oldboy-elegy のブログ

ずいぶん長きにわたりグータラな人生を送ってきたもんです。これからもきっとこうでしょう、ハイ。

(雑感・雑記帳 No. 18 )「 芭蕉は忍者だった?」 それとも単に俳諧師?元禄期のサロン文化をもとに、独断と偏見でもって「忍者説を全否定!」

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oldboy-elegy君、実は「忍者小説」が大好きなのだ。
ただし術と精神力が人間の可能な範疇にある必要がある。



非現実なあり得ない忍術に興味はない。
ましてや大きなガマの背に乗り、十字を切って変身するなど全く持って噴飯ものである。
 
それらは「真の忍者」を愚弄するものであると思っている。

素質と長年の心技鍛錬の結果到達するもので、リアリティーさに欠けるものは御免だ。

「それでは、oldboy-elegy君!、君がイチ押しする
忍者ものの作家とその題名は、当然あるんだろ?、教えてくれない」と読者の声。

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「もちろん、いいよ、それは池波正太郎さんの著作で(忍びの旗)これに尽きると友人にも公言してるよ」

「3~4回は読んでいる、孤高の甲賀忍者、上田源五郎の一生を綴ったもので、今読むのと,若い時とはまた違った感慨が心を突き動かすんだ」

 当初、「忍者・源五郎」は「甲賀忍者」としての「掟」の下での行動になんの疑問も持たなかった。
ただただ、その卓越した「術」を使うのが「楽しくてしょうがない」と言う、ある意味健全な若者であった。

しかし青年期、壮年期と成長するにつれ、「その行動規範」が個人の自我に重き置いた忍者に変貌、変質して行くのである。
当然、自ら置かれた組織の意思と「対立」することになる。

まず、その過程の出来事と心の変化に全く無理がないのである。

それ故の心の葛藤と行動が、「池波正太郎」さんの卓越した筆力とともに、素晴らしい「読み物」となっている。

「恋愛」「家族愛」「属する忍び集団へのしがらみと反逆」など、見方によれば「忍者」の名を借りた骨太の、現代小説を読んでいるかに錯覚する。

ここで「なんでこんな話になったのかな?!」と自問するoldboy君。

そうだ、「松尾芭蕉」と言う俳諧師の本当の姿は、実は「伊賀忍者」であった。
などの話が良く言われるのだが
本当はどうなんだろう。

 

今日の話の本題はこれであった。

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芭蕉伊賀忍者であった」と言う話の素を幾つかあげてみるね。






●1 芭蕉自身、伊賀の出身で「松尾」の姓を持つ
郷士」の出。
一見、農家ではあるが、事が起れば「士分」として
戦場に出る。
当時、多くの忍者の身分
もこれ。

●2 「おくのほそ道」歌枕や名所旧跡を巡る、
600里(約2400km・
150日)に及ぶ吟行。
芭蕉自身46歳で出発、51歳
にて病没。

当代きっての俳諧師、その世評・名声はすでに確立していた後の行動であった。

歳から見て、結構な強行軍(1日15~16k)でもあった。

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以上の観点から、誰かに
命令され東北吟行の旅を
装い、出立か。

(左のイラスト画像は、言わずと知れた独眼竜で名高い伊達政宗である)




関ケ原」以降、「幕府」は、この地の大大名「伊達家」を取り潰すための理由、口実を必要としていた。
 
芭蕉曽良(そら)の2人旅は、東北、外様最強の雄藩「仙台藩」を中心に民心の雰囲気や城郭、軍事施設の見聞のためのもので、
俳句吟行の旅は、カモフラージュであった。

●3 旅中、多くの藩の「関所・番所」を苦も無く通過
している。
  
ご存じのように、「藩」は、一つの国のような存在。
つまり芭蕉達は「万能の通行手形・パスポート」を持っていたことになる。

当代きっての有名人とは言え一介の「俳諧師・文化人」としては異例中の異例。

いかに有名人であろうと、町人は町人、通常の
「通行手形」なら「一か所、一用事、の往復の旅程」
が精一杯であるはず。

従って、この「万能通行手形」の発行元は、それなりの権力者、それも「幕府」が関与していたものであると?

●4 つぎは当然「旅費・路銀」のこと。
以下oldboy-elegyくんの勝手な試算ではあるけど
あげてみる。
金額は現在の貨幣価値・単位円でざっとみた。
 
もちろん、折衝役、会計、旅情報などはすべて弟子の「河合曽良・かわいそら」が「仕切っていた」はず。
◎宿泊代・朝夕食込み  
◎昼食・元禄の頃、すでに1日3食化。米だけでも
 1人1日4~5合 が必要された時代
◎籠・馬・渡しなど交通費(人足賃)、
◎江戸や道中先への連絡、飛脚など通信費
◎文具(筆、紙、墨などの補充)
◎衣服の洗濯手入れ・髪などの手入れ 
◎休憩・茶代など雑費   などなど

学者などが物の本で150日の行程で二人して100万円
とした人もいる。

これなど1.000.000円÷2人÷150日≒3.333円となる。
1日1人3.333円である。

どこの坊ちゃん学者か知らないが、学者と名の付く
人達にはこの手の「世間知らず」の人も結構いる。

チョット脱線するが
大学の人文系の論文など、PDf記述で「だれにも読んで欲しくない」ような、段落、区切りもなく、行、列を確認しながら読むこともある。
読みずらいことおびただしい。

もうひとつ
所属している、研究室がなにか有意義な「発明・発見」したときなどの発表の席、なにやら「見栄えのしない、おまけに滑舌(カクゼツ)に難ありの老人が登場するテレビのインタービュー場面があるが」いただけない。
以上oldboy-elegy君の難癖でした。

oldboy君が思うに、いくら低く見積もっても
一人2万円ていどは必要と思うがどうだろう。
ましてや、旅人は当代一流の「文化人」であり、江戸の
「蕉風・俳諧師」の芭蕉様である。

貧乏人が安宿に、路銀を心配しいしい、旅を続けるの
とは訳が違う。

そこで少なく見積もっても1日2万円~3万円と
考えるがどうだろう。

これを旅程150日で計算すれば、
20.000円(1日)×2人×150日=6.000.000円
30.000円(1日)×2人×150日=9.000.000円

してみれば、総務課長の「曽良」さんの胴巻きに
納まって
いる銭入れには少なくとも旅のはじめ、
500万円ていどの現金が入っていることになる。

当時の通貨、両で何両になり、その重量はと考えると、なにやら矛盾が一杯でてくる。

つまりこの部分の事が、「親方日の丸」いや違った、
「親方幕府」となり、「実は隠密」と言われる由縁
でもある。

●5 芭蕉忍者説の最後は「実は忍者は芭蕉ではなく、随行者、河合曽良」だとする説もある。

曽良自身も「曽良旅日記」なるものをしたためているが
「おくのほそ道」とは道程の食い違いや期日などの不一致が多くみられる。
旅の日毎の収支や会計報告は存在しないようだ。

曽良自身、芭蕉の弟子であった事は間違いは
ないが、晩年、徳川家の依頼で九州へ赴き、
「仕法家」風の仕事をしている。

※仕法家(しほうか) よく土木をし、土地の改良、
耕作地の拡張、河川の付け替えなどによる食料の
増産に帰依する専門家。
有名な人では「二宮尊徳」さんがいる。

曽良」自身、この西国道中にて亡くなった事に
なっている。

これらの不確実で不信な存在が「曽良・忍者説」
が出る根拠にもなっている。

以上列挙してきたが、どれも「芭蕉忍者説」を
否定できる確固たる資料や事実はない。

すなわち、公儀隠密と言われても、
「そうではない」とキチンと説明することが
できないのである。

ことほど、さように「忍者・隠密」論は多く存在
する。
だがそうではないとする理由もないと言うことだ。

oldboy君、の、こうであって欲しいとする思い、
姿は以下の通りである。

芭蕉曽良」は「忍者・隠密」ではないことを、
論拠付けしたいのがこの記事の当初からの
「もくろみ」である。

なぜなら、大好きな「池波正太郎」の小説「忍びの旗」
の「忍者・上田源五郎」のあの存在感とカッコよさが
消えうせる。

oldboy君的には芭蕉が「忍者・隠密」など、
許容できるイメージでは絶対にあってはならないの
である。
見た感じ、一尺もジャンプできないような、年寄り忍者など「イメージ」がズッコケる。

さあここで、「芭蕉一行」は「忍者ではない」とする
「論理的説明」の構築にチャレンジしてみようと思う。

「彼らは隠密だぞ~」「忍者だぞ~」とするお話は多いが論理的に反論したものは知らない。

「おくのほそ道」の「あの芭蕉」が
「忍者であるはずがない」とする社会通念が
大きく存在し、キッチリとした論理的反駁もない
ままに居座ったもののように思う。

この事が、すべてであると思うのだが、どうだろう。

ここから後は、この「不毛の感情・情緒」に
ある程度の「なるほどと思わせる、論理性」を
持たせようとoldboy君が努力したものである。

あの「忍者・上田源五郎」のために。

もちろん、何時もの様に、oldboy-elegy君の「独断と偏見」での「語り」であることに変わりはない。

●そのためには芭蕉曽良」たちが生きた「元禄」と言う時代をある程度知っておく必要がある。

戦乱の世も終わり、徳川の幕府統治が、良し悪しは別に、一つの決まり(法)の下での「国家運営」が始まったのが17世紀の始めである。

「徳川の治世」、言わずと知れた「江戸時代」の始まりである。
それ以前の応仁の乱~江戸時代までを「戦国時代」とするなら約140年近くが戦乱の世であったことになる。

自分達が「戦国時代」と聞けば、日本中、大小の勢力が、刀・弓矢・鉄砲・での命のやり取りを「のべつ、くまなく」繰り広げられていたと思いがちだが案外そうでもない。

いま、我々が習う「日本史としての戦国時代」の項目は数回の授業で終えてしまうはず。

その間、「関ケ原の戦い」を初めとする、有名合戦や「古地図」がテンコ盛り掲載された教科書を見て、試験のために記憶にきざみ、次のエポックに進む。

ところがこの戦乱続く世も、基本日本の人口は一貫して増加傾向にあり1000万人を超えたのも、この時代だとされているのだ。

殿様達は戦の基本が「食料」の増産にあることを熟知しており、戦の前に田畑の開拓、改良をよくするのが、強国への近道である、と心得ていて、年中、命のやり取り・チャンバラをしていた訳でもない。

田植え、収穫期の稲刈りごろの「大合戦」は殆んどないか、珍しい。

農民は農作さえすれば、多寡は別に最低生きられることを知る。
またこれまでの領主が戦に敗けて死んだとて、農民である自分の命も失われるものでもない。
年貢の料率が変わるだろうが。

工人は刀・弓矢・鉄砲や日用品などのマニファクチャリングに精を出せば生きることは可能、

最後に商人は上記の「全ての物の流れの取引」に関与、口銭を得ることに勤しむことが成業とよく知る。

なにを言いたいのかと言えば、一見、日本中が殺し合いの大参事の真っただ中(なか)と思われるが、全体を俯瞰すれば、いたって平穏無事な世の中であったのも、ある意味、真実だったのかもしれない。

これに就いてはこのような話も残っている。
関ケ原の合戦」のおり、近隣の村々の農民が手弁当で集まり、まるでサッカーの試合を見物するかのごとく声援を送ったそうである。

これには余禄がついている。
どのあたりで、何々軍が大負けして、多くの戦死者が出た、などの情報をもとに、合戦終了後に刀剣など武器、武具は勿論のこと、携行している食品や衣類などを持ち帰ったそうである。

つまり、教科書などに載らない生きるための人間の日々のウゴメキが存在するのである。

これも記録はないが歴史の一断面に変わりはないはずである。

さて芭蕉一行の旅立は「元禄2年の春」のことである。
世に言う「元禄文化」真っ盛
りの頃の事だ。

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※このイラスト画像は、「お犬様を抱っこした」将軍「綱吉」




時は「5代将軍・綱吉」の治世である。
綱吉自身も「生類憐みの令」なる法も発布している。
乱世が終わり60年後くらいの事だ。
あの殺し合いの時代から考えれば隔世の感アリである。

ともかく将軍様まで、現在の世界中の「動物愛護団体」から表彰を受けても可笑しくないような法律を発布するような時代でもあったようである、この元禄時代は。

詩文(狂歌、川柳、連歌俳諧、俳句)・絵画・天文(暦学)・和算(数学)・落語(落ち噺)・物語本の出版

などのあらゆる芸術・学問が文化として京、大坂を震源地に江戸にも拡散、すぐに全国的な潮流として日本中を巻き込み「元禄文化」として開花して行く。

特に和算(数学)、天文学、暦学などでは、西洋の
先端科学にせまる、業績をあげる分野も出現した。

してそれらの発表、切磋琢磨する場所が、身分に関係なく同好の士が集まりサロンを作り、もう少し固くは連を作り
緩くは寄り合いを持ち、大いに楽しんだのが「元禄文化」であった。

oldboy-elegy君、これらの集会を全て「サロン」あるいは「サロン文化」と表現している。

西洋では「パトロン」と呼ばれる「芸術家擁護」形態や、
近代にはフランスのモンマルトルのコーヒテラスに、哲学者、小説家、詩人、絵画き、建築家などが横断的に集まり、一つの芸術運動のムーブメントして機能したこともあった。

ただ日本の「元禄文化」は全てを横断的に意識した芸術
運動には発展しなかったようだ。
ただ思潮としての「大きな流れは」疑いもなく、存在していたのだが。

さてここで、我らが「俳諧師芭蕉様」はこれら「サロン文化」の「もてもてトップランナー」の御仁でもあった。

どこかで大句会があれば、サロン会の一番ゲストと
として招かれるお人である。

この「芭蕉様」が「奥羽路に句作行脚の旅に」の報が
聞こえたら、それぞれ藩の城下の「殿様・高名な武士
・庄屋・大農家・大商家・地方サロンの主催者」
など招待合戦が勃発すること必定である。

そんな現象は人間の性(サガ)でもあるし、当然のことである。

ところが、実際には、芭蕉の回りがなぜか静かすぎるのだ。
そこで注目されるのが、河合曽良の存在である。

彼は、師匠芭蕉の総務、経理、渉外など俳句以外の日常
の全てを仕切る立場にあったのはハッキリしている。

勿論、彼も道中、句作もしているが、どうも釈然としないとoldboy君感じている。

かれ「曽良旅日記」なるものを、したためているが、それもおざなり感が強い。

「旅日記」ではあるが、師匠の「おくのほそ道」のしるす
日付や出来事の間に「齟齬」も多い。
※齟齬(そご)とは 意味や事柄の食い違い や 合わない事。

どうも曽良さん、道中、師匠「芭蕉」の脇にピッタリ寄り添い旅をしていたとは思われないのだ。

そろそろ、oldboy君が「何を言いたいのか・何を示唆しょうとしているのか」見えてきた吾人もおられるのではないか。

先に断わっておくが、oldboy君、「曽良」さんを悪者扱いにしょうとしている訳でもない。
ただ人間と言うもの、なかなか「一筋縄」で「こんな人」と決めつけるには「複雑」にして「怪奇」すぎる。

多分oldboy君とて、「曽良」さんの立場で、こんな場面に
「遭遇」したなら、きっと同じような事をやらかしてしまう自信はある。

なにせ、師匠「芭蕉」はこの「日ノ本」の隅々まで知れた
「俳聖」であられる、その方がまもなく、この田舎路を「句作」のために、お通りになるのである。

この情報は、一行が江戸を出立したときから聞こえているはずである、それもトップニュースとして。

詳細情報は「曽良くん自身のリーク情報」であるかもしれない。
※リークとは 意図的に漏らす・機密を漏らす など

書いてるoldboy-elegy君、なにやら、わくわく、
ドキドキしてきた。

どこぞの大名家の家老・庄屋・御城下の豪商など土地の
富家や名士が集まる同好の連やサロンの座主が「招待合戦」を始めるのが目に映る。

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ここで、「サロンの超大物ゲストとしての招致合戦」が起きるのは必定、相場が立つのも当然の成り行きである。

これで「芭蕉一行は忍者ではない」との結論が出たも同様である。

莫大な路銀などの経費、通行手形の件、など「忍者説」を
裏付ける根拠がすべて「雲散霧消」するのである。

曽良さん」、必要経費以外の稼いだお金どうしたの?

当時、国内が平穏になると、商業の進歩に伴い、飛脚・早飛脚・為替手形による送金システムなども存在していた。

して二人旅の最終地は、出発の地「江戸」ではなく「京都」で「曽良君」なぜか「師匠と途中で」お別れしている。

「おくのほそ道」の原稿はこれも江戸ではなく、京都の出版業者に芭蕉は持ち込んだようだ。
この推敲に「芭蕉」、2~3年をかけている。

「おくのほそ道」出立の時、彼46歳、没年齢51歳で
あった。

このお二人、「おくのほそ道」後の交友・交宣も何故か希薄である。

因みに「曽良」さん、「師匠・芭蕉」のお葬式にも出席していなかったらしい。

思うに「曽良」さん、実に人間的である。
芭蕉」さんとの関係も、こう書けば、ある意味なぜかユーモラスでさえある。

結局のところ、後年、文字として残される歴史は単に
「結果」だけを記したもので、そこに至る人としての
本当の部分が欠落してしまいがちである。

今日の記事もまた、oldboy-elegy君の言うところの
人間のあり様の「面白さ」かも知れない。

バカの酔狂話ぐらいで「フン」と鼻で笑ってもらっても結構だ。

最後に、「曽良さん」の縁者、ファン、学者さんなどがおられたら、「御免なさい」言うほかにない。 

書いていて、頬が緩み、ほんに楽しかった。 
今日は、ここで終わらしていただく。

       
 viva 賛・人間


            了

          oldboy-elegy

 

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