oldboy-elegy のブログ

ずいぶん長きにわたりグータラな人生を送ってきたもんです。これからもきっとこうでしょう、ハイ。

oldboy-elegy (16)  石畳、路地奥「インデラ・コーヒー・カレー店」の脇を子供達の集団が歓声とともに、白いケム(けむり)の精霊となり走り去った

 

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 このイラスト画像、この雰囲気、右端の丸椅子に腰を下ろしコーヒーをすすれば、oldboy-elegy君の50年前の姿そのものである。
なぜ画像の右端かと言うと、ここが行き止まりであるため人が通ることは無い、その上、壁に身を預ける事もできる。この並びに丸椅子は4脚、あとカウンターの左端から鍵型に奥に向かって折れ、そこに2脚とコーナーにもう一人分、計7人分、これで全て、当然別個にテーブル席などないし場所もない。
ただし満員のおりの非常用に椅子が別に2脚用意されているが、これが使用されている場面にoldboy君、遭遇した事は無かったように思う。
店員さんはナシ、ママ一人で切り盛りしておられた。
店の2階が彼女の居住区である。
背は、ガラスの格子窓、その向こうは石畳みの路地になる。

 
「ママ」は当時で50過ぎのふっくら、丸顔、美人ではないが好感が持てるお人であった。
当然彼、ママの名字、名前もキッチリ今も記憶にある。

 oldboy君、この店との成り染が、何故かはっきりしない。
ただこの辺り、幼少の頃からの「訳知り」裏道で、人通りが多い商店街を通らず、この裏路地を利用していたのである。
oldboy君にすれば、家から駅方面に出るための「ショートカット」メイン通りである。


 すぐそばに「真宗系」の大寺があり、門前の立派な石段はガキンチョ(こなまいきな子供達)のある意味「集団博打場?」であった。

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●上記掲載のイラスト画像
 子供達がべったん(めんこ)で遊んでいる様子である。
一番基本形である「裏返し」(または単にかえし)とoldboy君達は言っていた。
一枚ずつ出し合い、交代ではたく(自分のべったんで、相手のそれの下に風を送り込
む)、裏返しした者が勝ちで、負けたら、自分のそれを失う。
一見、単純そうに見えるが、奥は深い。


   この寺院の石段はべったん(めんこ)の気合の入った他流試合の主戦場なのである。
まあ、昨今なら「べったん甲子園」というべき場所である。

 参加者は5~6人の1チーム編成で学年も低学年の子から最上級生まで、双方の状況に合わせて「柔軟」にメンバーを組む。
時には、近隣の街、町内併せて6~7チーム、人数にして50人ほどの員数になることもある。
当時、遊び仲間は同学年同志で徒党を組むことはなかった。
小学生の場合、1年生から6年生までが1グループを成し、上級生が下級生の面倒を見ながら出来るだけ行動を共にしていたように思う。
もちろん、これらの中には、大人は一人もいない、すべて自分達だけで仕切るのである。
べったん(めんこ)と言えど、彼等にすれば、「命の、次の次のもう一つ次ぐらいの大切なものである、これを勝負で掛け合うのである。

 場合によっては「血の雨が降りそうな」双方、険悪な状態になることもある。
しかし大ゲンカの乱闘騒ぎに、至った事はない。
何故かって?!!。
それはsafety device(安全装置)が存在し、それがきちんと働いていたからである。
そのdevice(装置)とは、我がチームの長、勇吉(仮名)の存在である。

 勇吉の家の商売は「香具師・的屋」の親分である。
この地域に真宗系の大寺が2つある。
これを結ぶ参詣道に「お逮夜市・おたいや」と呼ばれる市(いち)が月2回(11日、27日)立つのである。
「縁日」ではあるが、遊びの要素より、もっと「生活感」が強く前に出た、いわゆる「市が立つ、の市」で市場(いちば)に近い感覚である。
戦争直後の必然の形かもしれない。
生活雑貨、古着、農具、種苗、各地の漢方系の薬、名産食品、それに射的、ヨーヨー、金魚すくい等、それに今でゆうところのストリートフードなどが混じり簡易店舗を設営し、それぞれ独特の口上(商品の効能等の宣伝文)で呼び込むのである。
「これではお昼の弁当のおかずが足りまっしぇん、卵3個4個、これでは家のオゼゼ(お金)が火の車・・・・」これは卵焼きの増量パウダーを売るオネーさんの口上である。

 参詣道の表通りはもとより、脇道、裏道から路地、ちょっとした空き地には怪しげな小屋が、どれほどの数の的屋(てきや)がここに集まっているのか想像もできないほどの賑わいである。
遠くは大和(奈良)あたりからの参詣人も多い。

 母などは、自分の故郷・鹿児島の味、かちわり黒糖(サトウキビから生成)を買うためだけに市(いち)に出向く、用のある時などoldboy君、お使いとして頼まれることもある。
その折おばさんが、「母ちゃん元気か~」と言いながら、黒糖の2、3欠片(かけら)をおまけに頂くのが常であった。

  勇吉は寺の石段のべったん大会には、選手として出た事がなっかったと思う。
「勇吉さん、これキッチリ2ッチンになっとるけ」「この親札、油塗りすぎ違うけ」
「6枚もんの親札は最初だけやぞ」「小ふだに蝋塗ったらあかんやろ」などなど、
最終判定を勇吉に委ねるのである。
彼の偉いのは、出身母体の我々のチームにも1寸たりとも依怙贔屓(えこひいき)することは決してなかった事である。
みんなが彼を最終審判者と認めているのは、彼のこのような普段の振舞いにある。
●用語説明 「2ッチン」2枚重ねるの意味で、石段の前部に重ねた大量の「べったん」を「親札」の大きな「べったん」でハタキ、下の石段に飛ばす、2枚重なった時が勝ちでその分だけを貰え、べったんが無くなるまで戦う。

 よくよく考えてみるに、勇吉の爺さんや父親は、香具師、的屋の元締めとして寺を始めあらゆる利権に関して不平、不満が出ない事を第一義として、双方を取りなす、公正さ、信頼、最終的には有無も言わせぬ強面(こわおもて)な迫力など、なまじっかな力量で務まるものではないはずのものである。

 こんな折(べったん)の勇吉は本人が家の環境に身に置くうちに、知らずのうちに
身に就けたものかも知れない。
ここでは、「べったん」の遊び方やルールを説明するものでもない、いずれ適切な場面があった時には別途、紹介するかもしれない。

 さて、「インデラ・コーヒー店」との成り染だが、後付けだが思い当たることがある。
この路地の真ん中あたりに1軒の花屋があり、店の屋号は忘れたが、店主の「ハルさん」には随分とお世話になった。
インデラコーヒ店とは10メートル程度しか離れていない。
oldboy-elegy君、人生初のアルバイトが彼の元でのもので、多分、中学2年の夏休みのことであったはず。
この事が「インデラ・コーヒー店」との縁であったように思うが、これしか思いつかないのだが。

 そのアルバイトの内容が、花屋とは全く関係のない「氷運びの助太刀」である。
ハルやん、まだ30才前の独身青年で、男前且つ、爽やかな人であった。
朝早くから三輪ミゼットで花市場へゆき、店に帰って大急ぎで下準備、販売はおばちゃん(ハルやんの母親)に任せ、
自身は俺をミゼットの荷台に乗せ製氷会社に、デカイ氷柱を何本か乗せ、町中のかき氷屋さん、甘味処、駄菓子屋さんに小分けしながら卸していくのである、真夏のこととて、とにかく時間との勝負である。

 そのおりのエピソードを一つ、
氷と俺を荷台に乗せ町中を走行中、〇〇信用銀行の横の裏通りに入ろうとした時、ハルさん自慢のミゼットが何を感じたのか「オットット!!」と右斜め前方に「コロリ」と転倒、日除けむしろとともに氷を道にぶちまけた。
一方oldboy君、超 スローモーの転倒が幸いしたのか、転倒したミゼットの脇にすくっと仁王立ち、ハルさん、薄い鉄板のドアーを持ち上げ「怪我ないかー」のありがたいお言葉。
しかし、これをビルの高見から見ていた信用金庫の女子職員、けが人がないと分かると口を押え、笑いをこらえている人もいる、余りに迫力のない自動車事故、こちとらは何故かこのことが気恥ずかしくもあった。
横転した車を起こすのも、銀行の職員さんが2,3人介添えしていただいたので、oldboy君など、力を入れるまでもなく「スック」と起き上がり、元の「雄姿」を寸時に取り戻したのであった。
もちろん、「氷」以外実害はないようで、警察には報告しなかったようである。

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 「べったん」もそうであるが、月2回の「お逮夜市」も「悪ガキども」の人気の遊びフィールドである。
寺の石段脇には、羽織はかま姿の傷軟膏(きずなんこう)売りの、ちょんまげはないが、サムライがいた。
脇には赤茶けた木製の漆塗(うるしぬり)りの刀置きがあり、そこには黒っぽい大刀が一振り本物然として掛けられている。
口上では「さあー抜くぞ、やれ抜くぞー」と言いながら、ついぞ抜いたためしがない。
それでも子供達は茶化すことはしない、何故なら、刀がもし本物だったらの思いを捨てきれてないのである。

 当方、お逮夜市(おたいや)の様子を記事にしたブログもある。
この記事の最下段にリンクを張り付けておくので、よろしかったら見ていただければ嬉しい。

 何十年も後に、この商店街を妹と落ち合い「インデラ・コーヒー店」の方角に歩いたことがある、oldboy-elegy君のリクエストである。
因みに、彼女は他県に嫁いでいる。
駅からここまで、子供はおろか、人の行き来そのものがほとんどない。
「兄ちゃん、この通りさびれたな~」の妹の一言。
ときおり、商店の店頭脇に「お逮夜市・おたいやいち」と染められた昇り旗を見るが、余計に侘(わび)しく、ウラビレた感覚に陥る、子供の頃のあのキラキラした陽光はもうない。

 oldboy君の幼少の頃の行状、振る舞いを見るなら、随分とこの街に溶け込んでいるように見える。
しかし彼がこの地、大阪は河内のど真ん中に母の手に引かれてやって来たのはそうそう前のことでもない。
oldboy-elegy君の名字は母のもので、親父とは違っている、私生児と言う事である。
まあ、言ってみれば、お妾さんが男の子を一人連れ、押しかけて来たと言えば分かり良いのかも。
因みに俺、小学校1年の、6月か7月かの途中入学であり、学校なるものの初体験であった。したがって幼稚園は知らない。
この間、随分と母と親父の間に葛藤があっただろうことは想像に難くない。
親父には先妻、イヤ本妻との間に男の子ばかり、3人がいた。
3人の義兄もすでにこの世の人ではない。

 その辺の事は、ブログ・プロフィールに少し書かせていただいた。
妹は、こちら・大阪の生まれで、oldboy君とは7才違いである。
それから随分と年月がたった、彼の心の内でのデラシネ(フランス語で根無し草・故郷の無い人)感は今も続くが、親父を憎いなどこれぽっちも思った事はない。
むしろ良くやった方かもしれない。
父も大阪の人ではない、学歴も尋常高等小学校卒で自身の才覚だけで生き抜いた人であった。
遊びも「ビリヤード」「ダンスホール」「おしゃれ」と所謂「モダンボーイ」を地で行った人である。
亡くなったのは「行年100歳」となっている、苦労も多かったが、人生を大いに楽しんだように思う。
●因みに、「デラシネ」なる言葉は大昔「五木寛之」さんの小説で仕入れたものである。


 今は、妹を除いてだれもこの世の人ではない、ましてや顔見知りや親交のある親戚などは皆無である。

商店街を「インデラ・コーヒー・カレー店」があった近くまで来たが、もう「歩・ほ」が進まぬ。
oldboy-elegy君、この閑散たる通りの佇まいを見て、感じて「いまさらなにも」の気持ちが湧きあがってくる。
今ここで「インデラ・コーヒー・カレー店」の残滓を目にしても決して心地の良いものではないことは想像に難くない。
oldboy-elegy君のelegy(エレジー・哀しさ)のまま、そっとしておくのが最良であると感じた。
「〇子、もういいわ駅に戻ろ」と兄は妹を促した。
走り去った子供たちの「歓声」は今はもうない。

 高校時代、アルバイト代が入ったおり、Tenko(同級生の女性)を誘い幾度か「インデラ・コーヒー・カレー店」に来たことも思い出していた。
7才年下の妹は、この女性のことは知る由もない。
----(oldboy-elegy 9)で既出。

妹は高校の演劇部で役者ではなく「裏方」をしながら、理論指導をしていたらしい。
その彼女の愛読書が「ベケット全集」であった。
一度、こんな彼女を誘い、京都大学西部講堂前広場での「唐十郎・テント劇場」の公演を見に行った事がある、演目はたしか「ベンガルの虎」だったように思うがさだかではない。

  

「おとなは、だれも、はじめは子供だった。

しかし、そのことを忘れずにいるおとなは、

いくらもいない」    星の王子さま by  サン・テグジュペリ



               了
            oldboy-elegy
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子供の目線から見た「お逮夜市」と「彼等の行状」を、楽しく書いた記事である。
卵焼きの増量パウダー屋さんの、呼び込み口上(宣伝文)を何故憶えていたのか、笑ってしまう、もっと必要なことがあったろうに。

 

 

 

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