oldboy-elegy (18) 今東光さん、おれ達の成人式の来賓記念スピーチで 「ヘソのない女性を見た、あれはいかん!」いったいなんのこと??
平成も終わり、「令和」だそうな。
その令和元年も過ぎ去り、今はもう2年である。
oldboy-elegyくん、「昭和」「平成」「令和」の三つの元号をくぐり抜けて来た感慨は全くない。
若かりし時からのモットーは「ノープレッシャーのだらだら人生で良し・ただただ戦争の無い時代に生きれたら本望!」だ、など、「世間で言う出世欲ゼロ」にして、たぶんに「他力本願」な奴である。
この目標は?、ほぼ達成の感ありである。
「昭和」など縄文時代の次ぐらいの「意味不明」な大昔のことと思っている御仁も存在するのかもしれない。
考えてみるに、西暦で年代を切り取るとすれば、ミレニアムとセンチュリーの二つの言葉をよく耳にする。
前者は「千年期」後者は「100年期」と言うらしいが、どうも「自分の生きた時代」の証(あかし)がはっきりしない。
この点、日本人は元号でもって表現すれば、その人の「立ち位置・好み・考え方」などが、なんとなく、分かるような気がする。
例えるなら、「明治期の富国強兵・大正モダニズム・昭和10年ぐらいからの太平洋戦争・昭和レトロ・昭和は遠くなりにける」などがそれで、その時代を生きた人達の「立ち位置と時代の雰囲気」がおよそだが「元号を冠する」ことで推量できる。
それもそのはずで、天皇と言えども、この世に現実に生きた人であり、元号はその「表象」である。
同時に、我々庶民も同じで「人の寿命」の枠内での事である。
それが「ミレニアムとかセンチュリー」など人を無視し、単に数字ありきの世の区分とは別物で、「文化的ポゼッション」もあらわし、多分に人間的だと思うがどうだろう。
ただ一つ、自分の年齢の計算が「元号」では難しくなってゆく、ただでも頭の悪いoldboy君、こればかりは「西暦」にくみする。
法衣に袈裟(けさ)がけのお坊さんのイラスト画像が今日の主人公の「今東光・こんとうこう」さんである。
「こんとうこう」さん、って誰?と思う人も、この「令和」の今日、結構多いのではと思うがどうだろう。
この方、基本、天台宗のお坊さんであるが、小説家であり「直木賞」作家でもあられる。
もともと若い頃から多芸と言えば良いのか、気の多い方で、小説はもとより絵画なども志したこともあったが本道の天台宗僧侶に専念、絵の道などでは、いくつかの展覧会に出品するも、間もなく「筆を折られた」との事。
失礼を承知で言うなら「おのれの才能のなさ」を自覚されたのかもしれない、「いや~
きっとそうだろう」
関東は横浜の生まれで父(船乗りにして船長)に連れられ神戸に来たが、
その時、入学した学校が、関西の私学の名門「関西学院中学部」であった。
しかし、彼、この学校を「諭旨退学・ゆしたいがく」となっている。
ここらあたりから、だんだんとoldboy-elrgy君の知る「今東光先生」らしくなっていく。
「ゆしたいがく」とは何ぞや?「たいがく」は「退学」で学校をやめることである。
学校をやめる理由にはいろいろある。
①学費が払えない。
②所定の試験の成績に達しない
③公序良俗に反する言動、振る舞いが見られる、など
はっきり言うと「諭旨退学」とは、本人と保護者に理由を説明し、「強制的」に学校をやめてもらうことである。
いったい「東光先生」は何をやらかしたのか?
「関西学院」はキリスト教(プロテスタント)系の学校で、牧師の娘に、今風に言えば「ちょっかい」を出した、のが、退学の原因であるらしい。
しかし、oldboyくん「東光先生」を弁護するつもりはないが、このはなし何か、「腑に落ちない」思いがある。
戦前の「中学」は男子のみで女子はいない、就学期間は5年、年齢は12才~16才までである。
お相手の女子は、もちろん、女子禁制の中学部にいるはずがない。
ならば、考えられるのは当時「女子高等女学校」なる課程が、中学校同様12才から「4年制・5年制」として存在していた。
このような事を考えるなら「今(こん)先生」の片思いだけでは、決して「どうにかなるものではない」し、女性の側の「今先生に対する、何か(恋慕など)が無くては、成立しえない話なのであるまいか。
その彼女が「牧師の娘」で、この牧師がなんらかの「関西学院」関係者であった事を併せて思うなら、「諭旨退学」と言う名の処分の裏の事情がなにやら見えてくる。
ところがどっこい「今先生」、「関西学院・諭旨退学」のあと、同じ兵庫の県立、豊岡中学校に入学するも、地元の「文学少女」と「その仲」になり、これまた「退学処分」となる。
今度は、「文学少女」をと聞くと、「今先生」の悪意とはいえないまでも、なにかしらの意思を感じて、oldboy君、彼をかばう気にはなれない。
しかし、さすが「今東光・こんとうこう」先生、中学時代を通じて、2回の退学、それも2回とも「女性」がらみ、が原因なのが、「いかにもの」納得感が嬉しい。
「今東光先生」この後、学校と名の付くところには入らず、全て独学であったらしい。
そんな「今東光さん」、長じて、天台宗の仏門に帰依し僧侶となり、戦後、昭和26年(1951年)に八尾市の東端の山本町にある「天台宗末寺の天台院」の住職として来られたのがこの地「河内」との縁の始まりで以来23年間の長きわたり、この地の住人として過ごされたのある。
「今先生」、「河内」入国の折の齢は、すでに50才を幾分過ぎたころのことである。
それまでに、天台宗の入山(僧侶になる)修行は厳しく、比叡山での勉学、僧侶試験、などの関門を突破されたのである。
その後、文筆活動は中断されていたのが、この天台宗叡山の末寺・天台院の住職として特任されてから、「河内の歴史・河内人の気質・風土・言葉」に接し、再び彼の作家魂に火が付いたのである。
彼、中学時代での「女性関係での退学処分、それも違う学校で2件」長じて「無類の喧嘩好きで無頼漢的素養あるも、良い意味での自由人」などの、もともとの彼の内なる人格が、この地、「河内の人々と風土」と合体した時、彼の身に、ある種の「化学反応」がおき、「今東光」としての「書き手」に、新たにエンターテナー的要素が加味された瞬間だったように思う。
この河内・八尾・の天台院の住職期間、昭和26年(1951年)~昭和50年(1975年)の23年間が文筆家としての1番の高揚期であったのかもしれない。
彼の多くの著作の中に、いわゆる「河内もの」と言われるジャンルがある。
作品名で言うと
「悪名」「闘鶏」「悪童」「こつまなんきん」「河内風土記」「おのろけ説法」
「お吟さま」「河内フーテン」「河内カルメン」・・・・エトセトラ
おいろけ・喧嘩・河内の風土・河内人・などがその小説のモチーフである。
中でも、「お吟さま」は1957年、直木賞・受賞作品でもある。
さて長い前振りであったが
このブログのタイトル「今東光さん、oldboyくん達の成人式来賓の折のスピーチが「へそのない女を見た、あれはイカン!?・いったいなんのこと?」を読み解くためのものであり、「さもありなん」と思っていただくための「導入部」なのである。
それゆえ彼の基本的な「人と成り」を知っていただき、「河内・八尾」の風土にインスパイア―された彼の作品(小説・映画など)がひろがり、同時に、この「河内」の印象も「良きにつけ、悪しきにつけ」拡散していったのです。
とくに言葉としての「河内弁」は最悪です。
むすめさんが話す「大阪弁」はミミズラにも良く全国的にも、そう悪い印象は無いようだが、「河内弁」としての男言葉の「印象と評判」は最悪です。
「オンドレ・ナメチンケ・ヨコズラ・ヒッチンド・ワレ」
この言葉、あえて訳さなくてもほぼ解るかと思うので、このままにしておきます。
oldboy君が思うに、「河内弁」の特徴は「大阪弁・泉州弁・和歌山弁」など語尾が下がり気味になり、滑舌の悪さが気になるのですが、何故か「河内弁の男言葉」の活舌は言葉の語尾までしっかりしたものがあります。
それが「われ」言葉を強調してるように感ずるのですが、どうでしょうか?
さて八尾市としても、「わてが町の全国区の有名人で文化人(河内では珍しい存在?)に、「成人の日」の特別ゲストとしてお出ましを請うたのも至極当然の成り行きであったろう、と思います。
これで「今東光さん」が「河内・八尾市」の成人式・来賓スピーチの壇に居られた経緯を「およそ呑み込んでいただいた」ことと思う。
市長か役所の担当者か知らないが、恐縮のしたり顔で「時間はこれぐらいで、その上 (今先生の河内物の小説を読んでいるせいか)少々危険を感じながらも「もうスピーチの内容は先生におまかせで結構です」などの依頼の様子がoldboyくんには、なにやら目に見えるようです。
oldboyくん、本当を言うと、この日の「先生」のスピーチのこの文言「へそのない女性を見た、あれはいかん!」のみ鮮烈に記憶していて、他の訓話的おはなし、は記憶にはありません。
上に、ラインダンスのイラスト画像を貼りつけたのだが、これであらかた察しがついた方もおられるかもしれない。
このイラスト、若い女性のレヴィユーにおける「ラインダンス」の画像である。
それも終戦後20幾年ぐらいの「宝塚音楽学校」のラインダンスの図と思って頂きたい。
「東光先生」がいかなる経緯で「宝塚」に行かれたか知る由もないが、
難関な試験を突破して入学された、若く、美しく、躍るような何十人もの女性の肢体がタップを踏みながら、ラインダンスをする光景には、「先生」ならずとも、ココロオドルものがある。
さてここで先生、眼前の踊り子さん達を見て「あれ!おや?」と、自分の「美意識」にそぐわない、ものを発見されたようです。
当時の宝塚のラインダンスの衣装がどんなものかは分かりませんが、先生の言葉から推察するに、最低、おへそが見えてもオカシクないものだったはずです。
ところが、ところが、それが見えなかったとおっしゃっているのです。
原因は衣装の下に、ベージュと言うか、肌色のタイツ様の肌着を付けていたのが、真相のようです。
昔も今も「宝塚音楽学校」のモットーは「清く、正しく、美しく」で体現されているのです。
このことが、「東光先生」の美意識にはそぐわないようでした。
そこで(当然、見えるものが見えないのは、不自然だ)となり、あの発言に至ったのが、その経緯であり、真相のようです。
「へそのない女性を見た、ありゃいかん!」の「お話」は本音だったように思えるのです。
これが「新成人」にたいする言葉としてふさわしいものかどうかより、実に「今東光」さんらしいものだったとoldboy君は思うのです。
なぜなら、半世紀も経った今、この一言のために、ブログを書くはめに陥った老いた男が一人ここにいるのですから。
おへその事は別にして、人間の肢体、四肢のバランスは不思議なものです。
昔、大学生のころ、友人O君の下宿先の寺、観智坊の住職に案内され「東本願寺」の観光客が入れない奥域まで入った事があり、そのおり、広い、畳敷きの大広間に足を踏み入れたことがありました。
その大空間には、一人の方がポツネンと仏殿に向き合い座っておられたのですが、薄暗い中の彼のシルエットを感じるだけでどんな方かは判然としません。
ただ言えることは、その座っている状態や雰囲気になにか違和感があったことは否めません。
ちょうどその方、お祈りを終えたようで、立ち上がらずに、両手を畳の前に差し出し、体が少し遅れて滑るように付いて前進されるのです。
そう、どうも両足がないようなのです。
さきほどの、座った姿勢の影に「なにか違和感を感じた」のはこれが要因だったのでしょう。
薄明りの中の、座っておられるシルエットを見ただけで、なにかが違うと、感じる人の脳や目の能力、不思議なものです。
ましてや「東光先生」が宣う「あるべきおへそがない」のはもっと違和感が強烈だったかも知れません。
因みに、「今東光」さん、「OSミュージック」の「ストリップショー」の企画・演出を担当をされたこともある、いかにも彼らしい。
もちろん、レビューにおけるラインダンスは「おへそ」は見れたはずです。
見ていないoldboy君、返す返す、も残念の限り、の気持ちです。
すこし俺、エロじじいぽくなってきたようである。
最後に二度目の奥様、きよ夫人の述懐でこの駄文を終えることにする。
「本山(天台宗延暦寺)から給料がでるわけでもなし、お布施も30円ぐらい、
今(こん)の印税あっての暮らしでした。
檀家の話は喧嘩・博打・夜這い(よばい)・女郎(じょろ)買い、そればかり、NHKはじめ放送局が取材に来ても放送(録音)できない状態でした」・・・ウィキペディアより
了
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