oldboy-elegy のブログ

ずいぶん長きにわたりグータラな人生を送ってきたもんです。これからもきっとこうでしょう、ハイ。

oldboy-elegy (21)ガキンチョ御用達の専門店?!(駄菓子・おもちゃ屋)その名も「チュウコヒン!」とはこれ如何に??

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1955年(昭和30年)ごろのガキンチョ(腕白坊主)達の生態をおもしろ、おかしく、そしてチョッピリ哀しく記事にした。

oldboy-elegyくんの
ブログ、大きく分けて2種類の意識分けで記事にしているつもりである。

 一つは、「oldboy-elegy(NO)」で始まる記事で、彼自身が現実に経験したことを、あまり論評、良し悪しを加えず、物語風に書きあげている。

 時代の流れの一断面として、なにかを感じて頂ければ、それで成功したも同然であり、嬉しい。

 もう一つは、老いたとは言え、取りあえず彼も現代に生き、棲息している「人間」の端くれである事には変わりがない。
日々、様々な情報が彼の耳目に流れこんでくるのも必然である。

 それは、テレビ、ラジオ、新聞、書物、インターネットと多岐にわたる。

 そんなこんなの内、彼の心の底に感応した出来事を
雑感・雑記帳 No.」として、「独断と偏見」による「私見」として吐いている。

 基本、彼のブログの大分類は上記のふたつから成立している。

 カテゴリーによる分類も考えているが、なんせ、記事数が少なすぎる。
月あたり3記事、やっと全部で30記事を超えたばかりの体(てい)たらくなのだ。

 さて今日のお題は「oldboy-elegy No」で始まる記事である。

即ち、現実に彼が経験・遭遇した事柄を、物語風に記述したものである。

 

 幼年・少年期のガキンチョ(腕白坊主達)の日常の生態が主題である。

 まず念頭に入れておいていただきたいのは、なんといっても、当時の子供の多さである。

以前(雑感・雑記帳 No.11)で

「子供たち(花)はどこに行ったの」
を記事にUPしたが、これは今日(こんにち)の状況を主題にしたものである。

 

 アメリカのフォーク・シンガー、「ピート・シーガー」の作詞、作曲による「花はどこに行ったの」をもじって
「子供達(花)はどこに行ったの」とタイトルを付けさしていただいた。

 その記事、最下段にリンクを貼っておくので、見て頂ければ嬉しい。
現在の子供の少なさを、ある意味嘆いたブログでもある。


 これと真逆の時代がoldboyくん達の「幼年・少年期」であった。

この年代の出生数(昭和24年ごろ)はなんと270万人弱、これが令和元年(平成も含めた通年を1年として)にいたっては約90万人、1/3まで減少する。


 時代は高度成長期の前夜である。
親たちは汗まみれで働き、今風に子供達一人ヒトリに寄り添い面倒を見る余裕もない時代であった。

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 それでも子供達は子供達で集団として徒党を組み、自分達でその才覚を遺憾なく発揮、大いに走りまわり、遊んだものである。

 我々ガキンチョに対しての親のスタンス(かかわり)を見て,「親としての責任感が不足」ましてや「愛情不足」などの言などは当たらない。

 少々危険で危なっかしいことも、当時の感覚では、それと気が付くこともない。

 これらの集団の単位は横断的(学年別)ではなく、住んでいる地域、町内が最優先で、小学1年坊主から最年長の6年生までがグループで一団として行動する。
親の影はどこにもない。

 べったん(メンコ)、やビー玉などの「やりとり」の真剣試合はいつも、隣町のグループとやることになるが、そこには厳然としたルールが存在する。
それでも一色触発の危険状態に陥ることもあるが、我々には勇吉がいる。

 彼はこのあたり一帯をまとめる的屋(てきや)の「親分」の孫でもある。

 しかし彼は「自分のグループ」だけを優先することはない、それだけに誰からも信頼されていたし、一目置かれる存在でもあった。
彼の「言」は常に「最終結論」であることを、みんなが心得ている。

 小学1年の「勝男」は未だ体も小さく弱よわしいが、年長の「吉雄」の弟「孝雄」が面倒をみる。

 「勝男」はいつも兄貴分の「孝雄」に小走りでついて行く。

 その「勝男」の渾名がすごい事になっている。
「あおばなちょう、とんねるどうり、にばんち」これが彼のフルネームならぬフルあだなである。

漢字混じりで普通に書けば
「青鼻町トンネル通2番地」誰が付けたか知らないが、これが「勝男」の渾名である。
普段は「勝男」とか「アオバナ」と短縮形で呼ばれている。

 少々尾籠な話で申し訳ないが、
「青鼻」は文字通り「青色(みどり)の鼻汁」のことで、いつもエレベーターのごとく鼻汁を鼻腔の下で上下させていた。
「トンネル通り2丁目」は二つの鼻の穴を指す。
彼の衣服の袖口などは、鼻汁を拭くため「テカ、テカ」と光ってる。

 つけ得て妙な「渾名」で、今でも覚えていることが、なにかしら滑稽である。
従って、ここで使われている子たちの「名」は基本、彼等の名誉のため仮称であるのは当然である。

 oldboy-elegy君がこの地「河内」に、母の手に引かれ、やって来たのが小学1年の6・7月のころであった。
この時が彼の初の学校体験である。
むろん幼稚園は知らない。

 「妾の子」など、「出生」の事で「渾名」をもらったこともなかった。

 親たちも、ただただその日を生き抜くことに精一杯の時代である。

 だからと言って、近所や近隣の人達の関係が薄いと言う訳でもなかった。

 年末など隣近所で寄り合い、餅つき大会のダンドリを理由に行う「忘年会」や、コメ、醤油、ミソの貸し借りなど、当然のように行われていた。

 「アッ、今ここで思い出したことがある」
母から醤油を買う用事を頼まれ、エッチラ・オッチラやっとの思いで、家にたどり着いたは良いが、土間から座敷への上がりカマチの石段に一升瓶をぶっつけ、台無しにしたことを。

 
このことはハッキリ記憶にあり、醤油の匂いが今だに鼻腔に残っている気がする。

しかし母に怒られたと言う絵柄はない。

 こんなヤンチャ坊主の集団が、路地から路地に「ワー」と湧き出、歓声とともに走り去って行く。

 月2回の縁日の折など、親からもらった少々多めの小遣い銭を握りしめ、近くの「ガキ御用達のスーパーマーケット」に集団で走り込む。

 はてさてこの店の名が「チュウコーヒン」と言う。
屋号として看板が上がっていたわけでもない。
ガキンチョ(腕白坊主)仲間の話でも普通に「チュウコヒンいこや」などと通用していた。
※「いこや」は「行こうか」の河内弁である。

 しかしこのたんなる「チュウコヒン」の符号が、「中古品」になり、その意味を知ったのは、ずっとずっと後のことである。
どうせ「口さがない」大人たちの会話から、子供達は意味も解らないまま店名だと思い口にしていたのであろう。

 とうぜん、ガキどもは、このことは知らないのだから、店主の初老のオバサンの前でも普通に口にしていたはず、
どんな思いでいつも聞いていらっしゃたのだろう。
「ゴメンナサイ」おばさん。

 店の広さは「間口2間半、奥行き1間ほどの子供専用の「だがし兼おもちゃ」屋である。

 この記事の始めにUPしたイラスト画像をみてほしい。
店自体の造作や佇まいはおよそこんな感じかな。
ただ飲み物の自販機やアイスボックスがそこにあるのが少し残念ではある。

 店の右半分は駄菓子で奥に通じる左半分は非食品で、おもちゃ類で占められている。
夏場の暑い盛りには、店先に手動のかき氷器も登場。

 いまチョットした「駄菓子」ブームなそうだ。
しかしoldboy-elegy君には、今の駄菓子は「お菓子」の「お」の代わりに「駄」を無理やり付けたように見える。

 何故かって、あまりに上品な「見ため、つくり」なのがその原因なのかも知れない。

  各種せんべい・サイコロアメ・べろべろ・酢昆布・紙ニッキ・わらび餅・みかん水・ラムネ などきりがない。
このうち、紙ニッキなど、今考えればひどいものである。

 厚手の紙にニッキの味をしみ込ませ、かみごとしがむのである。
ニッキ味が無くなると、辺りかまわず「ペッペッ」とはきだす。
その色たるや、まことに毒々しい、真っ赤・紫・緑・黄色 など原色で構成されている。
まるでペンキのよう。
シガンダあと、唇、口腔はそれらの色に染まる。
袖でふき取ると、ペンキの色がそこに転移するしろものであった。

 高級品では牛乳キャラメルがあったがガキンチョの小遣いでは丸ごと1箱は買えない、しかし一粒一粒ばらしたものが用意してあり、これなら手に届く。

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 oldboyくん、食い物よりおもちゃ関係でお世話になった感が強い。

 べッタン(めんこ)・ビー玉・コマ・Y字ゴムパチンコ・花火(とくに、投げ弾・煙幕・ねずみ花火)・模型飛行機(ライトプレーン)・ちょっとした文具 などなど、列挙すればきりがない。

 品一つ一つに物語がある。

これまでのブログ記事に登場したものも結構ある。
べッタン(メンコ)・投げ弾(花火の一種)・ゴムパチンコ・模型飛行機 ・などなどである。

 やや長じて、高校生のころ、アルバイト料が入ったおりなど、このチューコヒンの先のコーヒー店、「インデラ・コーヒー・カレー店」などちょくちょく行ったものだ。

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 あれからどれくらいの年月がたったろうか?

 たしか千年紀(ミレニアム)が変わる頃か、こちら側の事であったように思うがハッキリしない。
7才年下の妹と落ち合い、あの繁華であった商店街を中心に歩いたことがあった。
因みに、彼女は他県に嫁いでいる。

 その彼女がため息交じりに言った。
「兄ちゃん、この商店街さびれたなあ、なんかこれまで殆んど人とすれ違わへん」とポツリ。

 oldboy君、この一言で目と鼻先にあるはずの「インデラ・コーヒー店」があった石畳の路地まで歩く気力が失せた。

 大学を出て就職後、確か2、3度は来たはず、以来この地を離れて幼年、少年、青年時代の多感な思いが記憶の底に沈殿したまま思い起こすこともなかった。

 人生も最終コーナーにさしかかり、この地、この頃の自分の存在がいかに大切なものであったかを再認識するようになった。

 これもブログの記事を書くことで、再発見したことの一つである。
とくに母のことなど、これだけ集中して思い起こす作業をすることは初めての事だと思う。

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すぐ先に神社の大鳥居が見える、「インデラ」はすぐ目と鼻のさきにあったが、もう充分であった。



 これらの残滓を目にして「懐かしい」などと、想うにはあまりに時間がたちすぎてしまった。
見たくもない現実がそこにあるのは「明確」に予想できる。

「もう駅に帰ろか」と妹を促した。

チョット先に見える、大鳥居の下には7~8人の子供の妖精が静かにこちらをみている。
ひときわ背の高いおさげ髪の女の子が立っている。
右手を胸の当たりまで上げ、手の平をこちらに向け、ゆっくり揺らし、声は聞こえないが「さよなら」と言っているらしい。

 彼女、我々ガキンチョお目付け役の「安田の華ちゃん」である。

 第何次かの「北朝鮮」帰還船でまだ見た事のない彼の地に一家で渡って行ったそうな。

 oldboy-elegyくん、大学生のころ、母が「安田の華ちゃん亡くなったやんやて」と風の便りで聞き及び、最後に「自殺やったらしいわ」とポツリと言った。

 そこには勇吉はじめ吉雄、孝雄そして「アオバナ」の勝男もいる,
みんないる。
もちろん、「華ちゃん」の脇には、少し頭を傾(かし)げた「満面の笑み」のoldboy-elegyくんの姿もある。

 帰りすがら、もう一度振り返り、大鳥居の下を見たがもう誰も居ず、石畳の参詣道が奥に向かって続いているのみであった。
「わ~」と走り去る子供達の嬌声が聞こえたかに思ったが定かでない。

            了
         oldboy-elegy

 ↓ 今日のブログ記事とは真逆の「今現在の子供達」のことを(雑感・雑記帳)として以前にUPしたものです。

 併せてお読みいただければ幸いです。

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