oldboy-elegy(38) お正月の「晴れ着」否、違った!!、「晴れ下駄」の思いでと、それにまつわるあれこれ
この記事、oldboy-elegy君の「お正月」にブログUPするつもりで書いている。
なにか、正月らしいものはと、したためた記事案ノートNO1・NO2・NO3
および日々取りためたメモを繰る。相変わらずの、緩(ゆる)い内容で、アホ(馬鹿)を売りにする物ならあるのだが。
およそ正月とは縁もない話ばかりで、途方にくれる。
そんな中、えんぴつ書き、文字も擦過(すりきれ)状態ではあるが、
(2019・7)のメモの走り書きに「正月に、おとう(父)に買ってもらったシラオ(白い鼻緒)の下駄」の「一文」を発見する。
この瞬間、幾つかの情景が頭をかすめる。
彼、記事を書く場合、常日頃、大切にしていることがある。
それは、タイトル文を「思いついた」瞬間に、「情景や、錯綜する思い」の
「広がり」を感じるかどうかということである。
今日の記事は、「雑感・雑記帳」ではない。
「oldboy-elegy」のタイトルで始まるものである。
なぜなら、自分の人生の一場面を活写したものであるから。
★
元日の朝、目を醒ますと、枕もとに、白い鼻緒(はなお)の
下駄が置いてあった。
イラストの画像では黒の鼻緒(はなお)になっているが、oldboy-elegy君の
それは白い鼻緒の下駄であった。
それに、ニス(木材用の塗料の一種)塗りではなく、素朴な白下駄である。
白緒と黒緒の意味するところの「違い」は、知らない。
下駄を買ってもらったのは10歳のころのことで、元日の朝、枕元に置いてあった
のが最初である。
青年と呼ばれるには、まだほど遠いが、少なくとも「お兄ちゃん」にはなった
ような、ある種の「高揚感」が身を包んだことは憶えている。
なにか、大人になるための、通過儀礼のようなものだった、と今にして思えば
思う。
以後、中学3年か高等学校、初め頃まで毎年続いたが、何時(いつ)とはなし
に、この習慣も消えた。
父親も、大きくなった息子に、それも元旦の朝の儀式然とした行為など、少々
気はずかしくなったのかも知れない。
その上、時代が下駄を、そぐわないものにしたこともある。
とくに学生の履く、下駄については、そうである。
考えてもごらん、高等学校の油引きされた漆黒の木製の廊下を下駄の響き
高らかに「カランコロン」とカッポするわけにゆくまい。
だが、そんな輩(やから)が、いるにはいた、それも学校から注意された
様子もない。
oldboy君達が在席していたころの、高等学校、いまだ旧制中学校の雰囲気や
気風が残っていたのである。
「生徒手帳」にも、事細かな規則などは殆んどなくただ「本校の学生である
ことを自覚して・・・・」の一文が強調されたものであった、と記憶している。
突然のお出ましで、ギョッとされたかたもおられると思う。
「俺は、猫である、ただし絶滅が危惧されている、イリオモテヤマネコなのだ」
あの旧制中学、生き残りのバンカラ学生ではない。天然記念物として崇められてもいる。お見知りおきを。
「下駄」も恐らく、やがての「絶滅危惧種」とみて「自然淘汰」されるもの
として放置されたものかも知れぬ。
このような気風の学生を「バンカラ」あるいは「バンカラ学生」と言った。
こんな雰囲気の中、彼自身も、「下駄」は数回履いて登校したこともあった
ようだ。
新しい学帽などのてっぺんを切り裂き、もう一度それをミシンで縫い繕う
(つくろう)、野球用のグラブのワックスを塗りこめて被る人もおいでに
なった。
※「バンカラ」とは 主に旧制中学の風俗を踏襲した人達で、
「ヨーロッパ」感覚のおしゃれを「ハイカラ」と言い、それらの風俗や
思想までの「アンチ・テーゼ」として、ハイカラのハイをバンと入れ替えた。
因みに、「バンカラのバン」とは「粗野にして蛮なる人」ぐらいの意味では
あるが、決して完全なる否定語ではない、と勝手に理解している。
今では、ズット昔の郷愁を誘う言葉になっているか、死語に近い語彙に組み
入れらている。
「なんの、なんの、oldboy君、完全な死語ですよ」と大向うから聞こえてくる。
旧制中学の名残(なごり)も、やがて、消えゆく運命にあった、そんな時代
である。
しかし、こうして「下駄」の思いではしっかりあるのだが、何故か(足袋)の
記憶が欠落している。
ただこれも、足首後ろに付いた止め金具の銀色の金属の光が残像としてあるが、
果たして下駄と同じくして買ってもらったのかはっきりしない。
たぶん、主に素足で履いていたと思う、真冬でも。
★★
下駄に添えて、「晴れ着」と言う訳でもないが
「新品の晴れ下着」が数枚ずつ鎮座していた。
実は、正月元日に枕元に置かれていたのは、下駄だけではなかった。
それは(下着類)である。
綿でシロの半袖シャツ、ランニングシャツ、ブリーフの下着、それぞれ数着
ずつが下駄の横に置かれていた。
基本、これで1年、賄いなさいと言うことでもある。
師走の全ての仕事を終え、大晦日の終夜運行の電車に飛び乗り、これらの物を
買い求めるために鶴橋の「国際マーケット・闇市」まで、買い出しに行った、
父親に感謝。
★★★
oldboy-elegy君が最後に下駄を履いた時を、ほぼ特定できる。
何故なら、下駄にマツワルある事件が原因
下記の文「・・・」は過去の記事からの引用で、
「 高校時代、下校時、3人組に襲われ下駄で顔面を殴打される、その時、唇の
内側を4針縫った・・・・、犯人の一人を知っていたが面倒なので知らぬ存ぜぬで
すませた。中学時代の知り合いである・・・・」
以上引用おわり
上記の引用は過去記事 oldboy-elegy (23) でのものである。
文中に「高校時代、下校時、3人組に襲われ下駄で殴打される・・・・」とあるが、
実はその下駄、恥ずかしながら自分自身(oldboy君)のものである。
もちろん、3人は他校生である。
襲われた原因はあるのだが、ここでは主旨ではないので省く。
状況を説明するなら、下流に向かって左は川(川幅7~8mで水質は最悪)、
右は工場の長い板塀で、ここで3人組に取っ捕まったのである。
見知らぬ二人に、前後をふさがれ、当の相手に対峙と言う場面である。
敵はこの「地勢学上の有利な条件」を知ったうえで、この場所を選んだのだと
思う。
oldboy君に逃げ場はない、
なにゆえか「なんなら、やったろかい」の気持ちになり、あろう事か、
履いていた下駄を、川とは反対側の板塀の脇の夏草の中に脱ぎ捨てたので
ある。
あとで考えるに、この「下駄を脱ぎ捨てた」のが凶とでたのである。
多勢に無勢、すぐにツカマリ、顔面にガツンと食らったのである。
その時の得物(武器)、なんと自身の「シロオ」の下駄だったと言うオチ
なのだ。
結果、oldboy-elegy君、口内から血が噴き出し、顔面下半分が真っ赤に
染まったのである。
これを見た、3人組、満足したのか、ビックリしたのか、眼前から消え去った。
傷は、下唇内側を4針縫う裂傷であった。
そう、この日が、「下駄を履いた、最後の日」であったはずである。
★★★★
さて、今日のお話、正月用になったのか、少々疑問だが
お許しを乞う。
oldboy-elegy君の昭和は「ずっとズット遠くになったもんだ」の感慨ひとしお
である。
それが証拠に、一記事仕上げるたびに、少々お疲れぎみになるが、同時に胸に
ホンワリ気分のぬくもりが宿るのもまた事実である。
この気分を求めて明日も記事を書いていくのが、ささやかな楽しみになって
いる。
末尾になりましたが
あけましておめでとう
ございます
ほんねんも
よろしくおねがいします
なにか、おめでたい話でもしたかったが、こうなってしまった。
では では
了
oldboy-elegy