oldboy-elegy のブログ

ずいぶん長きにわたりグータラな人生を送ってきたもんです。これからもきっとこうでしょう、ハイ。

(雑感・雑記帳 No. 31 ) 「与謝蕪村」さんの俳句「草いきれ人死居ると札の立つ」をもとに、彼の人となりを探ってみた

 

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与謝蕪村(よさぶそん)さんの肖像画
画 呉春 

パブリックドメイン化   2018年

Public  Domain
知的財産権が発生しない、または
消滅
した状態、「公有化」とも言う。      Wikipediaより


              まえがき

以前、自身のブログで「松尾芭蕉」さん、について記事を書かせてもらった
ことがある。

内容は(雑感・雑記帳 No18)で「芭蕉の忍者説を全否定」の立場から
oldboy君らしく、気ままに綴ったものであった。


その折、「奥の細道」帯同のお弟子(曽良)さんのこと、ずいぶん悪しざま
に書いた。

あのおりは 曽良さん「ごめんなさい」



                  ★1
   芭蕉さん」の句は、僕(oldboy-elegy)とゆう、いい加減な
           人間が楽しむには正直チトしんどい

            一方、「蕪村さん」、肩の力が抜けた「人生謳歌」型の
                                       お人のように  思う

                こんな彼の句はどうかな 
学問は尻から抜けるほたる哉」

実は、以前の記事を投稿した時から、江戸期、俳諧師、雌雄のもう一人である、
「蕪村さん」のことも「記事にせねば片手落ち」と密かに胸に抱いていた経緯が
ある。


それ故、今日登場の「蕪村さん」の句、早くから、コレと決めていた。
今日のタイトルにある
草いきれ人死居ると札の立つ」 これである。

ひらかなで言葉を流すと
「くさいきれ ひとしにいると ふだのたつ」となる。

検索にかければ、
蕪村の句として、10選・24選・70選 などの投稿記事はあるがoldboy君の
言うこの句は、そんな中にも、殆んど出てこない。


ではと
蕪村 草いきれ・・・・・・、とそのまま句をスレッドとして打ち込むと、
300程度の記事が立つ。

それも、句そのものを、正面から取り上げたものは上位の数記事除けば殆んど
ない。

他の蕪村の有名句に比べれば、明らかに、疎(うと)んじられているのかが
わかる。


oldboy君、俳句はもとより、小説、音楽、絵画などの好き嫌いの基準は
「いかに自身の肌に会うか」この一点に置いている。
大方の人も当然、そうだろう。

世間のそれなりの専門家と称する方たちの評価は気にしない。
それ故、自分の預かり知らぬ方たちがあれこれ、おっしゃる
ことには耳を貸さないことにしている。

これらの人達の評価・解釈だけを見ていたなら、oldboy君、この句に遭遇
しなかったかもしれない。


ただこんな不人気な句を、何故oldboy 君が知っていたのかは自分でも判然と
しない。

 

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確かに芭蕉さん」の場合、当代一の「俳諧師」で、なにか近寄りがたい、凛とした、オーラが彼の存在を包みこんでいるのは同意する。
では、句を含む、全体像はと聞かれると、何故か疲れる。
一方、「蕪村さん」はと言うと、全くの「等身大の生身の人間」の近しさを憶える。






今日の記事は、「蕪村」の人物・句評など、専門家が、あまり言及されて
いない方向からの
もので、少々我田引水的で強引なところもあるかも知れぬ
が、付き合って欲しい。


まあoldboy君が自身「プロフィール一行紹介」で言っているように
グータラ人間」であることを自認しておいでなのだから。「完全無欠」
なお人は、チョット遠慮の気持ちが優先する。
そう、世間で言う「肌が合わない」と言うことかも知れない。


また「芭蕉さん」は自身の「句作」への姿勢を、
「自分の句は、全て辞世の句のつもりで詠んでいる」とも、おっしゃている。
それ故、彼の句は「一句、一句が研ぎ澄まされた感性と緊張を強いられた
ものの
産物」と言うことになる。

oldboy君、もちろん、このようなお人芭蕉さん)の存在は「偉大にして、
必要
ならざる時代の傑物」であったことに異論を唱えるものでもない。

oldboy君、俳句の専門家でもないし、自身(指を折ながら)、句を作った
こともない。そんな彼でも、強く印象に残ったものや、頬を緩めたり、
タニタすることぐらい、許されても良いだろう。

                 ★★2
     与謝蕪村は、俳句はもとより・画・漢詩漢籍の素養、など幅広い

             文人としての存在が魅力。
 
                   句
             草いきれ人死居ると札の立つ
           くさいきれ ひとしにいると ふだのたつ


じつはoldboy君がずっと以前から「蕪村」の句で、好きと言うのか、印象に
残った一句がまさしくこれである。

それが
草いきれ人死居ると札の立つ」   
くさいきれ ひとしにいると ふだのたつ
                     この句であった。
意味はおよそ次のようなものである。

むせる様に、生い茂った夏草の中を歩いていると、「ここで人が亡くなり、
その屍(しかばね)が横たわっていますよ、と教える白木の立て札が立って
いた」となる。

与謝蕪村、旅の途中でのハプニングである。
おそらく彼、一瞬「ギョッ」とし、立ちすくんだはず。

oldboy-elegy君、いつこの句に出会ったのかは、覚えがない。
ただ、俳句らしからぬ句面(くづら)からか、自身にも「心穏やかではない」
印象が残り、
記憶したのだと思う。

「蕪村さん」の「心象」のインパクトがそのままoldboy君の体に住み着いた
瞬間でもあった。

 
ただこの解釈、もう少し穏(おだ)やかなものもある。
およそこんなものである。

「匂い立つ、くさいきれの中を歩いていたら、眼前に白木の札が立っていた。
そこには、ここで亡くなった人が居たと書かれていた」と言う穏やかな
ものだ。    
       
ようするに、この場所には遺骸はなく、卒塔婆(そとうば)や告知板の
ような
札が立っていた、とする解釈である。
卒塔婆とは お墓の横や後ろに立つ、「五輪の塔」を模した、白木の
立て札ようのもの。死者の来歴などを、墨書したもの。
サンスクリット(古代インド語)のストゥーバの音が卒塔婆(ソトーバ)
になったと言われている。
時代劇や漫画などでは、ここに破れ提灯が灯り、火の玉が揺らいでいる場面
なら憶えがあるかと。

             ★★★3
  あとの緩い解釈を唱えた人には、oldboy君、賛同しかねる、立場である。


何故なら、この荒れた道で、屍(しかばね)を除き、葬った後、わざわざ
卒塔婆
や「白木の札」を立てるか?なにか不自然さを感じる。

さらに時代を考えて欲しい。
与謝蕪村は1716~1784の人である。
(江戸期は1603~1868年の265年間)

この間、「蕪村さん」は大坂から江戸に、芭蕉の足跡を追うように、居を移し、
旅を
している、とされている。

「蕪村」若干、二十歳前後のことである(彼、士分でなく、大百姓の子弟
とも推定されている。
このこと、いろいろの条件から、消去法で推察されているに過ぎないと、
oldboy君は思っている。


町や村はそこそこ安全だろうが、それを繋ぐ街道や山道などは危険な時代で
ある。
それに蕪村の時代、大きな飢饉が2度ほど襲来している。
つまり、江戸時代とは、町人文化(元禄・化政文化)などの華やかさと飢饉
などの
天災が交錯した時代でもあった。

享保の大飢饉(中心年1732年)蕪村、大坂から江戸に出た頃か
天明の大飢饉(1782年~1787年)蕪村死去1784年 大飢饉に遭遇

そのうち天明の大飢饉は、全国規模で5年から6年に及んだらしい。
東北の盛岡藩などは、35万人のうち餓死者は6万人以上とされる。
25万石の藩が数年にわたり収穫量ゼロであったらしい。

また大都市、江戸・大坂での米蔵(こめぐら)打ち壊しなども発生、併せて、
旅を考えるなら当然、野伏、盗賊、追剥などに遭遇することも、ありうると
考えるほうが 普通だろう。

もう一つ、グーグルの検索スレッドから、見ても,この句に対する、関心が極端
に低い事は先にも書いた。

蕪村」の有名な句とされるもの3句
1 ●なの花や 月は東に 日は西に
2 ●春の海、終日(ひねもす)のたり のたりかな
3 ●五月雨(さみだれ)や 大河を前に 家二軒
      と
4 ●草いきれ 人死居ると 札の立つ 
 今日の記事の引き込みの句 
        
「蕪村」超有名俳句1~3に比べると、4は余りに異質なのかが分かって
頂けると思う。


oldboy君、初めて、この句を目にした時、恥ずかしながら、こんな情景を想い
だした。

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oldboy君、ヘビが怖いのだ。

ホンにいい歳して、からっきし
意気地がないのである。


母の手に引かれ、鹿児島にいた頃
谷底に通じる細い道筋に1本の大木が屹立していた。

この木の根っこの茂みに、一匹のヘビを見つけたことがある。

やけに細長く、その上その色が実に毒々しいものであった。
頭から、その細い体の半ばくらいまでは赤や黒、青、黄などの燐光で占められ、
そこから尾先までは土気色一色のままの、気色悪いツートンカラーであった。

読者諸兄はそんなヘビなんか見たことないぞ、と即刻否定されると思うが、
その残像が今でもキッチリと記憶しているから仕方がない。

「ヘビ・九州南部、体長1.5m?位で細い、頭部の色調・非常にカラフル」と検索
したいがoldboy君、今でもその勇気はない。

笑うなかれ、「蕪村」の「人死居ると・・・」とoldboy君の「異相のヘビに
遭遇・・」
が頭の中でシンクロして、「ギョッ」としたのが本当のところ。

この場の光景、「蕪村さん」一瞬ビビリまくって「ギョッ・・」するのだが、
その様子、なにかしらのユーモラスな感覚も、何処か「余韻」にある。


                 ★★★★4
         oldboy-elegy君が「蕪村さん」を人として好きな訳
           彼の俳句・艶っぽく、色物もけっこうある、
             句作に向ける彼の姿勢は自然体
              人間これで、なくっちゃ~

 
  今日の記事の中で、ここまで4首、蕪村の句を上げさせていただいた。
ここへ毛色(けいろ)の違う句、2首、追加さしていただく。

それら6句を眺めてみると、oldboy君が言う、彼の人と成りの全体像が彷彿
できると、思う。

 
それでは、その6つの句を並べてみる。

1●なの花や 月は東に 日は西に
 「蕪村」あまりに有名な句。
 oldboy君、塾教師をしていたおり、理科の時間に月齢(満月・新月・・・)
 など天体の動きの説明にこの俳句を持ち出していたことが懐かしい。


2●春の海 終日(ひねもす)のたり のたりかな
 「のたりのたりかな」白波一つないゆったりとした波、春の海ののどかさ
  を、自分なりに感ずればOK

3●五月雨(さみだれ)や 大河を前に 家二軒        蕪村の句
    五月雨を あつめてはやし 最上川     は有名な、芭蕉の句である
 当然、時系列的には、芭蕉のこの句が先にあり、蕪村はこの句を知っていた上
 でのものであるはず。
 蕪村の句が絵画的である、と言う時など、よくこの二つの句が並べられる。
 ※五月雨 旧暦5月、新暦では6・7月の梅雨時の季語。
  
4●草いきれ 人死居ると 札の立つ       今日のトッカカリの句
 ムッとする、夏草をわけわけ歩いていると、立て札があった、そこには
 「ここには、死んだ人の亡骸がありますよ」と書かれている。
 俳句としては「異質」の題材である。

5●あちら向きに 寝た人ゆかし 春の暮   追加分 oldboy君の好みで
 芭蕉には見られない、艶っぽい句をいれさせていただいた。
 ここらあたりが、oldboy君が蕪村さんを好む理由でもある
 悲壮感など、微塵も感じれない。
 蕪村には、この手の句作は結構ある。

6●学問は 尻から抜ける ほたる哉     追加分 oldboy君の好みで
 ここはひとつ説明なしと言うことで。
 ホタル(季語)が無ければ、川柳(せんりゅう)と見紛う、楽しさがある
   
さて、傾向の違う6句を見ていただいた。

「蕪村」さん、基本oldboy君の根っこにある性向とさして変わらぬ御仁と思う。
その理由を分かっていただければ嬉しい。

読者諸氏も、この中から自分に会った句1っ、暗唱できるば、チョットした、
人生の隠れた、自分だけの糧(かて)になるかもしれない。

oldboy-elegy君の推奨はもちろん、5番か6番である。


            ★★★★★5
  「蕪村」さん、案外時代を気楽に、楽しく生きた人だと想像する。
   ましてや、自分の名が、この了和の時代にも残り、輝いていることを
       知れば、なんとおっしゃるか興味深い
    


実は、明治期に入るまで、存在は知れていたものの、芭蕉さんのように、
当代一流の俳諧師、文化人としての存在感は少々薄かったお人のようだ。

だが明治期以降、彼の名声が急上昇、ついには芭蕉さんに比肩される
までになる。
これには、正岡子規萩原朔太郎川端康成 達の肩入れが大きいと言
われている。

 

また画業では、終戦後1951年(昭和26年)に1帖(池大雅と競作)、
もう一つ
2009年(平成21年)には「淡彩+墨画28×130Cm)の2点が国宝に新たに
加えられたのである。


oldboy君が思うに、もし「蕪村さん」が存命なら、これらの事で、
こう呟いていなさると思うが、どうだろう。

「フンそれで京都の色町に、金子(きんす)気にせず、登れるのかな」と。

ここでoldboy君、蕪村の俳句以上にあれこれと、持ち前の反骨精神が鎌首を
持ち上げ始めたのである。


●彼の生誕の地は「摂津の国・毛馬村」今の大阪市、都島とある。
彼は豪農とは言わないまでも、富農の息子だったとされる。

「この富農のせがれ」、実にいい加減な言葉で、殆んど根拠がないのである。
なぜそうなったかと言えば、彼は20才前後で大阪を離れ、ほぼ世界一の人口
を誇る江戸に転居、その先は「芭蕉」生前の頃の弟子の孫、これも俳諧師
元に
身を寄せたことになっている。

つまり、江戸までの路銀(旅費)や日々の暮らしに掛かる費用等を考えて、
出て来た言葉が「親は富農」でありと、単に後付けの感が強い。

そこでoldboy君が思うのが、「蕪村さん」この青年は、江戸は、「大坂より
ビジネス
チャンスがあるだろう」、と考え、自立した個人として江戸へ出立した
ものだと考える。

その第一の理由が彼の飛びぬけた「画力」にあったはずである。
こればかりは、励んでも、願っても、簡単に、上達するものでもない。
基本、才能が要求される芸域なのだ。

第二の理由が、漢詩漢籍・の知識が豊富で、書も旨い。
つまり、これらの知識は、俳句に添える「俳画としては、全て必要なもので
ある。
きっと、粋者の俳諧師や商人たちは、自作の俳句の「俳画漢詩」などの
「添
書き」を競って彼に注文した様子が目に浮かぶ。

さあ、ここまで来て、彼の不足の部分が、見えてきたのではないか。

それは、「名声」 である。
画・書 の技量も、漢籍漢詩 の知識もあるなら、あと不足するのは、己を
売り出す「名声」のなさである。
「さあ、どうしたら、この世を、自分の能力と腕一本で世渡りできようか」
蕪村が考えたのは、当然な事である。


ともかく蕪村20才のころとは、芭蕉没後50年あたりのころである。
俳句は大都会・江戸文化の一翼を占め、豪商・豪農から士族の精神的
ステイタスとされるものでもあった。

蕪村の考える、個人ビジネスを、ある程度自分個人で完結できる方法が一つ
ある。
自分みずから、俳句、俳諧の世界に飛び込み、俳句の添え書きに利用される、
俳画・書・漢籍」を提供しょうと思い立ったのだと思う。
もちろん有料でだ。

彼の基本的マインドは、そう、大坂人である。


どうせ江戸に出るなら、あの俳聖と言われる、芭蕉の弟子であったお人の、
孫弟子
に縁を結び、その方の俳句を通じて多くの知己をつくり、俳句の力は
まだ多少未熟でも、俳画
添画・書画・漢籍・を売り物にすることなら
自信がある。


これが彼の「江戸へ出るための計画的ロードマップ」であるように思えてくる
のである。


こうして、彼「与謝蕪村」の萌芽がスタートしたはず。

ただ、蕪村と芭蕉の決定的違いは、蕪村は自分の仕事の内に芸術的、
高見を目指した人
ではなく、一文化人として、人生を楽しんだお人だったと
思う。

このあたりが、芭蕉とは決定的な相違点であり、oldboy-elegy君が「蕪村」
に強い親和性
を感じる由縁かも知れぬ。


          
それでは、記事中に出た「蕪村さん」らしい2句を再掲して、終わりとする。

         あちら向きに寝た人ゆかし春の暮

         学問は尻から抜けるほたる哉
                         蕪村

以上、今日の記事も、いつものoldboy-elegy君らしく、「独断と偏見」で
もって語っている、ことに変わりはない。

しかし、「蕪村さん」としての「人生」と「立ち位置」はoldboy-elegy君が
今日、記述した事が、より真実に近しいものだと、内心で自負している。

少々長くなったが、終始「ニヤニヤ」「ニタニタ」楽しく書かして
いただいた。

          では では 今宵もこれで失礼する


                                                           了 

                             oldboy-elegy


 

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