oldboy-elegy (53) 怖かった落下する夢(もう見ることの無くなった今)は、成長するための対価として失ってしまったのか?
★1 新年おめでとうございます 今年もよろしく oldboy-elegy
西暦2022年も令和で言えば、早くも4年の新年になった。
なにか、正月らしい、おめでたい話でもないかと思案するが、これと
言うものもない。
先年暮れの、100記事投稿・達成も、はや過去のこと、時間の経過の
早さも、およそ無慈悲に風を巻き上げ、通り過ぎて行くばかりである。
そこで思いついたのが、初夢ならずとも、夢話のことである。
しかし、この夢とて、歳を重ねるにつけ、年々歳々、あまり見なくなった
ように思うが本当はどうだろう。
人が言うには、「今でも、若い時と同じだけの夢を見ているが、哀しいかな
覚醒してからの記憶として残っていない」のが現実だとか?
そこで、夢続きとして、子供のころから今も記憶に残っている、ある夢に
ついて話してみる。
oldboy-elegy君、以前のブログにも、子供時代の夢について話をしたこと
がある。
内容は、「オネショ」のことである。
ある夢を見ると、そこそこの確率で「オネショ」に繋がると言うものである。
恥かしながら、この事で、小学校の修学旅行の折も、まんじりともせず、
一晩過ごした嬉しくもない経験もある。
※このオネショ話、今日の記事終了後に、リンクしておく、もしよろしければ
どうぞ。
今日は、下半身の話ではなく、空中遊泳に失敗、挙句の果て、地上に落下
すると言うものである。
正月早々、めでたくもないか。
それでは、その馬鹿話、少々の時間があれば付き合って頂きたい。
★★2 楠(くすのき)とその実の、ゴムパチンコ玉としての秀逸さとは?
上掲のイラストは、楠(くすのき)の葉と、その木の実(このみ)の
図である
実の色合いから見て、10月~12月頃のものとoldboy君は推察する。
oldboy-elegy君の子供時代の有力な遊び道具、ゴムパチンコである。
「チーンジャラジャラ」のパチンコではない。
上掲のイラストを見た感じでは、手作り感はなく、量産品の「売り物」
であろう。
oldboy-elegy君のそれは、木の枝を利用したものだ。
もっと武骨で、兄(義兄・長男)謹製の手作りのものであったが、威力は
一級品であった。
これをケツ(お尻)のポケットに差し込み、街中を闊歩する。
となり町の同類の「ワル」に遭遇しても何故か「気おくれ」すること
はない。
でもゴムパチンコだけでは、武器にはならぬ、そのためには「弾丸・
たま」が必要なのは当然のこと。
葉っぱの下から「木の実」がたくさん見えるだろ!!そうそれが弾丸で
ある。
この実、イラストを見る限り、「小さく、ひ弱そうに見える」が意外に
そうでもない。
直径1センチは無理だが、7~8ミリ程度には成長する。
「でも、1年の内、弾丸として使える期間が??」の質問もあろうか
と思う。
ところが、この楠の弾(たま)、意外に長期にわたり使用できる一品
でもある。
夏休みが終わるころには、イラスト画のように熟れてはないが、緑色の
カタイ実に成長している。
弾丸としての、威力のみを考えると、固い分、熟れたそれより、こちらの
方が威力があると言えるかもしれない。
季節が進むほどに、実が熟れ、紫から黒に変色してゆき、緩(ゆる)く
なっていく。
この熟(う)れた弾は、違った意味で、効力を発揮する。
実が服の上で破裂、いやな臭いと染め色そこに残すことになる。
ポケットにこの実を入れて、遊び回った分には、その匂いですぐばれ、
母に叱られることになる。
通計すると、なんと、ほぼ半年の間、弾丸としての効力を発揮してくれる
優れモノなのだ。
南天の実も、それなりに試すが、少し小ぶりな分、「クスの実」には劣る。
そのうえ、何故か大人たちの怒りをうけることにもなる。
しかし、この上なく優秀なタマが他に存在する、花火の一種「カンシャク弾」
がある、自分達の町では「投げダン」と言っていた。
ただしこれには、お金がかかる。
お年玉で買う、年一回の「散財」がセイゼイである。
はなしを本筋の「クスの玉」にもどす・
★★★3 この木の実の弾(タマ)、採集するのが難儀なことだった
※上掲の写真、その楠(クスのき)である。
写真のそれは、いかにも登りやすく、実の採集が簡単そうに見えるが、
oldboy君の近所の寺の「クスの木」は、そうはいかない。
ふつう神社や寺の境内の巨木の殆んどは、この楠か杉であることが多い。
とくに神社などは、境内の巨木を御神木(ゴシンボク)としたり、結界域
として、しめ縄や紙垂(しで)で囲んでいたりする。
※紙垂(しで) 注連縄(しめなわ)にぶら下がっている稲光状の紙の
こと。
多くは神社の場合が多いが、寺でも注連縄(しめなわ)をするところも
あるらしい。
上掲、巨木の写真は楠(クスの木)である。
たまたまこの写真では、比較的低いところから、枝葉がたくさんあり、
簡単に、実を採取できそうな、雰囲気がある。
だが、oldboy君の近くの寺の楠は、注連縄(しめなわ)もなく、
単に近所の「大きなクスの木」の扱いであった。
根っこから4~5メートルぐらいの高さまで、枝葉が全くない姿で
「にょっこり」と屹立している。
そう自分の力で登り、好きなだけ楠の実を手に入れるには、子供のみ
ならず大人でも難がある。
ただ時々の台風や強風のあと、ちぎれた枝葉が、たくさんの実を付けた
まま地面に落ちていることはママあったように覚えている。
「ア~ァ、自由に木に上り、カンカン一杯に実を取り、両方のズボンの
ポッケにも入れ、メンコ(べッタン)しに行きたい」と思う事しきりである。
それがこの近所のガキ達のあこがれであり、強い希望であったと思う。
屈強の若者でも、まずこの巨木に道具なしで登れるものではない。
まず、トッカカリの幹別(みきわかれ)れや枝が皆無なのだ。
よしんば低めに枝垂(しだれ)れたものがあったとしても、とっくに
兄(義兄)たちが、我々の為に、物干し竿か何かで薙(な)ぎ払い
済みである。
★★★★4 空中遊泳のつもりが、次の瞬間、地上に真っ逆さま、
あわや大地に 激突!か?!
読者諸氏、俺たちのこの楠の実への強い思いだけは分かってもらえた
だろうか。
このような、もどかしい日が続くある日のこと。
oldboy君が「クスの木を見上げていた折の事」なぜか、あの枝まで空中を
浮遊し、到達可能に思えてきたのである。
あの枝に取り付けば、全山(ぜんざん)、こちらのもの、などの妄想に
侵されていた。
姿勢も方法もおよそ解っている。
両手を一杯前に出し、胸には満タンの空気を貯めこめ、それからユックリ
とはきだすのである。
そのあと両手を平泳ぎヨロシク前に出し、そのあと自身の両脇に空気を
掻き込むのである。
なぜか、oldboy君、「出来る」と確信に近い感覚があった.
そのうち、手がかりになる枝は、目と鼻先の近場にあるかのようにも
感じ出した。
なんとなんと、自分の体がユックリではあるが、浮き上がり、
上昇し出したではないか。
やがて、目標にした、枝木(えだぎ)まで到達。
そこから尚の高所は木を伝って簡単に行き来はできる。
もう紫色も過ぎ、黒くなった実であったが、喜々として枝葉を
ちぎり、地上に落とし続けたのである。
俺は、これで、弾丸不足に泣いて来た、ガキンチョ(腕白小僧)
たちの英雄になれることも、約束されたも同然である。
地上に落としたクスの木の実はもう充分である。
そして有頂天のまま、地上に帰還の時が来た。
なんの疑念も抱かず、自身の身を大きく空中に放りだしたのである。
!!??何故か次の瞬間、地上に真っ逆さま、そして大地に激突か!?
全ては、そこまでである。
★5 それから後のこと
以後、小学生のころの同じパターンの夢を何回か見たはず。
しかし自身が成長するにつけ、何故か、この種の夢は見なくなり、忘れ
去っていた。
「なんやあほらし」と人は言うが、ある意味、oldboy君には大人への
「一里塚」のような夢だったのかも知れない。
※「一里塚」 人生の最初のころ道標(みちしるべ) by oldboy-elegy
やがて夢の中で今見ている夢が「虚構」である事も悟り始める。
「こんな夢、あり得へんやろ!!」と夢の中の自分に毒突く、寂しいかぎり
である。
これもエレジー(elegy 寂しさ・哀しいこと)と言えば、そうか
もしれない。
了
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