oldboy-elegy のブログ

ずいぶん長きにわたりグータラな人生を送ってきたもんです。これからもきっとこうでしょう、ハイ。

(雑感・雑記帳 No.23・上)ある意味、日本人って昔から、英語、得意だったんじゃない!!??と、いつもの彼らしく、独断と偏見でもって語ってみた。

                    始めに お知らせ


この記事、書いたのは良いが、字数が8000字を余裕で超えてしまった。
始め、文字数を削ることを考えたが、言葉が飛んだように感じて、難しい。

結論として、下記のように2分割にした。

雑感・雑記帳 No.23)現記事
(雑感・雑記帳 No,24下)タイトルは同じ 投稿日 10・20ごろ


の2編として、今日の記事に続けてUPすることにした。
少しでも興味のある方は、このことを踏まえて、読み進めて欲しい。



               前書き


※今日の記事では、戦争・紛争などが原因で他国や地域に移民、移動する
人達のことは除外して語っている、
そしていつものoldboy-elegy君らしく、「独断と偏見」をもって
書かれて
いる、ことは言を待たない。



(雑感・雑記帳No.23・上)  本文


● 日本って、世界一の外国語(英語を始め、多くの言語)の翻訳国家
      であり、今もそうである。!?

ここで「英語圏」の人が「英語本」を出版することは当然「翻訳」とは
言わない。



 言葉(言語)の基本要素は「聞く・話す・書く・読む」の四つからな
っている。

注 この記事で言う「聞く」とは英語で言う「listening・リスニング」で「hearing・ヒアリング」
のニュアンスではないことを初めに断わっておく。


だが
、地球上のある地域では(書く、読む)が未発達で「聞く・話す」
のみで生活している人達の共同体がわずかではあるが存在する。
しかしその逆の「書く・読む」だけで生活する共同体や人達はいない。


してみれば、人類の「文化的・文明的」進歩は当然、「話す・聞く」が
、まず「最初にありき」であったはずである。

「聞く・話す」の基本は赤ん坊、幼児の置かれた、生活環境と社会環境の中で
育まれ発達して行く。

「書く・読む」は共同体の中で自然に備わるものではない。
全て、「意図的・恣意的」なもので、その高度化は「STUDY・学習」に
よって
獲得されることになる。

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はたまた、oldboy-elegy君、読者諸氏のヒンシュクを買うであろう、自前の下手な文字画像をUPさしていただいた。

左傾のそれは、日本人の「英語」に対する、
一般的な能力を示したものである。
言うまでもなく、日本人の全ての人がこうであると、するものではない。
すべてRATIO(比率・割合)の問題で、この傾向が顕著であると言うことだ。
もちろん、そうでないお人も大勢おられるのは知っている。





英語を「聞く・話す」はカラッキシだめでも、「読む・書く」は(コンサイス
辞書と時間」さえもらえば、そこそこ「やれる」と自負する人は大勢おられる
と思う。
そこへ英英辞書があれば、なおさら良い。

oldboy君などは、両方ダメダメなお人ではあるが。

この国(日本)の歴史は中華圏や英語圏の優れた文明(科学)を始め、あらゆる
文化的
概念を「日本語化」して、日本語のみで恣意、思考することに成功した
稀有な民族で
あり、国なのである

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大昔、もともと「聞く・話す」だけで、「読み・書き」を持たなかった
我々の祖先は、やがて(中華圏)から渡来した(漢字)の発音を借りて
自分達の話し言葉やまと言葉)に初めて「書く・読む」の原型を付与した
のである。

ここに、言語の4要素(話す・聞く・読む・書く)の最低の「必要条件)
の雛型(ひながた)を得たことになる。

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爾来1千年以上「万葉仮名・ひらかな・カタカナ・漢字語」などを発明
しながら、緩やかに「読み言葉・書き言葉」を発展させ独自の文化を
育んできたのがこの国なのだ。

江戸時代、中期前に「元禄文化」、後期には「化政文化・文化文政期」の「2大
町人文化」が、この日本語を基に(もと)、花開いた。

なお誇らしいのは、欧米・中国に置いて「読み・書き」を必要としたのは、
主に「高位・官職・文化人」のエリートたちであり、庶民の多くは文盲で
あったとされる。
 
●徳川期の日本文化と日本語の進化

徳川期の身分制度は実質的な身分制度ではなく、単に職能区分に近いもので
あったとする説もある。
士農工商」で、ある意味、一番恩恵を受けたのは、真逆の「商工農士」の
順であった、する見方もある。

江戸元禄文化以降の学びの場は多様で、
藩校・郷校・私塾・寺子屋・サロン(同好の集まり)・などがあった。
江戸・大坂・京都 などの都市部では70%を超える識字率であった、とする
学者もいる。

だからこそ、瓦版(今で言う、新聞や号外)の発行、と言うビジネスも成立
したのだろう。
その読者の多くは、物見高い市井(しせい)の人達であった。

藩校などは、藩士の子弟のみが入学を許され、江戸時代後期は別として、
カリキュラムは、四書五経漢籍の読み書きや暗唱・暗記が中心であった。

一方、藩校・郷校、以外の教育施設は「士分」とは関係なく、親たち、本人の
才能・情熱・趣味と多少の金銭があればが叶うものだ。

この辺りからして、欧米や中華圏の事情とは全く違う。

英国の庶民は今日でも、経済・行政の中心である「シティ」のエリート達とは、
明確な差別は無いにしても、「鼻もちならない、目に見えない壁がある」と
何かで読んだこともある。

この国、日本では、日本語は、人の身分を選ばない、むしろ江戸中期以降には、
支配階級であるはずの「武士」が一番、未発達階層であったように思う。

こんなエピソードもある。
どこの藩の殿様か失念したが、参勤交代の帰郷のおり、
自国の近くまでやってきたが、そこで「路銀・旅の為のお金」が果て、家老に
自らの城下の大商人に金の無心を頼む手紙を持たせ、馬を走らせたそうである。
これなど、身分制度が実質的には形骸化していたのかもしれない。

●翻訳は「通史・通訳を職業とする人」ではなく、それぞれ、翻訳本を必要
とする「専門家」が行っていて、漢字を利用した見事な造成語が作られて
いき、蓄積されていった。

例えば、「杉田玄白前野良沢」が著した「解体新書」などがそうだ。

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(上掲のお人は「杉田玄白」さんのイラスト画像)

明治期には約3000人ほどの外国人(主に英語話者の)技術者が教師として
高給で雇われ来日したそうである。
当然、彼ら、それぞれは、幾冊もの自国出版の学術・技術書などを、たずさえ、
持ち込んで
来たはずである。


こうして、新しい言葉は、書物の中だけでなく、「話し言葉」の中に、落とし
込まれ、普通の日本語として、会話される。
この時、当然、この言語の元が「欧米の言語」であったことなど関係はない。

そして翻訳・出版は明治に入り、ますます加速する。


膨大な翻訳本の存在は敢えて庶民それぞれが英語(他言語も)を知らなくても、
日本語書籍(翻訳本)から、外国の優れた文明・文化を日本語で読み、議論し、
やがて、日本語化する。

そのぶん、英語(外国語)の「聞く・話す・読む・書く」の「総合力」と
してのコミュニケーション能力は未発展のまま現在に至ったのかもしれない。

このためか今でもOECD国家群の中で、日本の総合的英語能力は常に最下位
付近にある。

一方、明治期なかばには、西洋言語のあらゆる概念を、日本語で表現する
ことが可能になった、のとはウラハラに。


日本の場合、あらゆる英語情報が膨大な翻訳作業の結果、日本語として表現
されるに、至ったのである。

この作業は今も、モクモクと続いている。

世界にどれだけの種類の言語があるかはしらないが、その自前のネイティブ
言語のみで、欧米社会の持つ、発達した文明・文化の概念を表現できる
国家・民族 は欧米諸国を除くと殆んど
存在しない。

今、英文で書かれた、すごく面白い小説が出版されたとしょう。
数か月後には、日本語に翻訳されたものが、書籍店に並ぶ。
そして「英語・他言語」を全く知らない人達も、これら翻訳本を手に
して読み理解することが可能になり、その恩恵に浴する。

そう、日本人の場合は、世界のあらゆる知識を英語ではなく、日本語で読み、
考えることが可能なのだ。

英語の、科学技術用語から哲学・文学・などの、あらゆる概念に対応する
言葉が、長年の蓄積により日本語には備わっている。


そう、英語で考え、感じる、その作業を日本人は日本語で可能なのだ。

例えば、アジア圏のフィリピンはタガログ語や、島々には多くの現地語が
存在するが、高度な英語言語をそのまま自国語で表現することは難しい。
そもそも訳される言葉が自国語には存在しない場合が多々ある。

化学技術や政治・経済・法律の高度な用語を、ネイティブ語に置き換える
ことが、ほぼ不可能である。
てっとりばやく、英語能力の高い人が、原語で読むだけで、社会的な広がり
を期待することはない。

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従って、自分達がもともと持っていた言語のみを公用語として使用するのが
難しい。
そのため、世界に通用する、英語を公用語としているが、同時に、フ
ィリッピン語として、タガログ語は生活用語としての言葉と同時に公用語
としての地位にも留め置かれている。

タガログ語公用語として存在する理由は「民族としての自尊心と自負
のためだと言われている。

同時に小学低学年からあらゆる科目を英語で履修する。
そのため英語のネイティブ化が国力発揚と国民一人一人の、よりよい生活を
保障する「必要条件」となっている。

ゆえに、英語力(聞く・話す・読む・書くの総合力)は日本人と比較しても、
格段に進歩している。


いっぽう日本人の場合、英語の持つあらゆる概念が、先人の努力により
日本語そのものに備わっている。

彼等(フィリッピン人)の場合、高度な単語(科学用語など)を完全に置換
される自国言語はない。

そのため英語の発音と言葉の概念が、自国言語のタガログ語を経由していないのだ。

日本人は普段の生活言語から、科学・政治・経済・法律・音楽・詩歌など
およそ人間が考えうる全ての文明・文化領域を日本語のみで表現でき、ほぼ
自己完結できる、良し悪しは別にして。

以上、フィリッピンの例を述べてきたが、言語・民族の良し悪しを論じているもの
ではない事は、了解しておいてほしい。

日本人ノーベル賞受賞者も、その殆んどの人は日本語で思考しているのが
普通である。

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単語の一つ一つに英語を使用することはあるだろうが、思考回路は日本語
そのものがインプット・アウトプットされている。

ノーベル賞受賞者の「益川先生」など、この日本語に対する「賛美と感謝」を
受賞公演でも述べておられる。


余談だが、
近頃、oldboy君などの知らないカタカナ用語や日本独特の短縮系の言葉が
たくさんある。
たとえば「アコギ」など、当初「あこぎなまねはするな」の「あこぎ」と
oldboy君、思ったが、どうも違うようだ。
使用する場面から見るに、名詞形である。

分らないままでは悔しいので、検索してみたら、どうも「アコースティック・
ター」のことらしい。
これなど、正しい英語表記を崩した「日本語」と理解するのが正しい。
oldboy君、もし、この言葉「アコギ」を使う場面に遭遇しても、使う
勇気は持ち合わせていない。

そのほか「ブコメ」「ウパトレ」などたくさんあるが、いくら考えても
解らぬ、敢えて調べていない。

マ~、歳を取り、記憶容量が減少傾向にあるoldboy君に負担をかけたくない
ので、近寄らずにおくことにしょう。

断わっておくが、非難しているわけでもないことは了解してほしい。


      それでは、今日はこれまでとする  では では

               続く
                oldboy-elegy

以上ここまでを
 (雑感・雑記帳 No.23・上)として投稿した。

次回は
 (雑感・雑記帳 No.24・下)タイトルは変わらず、
  10月20日ごろ投稿、
結論づける、予定。


       

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