(雑感・雑記帳 No. 24・下)ある意味、日本人って、昔から英語、得意だったんじゃない!!??と、いつもの彼らしく、独断と偏見でもって、語ってみた。
(雑感・雑記帳 No.23・上)前掲10月11日投稿分の
続きです
●外国語(主に英語)の日本語化への努力は「読む・書く」を中心に行われ、
新たな概念の漢字造語が蓄積されて行った。
英語を中心に欧米先進国の言葉の「読む・書く・聞く・話す」の内、
「聞く・話す」を横に置いて、「読み・書き」のみを日本語に取り込み、
言葉そのものの「概念」をひたすら「造作・造語」しながら、あらゆる分野の
「欧米の原書」が「日本語書籍」に置き換わっていった。
このことが、日本の「近代言語」の基本的な特徴かもしれない。
「翻訳」され、日本語になった本たちは、これを必要とするあらゆる日本人が
利用できるものであることは当然であった。
しかも、英語を中心とする外国語を知らない人達も、それまでになかった、
新しい「概念」を日本語として取り込むことに成功したのである。
徳川期の日本の文明・文化の大きな特徴は、その時代の社会的階層
(ヒエラルキー)の下層とされる「商人文化」が基本にあり、世界的
に見ても稀有な進歩の形であった。
左掲のイラスト画像「寺子屋」の
愛らしい風景である。
oldboy-elegy君、これらの風景が、
今から250年、300年もの昔に存在
し得た事に驚きと同時に、なにやら
胸にせまるものを感じる。
彼等は、ある程度裕福とは言え、支配階級の子弟でなく、そこいらの市井、
巷(ちまた)の商人・工人・農民 などの子達である。
悪さん坊もいた事であろう。
よく言われることに、
日本人が移民や開拓団など辺境の地に「入植」したおり、まず建設するのが
「学校」だと言われている。
して見れば「寺子屋」も、ある意味、この延長線上に位置するものかも
知れない。
因みに、西洋人はまず「教会」を作ることから「始める」と言う。
このような私塾が、必要になり、自然発生的にできたことが、まず
驚きである。
世界的に見て、このような例はあったのかは知らない。
●庶民文化の隆盛
江戸時代、元禄期・文化文政期はあらゆる科学・商業・文芸の基本的なひな型が
誕生した時代でもあった。
同時に、西洋の「文化・文明」に関する、言葉の「概念」の流入を待たずに、
同等の言葉が存在することも多々あったはず。
〇木版印刷の興隆と多色刷りによる錦絵・
〇宣伝などの行為とチラシや瓦版・出版物の多様化
〇藩校・郷学・私塾・サロン・寺子屋など教育施設の充実
〇あらゆる文化文芸・芸術・科学の萌芽
短歌・俳句・能・狂言・歌舞伎・和算・暦学・天文学 など
〇商業 荷為替・割符 など遠隔地間の手形決済のシステム
〇飛脚・早飛脚 の保護と、これを犯すものに対する厳罰化(商業保護)
などが花開くか開きつつあった。
● 大いなる例として、日本語としての「解体新書」の立ち位置を考える。
この方は「解体新書」を著した、
「杉田玄白と前野良沢」お二人の
うちの「杉田玄白」さんの肖像
イラスト画である。
(雑感・雑記帳 No.23・上)
で少し、ご登場いただいたのだが、
も少し、詳しく述べる。
1722年(およそ江戸中期)は特筆すべき年であった。
日本語で書かれた医学書「解体新書」が出版された年でもある。
オランダ語から日本語への「翻訳本」だ。
もとの元本はイスラム圏のものだったらしい。
実際の解剖(腑分け)所見を基に、検証しながらの翻訳作業である。
人体の諸器官の詳細図面に付した名称は、それぞれの機能を、日本人
なら一目すれば(読めば)それと連想・彷彿させる見事な日本語造語が
付与されている。
「内臓・器官・骨格」などの名称の多くは、今日の医学書でも、普通に
使われているものである。
たとえば、「神経・動脈・軟骨・膀胱・脾臓・・・」など、それに、現象を
表現する「妊娠」などもある。
この本の凄いところは、単に名称を(い・ろ・は・・・・)や(1・2・3・・・)
など符号を与えたものではない、
その臓器や器官の機能、用途を知った上で付与された「日本語・和名」
なのだ。「神経・動脈・膀胱」など、なんと秀逸な言葉であろうか。
oldboy-elegy君など「神経」などの漢字を」見ると、即座に「神経痛から
くる腰痛」を思い起す。
恥ずかしながら、自身がそうである。
これらは、オランダ語を殆んど知らない「杉田玄白や前野良沢」たちが
信頼するに足る辞書のない時代、4年の歳月をかけてなしえた金字塔なの
であった。
ここでoldboy-elegy君の言いたいのは言語要素の「話す・聞く」を除外して
「読み・書く」のみに徹して、通史(通訳)ではなく、学者としての目を
通して日本語訳本を完成させたことにある。
もはや訳本はオランダの元本「ターヘルアナトミア」ではなく、日本の
「解体新書」になった瞬間でもあった。
オランダ語で書かれた「ターヘルアナトミア」が何百冊あっても意味のない
ことで、「日本語の解体新書」が1巻(1×4冊)、完訳したことで、明日には、
有能な出版社と職人たちの手で何千冊の「解体新書」が木版印刷され、
多くの医師たちの手に渡っていく。
そう、時代のバックボーンが、すでに、これらのことを、可能にするだけの
文明・文化が日本の社会に備わっていたのである。
つまり、「読み・書き」に徹し、「学者の目と理解力」で作り出した
「新造語」が「解体新書」を通じて「日本人の財産」として世に送り出された
瞬間でもあった。
事実、「解体新書」が出てからも、「雨後の竹の子」ように、様々の「医学書」
が出版されたらしい。
もちろん、言葉の下敷き、お手本は「解体新書」のはずである。
以後約300年は、ありとあらゆる分野の「翻訳本」が日本語として出版され、
この国の「文明・文化」を支え続けてきたのである。
その証拠が「日本語」しか知らない「学者」のなんと多いことか。
ノーベル受賞者でも例外ではない。
(oldboy君良い意味で言っている)
もちろん、今もその過程にあるはずである。
この事実は、タイトルで言うところの
「ある意味、日本人って、昔から英語、得意だったんじゃない!!??」と言う
ことには、少々逆説的ではあるが、結論として、繫がったと理解して欲しい。
以後、日本人の医者すべてが、一段との高見(たかみ)に駆け上がったような
ものである。
●日本人の英語に対する典型、「お喋りはできない」が「辞書さえあれば
そこそこ訳せて、理解できる人」の完成である。
日本人は長い間、外国語を「読む・書くのみに落とし込み」、日本語として
使用してきた。
ここでタイトルとした「日本人って昔から、英語、得意だったんじゃない
!!??」と言う結論になったわけである。
むろん、ただし書きが必要である、日本人の「話せない・聞き取れない」は
ともかく、「コンサイス辞書と・英英辞書・時間を与えられたら、そこそこ
訳せるよ」の「英語に対する典型的な日本人ができあがる」のである。
この翻訳能力が世界的に見て、全く稀有で特異な「現象」であり、逆説的
には、このことが「長らく世界の先進国」であり得ていたのだとoldboy君は
考える。
あらゆる概念、科学から文芸までの全ての外国語を落とし込める日本語
を持ったことの功罪が「英語を喋れない・聞き取れない日本人」と
「世界の言語を日本語で読める日本人」を作ったのかも知れない。
ある意味、「超不得意な場面の英語」と「得意な場面の英語」が「共存」
したのが「日本人」の外国語(主に英語)にかかわる「スタンス」だった
と言えるかもしれない。
結論 タイトルの(ある意味、日本人って、昔から英語、得意だった)と
結論付けが完成したことになった。
ここまでを、今回の記事「上下・2編」を終わることにする。
あとがき
今日の記事をを書いている時、頭に去来してきたことがあった。
とにかく、メモ代わりに書き足しておくことにした。
考えがまとまったら、いつか記事にしたい素材である。
NO.1 それは日本の大学の立ち位置(評価)が意外に低いのである。
なぜそう感じるのか?
ノーベル賞(総合)・フィールズ賞(数学)・ブリッカー賞(建築)・・ETC
など世界的に名だたる科学賞の受賞者数は2000年以降だけみると多民族国家
アメリカの次になる。
反してイギリスやアメリカの大学評価機関の内容を見ると日本の大学は、
決して良いものではない。
アジアだけ見ても東大・京大など旧帝大群の評価は、その研究実績に
比べて随分と低い。
ロンドンのある評価機関(そこそこの権威)の近年のものを見ると
「東大・京大」でも、アジアでの評価は10位圏程度に留まっている。
中国の2大学・精華大・北京大が最上位で、続いてシンガポール大や
香港大など、韓国のKAIST(工科大学)・ソウル大などより評価が低iい
こともある。
日本の大学の研究業績は上記の他大学に比べれば、比べようもないくらい
圧倒的であるのに。
とうぜん、日本人なら「なんでや?」と疑問を持つことになる。
結論から言うと、
イギリスやアメリカの評価機関の評価基準の重要要素に、「研究業績
プラス、教育・啓蒙機関」としての立ち位置を重視しているようである。
言い換えれば世界にまたがる英語による、「教育機関」であることが
重要であり、重視されているのである。
すなわち、これらの世界は「米・欧」を中心とした「英語」で回って
いるのが、いかんともしがたい「現実」なのだ。
その現実が見える現象が最近あった。
韓国のKAIST工科大学が、殆んどの授業・講座・研究室を英語のみで行う
ことにしたらしい。
そのとたんに、KAISTのアジアでの評価が東大を凌駕するまでになっている。
とりたてた、研究業績もないままに。
NO.2 ここで 韓国の言葉事情を書いてみる。
韓国語の場合、重大な不合理と不都合が存在する。
もともとの朝鮮語そのものが、欧米の文明・文化の先進概念を持たなかった
ため、代わりにそこに、長年培ってきた、日本語がはいり込んでしまったの
である。
もちろん、日本による植民地政策によることも大きいが、
なによりも、もともと、「朝鮮語」に「英・ドイツ・フランス・・etc」
などの「先進概念」は、同じ「漢字語」を底に持つ、日本語からの「借用」
にならざるをえない運命にあった。
これについては、かの国の現代の人達は「いろいろあるとは思うが、
必然の流れ」であり「論理的」である。
ただし、日本語の(西洋の概念語)を朝鮮語読みで発音し、その発音を
「ハングル・書き言葉」に落とし込むのである。
例えば、「百貨店」は、朝鮮語読みでは「ベグ・ファ・ジュ(ム)」で
その発音を「ハングル・書き」で「백화점」となる。
最近の「日帝残滓・にっていざんし」排斥運動のため、もとの「百貨店」
の漢字と同時に表意文字としての漢字から来る意味も消えてしまい、
単に発音としての「ハングル」だけが残る。
この様な比較的カンタンな言葉なら、まだしも「化学・物理・数学・
法律・・etc」などで使用する、「高次元の概念語、観念語」は「朝鮮語」
の発音と、それを記述したハングルだけになり、言葉を意味する「漢字」が
失われているのだ。
韓国社会では、「もともとの日本の漢字語」を排斥し、「朝鮮語」のみの
表記運動があるが、通常の話言葉の50%以上、科学用語の70%以上は日本語
から来ていると言われている。
それ故、完全な排斥運動に至ってない、底深いジレンマの中にある。
oldboy-elegy君、昔、ソウルに出入りしていたころ、ところどころ漢字で
書かれた
新聞の見出しを見れば、およそ内容の見当がついたものである。
今では、発音して見て、知らなければ、それまでである、必ず、元の漢字語
が大概あるはずなのだが。
現在の韓国の新聞は、漢字は消え、あるのは、ハングルで書かれた発音のみで
ある。
韓国の言葉事情はここまで
NO.3 それでは、どうすれば?
基本、日本の大学は日本人の為のもので、高度な研究になればなるほど、
そこに欧米諸国やアジアの日本語を知らない英語話者の頭脳が立ち入る
には、大きなロスがあり、壁もある。
日本の大学や研究機関の使用言語は「日本語」によるのが中心で、
この上に「どう外国語・外国人」に対応するのかを考えることが重要だ。
最近、外国人(日本語を知らない英語話者)の、有名、有能な学者の
碩学講座や講義を持つことも多少増加傾向にあるが、多くは、通訳付きの
「招待・招聘記念講演」にとどまるのが普通だ。
このあたりの問題は早くから国も懸念し対策を講じているが、これだと
言う結論や方法は確立されていない。
こんな難しい日本語でも、理解してくれて、日本語を学ぼうとする人達のため、
マンガ・アニメ・映像 など文化コンテンツなどをキチンと学問の領域として
日本独自のグローバルな第2軸の価値観(始めに英語ありきではなく)を
作ろうと考えた方が良いように思えるがどうだろう。
今ある、世界何位、アジアでどうの、など、基本欧米文化何百年かの中の
欧米の価値観の中での範疇ではなく。
間違っても、韓国のKAIST工科大学のように「全て英語のみ」など
「短絡思考」に陥らないことを希望する。
「研究とそれに伴う、実績」重視の基本は失わず、「初めに英語ありき」の
「欧米型評価」にとらわれない「日本」独自のものを目指して欲しいものだ。
いづれ、上記の事に就いては、ブログ記事化してみたく、今日、思った。
今はまだ「独断と偏見」と言えども、書くだけの「知見も見識」も持って
いない。
だが、おもしろい、テーマだとは思っている。
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それでは今宵はこれまでとする。
oldboy-elegy君としては「独断と偏見」と言いながら、マジ面(づら)で
終始したようである。
少々、疲れた感もある。
ブログ記事は楽しく書かねばの持論もあるが、時おり胸の内の鬱積した
しこりを精算する必要もあるらしい。
バイリンガル、幼児教育も結構だが。
このところ、急に涼しくなり、冷凍庫に入っている、あずきアイスバー
2箱に手が伸びなくなった。
明日は「おでん」でも食ってみるか、oldboy-elegy君には自前で作る
迫力はない、もちろんコンビニ謹製のものであるが。
では では おやすみなさい
上・下 了
oldboy-elegy