリ感の漂う文章」の方が「自分らしく」て「よかろう」と勝手に思っているのです、ハイ。
ありました、ありました、この歌詞の1番のうしろの方に「ものみないこえる、しじまのなかに」のしじま」の部分です。
除夜の鐘→ご~ん→深夜→静寂→しじま→木枯らし途絶えて→そして
「冬の星座」へと連想、そしてここに行き着いたようです。

 
この「しじま」、漢字でも「静寂」とするらしいのですが、それも「まったくの同義語」でもないようです。
そこで、申し訳ないのですが、oldboy-elegyくん的に以下のように解釈させていただきました。

 「静寂」は「おのれが現在いる、近しい空間」の静けさで、五感で感知できる範囲のもの。
「しじま」は「はるか、自分を離れて、天空から宇宙まで」を含む静寂で、五感を離れ、心で感じるもの、とさせてもらいます。
そうすれば、「しじまのなかで」の前節「ものみないこえる」の、作詞の意図がはっきりするように感じるのです。
「ものみないこえる」は「者、皆、憩える」で、「人間を含む、動植物や物、存在する全てが憩える」と解釈するなら、「天空・銀河、果ては冥界」までもアリかなと思えるのです。

 oldboy-elegyくん、およそ50年前の大晦日のお話です。

 夜具(当時せんべいふとん)に入り、枕元のラジオも消し、部屋は真っ暗闇の状態です。
身も心も、外界と一体となり、静寂の中に在り、ある意味「至福」の時かも知れません。

 「うむ?!」とおよそ50年後の今、思う事があったのです。
時空を行ったり来たり、申し訳ない。
「そう言えば、俺、生で、除夜の鐘、聞いたことないなあ」この事です。
自宅のあった「河内」のこのあたり、ほんの近場に、真宗系の大寺院が二つあり、中堅寺院や末寺の坊などを入れると無数にある土地柄なのに。

 oldboyくん、実家を離れたのが、二十歳過ぎで働き始めたころのことである。
すぐ近場に大寺などあったが、記憶に鐘撞堂(かねつきどう)や鐘の存在は知らない。
本堂とは別に境内の敷地脇にあった建物は決して鐘撞堂(かねつきどう)ではなかったはず。
3階建てぐらいの楼閣のような建物で、当時、1階にはソロバン塾があり、じっさい、oldboyくん、母の強要でここに入塾したことがあるが、1、2か月で強制退塾とあいなったのです。
「こらoldboyうるさい!!」と、一喝、読み上げ算用のテキスト本を投げつけられ、これを反射的にハッシと受け止め、みんなの喝采を集めたのが、原因だったようである。
かようにここも、けっして鐘撞堂(かねつきどう)ではなかったはず。

 このあたり、寺がたくさんあったのに、なぜ除夜の鐘が一つとして鳴らなかったのか?
今思い起こしても、原因はこれしか考えられないのだが。
戦時中、半強制的に金属器などを「お国のためと」お上にさしだした時期があった。
梵鐘(かね)などは金属の王様、これ1個で鍋、釜いくつ分に相当するのか見当もつかない、そんな鐘が鐘楼に無事にぶら下がっている訳はない。
そして、戦争も終わり、そんなに経っていないころ、国中が貧乏の極致、失った鐘の再設置など、考えもしないし、食うだけで精一杯の時代であった。

 2、3Km先に国鉄(JRではない)の貨物専用の広い操車場があり、冷たい冬の夜間など、貨物列車の編成中の連結器の音が「ガチャ・ガチャ・ガチャ・ガチャ―ン」と「静寂」を破り、聞こえてくることはoldboyくん、記憶にあるが「ナマ除夜の鐘」の覚えはない。

 「天空の凍てついた夜の静寂(しじま)」を緩やかに破る、鐘の音を一度は聞いてみたかった思いは今もある、それも真っ暗な自分の部屋の寝床の中で、きっと心地の良いものだと想像する。

 はてさて、21世紀のこの時代「除夜の鐘」が「うるさく、騒音」に聞こえる人達が結構、いるそうである。

 札幌のある寺院、苦情のため、今年初めて、除夜の鐘撞(かねつき)を中止するはめになったらしい。
鐘の音が「ある種」環境破壊?であり、自然音でもなく人為的なものであり、もっと言えば「騒音いがいの何物でもない」と電話による苦情が入るらしい。

 普通に考えれば、現代の建築物は昔に比べ、気密性に優れ、防音にも配慮された造りなっているはずである、にもかかわらず「除夜の鐘の音」を騒音と感じる人が増える傾向にあるというのである。

 この人たちを、あながち「文句言いのモンスター」と決めつけるのは短絡的で、
本当に「騒音」として聞こえている可能性もありうる。
本人にとっても「あんなうるさい」を「情感あふれる日本の音」と愛でる人の気持ちが、心底、理解できないのかもしれない。

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 たとえば、セミの声だが、日本人は幼い時から種類別の鳴き声(擬音として)を結構表現できるのが普通である。
例えば
ヒグラシ(カナ、カナ、カナ) 
ツクツクボウシ(ツクツク、ボーシ)
クマゼミ(シャー、シャーシャー、シャワシャワ)
ミンミンゼミ(ミーン、ミーンミーン、ミンミンミン、ミー)
アブラゼミ(ジャー、ジャー、ジージー
ニーニーゼミ(チィーチィーチチチー)
などなど、鳴き声のオノマテぺ(擬音・擬態語)はoldboyくんが勝手につけたが、ご不満の方もあろうかと思うがおゆるしを。

 まずセミの(種類別のなまえ)(姿かたち)(鳴き声)(出現時期)など答えられる日本人は結構おられるはずである。
欧米人、とくに白人では、クマゼミの集団がうるさくそこで鳴いているのに、聞こえない、聞き取れない人も大勢いるらしい。

 なぜか、多くの外国人と日本人とでは、これらの「音おと」を処理する「脳の認識する分野」が違うのが原因であることが分かっている。
日本人は左脳の言語を司る分野で聞き、処理し、多くの外国人(アジア人も含む)は右脳の音楽、音に対処する分野で聞いているのだそうな。
言っておくが、これらのことは「遺伝的素因」とは関係はなく、幼児から大人になる過程で付与されるものらしい。

 あと虫の種類とその鳴き声も同じで、

これだけの分類ができるのは、学者で無い限り「日本人」だけのようである。

 また「松尾芭蕉」の有名な俳句で
「静けさや 岩にしみいる 蝉のこえ」と言う超有名な俳句があるのだが、
欧米人にこの歌を説明しても、理解してもらうのは、不可能に近いものがあるようだ。

 説明で一番困難な部分は
うるさい蝉の音(声ではない)が、なぜ「静けさ」と同居しているのか理解できないこと、またそれ以上に「蝉の声」自体が聞こえない人もいるようで、よしんば聞こえたとしても「雑音・騒音」ぐらいの認識であるらしい。
ふつう日本人なら、「山寺に向かう芭蕉が途中、「ニイ、ニイ」と鳴くニイニイゼミか「カナ、カナ、カナ」と鳴くヒグラシあたりを想像すると思うがどうだろう?
蝉が鳴くことで、うっそうとした木立のなかにある小さな池にカエルが一匹飛び込む姿を見て「静けさ」が深化し、強調される感覚は欧米人には理解してもらうのは不可能かもしれないし、「それがどうした」となりかねない。

 このジレンマが日本人同志でも起こりうる可能性が今のグローバル化の世、有りうるのは、当然かもしれない。
どちらが正しい、間違っているの問題ではない、と思っている。
今後、「除夜の鐘」を聞き、これを「好もしく」聞く大きなグループであるはずの、いわゆる「日本人」の中にも、徐々に「騒音としか認知できない人達」の存在が増加していくことは確かなことかもしれない。oldboyくん的には、残念ではあるが。

 セミの「声」や虫の「音・ネ」を、聞き取れない「日本人」、あるいは聞こえても「騒音」いがいのなにものでない、と感じる「日本人」。
いくら説明しても「静けさとセミの音(おと)とが一つの句に同居する感覚を理解できない「日本人」、も、少しずつではあるが増加傾向にあることも「事実」なのかもしれない。

 しかし、これらの現象(セミの声、虫の音が聞こえない、聞こえても単に騒音)は、世界的にみればごく普通で、日本人の方が特殊なのだそうな、あとわずかに、南洋諸島の幾つか国、島々の人々の中に日本人同様に左脳の言語野で聞く人々が存在しているらしい。



 そこで、ここからは、いつものoldboy-elegyくん的解決方法(すこしおおげさ)を「独断と偏見」をもって提示してみたいと思う

その根拠はある著名な心理学者の研究を参考にしたものである。
「除夜の鐘」と「心理学者」を結び付けた研究や言質(げんち)をまだ知らない、もしおられたらゴメンナサイ。

 心理学者(カール・グスタフユング、1875~1961)その人である。
多少前後はあるが、「フロイトアドラー」を加えてスイス生まれの「心理学者3人衆」である。

上記の黒線太字の部分訂正いたします。当方の勝手な思い込みで記事化してしまいました。申し訳ありません。 
ユング=スイス生まれ フロイトアドラーオーストリー生まれ
             訂正日 2020.03.31


フロイト」などは「夢判断」などで有名だが、現在の心理学者の殆んどは、この3人の研究、業績を基本とした系譜に属していると言われている。

 oldboy-elegyくん、この3人の内、特に「カール・グスタフユング」の言葉に注目している、と言うより、もともと自分に一番しっくりする「考え・論理」だなと思っている。

 「民族による音や音楽にたいする感じ方の違いは古代から伝わる神話や伝説、芸術など、人類の心の中で脈々と受け継がれてできたもの(集合的無意識)を土台に、その上に(個人的無意識)が存在し、その最上部に固有の(意識)が形成される」と言うものである。

 個人の心理的要因、形に「社会や民族」と言う概念を基本に据え、人の心を普遍化し、イメージパターン化、した初めての心理学者である。

 考えてみなさい、もしあなたが今日、明日にも結婚するとイメージしてください。
あなたと、彼(彼女)は今までの数十年間、全く違う環境で生活してきたのです。
育った土地と風土を始めあらゆる環境と経験は違ったものであったはずです。
それぞれA国、B国としても良いでしょう。

 しかし、ひとつ屋根の下に住んだ場合、今まで知らなかった、相手の言質(げんち)、食事、行動など、になにかしらの「違和感」を感じてしまうことも多々あるのは事実です。
小さな「文化」の衝突です。

 あらゆる育ちの環境の違いが、「ユング」の言う、深層に「集合的無意識」として、自分も気がつかない心の形質が育ち、備わっていたはずです。

 現代の若者はある意味、「結婚したら発生する不都合にたいする」予知能力が、高度の情報化時代の中、見えているのかもしれない、それも過剰に。

 ともかく、結婚・同居の不都合の発生は「集合的無意識」が出会いとして「意識化」される。
残念ながら、これを是正する方法は、話あうことしかありません。

 いえることは、ある個人が不快に感じる「自然音・環境音・騒音)に出会った場合、個人が既成社会の(集合的無意識)を壊すことは出来ません、ただし今ある既成社会を形成する大部分の人々は、彼を文句言いの「怪物モンスター」「不寛容の人達」として対立せずに「実際そのような人達は存在しているのだ」と認識し、誠意を示し、科学的に説明し、少しの時間を拝借し、緩やかな納得を得るしか方法はないのかと思うのだが。
どうだろう。

 根本から解決はできなくても、「了解・納得」は可能であるはずと思うのだが。

 グローバル化・急激な情報化文明は、予想もしなかった新しい文化の概念・ストレス・衝突を生むのかも知れない。(文化の交流)

 よく「日本人」はこの国の良い事の一つに「明確な四季」をあげる。
もっと言えば一年を「70節季」に分ける「粋人」もおられる。
俳句の「歳時記」の世界の事だが、この「除夜の鐘」もこの内の、「日本人」が長年にわたり育んできた「心象風景」の一つである。
やや大仰(おおぎょう)に言えば上記の「70節季」一つ一つ「除夜の鐘」同様に、危機に晒されていくのかもしれない、残念ではある。

 だが一概に嘆いてばかりの一方通行の概念ではない。
近頃、「日本人」にしか理解が難しい「心象」が様々の形でイクスポートされ始めたのである。
例えば、「まんが、アニメ、小説、映画」「日本のさまざまの節季行事・歴史」など、ユングの言う「古代から伝わる神話・伝説・芸術などの、人々の心の中で脈々と受け継がれてきた集合的無意識」から生まれ、具現化された「意識や心象風景」が発信されている。

 ここで取り上げた「虫の世界とそれを取り巻く人間との世界」を描いたアニメ、「蟲師」なども外国に紹介され、それなりに、好評なのだそうな。
蟲の名、蟲の音を愛でる人達、が日本以外の地に現れてもおかしくない時代なのである。
ひょっとしたら、外国の地でダンナが「虫かごで蟲を飼い、あ~、良い音(ね)だ」などと愛(め)でていたら、それこそ「離婚問題」になり「訴訟」の対象になる時代が来るのかもしれない。
「除夜の鐘をうるさい・騒音だ!」と対をなす話である。

 こうなれば、最終、文化の「相互理解・mutual understanding」しか手がないのかもしれない。
想像するに、ある意味、可笑しくも楽しい世界で、対立と憎しみそして不寛容な方向には絶対向かってはならないで欲しいものだ。

 


 いやはや小難しい世になってきたもんだ、「ノー・ストレス」を、生きることの基本としてきたoldboy-elegyくん、「やれやれ、つかれる」の思いが本音かも。


                  了
                
                oldboy-elegy
  


 

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