oldboy-elegy のブログ

ずいぶん長きにわたりグータラな人生を送ってきたもんです。これからもきっとこうでしょう、ハイ。

(雑感・雑記帳 NO. 47 ) 除夜の鐘は人為的(じんいてき)な騒音である、「ウルサイからヤメロ」騒動記・「論考?」oldboy君的 解決策を探る

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 始めに   

この記事、2020・01・02のリライト版である。

自分としては、お気に入りの内容ではあるが、読者諸氏にはもうひとつの

感があったように思う。

字数も大幅に減らし、時節もタイムリーのこと、再度挑戦のつもりで
UP
してみた。

感想など、あれば、嬉しい限りである。

それではスタートする。       by oldboy-elegy


★1   「  除夜の鐘」とお寺さんの「梵鐘」

oldboy-elegyくん、「さあーて、どこから書こうか」と思案中に、唐突に
「木枯らしとだえーてさゆる空より~・・・」の童謡の一節が機能障害一歩
手前の脳に去来。

たしか、文部省唱歌の「冬の星座」のはず、ともかくG検索を実行。

ありました、歌詞の後の方に「ものみないこえる、しじまのなかに」
しじま」の部分です。

除夜の鐘がゴ~ン
→冬の深夜→木枯らし途絶えて→静寂→冬の星座へと連想!

「静寂・せいじゃく」は「おのれが現在いる、近しい空間」の静けさで、
五感で感知できる範囲のものと勝手に設定。


「しじま」自分を離れて、天空から宇宙まで」を含む静寂て心で感じる
もの、とさせてもらいました。


そうすれば、「しじまのなかで」の前節「ものみないこえる」の、作詞の
意図がはっきりするように感じるのです。


「ものみないこえる」者、皆、憩える」で、「人間を含む、動植物
や物、存在する全てが憩える」とするなら、「天空・銀河、果ては冥界」
までもアリかなと思えるのです。


oldboy-elegyくん、およそ50年前のお話です。
夜具に潜り込み、枕元のラジオも消し、部屋は闇の状態です。


身も心も、外界と一体となり、静寂の中に在り、ある意味「至福」の時かも
知れません。
 


そんなおり、記事を書きながら、「俺、ナマで除夜の鐘、聞いた事がない!」
事実に気づかされたのです。

「河内」のこのあたり、真宗系の大寺が二つあり、中堅寺院や末寺の坊
など含めると、多くの寺がある土地柄です。

しかし「除夜の鐘」にまつわる記憶がない?のです。

「なぜ除夜の鐘」を耳にしなかったのか?今思い起こしても、理由は
これしか考えつかないのだが。

戦時中、半強制的に家庭内金属器などを「お国のためと」お上にさしだした
時期があった、これです。


梵鐘(ぼんしょう)などは金属の塊、これ1個で鍋、釜いくつ分に相当す
るのか見当もつかない、そんな鐘が鐘楼に無事にぶら下がっている訳はない。


そして、戦争も終わり、そんなに経っていないころ、国中が貧乏の極致、
失った鐘の再設置など、考えもしないし、食うだけで精一杯の時代で
あった。


数キロ先に国鉄(JRではない)の貨物専用の広い操車場があり、冷たい冬の
夜間など、貨物列車の編成中の連結器の音が「ガチャ・ガチャ・ガチャ・
ガチャ―ン」と「静寂・しじま」を破り、夜具の中まで聞こえてくることは
oldboyくん、記憶にあるが「ナマ除夜の鐘」の覚えはない。


「天空の凍てついた夜の静寂(しじま)」を破る、除夜の音を一度は聞いて
みたかったと言う思いは今もある


★★2  今日の主題である「除夜の鐘」の音は騒音か?

はてさて、21世紀のこの時代「除夜の鐘」が「うるさく、騒音」に聞こえる

人達が結構、いるそうである。


札幌のある寺院、苦情のため、今年(去年・2020)初めて、除夜の鐘撞
(かねつき)を中止するはめになったらしい。


鐘の音が「ある種」環境破壊?であり、自然音でもなく人為的なものであり、
もっと言えば「騒音以外の何物でもない」と電話による苦情が入るらしい。


「除夜の鐘の音」を騒音と感じる人が増える傾向にあるというのである。
 

この人たちを、あながち「文句言いのモンスター」と決めつけるのは短絡的で、
本当に「騒音」として聞こえている可能性もありうる。

本人にとっても「あんなうるさい音」を「情感あふれる日本の音」と愛でる
人の気持ちが、心底、理解できないのかもしれない。



★★★3  それではセミについてはどうだろう

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たとえば、セミの声だが、日本人は幼い時から種類別の鳴き声(擬音として)
を結構表現できるのが普通である。


例えばヒグラシ(カナ、カナ、カナ) 
ツクツクボウシ(ツクツク、ボーシ)
クマゼミ(シャー、シャーシャー、シャワシャワ)
ミンミンゼミ(ミーン、ミーンミーン、ミンミンミン、ミー)
アブラゼミ(ジャー、ジャー、ジージー
ニーニーゼミ(チィーチィーチチチー)などなど。


鳴き声のオノマテぺはoldboyくんが勝手につけたが、ご不満の方もあろうか
と思うがおゆるしを。 


まずセミの(種類別のなまえ)(姿かたち)(鳴き声)(出現時期)など
答えられる日本人は結構おられるはずである。


欧米人、とくに白人では、クマゼミの集団がうるさくそこで鳴いているのに、
聞こえない、聞き取れない人も結構いるらしい。


なぜか、多くの外国人と日本人とでは、これらの「音おと」を処理する
「脳の認識する分野」が違うのが原因であることが分かっている。


日本人は左脳の言語を司る分野で聞き、処理し、多くの外国人
(アジア人も含む)は右脳の音楽、音に対処する分野で聞いていると言う。


これらのことは「遺伝的素因」とは関係はなく、幼児から大人になる過程で
獲得されるものらしい。


あと虫の種類とその鳴き声も同じで、これだけの分類ができるのは、
おおむね「日本人」だけのようである。


また「松尾芭蕉」の有名な俳句で「静けさや 岩にしみいる 蝉のこえ」
と言う超有名な句があるのだが、欧米人にこの句を説明しても、理解して
もらうのは、不可能に近いものがあるようだ。


説明で一番困難な部分はうるさい蝉の音(声ではない)が、なぜ「静けさ」
と同居しているのか理解できないこと、またそれ以上に「蝉の声」自体が
聞こえない人もいるようで、よしんば聞こえたとしても「雑音・騒音」
ぐらいの認識であるらしい。


ふつう日本人なら、「山寺に向かう芭蕉が道中、「ニイ、ニイ」と鳴く
ニイニイゼミか「カナ、カナ、カナ」と鳴くヒグラシあたりを想像すると
思うがどうだろう。

そこで問題は、このようなことが日本人同志でも起こりうる可能性が今の世、
あるらしい。
それだけ、日本人の生活も変化し、それにつれ、後天的に付与される、習慣も
変化する。
どちらが正しい、間違っているの問題ではない、と思っている。



★★★★4  同じ日本人でも、近しい将来このように分化するのかも

今後、「除夜の鐘」を聞き、これを好ましいとするグループと、同じ
日本人でも「騒音としか認知できない人達」の分化が始まるのかもし
れない。


oldboyくん的には、残念ではあるが、セミの「声」や虫の「音・ネ」を、
聞き取れない「日本人」、あるいは聞こえても「騒音」以外のなにもの
でもない、と感じる「日本人」の存在
には驚く。


いくら説明しても「静けさとセミの音(ね)とが一つの句に同居する感覚
を理解できない「日本人」も、少しずつではあるが増加傾向にあることも
「事実」なのかもしれない。 


しかし、これらの現象(セミの声、虫の音が聞こえない、聞こえても単に
騒音)は、世界的にみればごく普通で、日本人の方が特殊なのだそうだ。
あとわずかに、南洋諸島の幾つか国、島々の人々の中に日本人同様に左脳
の言語野で聞く人々が存在しているらしい。


★★★★★5  してみれば、解決の方法はあるのか?

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(上掲、イラストのお方・カール・グスタフユング)いらすとやさんより

そこで、ここからは、いつものoldboy-elegyくん的解決方法(すこしおおげさ)
を「独断と偏見」をもって提示してみたいと思う。


その根拠はある著名な心理学者の研究を参考にしたものである。
心理学者(カール・グスタフユング、1875~1961)その人である。

多少前後はあるが、「フロイトアドラー」を加えて「心理学者3人衆」
である。
ユング=スイス生まれ フロイトアドラーオーストリー生まれ。
フロイト」などは「夢判断」などで有名だが、現在の心理学者の殆んどは、
この3人の研究、業績を基本とした系譜に属していると言われている。


oldboy-elegyくん、この3人の内、特に「カール・グスタフユング」の言葉
に注目している、と言うより、もともと自分に一番しっくりする「考え・論理
だなと思っている。


ユングは「民族による音や音楽にたいする感じ方の違いは古代から伝わる
神話や伝説、芸術など、人類の心の中で脈々と受け継がれてできたもの
集合的無意識)を土台に、その上に(個人的無意識)が存在し、その
最上部に固有の(意識)が形成されると言う。


個人の心理的要因の源泉に「社会や民族」と言う概念を基本に据え、
人の心を解析した最初の心理学者でもある。


もしあなたが明日にも結婚するとイメージしてください。
あなたと、彼(彼女)は今までの数十年間、全く違う環境で生活して
きたのです。
育った土地と風土を始め、あらゆる環境と経験は違ったものであった
はずです。


それぞれA国、B国としても良いでしょう。

しかし、ひとつ屋根の下に住んだ場合、今まで知らなかった、相手の
言質(げんち)、食事、行動など、になにかしらの「違和感」を感じて
しまうことも多々あるのは普通です。


小さな「異文化」の衝突です。 
あらゆる育ちの環境の違いが、「ユング」の言う、深層に「集合的無意識
として、自分も気がつかない心の形質が育ち、備わっていたはずです。 

ともかく、結婚・同居に於ける大小様々の不都合の発生は2個の「集合的
無意識」が偶然出会い、そこで初めて「意識化」されるものであったのです。

残念ながら、これを是正する方法は、話し合うことしかありません。



★★★★★★6 ユング的理論での解決方法とこれからの展望


上記の事を、今日のテーマ「除夜の鐘」に当てはめ考えるならば、およそ
次のような結論になると思われるがどうだろう。

いえることは、ある個人が不快に感じる「自然音・環境音・騒音)に
出会った場合、個人が既成社会の(集合的無意識)を壊すことは難しいで
しょう。(ユングの言う論理から)


ただし今ある既成社会を形成する大部分の人々は、彼(除夜の鐘は騒音だ)
を文句言いの「怪物モンスター」「不寛容の人達」として対立せずに「実際
そのような人達は存在しているのだ」と認識し、誠意を示し、科学的に説明し、
少しの時間を拝借し(除夜の鐘を楽しみしている多くの人のため)、
緩やかな納得を得る方法しかないと思う


根本から解決はできなくても、「了解・納得」は可能であるはずと思うのだが。
グローバル化・急激な情報化文明は、予想もしなかった新しい文化の概念・
ストレス・衝突を生むことが予想される。

だが一概に嘆いてばかりの一方通行の概念では事は進展しない。
近頃、「日本人」にしか理解が難しいとされる「心象」が様々の形で
外国に発信され始めたように感じる。


例えば、「まんが、アニメ、小説、映画」「日本のさまざまの節季行事・
歴史」など、ユングの言う「古代から伝わる神話・伝説・芸術など、人々
の心の中で脈々と受け継がれてきた集合的無意識」から生まれ、具現化された
「意識や心象風景」が発信されるようになった。


蟲の名、蟲の音を愛でる人達、が日本以外の地に現れてもおかしくない時代
なのである。


ひょっとしたら、外国の地でダンナが虫かごに蟲を飼い「あ~、良い音(ね)
だ」などと愛(め)でだしたら、「なによこの人、変な人」と伴侶にバカに
される場面もアリかもしれない。

「除夜の鐘をうるさい・騒音だ!」と対をなす話でもある。

うなれば、最終、文化の「相互理解・mutual understanding」しか手がない。
ある意味、可笑しくも楽しい世界でもある。

いやはや小難しい世になってきたもんだ、「ノー・ストレス」を、生きる
ことを基本としてきたoldboy-elegyくん、「やれやれ、つかれる」の思いが
本音かも。  
         
               ことしの大晦日                                      
 森閑とした 静寂(しじま)の奥の天空から、「除夜の鐘」が聞こえて
       くるのを期待するが、きっとムリでしょうね。
   
                    

                                                                     
                 oldboy-elegy

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