oldboy-elegy のブログ

ずいぶん長きにわたりグータラな人生を送ってきたもんです。これからもきっとこうでしょう、ハイ。

oldboy-elegy ( 66)  夜になり、近鉄電車の銀色に光る車輪をながめての一週間、明日の午後3時にてアルバイト終了、「フーッ」






 ★1  oldboy-elegy君のアルバイト遍歴の職種は多くはないがそれなりの経験
  はあった。


親父は、この地域の特産品である、歯ブラシ職人の頭(かしら)らしき事
をやっていた。
使用人は同郷(香川県)の親戚筋や百姓家の次男、三男坊を頼み、頼まれ
大阪に呼んでいた。

多い時は、自分の息子二人(oldboy君から見れば義兄)を含めて7、8人の
大所帯になることもあった。

近くの空き地の脇に土地を借り、小さなバラック小屋に中古の電動モーター
を据え、懸命にやれる範囲の行程の下請けを受けていた。

そんなおり、旨(うまみ)のある自前取引の注文が入る事もままあったよう
である。

親父の学歴は、尋常高等小学校である。
今、考えて見れば、零細とはいえ、幾分かの商才はあったように思う。
何故なら、彼等の多くは、裕福とは言わないまでも、所帯を持ち、独立して
行ったのが、その証拠だとoldboy君は見ていた。

それに、なによりも俺の母を「お妾(めかけ)さん」とし、一生を全うした
ことが
「ほほえましい」事実でもある。


★★2 アルバイト経験は高等学校までで、大学生時は近くの小さな塾で
 4年間講師としてお世話になった。コストパホーマンスの上から見れば
 最悪の職種である。相手は人である、感情移入すれば時間は関係ない
 ものとなる。


小中学校の時など「今日、ケツネうどん、でも、かしわの卵ドンブリでも
ええで」との親父の甘言に釣られて、時々、工場に手伝いに行くことも
あったが、これはアルバイトとは言わぬ。
※ かしわ とは関西では普通、鶏肉のことを言う。

せいぜい、袋詰めや数(かず)を数える事ぐらいのことだが、それでも
「ネコの手」よりいくぶん益(ま)しだと言うことだろう。

夜食につられて行ったことは事実であるが、本人(oldboy君)それ
以上に工場での雰囲気は嫌いではなかった。


節季(せっき)など、忙しいおり、お声がかかる。

工場のモーターに繋がるベルトが何かに当たり「パシッ、パシ」と音を
たてていたのを思い出す。

今にして思えば「俺も、この親父の仕事を、するのだろう」と漠然と
思っていた節もある。

工場の人達の学歴は、すべて中学までで、それさえ満足に出ていない人も
いたはず。
そんななか、手前「俺だけが」何故か、大学、それも私立大学に行かして
もらったのである。

これには当然、お妾(めかけ)である母親の存在が関係していたはず。

その母の自慢は 自身が5年制の高等女学校の4年まで在籍したことで
あったことは知っている。

ずっとずっと後のことだが、幾つ違いかは知れないが、母には妹がいる
と聞かされて
いたことがある。
その妹も、台湾に出入りしていた、所謂、「台湾ゴロ」ともども、手を
取り合い
彼の地に去ったらしい。

姉妹して、似た境遇の人達で、あったようである。
以後、生死をも含めて、妹さんの話は聞いた事はなかった。


★★★3 に、電車のイラストを貼った、親父(おやじ)、アルバイト、
 近鉄電車が一つになり、今日のタイトルに集約される事になる。

親父は時折、商用で「鶴橋駅」の国際マーケットに出入りしていた、
それもバッチリおしゃれして。
いわゆる、大正、昭和期で言う「モボ・モダンボーイ」の端くれでも
あったようである。

御存じかどうか知らないが、ここには戦後の闇市(やみいち)をもとに
多くの雑多な品を扱う商店が、近鉄省線鶴橋駅を核に集まっていた。


「国際マーケット」とも呼ばれ、衣料品を初めあらゆる生活雑貨店が
軒(のき)を並べていた時代の事である。
世間では「闇市」と言うほうが通りが良いのかも知れない。
日本人の店はもちろん、韓国、朝鮮系の店も多々あった。


親父も、こんな中、手前の作った「歯ブラシ」を卸していたはず。
それにこの雑多な猥雑さは、ある意味、男心をクスグル何かをも感じさす
場所でもあった。

オトコと言う生き物、何年やっても、そうそう性格が変わるものでもない。

時おり、「キャバレーやビリヤード」の話を、まだ年端に行かぬold-boy
君にする事もあったが、それがまた、いかにも
親父らしい。
喜々として俺にお喋りする様子も嫌いではなかった。
※ キャバレー 女性の居るダンスホールや舞台のある酒場のこと


そんな親父がある日「アルバイト!決まったのか?」と言葉を投げかけて
きたのである。
高校1年の年、暮れも押し迫ったころのことである。

続けて「鶴橋の闇市で、一週間ほど、泊まりである店を手伝って欲しい」
とのことであった。

アルバイト料に破格の日給を提示され、父自身も魅力を憶えたのかも
知れない。

もともとの雇い主は「鮮魚店」で、親父が直接、面識があった訳でもない。
よくよく聞いてみると、父の同郷の士の頼まれごとであったらしい。

父の表情には、「頼む、俺の顔をたてて、やってくれへんか」と言って
いた。

店は鮮魚店で、朝早くから昼ぐらいまでは、卸(おろし)商いで、
売店
や食堂などをお得意にしていた。

遠くは、伊勢近在から朝一番の近鉄電車でやってきて大きな丸籠に
彼の海で取れた高級魚を、この闇市の決まったお店に置き、帰りには
乾物など日持ちのする
海産品を仕入れて帰るオバサン商人も多くいた。

「して俺はここで何を?」と聞くが、明瞭な返事が返ってこないまま、
雇われることに決定。
「おいおい、なんじゃこれ」と思うが、断れる雰囲気ではない。

親父は、俺を置いたまま人混みの中、友人ともども去って行った。
俺は俺で、魚屋の社長に連れられ彼の店へ。

店はこの時間(夕方)、店頭は頑丈な戸板が張られ、今日の営業はとっくに
終わっていた。
脇の潜り戸を開け中に入ると、すぐ目の前の階段が、暗い二階へと続いている。
そこには、なにやら生活感の薄い二部屋があり、特筆すべきは、天井がやけに
低い造りになっていたことである。

「ここで、寝泊まりしてもらい、食堂、銭湯はこの先で、と・・・」の事。
「番頭が、朝、3時過ぎにここに来るよって、彼の指図通りしてもらったら
OK」だと言う。

そんなおり、目前のガラス窓の向こうに、轟音を伴って、電車がホームに
入って来たのである。

左方向が、近鉄電車の終着駅・上本町6丁目方面である。
鶴橋駅」を俯瞰するとすれば、oldboy君のいる場所は駅の一部の
様に感ずる場所
でもある。

ガラス戸を開け、手を伸ばせば届くほどの近場と言えば、少々、大仰かも
知れぬが。

余りにレールが近く、電車の座席シートも窓も、もちろんパンダグラフ
目にすることも出来ない。
見えるのは線路と銀色に光る、電車の車輪が全てであった。


やがて番頭さんがやって来て、チョットした紹介の後、社長は消えた。
番頭さん曰く、「なんでも聞いて」とのことだが、もう一つ要領が
掴めない、ともかく、翌日から勤めることにあいなったのは間違いはない。

解ったことは、毎朝PM3時ごろ起床、どこか近くにあると言う、貸し
冷凍倉庫にいき、段ボール入りの冷凍イカを、水道水を大量にブッカケ
解凍作業をするとのこと。

そのあと、半解凍のイカを台車に乗せ、店に持ち帰り、開店準備を
しながらイカを店先に並べることが、主なoldboy君に要求される

仕事らしい。


イカの解凍作業も、番頭さんの教授も、初日だけで、あとは自分でやって
くれ
とのことである。

渡されたゴムの長靴と黒い前掛けを見ただけでなにやら身震い憶えた。

泣きたい気持ちになってきたが、親父の手前もあり、逃げ出すわけにも

ゆかない。

店内でのoldboy君の立ち位置は主に、この冷凍イカとサバの売り棚を管理
することで要するに、先輩たちの下働きと言うことである。

高級魚と言う訳でもない。

ただ、サバにも種類があり、魚の横腹にゴマのような黒い斑点がある
「ゴマサバ」と斑点の薄い「マサバ」と称する二種類があると言う。

これら二種の価格は大きな開きがあり、マサバが断然である。
「マサバ」のマはきっと「真」のことで、すし屋が求めるものでもあるら
しい。

ただし午後からの、シロウト客には、「ごまさば」を「まさば」の口上で
騙し売ることもあった。
  

★★★★4  すこし悲しくなってきた、思い出の景色



そこで今でも明瞭なある光景を思い出す。

夕方早く、銭湯を出ると、日はすでに落ちている。

電信柱にかかる黄色い裸電球の下「賃つき餅屋」の、あんちゃん
たち
5・6人が「もち米」を、蒸篭(せいろ)で蒸し、モウモウ
とした蒸気の
向こうで威勢よく餅つきをする姿を憶えている。

正月はもう、目と鼻の先である。
なにやら母や妹を思い出し、泣きたい気持ちなってきた。
※ 「餅の賃付き」 餅米を持ち込み、賃料でお餅をついてもらうシステム
のことである。



★★★★★5 ある理由で高校2年の時のアルバイトは望んで同じ仕事した。

きつくはあるが、ただただ実入りが良いと言うだけで、翌年の年末のアル
バイトも親父に
頼み、あのハンベソをかいた、鶴橋の「闇市」に行った。
なにも喜び勇んでの事ではない、oldboy君なりのちゃんとした訳があった。
この歳の冬のアルバイト、前半は「花屋の門松造り」で年末は大晦日まで
鮮魚店」での地獄の段大円のお勤めとなる。
※ (段大円・だんだいえん) ものごとの最後の局面

来年の春早くに、修学旅行が予定されていた。
もちろん旅行費用は母が毎月積み立ててくれてたのだが、彼自身どうしても
旅行に欲しいものがあったのである。


その品とは修学旅行で着用するつもりの「黒の革靴とグレーのハーフコート」
の2点である。

「笑うなかれ」どうしても、必要なものでもない。
ただ、当時の学生、あるいはoldboy君?の「おしゃれ心」がそうさしたので
ある「そんなに苦労してまで」


九州旅行、関西汽船別府航路乗船のおり、女友達の「てんこ・TENKO」と
甲板で風よけのため、同衾とまで言わぬが、1枚のコートを二人で羽織った
良き
思い出が今も残像としてある。

もちろん、母にも、親父にも「これこれを買うため」とは言っていない。



                     了
                     oldboy-elegy

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