oldboy-elegy のブログ

ずいぶん長きにわたりグータラな人生を送ってきたもんです。これからもきっとこうでしょう、ハイ。

(雑感・雑記帳 No.21 ) 「漱石先生ちの猫・吾輩」英訳タイトルの a CatのCが大文字なわけ、いつも通り独断と偏見でもって書いてみた

 


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精悍な面構えのこの猫、「吾輩」である。
神経衰弱ぎみの主人「夏目なにがし」とは対極の存在感を漂わせる。










ブログ記事の最初の書き出し時、自分を表現する一人称を決めるのに少々もたつく。
わたくし・私・自分・俺・僕」oldboy君が棲む地域の方言、河内弁では
ワイ・ウチ・ワテ」などもある。
大仰に言えば、星の数ほど存在するのである。

今(こん)東光先生の河内もん小説に登場する「ワイ・ワテ」話者は大概
「けんか・ばくち・酒・女郎買い」が大好きと相場が決まっている。

今(こん)先生の奥さんも放送局のインタビューでそう述べられている。
高尚な場所・場面に「ワイ・ワテ」話者が登場されても読者は「???」
となる。

ところが英語では、一人称単数は「 I アイ 」しか存在しないらしい。

一方、日本語の小説やエッセイなどを読めば、一人称の扱いで概ね主人公の
立ち位置がそこそこ見える。

そこでoldboy-elegy君、「漱石先生」のタイトル「吾輩は猫である」について
調べ考察???してみた。

もちろん、彼一流の「独断と偏見」をもっての論であることは、言をまたない。

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当然目的は、「吾輩は猫である」の「吾輩」が「a Cat 」で「Cが大文字」で
あったことが「そもそもの出発点であり、なぜそうなのかと自分なりに納得する
ことにあった。

この小説「吾輩は猫である」の最初の英文翻訳者は「安藤寛一」なる英文学者で
ある。
漱石自身も国費留学生として英国留学の経験もあるが、そのことが関係して
「安藤」が翻訳者なったのかはさだかでない。

翻訳本としては、この時代いくつかの、タイトル表記があるみたいだ。

「安藤寛一」の英訳表記は(I am a Cat)である。
(Cat)のcが大文字になっているのが英文としては異質と言えば異質である。
なぜなら、英語は「表音文字」で、単語のスペルが変化しない限り、意味は
変わらないのである。
それなら、何故、(a cat)を(a Cat)とCをわざわざ大文字にした意図はなぜなのか、
チョット探ってみたくなった。

たしかに表意文字を使っている日本人なら、この( Cat )が意味あるCとして
説明がつく。


そこで最初の日本語での「一人称」の数とそれぞれの持つ意味のうち
「吾輩」を彼は「a Cat」として意識して日本語的表現にしたのではないのか。

そう、この部分は日本人の感性で英訳したのだと思う。

「a cat」に「吾輩」のニュアンスを英文で付与しょうとするなら、猫を修飾
する「長い言葉」が必要になる。
それなら、日本語の持つ「吾輩」の簡潔な「小気味よさ」が失せる。

そこで安藤さん、言葉が持つ「語勢」を優先して「 a Cat 」とされたのでは
ないのかとoldboy-elegyくん、推察するのだがどうだろう。

もう一つ言えることは、この時代(明治後期~大正期)の日本文学が外国人
の手で翻訳出版されることはあまりない時代である。
基本、安藤寛一さんの英訳は日本人向けの英訳小説であったと思う。

この後、小説英語訳、「吾輩は猫である」は海を渡り、サンフランシスコを
中心にアメリカ西海岸でも発刊されている。
発行元は現地の日系新聞社であった。
もちろん、読者は日系人移民を対象としていた。
評判も良く、いくつか版を重ねたらしい。

ただしその時の英語タイトルは「I  AM a CAT]」か「I AM A CAT」で、
安藤寛一の
「I am a Cat」は生かされていないか、無視されている。

英語圏の人達に、この工夫が理解されるのかどうか一度きいてみたいものだ。
なにも説明しないまま見せれば、恐らく「???」か「誤植」扱いにされて
しまうのでは、と思う。

ただこのところ、マンガ、アニメ、などを中心に欧米への浸透が著しい。
日本の「表意文字文化」が「表音文字文化」に交じり、新しい表現形式が始
まっているのかもしれない。

これまでえたいの知れない言語でしかなかった象形言語(日本語)が、彼らの
頭脳内で新たな何かを造成しつつあると感じる。

とくにオノマトペ擬声語)など、その数の多さも、表現力の多才さも、
英語をはるかにしのぐ。

ヒョットしたら、今「安藤寛一」の「I am a  Cat」を説明すれば理解する
人が結構いるのでは。
いや、それ以前に「なにも言わずとも」この合体言語を理解できる欧米人も
いるのではないだろうか。

oldboy-elegyくんの貧弱な日本語をはるかに凌駕するアマチュア専門家の
外国人が大勢おられる

それも、ビジネス抜き、損得勘定抜きで、自分の趣味、楽しみで「日本語」を
勉強する人もたくさんいる。
たんに楽しい、面白いと興味を持たれることが何よりも嬉しい。

日本文化への入り口が「マンガ・アニメ」でも、当然の「シャワー効果」
により「日本文化」そのものへの興味にもつながる。

「木}など一つの「木」を見て「ウム木」だ、「二本の木」を見て
「林?・疎林?」、木を「みっつかいて森、ウムウムなんとなく理解できる、
それでは「四つなら?」
英語圏のお人がこたえる「ジャングルだ」と。
表意文字の真骨頂である。

数年後に日本の「漢字辞典」に「木を2本ずつ上下2段並べて」新語として
「ジャングル」が登場する。

こんな時代が来ると良いのになあ、とoldboy-elegy君は思っている。


それでは今日はこれにて失礼する。  
      ではでは
                 了
              oldboy-elegy

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