oldboy-elegy のブログ

ずいぶん長きにわたりグータラな人生を送ってきたもんです。これからもきっとこうでしょう、ハイ。

oldboy-elegy (16)  石畳、路地奥「インデラ・コーヒー・カレー店」の脇を子供達の集団が歓声とともに、白いケム(けむり)の精霊となり走り去った

 

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 このイラスト画像、この雰囲気、右端の丸椅子に腰を下ろしコーヒーをすすれば、oldboy-elegy君の50年前の姿そのものである。
なぜ画像の右端かと言うと、ここが行き止まりであるため人が通ることは無い、その上、壁に身を預ける事もできる。この並びに丸椅子は4脚、あとカウンターの左端から鍵型に奥に向かって折れ、そこに2脚とコーナーにもう一人分、計7人分、これで全て、当然別個にテーブル席などないし場所もない。
ただし満員のおりの非常用に椅子が別に2脚用意されているが、これが使用されている場面にoldboy君、遭遇した事は無かったように思う。
店員さんはナシ、ママ一人で切り盛りしておられた。
店の2階が彼女の居住区である。
背は、ガラスの格子窓、その向こうは石畳みの路地になる。

 
「ママ」は当時で50過ぎのふっくら、丸顔、美人ではないが好感が持てるお人であった。
当然彼、ママの名字、名前もキッチリ今も記憶にある。

 oldboy君、この店との成り染が、何故かはっきりしない。
ただこの辺り、幼少の頃からの「訳知り」裏道で、人通りが多い商店街を通らず、この裏路地を利用していたのである。
oldboy君にすれば、家から駅方面に出るための「ショートカット」メイン通りである。


 すぐそばに「真宗系」の大寺があり、門前の立派な石段はガキンチョ(こなまいきな子供達)のある意味「集団博打場?」であった。

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●上記掲載のイラスト画像
 子供達がべったん(めんこ)で遊んでいる様子である。
一番基本形である「裏返し」(または単にかえし)とoldboy君達は言っていた。
一枚ずつ出し合い、交代ではたく(自分のべったんで、相手のそれの下に風を送り込
む)、裏返しした者が勝ちで、負けたら、自分のそれを失う。
一見、単純そうに見えるが、奥は深い。


   この寺院の石段はべったん(めんこ)の気合の入った他流試合の主戦場なのである。
まあ、昨今なら「べったん甲子園」というべき場所である。

 参加者は5~6人の1チーム編成で学年も低学年の子から最上級生まで、双方の状況に合わせて「柔軟」にメンバーを組む。
時には、近隣の街、町内併せて6~7チーム、人数にして50人ほどの員数になることもある。
当時、遊び仲間は同学年同志で徒党を組むことはなかった。
小学生の場合、1年生から6年生までが1グループを成し、上級生が下級生の面倒を見ながら出来るだけ行動を共にしていたように思う。
もちろん、これらの中には、大人は一人もいない、すべて自分達だけで仕切るのである。
べったん(めんこ)と言えど、彼等にすれば、「命の、次の次のもう一つ次ぐらいの大切なものである、これを勝負で掛け合うのである。

 場合によっては「血の雨が降りそうな」双方、険悪な状態になることもある。
しかし大ゲンカの乱闘騒ぎに、至った事はない。
何故かって?!!。
それはsafety device(安全装置)が存在し、それがきちんと働いていたからである。
そのdevice(装置)とは、我がチームの長、勇吉(仮名)の存在である。

 勇吉の家の商売は「香具師・的屋」の親分である。
この地域に真宗系の大寺が2つある。
これを結ぶ参詣道に「お逮夜市・おたいや」と呼ばれる市(いち)が月2回(11日、27日)立つのである。
「縁日」ではあるが、遊びの要素より、もっと「生活感」が強く前に出た、いわゆる「市が立つ、の市」で市場(いちば)に近い感覚である。
戦争直後の必然の形かもしれない。
生活雑貨、古着、農具、種苗、各地の漢方系の薬、名産食品、それに射的、ヨーヨー、金魚すくい等、それに今でゆうところのストリートフードなどが混じり簡易店舗を設営し、それぞれ独特の口上(商品の効能等の宣伝文)で呼び込むのである。
「これではお昼の弁当のおかずが足りまっしぇん、卵3個4個、これでは家のオゼゼ(お金)が火の車・・・・」これは卵焼きの増量パウダーを売るオネーさんの口上である。

 参詣道の表通りはもとより、脇道、裏道から路地、ちょっとした空き地には怪しげな小屋が、どれほどの数の的屋(てきや)がここに集まっているのか想像もできないほどの賑わいである。
遠くは大和(奈良)あたりからの参詣人も多い。

 母などは、自分の故郷・鹿児島の味、かちわり黒糖(サトウキビから生成)を買うためだけに市(いち)に出向く、用のある時などoldboy君、お使いとして頼まれることもある。
その折おばさんが、「母ちゃん元気か~」と言いながら、黒糖の2、3欠片(かけら)をおまけに頂くのが常であった。

  勇吉は寺の石段のべったん大会には、選手として出た事がなっかったと思う。
「勇吉さん、これキッチリ2ッチンになっとるけ」「この親札、油塗りすぎ違うけ」
「6枚もんの親札は最初だけやぞ」「小ふだに蝋塗ったらあかんやろ」などなど、
最終判定を勇吉に委ねるのである。
彼の偉いのは、出身母体の我々のチームにも1寸たりとも依怙贔屓(えこひいき)することは決してなかった事である。
みんなが彼を最終審判者と認めているのは、彼のこのような普段の振舞いにある。
●用語説明 「2ッチン」2枚重ねるの意味で、石段の前部に重ねた大量の「べったん」を「親札」の大きな「べったん」でハタキ、下の石段に飛ばす、2枚重なった時が勝ちでその分だけを貰え、べったんが無くなるまで戦う。

 よくよく考えてみるに、勇吉の爺さんや父親は、香具師、的屋の元締めとして寺を始めあらゆる利権に関して不平、不満が出ない事を第一義として、双方を取りなす、公正さ、信頼、最終的には有無も言わせぬ強面(こわおもて)な迫力など、なまじっかな力量で務まるものではないはずのものである。

 こんな折(べったん)の勇吉は本人が家の環境に身に置くうちに、知らずのうちに
身に就けたものかも知れない。
ここでは、「べったん」の遊び方やルールを説明するものでもない、いずれ適切な場面があった時には別途、紹介するかもしれない。

 さて、「インデラ・コーヒー店」との成り染だが、後付けだが思い当たることがある。
この路地の真ん中あたりに1軒の花屋があり、店の屋号は忘れたが、店主の「ハルさん」には随分とお世話になった。
インデラコーヒ店とは10メートル程度しか離れていない。
oldboy-elegy君、人生初のアルバイトが彼の元でのもので、多分、中学2年の夏休みのことであったはず。
この事が「インデラ・コーヒー店」との縁であったように思うが、これしか思いつかないのだが。

 そのアルバイトの内容が、花屋とは全く関係のない「氷運びの助太刀」である。
ハルやん、まだ30才前の独身青年で、男前且つ、爽やかな人であった。
朝早くから三輪ミゼットで花市場へゆき、店に帰って大急ぎで下準備、販売はおばちゃん(ハルやんの母親)に任せ、
自身は俺をミゼットの荷台に乗せ製氷会社に、デカイ氷柱を何本か乗せ、町中のかき氷屋さん、甘味処、駄菓子屋さんに小分けしながら卸していくのである、真夏のこととて、とにかく時間との勝負である。

 そのおりのエピソードを一つ、
氷と俺を荷台に乗せ町中を走行中、〇〇信用銀行の横の裏通りに入ろうとした時、ハルさん自慢のミゼットが何を感じたのか「オットット!!」と右斜め前方に「コロリ」と転倒、日除けむしろとともに氷を道にぶちまけた。
一方oldboy君、超 スローモーの転倒が幸いしたのか、転倒したミゼットの脇にすくっと仁王立ち、ハルさん、薄い鉄板のドアーを持ち上げ「怪我ないかー」のありがたいお言葉。
しかし、これをビルの高見から見ていた信用金庫の女子職員、けが人がないと分かると口を押え、笑いをこらえている人もいる、余りに迫力のない自動車事故、こちとらは何故かこのことが気恥ずかしくもあった。
横転した車を起こすのも、銀行の職員さんが2,3人介添えしていただいたので、oldboy君など、力を入れるまでもなく「スック」と起き上がり、元の「雄姿」を寸時に取り戻したのであった。
もちろん、「氷」以外実害はないようで、警察には報告しなかったようである。

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 「べったん」もそうであるが、月2回の「お逮夜市」も「悪ガキども」の人気の遊びフィールドである。
寺の石段脇には、羽織はかま姿の傷軟膏(きずなんこう)売りの、ちょんまげはないが、サムライがいた。
脇には赤茶けた木製の漆塗(うるしぬり)りの刀置きがあり、そこには黒っぽい大刀が一振り本物然として掛けられている。
口上では「さあー抜くぞ、やれ抜くぞー」と言いながら、ついぞ抜いたためしがない。
それでも子供達は茶化すことはしない、何故なら、刀がもし本物だったらの思いを捨てきれてないのである。

 当方、お逮夜市(おたいや)の様子を記事にしたブログもある。
この記事の最下段にリンクを張り付けておくので、よろしかったら見ていただければ嬉しい。

 何十年も後に、この商店街を妹と落ち合い「インデラ・コーヒー店」の方角に歩いたことがある、oldboy-elegy君のリクエストである。
因みに、彼女は他県に嫁いでいる。
駅からここまで、子供はおろか、人の行き来そのものがほとんどない。
「兄ちゃん、この通りさびれたな~」の妹の一言。
ときおり、商店の店頭脇に「お逮夜市・おたいやいち」と染められた昇り旗を見るが、余計に侘(わび)しく、ウラビレた感覚に陥る、子供の頃のあのキラキラした陽光はもうない。

 oldboy君の幼少の頃の行状、振る舞いを見るなら、随分とこの街に溶け込んでいるように見える。
しかし彼がこの地、大阪は河内のど真ん中に母の手に引かれてやって来たのはそうそう前のことでもない。
oldboy-elegy君の名字は母のもので、親父とは違っている、私生児と言う事である。
まあ、言ってみれば、お妾さんが男の子を一人連れ、押しかけて来たと言えば分かり良いのかも。
因みに俺、小学校1年の、6月か7月かの途中入学であり、学校なるものの初体験であった。したがって幼稚園は知らない。
この間、随分と母と親父の間に葛藤があっただろうことは想像に難くない。
親父には先妻、イヤ本妻との間に男の子ばかり、3人がいた。
3人の義兄もすでにこの世の人ではない。

 その辺の事は、ブログ・プロフィールに少し書かせていただいた。
妹は、こちら・大阪の生まれで、oldboy君とは7才違いである。
それから随分と年月がたった、彼の心の内でのデラシネ(フランス語で根無し草・故郷の無い人)感は今も続くが、親父を憎いなどこれぽっちも思った事はない。
むしろ良くやった方かもしれない。
父も大阪の人ではない、学歴も尋常高等小学校卒で自身の才覚だけで生き抜いた人であった。
遊びも「ビリヤード」「ダンスホール」「おしゃれ」と所謂「モダンボーイ」を地で行った人である。
亡くなったのは「行年100歳」となっている、苦労も多かったが、人生を大いに楽しんだように思う。
●因みに、「デラシネ」なる言葉は大昔「五木寛之」さんの小説で仕入れたものである。


 今は、妹を除いてだれもこの世の人ではない、ましてや顔見知りや親交のある親戚などは皆無である。

商店街を「インデラ・コーヒー・カレー店」があった近くまで来たが、もう「歩・ほ」が進まぬ。
oldboy-elegy君、この閑散たる通りの佇まいを見て、感じて「いまさらなにも」の気持ちが湧きあがってくる。
今ここで「インデラ・コーヒー・カレー店」の残滓を目にしても決して心地の良いものではないことは想像に難くない。
oldboy-elegy君のelegy(エレジー・哀しさ)のまま、そっとしておくのが最良であると感じた。
「〇子、もういいわ駅に戻ろ」と兄は妹を促した。
走り去った子供たちの「歓声」は今はもうない。

 高校時代、アルバイト代が入ったおり、Tenko(同級生の女性)を誘い幾度か「インデラ・コーヒー・カレー店」に来たことも思い出していた。
7才年下の妹は、この女性のことは知る由もない。
----(oldboy-elegy 9)で既出。

妹は高校の演劇部で役者ではなく「裏方」をしながら、理論指導をしていたらしい。
その彼女の愛読書が「ベケット全集」であった。
一度、こんな彼女を誘い、京都大学西部講堂前広場での「唐十郎・テント劇場」の公演を見に行った事がある、演目はたしか「ベンガルの虎」だったように思うがさだかではない。

  

「おとなは、だれも、はじめは子供だった。

しかし、そのことを忘れずにいるおとなは、

いくらもいない」    星の王子さま by  サン・テグジュペリ



               了
            oldboy-elegy
下のブログ記事のリンクは

子供の目線から見た「お逮夜市」と「彼等の行状」を、楽しく書いた記事である。
卵焼きの増量パウダー屋さんの、呼び込み口上(宣伝文)を何故憶えていたのか、笑ってしまう、もっと必要なことがあったろうに。

 

 

 

oldboy-elegy.hateblo.jp

 

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(雑感・雑記帳 NO.10)「エアーたばこで禁煙中」2年9か月になります oldboy-elegy

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 2019・6・13 エントリーのブログの追記事である。

 重度の風邪(かぜ)によるヨレヨレ状態で近所のクリニックへゆくも、「完治までタバコの吸引禁止」の「ご宣託」。
oldboy-elegy君、「禁止命令」がなくとも、吸える状態ではないのです。
咳はゴホゴホ、鼻汁はのべつ、熱は8度少し、悪寒ありの、いわゆる「風邪のデパート状態」なのである。
 
 日記を見ると病院に行ったのが2017・1・27となっており、その日からの禁煙、およそ本日で禁煙2年9か月になるようです。
ただし「禁煙中」ではあるのですが、今もパソコン脇のサイドボードの引き出しには「メビウス・スーパーライツ」が1箱入っております。
外出時にメビウスは、oldboy君のショルダーバッグに移動するのです。
それでも決して、これに火をつける事はありません。
ただただ自分の「心身」に「タバコが無いぞ」とのプレッシャーを
与えないための方策なのです。
それほど、この「喫煙習慣」なるもの「一朝一夕」では排除できるものでは
ありません。

 2年9か月禁煙中のoldboy-elegy君、これでも「タバコを止めました」とは言えません、あくまでも「禁煙中」の身なのです。
考えもしてください、1日約30本のノルマ?を実に半世紀近く律儀に実行してきた身です。
あ~、それに彼の母を加えると、母子2代の重度の喫煙家系です。

 母に就いては「教頭、担任の前で、紫煙をプカリ・oldboy-elegy(2)」にて既出です。

 
さてここでoldboy君が言う「エアータバコ」の概念?を知っておく必要があります。

賢明な読者諸兄にはおよその見当は、ついておられると思うのですが、

「シャベル(スコップ)や座敷ボウキを手にエレキギターを疑似演奏、または何も持たなくともその気になりきる奏者?の本気度とそのパフォーマンスをエアーギター(エアーエレキ)などと言うらしいのだが、そのシャベルやホウキを本物のタバコに置き換え、火を付けず疑似喫煙する行動をエアータバコと言う」


 上記の表現が彼の言う「エアーたばこの概念」らしいのですが理解して頂けたでしょうか?

 何故、再度、この記事について書こうかと考えたのかは以下の通りです。
新たに二つの新事実が発生し、是非ぜひ、これらを書き加えたくなった事が本当のところです。

● つい最近「エアーたばこ」なる言葉で「グーグル検索」をかけたところ、
 約6百70万件もの記事数がヒットしたのです。
 「禁煙」は社会の大きな関心時であるのが分かります。
 今年6月の時とは大きく様変わりしているのにはビックリです。
 「なんじゃこりゃ!」と言う気持ちが素直な感想です、それで
 グーグル検索1位から幾つか「エアーたばこ」に関する最新記事を
 見ておこうと読み始めたのです。

 Topは整体師さんが、本物のタバコは使わない、文字通りの脳内訓練によるエアーたばこでのお話です。
これを買ってください式のものではありません。
次からは電子タバコの類で、新しいものでは、「天然植物成分配合のビタミン吸引器」なる新商品がアマゾンを初めとする通販系の案内記事などが並んでいます。
ここで4番目に「雑感・雑記帳(NO.2)エアーたばこで禁煙中・・・oldboy-elegy」??!!なる文言が目に飛び込んできたのです。
間違いなければ、確か彼の以前のブログ記事のタイトルのはずです。
6百70万件の4番目です、信じられないの気持ちで「急ぎ、慌てふためいてクリック」、画面を見て、もう一度「ビックリ」
何があったと思います、皆さん、
「Entory is not found」の横文字が目に飛び込んできたのです。
確かfoundはfindの過去分詞、「エントリーは見つかりませんでした」が日本語ですよね、
みなさん「寄ってらっしゃい、見てください、そして笑ってやってくださいまし!!!」の心境です。
それでもタイトルとサイドバーのエントリー記事一覧が存在し、ちゃんと機能しているのですね。
しかしたまたま、タイトルを見たコンシューマさんがクリックして、現れた画面が
「Entory is not  found」では、次の瞬間「ハイ、さよなら」が常識で当たり前ですよね。
記事元の彼とは、「会うは分かれの初めとは」以前の問題です。

 PCに弱いoldboy君、「これが404表示」と言うやつかと分かっただけで「何がダメでこうなったのか」は原因不明のまま。
大会社の会社案内のホームページなどにもこの404記事が散見できるとの事、そのおりは、ページのカスタマイズをして、お客の気分を害しないようにしているらしい。

 つまりoldboy-elegy君、not foundページの改修をするだけの技量がないので、新記事としてUPしょうと考えた次第です。
何か月後に、上手く上位にランクされればいいな位のスタンスです。
これが「当記事作成」の一つ目の要因です。

● もう一つは喫茶店でのしゃべくり仲間のKさんの事。

 彼、oldboy君と同年齢、年寄りどうしの歳など、およそ「じじい」で一括りの
 存在、時おりの集まりも「スピーキング能力の維持」が目的みたいなもの。
 因みに、彼がブログを始めた事は3人とも知らない。

 いつだったかの集まりの時、彼Kさん達に「エアーたばこ」の「概念と効能」
 を少し話した事があります。
 手にしてるタバコに火を付けないまま「ぷかぷか」疑似吸引しているのを
 見て「なにしてんのoldboyさん」と聞いてきたのが始まりです。
 他の二人は非喫煙者です。
 因みにこの喫茶店、今はやりの「スターバックス」などではなく、所謂、
 普通に昔からある「純喫茶」タイプのお店です。
 置き新聞、週刊誌、雑誌が豊富なのが気に入っています。

 このKさん、ただいま、oldboyくんの「提唱?」する「エアータバコ」の
 実践中なのです。 
 まだ初めて半月ばかりだそうです。
 彼の偉いのは、体調の良し悪しとは関係なく「oldboyくんが言うとったな、
 ワイも気張らず やってみよか」ぐらいのノリで始めたそうです。

 ・まず、喉のイガイガが取れ、痰(たん)が減った。
 ・尾籠な話でゴメン、鼻くそ、鼻汁が白くなってきた、
    などを実感して、それが「大きな、モチベーションになり、続けられそう」
       との事、提唱者のoldboyくんとして、誠に嬉しいかぎりです。
 
  Kさんの場合、喫煙量は、三日に二箱ぐらい、月20箱程度でoldboy君に比べて
随分と少ないようです。
それに喫煙による体調の不良も特に感じていなかったらしいのですが、上記の
「良い変化」を目の当たりにして「エアーたばこの継続」をユルク決心。

 現に今も、着火してないタバコを時折、口に運び「疑似吸引」をなさっている。
ごく自然体であられるのが良い、本人曰く「月に少ない年金が1万円ほど増えたと
思えるのが良い」との弁。

 以上2点が今回のブログ記事を書くための「モチベーション・動機」となっている。

 この禁煙方法は誰もがうまくいくものでもないと思っている、ニコチン・タールなどを体内に大量に取り込むのを目的に、煙を深く肺に吸い込むタイプの人達にはこの「エアーたばこ」なる禁煙方法は向かないような気がする。
oldboy君、自身の喫煙習慣を思い出して見た時、このタイプの喫煙者とは違っていたようである。
まず、煙を目一杯、肺におくり込む人では無かったようです。
喉の入り口ぐらいで寸止めして、鼻腔からの排煙ではなく、再度口からのそれで、
擬音で表現するなら「チュパ、チュッパ」かな、およそ昔の映画やドラマのような
カッコよいものではなかったように思う。

 そこでoldboy君よくよく考えて気が付いた事がある「俺はタバコのニコチンやタールの中毒ではなく、その一連の吸引の動作が身に沁み込み強い習慣性の中毒になっていたのではないのかと。

 朝、目を覚ます、ベッドの中でまず1本、新聞を読みながら1本、朝食の後に1本、コーヒーブレイクでまた1本、電車のホームの端の喫煙コーナーで無理に1本、
全てが自分の行動の変化の区切りに必ず吸っていたように思う。
たばこが旨い、美味しいからの喫煙でないのである。

 それが証拠に映画館で、上映中に喫煙のため席を立ったことはなかったはづである。
上映中の1時間半なり2時間の間「喫煙」の事は忘れていたように思う。

 比較的、このようなタイプの喫煙者に「エアーたばこ」は向いているように思う、Kさんも含めて。

 ここからは「エアーたばこ実践編」として、順を追って記述してみる。
  
●1  必ずフィルタータバコを購入すること。
   1本で2、3日ほど使用可能、タバコを包む紙とフィルターの境界部分が
   湿り気をおび、折れやすくなったら替え時。
   1か月1~2箱、500円~1000でOK
   因みにoldboy君の場合一月1箱
●2  1本費消するたびにフィルター部分を分離保管、葉の部分は廃棄。
   ブログ記事を書いている時など、上記の分離したフィルター部分
   に横から爪楊枝を指し、使用、何故なら「エアーたばこ」に変わりは
   ない、のであるから。
   フィルターのみでの吸引はタバコの葉のかすかな風味と香料の香りは
   期待できない。  
   ただし外ではしない事、恥ずかしすぎる。
●3  この方法で「禁煙」を始めたら、自身に「何が何でも」などと
   プレシャーをかけない事、いつでも吸えるんだから、ただし
   「エアータバコ」で。
●4  まず、1週間~10日、「エアーたばこ」を継続しながら「自己」の体調の
   細かな変化を観察しましょう、「喉の調子」「味覚」「鼻汁・鼻くその
   色の変化」 など、自覚できるものが一つでもあれば、それは継続
   意欲への強い「モチベーション」になるはずです。
●5 「エアータバコ」について「うまくいった・ゆかない」等のことは全て
   自己責任と言う事でお願いする。
   またこの方法に医学的な治験が存在するものでもない事は了承して
   おいてくれ。


追記
  母もoldboy-elegyくんに劣らずヘビースモーカーであった。
 85歳、亡くなる間際まで吸っていらっしゃった。
 「エアーたばこ」を実践中の彼oldboy君は当然、時折タバコを買う。
 その封を切り、吸い良いように1本だけ1/3程度引き出し、遺影の前の
 小皿に入れ、そえてあげる、写真の母は着物姿である。
 斜に構えた母が、「フン、小生意気な」と顔を俺に向け、目が少し
 笑ったように思うが、どうだろう。
 

               了

             oldboy-elegy

今回の記事は「下記・リンク記事」を受けてのものである。
目を通していただければ嬉しい。

 

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(雑感・雑記帳 No.9) ラグビーW杯のoldboy君的、独断と偏見による総括・そしてそこから見える日本文化論

 

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 oldboy-elegy君、前回、(雑感・雑記帳 No.8)ラグビーを真ん中に・・・・での記事を書き公開しました。
そのブログは当記事最下段に、リンク貼り付けしましたので、よろしければ併せて目を通していただけたら幸いです。


 今日はその時の内容を受け、大会を終えた今、いつも通り「独断と偏見」満載で記事化しました。

 ラグビーW杯・日本大会が11月2日をもって全日程(約1.5か月)を終え、
優勝は南アフリカ、準優勝はイングランドで日本は初の一次リーグ・プールAを強豪アイルランドスコットランドなどを破り、首位で突破と言う偉業を成し遂げましたが、ベスト8(トーナメント戦)では優勝した南アフリカに26-3のスコア、ノートライで敗れます。


 スポーツ新聞や大方の報道は日本のベスト8での敗退を非常に残念なものとしていますが(世間のあり様としては当然と言えば当然なのですが)、oldboy君は少し違った見方をしていました。


 「もうこの辺りで、敗れても良し、敢えて極論するなら、完敗ならなおの事よしぐらいの気持ちでテレビ観戦していたのです


 物事を成就するには、何事にも順序、段階が必要だと考えるのですがどうでしょう。
特にこのスポーツ(ラグビー)はまぐれ勝ち(fluke)が非常に少ない事で知られています。
ほぼ同等の力関係にあるチーム同士が対戦するなら、Aが勝ったりBが勝ったりすることはよくある事ですが、明らかに格下とされるチームが最上位にランクするチームに勝利するのは殆んどないのが、このスポーツの特徴かもしれません。
この意味では前回のW杯で日本が今回優勝した南アフリカに勝利したのは、異例中の異例の事でした。


 今回の大会でも、オールブラックス(ニュージランド)が(スプリングボックス南アフリカに敗れたとは言え3位なのですから、次での対戦はどうなるか分かりません。

 ただ日本が、W杯や他の国際試合でベスト8を堅持するのも難しいかも知れません。
それでも日本は簡単に勝てるチームではないと言う、印象を与えた事は間違いのないところです。
この地位をまず盤石にすることが向こう4年、8年かかるかも知れません。
もしここで、間違って優勝や準優勝するような事が起こるなら、そこに到達する険しく苦しい過程が抜け落ち、安く軽いものになりかねないものになってしまう気がしたのです。
日本のラグビー関係者のみならず、社会的にも。

 日本のラグビーの歴史は他国に比べてもそう劣るものではありません。
折角、ラグビーというスポーツを今回初めて見て「面白い」「ルールもある程度分かってきた」などの初心者も含めて多くの人がこの球技を認知する事からの出発と捉えて、しっかりと歩んで欲しいのです。

 oldboy-elegy君、そう言う意味で冒頭で「この辺で敗れても良し」と、呟いていたのですが理解して頂けたでしょうか?

 プール戦が始まり初戦のロシア戦に30-10と勝利、このころのテレビ視聴者の反応。

●1「案外つよいやん」
●2「ルールよう判らんわ、ごっついオッサンがごちゃごちゃ喧嘩しとるみたい」
●3「アメフトみたいにボールなんで前に投げたらだめなの」
●4「日本人殆んどおらへん、これ日本チーム」
●5「実況アナウンサーがジャパン、ジャパンとウザイ、なんで日本て言われへんのや」
●6「たった3年日本に居住しただけで、代表になれるんだ、こんなの日本チームと言われんやろ」

 概ね、ラグビーと言うスポーツの基本的ルールの理解が、進みだした事と、それに対する疑問など、選手たちの名前や風貌がチーム・ジャパンと呼ぶにはあまりに違和感があり、これに馴染めず、拒否反応を起こす人の二つに大別されたように思います。
ただ、ラグビーと言うスポーツが、野球のように毎日でもやれる競技ではなかった事が良かったと思っています。
例えば日本の場合、最初のロシア戦が9月20日、pool戦最終の4戦目スコットランド戦が10月13日で初戦から24日目でほぼ六日間で1試合のペースである。
この1週間の間が利用され、あらゆる媒体(新聞、テレビ、ネット)などが他の会場の試合や、ラグビーの基本的情報(ルール・ラグビーの精神性・チームの特性・各選手のステイタス)も同時に大量に拡散されだしたのです。

●1 例えば、「ノーサイド精神」試合が終われば、「こちらのsideも敵のsideも」 関係なし、つまり「ノーサイド」、実際には「full time フルタイム」と言われるが、「ノーサイド精神」は脈々と今も流れている。
●2 ラグビーは素人目には15人×2チーム、30人が1個の何処に転がるか分らぬ楕円ボールめかげて乱闘中に見える、しかし実は繊細にして細かい分担があり、それぞれがこの分担を忠実に実行して「勝利」が見えてくるのである。
例えば、前3人は「太っちょ」で力持ち、4、5番はスクラム時、前を支え、ラインアウトではジャンパー(飛び上がる人)を務める、一番後ろの15番は防御ラインの最後のかなめ、等々。
そこで生まれた言葉が 「one for all , all for one」つまり「一人はみんなのために、みんなは一つの目的のために」である。
この言葉を社訓に掲げる企業も結構あると聞く。
●3 ネイティブで日本人、田村優君、5歳で帰化した松下幸太郎君、韓国国籍の具智元君、大阪弁の上手い?帰化組のトンプソン・ルークさん、他多種多様な人達が代表として参集しておられるのです。
●4 代表資格条件は幾つかあるのだが「当該国に3年以上居住」など緩っぽい感があるが、これらを制約する厳しい・しばり・が存在するのです。(2020年から5年以上に変更)
それは、「一度ある国の代表としてプレーしたら、その当該国以外の国では国家代表になることを、禁止しているのです。
そう、一度でもどこかの国のナショナル・チームでプレーすれば、その後他の国の代表にはなれないのです、たとえ自分の生まれ育った国であっても。
そのため、当該国の代表になりプレーするのは生涯で1チームしかありません、その国の人々や文化を愛してなくては決断できません。
それは自分自身の青春の全てを賭けるほどの「決心」が要求されるのです。
これらの代表への制約とプライドがなければ、ゲームでの真のファイトなど出来るものではありません。
このことはジャパン(ブレイブ・ブロッサムズ)だけではなく、20チーム全てが同じ思いのはずです。

 以上のようなゲーム以外のラグビーの精神性やジャパンのチーム、選手個人の情報などが、勝ち進むにつれ大量かつ詳細に発信されていきました。

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 一次リーグの、2回戦、9月28日アイルランド戦、
なんと、このチーム、この時点で世界ランク1位、ベスト8の常連国、ジャパンはどこまで食い下がれるのかが注目、大方の下馬評はジャパン不利となっていました。
そうそう、このアイルランドチームは北アイルランドも含み、この点サッカーとは違うナショナル・マインドがあるようです。

 1次リーグAプール戦でのこのゲーム、19-12(1トライ1ゴールの僅差)で、大方の予想を覆して日本勝利。


 この結果を踏まえて、各種媒体のコメント欄に変化が生じてきたのでした。
このスポーツ、ラグビーに対しての技術的コメント、各ポジションの専門性や、この勝利の意味など肯定的コメントの圧倒的な増加です。
「実況アナウンサーのジャパン、ジャパンの連呼がウザイ」や「外人軍団」、「人種的な不寛容さ」などの書き込みが明らかに減ってきているのです。

 「松島幸太郎くんのヘヤースタイルの事」「帰化しているトンプソン・ルークさんの事」「韓国籍のまま代表入りしている具智元くんの事」「バルアサエリ愛さんの奥さんの事」勿論キャップテン「リーチマイケルさんの事」「ネイティブ日本人・田村くんや福岡君の事」などおおむね肯定的なコメントである。

 世界的には人種的、宗教的、経済的ヒエラルキーに現代は「不寛容」な時代と言われているが、これらの多くのコメントが、国籍、人種、帰化、容貌などに関係なくチームとしての存在に多くが語られたのがoldboy君、嬉しかったのです。

 ゲームとゲームの時間的間隔が長くこれらの肯定的コメントがメディアだけでなく、職場 家庭、学校などのプライベートな空間まで広がり始めたのです。
oldboy-elegyくんも、気の置けない人達と街の喫茶店での会話のネタになったのも良い思い出です。(お前が好きだから無理やり引っ張りこんだのでは、と仰る方もおられようかと思うが、自然の成り行きでした。

 翌月10月5日のサモア戦も、あの重戦車に耐え38-19の完勝。
翌週、Aプール最終戦はこれも強豪のスコットランドとの闘い、台風19号のせいで中止も懸念された中でのゲーム決行でした。
巨大台風19号は各地に風雨、河川の氾濫などによる、人的被害始め甚大な災害をもたらし、ゲームも3試合が中止となりました、(これはラグビーW杯で初の事)。

 ゲームは亡くなった方始め、被災者に対する黙とうから始まりました。
これも、28-21、ワントライ・ワンゴールの僅少差で辛うじての勝利、苦しんで苦しんでのAプール4連勝で首位突破です、もちろんジャパン初の快挙です。

 トーナメント初戦10月20日(ここからは勝ち抜け戦で、準々決勝)は因縁の南アフリカ、前大会で終了間際の逆転トライで勝利した相手です。(この時の映像はユーチューブで視聴可能)
結果3-26 ノートライの完敗でした。
22メートル ラインを超えたのは、前後半通じて2回か3回ぐらいしかなかったように思います。
攻撃も南アの速い出だしとプレッシャーのため殆んど前進出来ないのです、ダブルラインの前をダミーで、内側を多用するのですが「南ア」の的確な防御は破れず、ボールは保持するも横に滑るばかりです。
それでも前半は僅差で追走していたのは秀逸ものです。
後半に入るとラインアウトの破綻と、強力モールに押され始め、あの結果となってしまったのです。

 特筆すべきはこの試合のテレビ中継、総視聴者数が推定で5.500万人、国民の約半数近くが観戦したとのことです。

 この頃になると、視聴者の反応には、当初見られた人種的多様性に対する「否定的、不寛容」なものは少なくなり「良くやった」「本当に楽しめた」「新たな発見」等の「肯定的」コメントが殆んどを占める様になってきたのです。

 ラグビー日本代表の個人の種々のステイタスの形をもう一度見てみよう。
名前は例として入れている。

●1 日本国をもともと国籍にしている選手
 田村、福岡 選手等
●2 両親、曾祖母 の内どちらかが日本人
 松島 選手(幼児期に帰化
●3 帰化
 トンプソン・ルーク、リーチ・マイケル、中島イシレリ選手 等
●4 日本滞在期間3年以上(2020年から5年以上にルール変更)
 具智元(国籍・韓国)等

 以上の内どれか一つクリアーしているなら代表資格条件は有効です。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 ●4など見ると、なんじゃこれ、「ユル、ユルやんけ」と思われるかも知れないが上記の四つの資格条件を縛り、制約する「各種法律の最上位の憲法みたいな条件」がデンと
存在するのです。
それがこれ
● 他国での代表経歴がない事

この縛りを適用すると●4 の重みと意味が全然違ったものになるのです。
例えば具選手の母国である韓国が対外Aマッチのゲームがあったとしても具選手は招集され、出場することはできません。
ラグビーと言う競技における、肉体的過酷さ、それもプロップ3番はスクラムの要です、これに耐える肉体はそうそう長きに渡り代表チームで活躍するのは難しいものです。
自身の青春の一時期、この日本での代表参加は並大抵の決心の上での決断だったと考えると頭が下がると同時に「ありがとう」の気持ちが口をつきます。
これを「たった3年の滞在で代表」とは絶対言えません。
(実際は中学1年生からの日本滞在実績)

 今度のこのラグビーW杯で感じたのは、意外に「日本人と外国人」「国籍」「帰化」「長期滞在外国人」らに対して「日本人」は思っている以上に「寛容」であるということです。

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近年、公衆電話の設置数が増加しているとの事、停電、電池ぎれの時でも、電話基地局の電源さえあれば通話可能との事


 それではなぜこれらの見た目も、国籍も、多種多様な人達が参集してくれたのでしょう。
ラグビー選手の契約金や俸給はサッカーに比べると「天と地」の開きがあるのにかかわらず。
まず第一に「ラグビーが大好き」なのは当然の事として「この日本の風土、人々、文化を愛していただいているのが理由なのです。
それがあのゲームでの「ファイティング・スピリット」の力の源泉ではないのでしょうか。

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 ここからは、この日本の文化・文明に関して外国人、特に欧米人の人達の関心のあり方などを中心に記述したく思います、もちろんoldboy-elegy君の独断と偏見での記述なのですが。

 この国の文明の先端には「文字通り世界に伍する機器や物」が存在するのですが、同時にこの文明的先端品に周回遅れの機器(ガシェット)も同時に存在する、世界的に見ればやや不思議な現象が存在します。


 例えば、CD・レコード・ガラゲー・紙媒体の本・公衆電話・非キャッシュレスニコニコ現金払い・FAX・そろばん・アーケードゲーム店・など今思いつくままに列挙してみたのですが、まだまだ出て来るでしょう。
公衆電話などはここ最近増える傾向にあると言われているようです。
巨大災害時における通信手段と機能を考えての事らしい。
欧米型合理主義では絶対に存在しない思想かもしれません。
「なぜ、いつ起こるか分からない事に多大のコスト(費用)を払うのか」理解しがたいものに見えてしまうのではないでしょうか。


 先端と時代遅れが同時存在する文明、それらを可能にする社会、それが日本文化の特徴のひとつかも知れない、そう思うのです。
これらの事が未だ有効で意味あるものとして存在する。
従ってoldboy君などは、どうにかこうにかこの日本の片隅で、生存が可能で「まだ生きていても良いよ」と言われているような気がする存在なのです。

 この文化が寺・神社・そこに付随する祭礼や儀式、祭り・天皇即位式の不思議など欧米などの合理主義の観点から見れば、意味が見出せない不合理の極み的存在であるのかもしれません。

 これまで一部の社会学者が興味を持つ対象でしかなかったが、マンガ、アニメなどがその専用の機器とともに多くの外国人読者やファンを生み出している現実があります。
日本史などでも江戸期などoldboyくんなどより博学の外国人の方が大勢おられるのには驚きです。

 現在の文化輸出のもとは、日本独特の「その時代時代の日本人の残余癖」の賜物であるように思うのですが、どうでしょう。
お隣の韓国人のブログコメントなど覗くと「韓国のキャシュレス化90%越え世界一、日本18%未開国」とか「未だに投票所に行き、紙の投票用紙に手書き投票・未開日本」とか日本を揶揄するのに忙しい事です。
ところが、ドイツのキャッシュレス化が日本より低いことを知ると、急にダンマリをきめこむ、oldboy君、これらを読むのが楽しい人なのです。
彼等にとっては「文明」の最先端にいることが誇れる最重要、要件であり、「文化」的視点が殆んど存在しないかのようです。

 文化は積み上げる事は可能だが、日本人はおいそれと、今まで無かったように消せないのである。
日本文化があらゆる方面で残し、積み上げてきたもの(一見意味のないようなものまで)を、ここに来て初めて発信し始めたのです。

 つまり世界的価値観から見れば、日本人の考えや思想は理解しがたいものが多くあるはずです。
これも近年、この残余文化に魅力を感じる一部欧米人が増え、それらを見、体感するために来日する人達が大勢いるのです。
アーケードゲイム、LPレコード,CD,はては高層ビル横の神社・仏閣の撮影、列車・電車の撮り鉄、など日本人が意識しないで残したきた「歴史的残余物」に価値が付きだし
世界的には合理的でないため姿を消したものが、この日本にはたくさんある、それらを見ることで自分たちの心に、ある意味、安らぎと言う「合理性」が生まれる、そのために高価な航空運賃を払ってまで来日するのである。

 外国人から見れば一見、この不合理な精神性を日本人自身が自分達で少しづつではあるが、「一見無価値と思えた日本人的価値観が世界に通用する部分も大いにある」、と自己認識しだしたように思うのだがどうだろう。

 日本人は一見多様性に欠ける、「村社会」のようであると言われるが、今回の「多様性の権化のようなラグビーチーム「ブレイブ・ブロッサムズ」を多くの人が違和感なく心から応援し、誇りに思った事が知れて、oldboy君、本当に嬉しかった。

 これからも、この一見、欧米人及びそれに感化された非西洋人(現代中国人や韓国人)が思う日本の不合理と思われる「残余・残置 社会を文化とする日本」の事を日本人自身が意識して好きにならねばとoldboy-elegy君は考えるのである。


この記事3000字ぐらいでと考えていたのだが、途中でいろいろの想念が去来し、長くなってしまった。
誤字、脱字、意味不明の言葉など満載だと思う。
ゆっくり校正する、お許しを乞う。

               了
            oldboy-elegy

 このたびの記事は先日公開した下記記事を受けてのものです。
目を通していただければ幸いです。

 

 

記事一覧 - oldboy-elegy のブログ


oldboy-elegy (15)ソウル(Seoul)暮色   官吏の横暴・闇の両替商・この部屋を予約する理由・ベルボーイの視線の先

 

 
 彼、井野(仮名)さんに初めて会ったのは、韓国ソウルの零細商社がホテルに迎えによこした社用車に相乗りしたのが最初だった。

 以後長い付き合いになる。

 そう彼とは同宿(ホテル)
の身であった。

oldboy-elegy君より10~15歳くらい年上だと思うが、今思い起してみても、互いに正確な年齢の

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事は聞いた事が無かったように思う。

 左のイラスト画像が、当時の彼の風貌、印象に酷似しているので使わしていただいた。
ただしネクタイ姿は印象にはな。

 彼、井野さんとは、取引上の付き合いは全く無かったが、ここ韓国での、商習慣、彼等の考え方等いろいろの局面で知恵をいただいた。

 いわゆる「ウマが合う」と言うのか、良くしていただいたのである。
ただし彼は当方の会社のことはある程度、御存じであったようである。

 彼を知ってる人は彼の事を「一匹狼」「ソウルごろ・ゴロツキの事」「情報や」「利権や」など悪く言う人もいたが、oldboy-elegy君にとっては温厚な人柄で、頼れる人との印象は崩れる事はなかった。

 「ソウル暮色」として今回、四つほどのエピソードを取り上げた、折々に「井野さん」が登場される。



   この記事は、以前「oldboy-elegy(6) 戒厳令下のソウル(Seoul)」の続きのつもりで書いている。
あの時は空港税関の手荷物検査員などの小悪(少額賄賂)を記事にした。
その記事からもう半年になる、長い間うっちゃったままになっているのが胸のつかえとなっていた。

 あの頃は、ブログがどんな物かは想像できなかったが、今では、少しは気持ちに余裕ができ書けそうな気がする。
出来事に関しての良し悪しの判断は一切せずに、見たまま、感じたままを素直に綴るのみで、「嫌韓もの」とは一切関係はない。
当時の韓国の市井の「人々」「情緒」「雰囲気」などに、貴方の身を置き、それも併せて、楽しんでもらいたい。

★1   第一話 官憲と露店商人
下級官吏が路端で小商いをする老婆の野菜を入れたザルを足蹴にし、路上にぶちまける。

 夜のとばりが降りたばかりの明洞(ミョンドン)は雑踏の中にある。
この地域は今も昔もソウル、いや韓国で一番の繁華な街(ディストリクト)なのである。
仕事を終え、タクシーや仕事先の社用車でホテル近くまで来ると雑踏を避け乗り捨てて歩くのが一番である。

  oldboy君、雨でも降らない限り、新世界百貨店前(シンセゲイ・ペグファジュム・アぺ)あたりで降り、ぶらぶらと街の喧騒と雰囲気を楽しみながら、ホテルに帰るのが常であった。
 そんな折、あまり見たくもないこんな光景に遭遇したことがある。

 白い、いわゆる韓服(チマ・チョゴリ)姿の老婆がデパートの前、道路脇の歩道の街灯の下で大きな竹ザル2個に青物の野菜を一杯にして小商いをしていた。

 oldboy君、この光景を目の端に入れながら通り過ぎようとした時である。
何処から出て来たのか分からないが、紺色のズボンに白いシャツ、頭には同じ紺色で、ひさしの付いた制帽、シャツには何のマークか分からないが、両肩に肩章が厳(いか)めしく乗っかっている屈強な男二人が、あろうことかいきなり老婆の売り物の野菜が入った大きなざる2個を足蹴にし歩道にぶちまけたのである。

oldboy君、一瞬凍り付き、その場に立ちすくむばかりで、何が起こったのか理解できずにいる。

 おばあさん、なにやら大声で叫び、二人の男達に、つかみかかり、食ってかかっている。

日本でもしこんな光景を見たら、おばあさんの身の上がなにやら哀れで、理不尽な男達に「罵声の一つ」でも浴びせたくなるのが普通の想念であり感情だろうが、今ここで見ているのは何であろう。
不思議なのが、繁華街を行き交う人々の多くが、全てとは言わないが、この出来事に比較的無関心なのである。
oldboy君、歩みを止め、この衝撃的な光景に「あんぐり」、だが通行人にとっては、
「氷ついたかの様に突っ立っている」俺の姿の方が、非日常の景色であるかのような雰囲気である。

 ホテルに帰り、遅くに「ホテルに帰宅」して来た井野さんにインスタントコーヒーをいただきながら聞いてみた。
「それ警官やは、明洞一帯の露天商の所場代、めちゃめちゃ高騰していて、そこの権利だけの売り買いもすごい事になっているらしい、利権争いも半端ではないと聞く」
続けて「そんな場所でのそのおばあさんは多分、無許可、無賃の露店行為やから、皆、醒めて見ているのとちがうんかな、まあそれでも、我々日本人と基本、情緒が違うからな、なにがあっても普通その二人の警官が真っ先に非難されるのが日本やろな」

 oldboy君、今は、そんな現場からそそくさと離れ、デパート前から横断歩道を渡り、明洞側からこれを見るとはなしに見ている、まだ気になっていたのである。
おばあさんは散乱した野菜をひろい集め、ザル2個を頭に乗せ手を添え、去って行くまで目の端で見ていた。

 この日、ベッドの中でも、老婆の残影が消えない。


★★2  闇の両替商

 ホテルを背にして前の一方通行を右に数丁行けば、先ほどの「新世界デパート」に、左にすこし歩けば、ここにも「デパート」がある、名前は「美渡波」だったか「美登波」だったのかは忘れた。
「新世界デパート」は韓国一の、業容を誇る老舗店(戦前は三越・ソウル店)であるが、この「美渡波デパート」は似ても似つかぬ「しょぼくれデパート」である。
いわゆるビル全体が「店舗貸し・テナント」で小売店の集合体であるらしい。
その業態は、昔、大阪にあった「千日デパート」のようなものである。

 実はこの得たいの知れぬ「デパート」もあの「井野さん」の紹介で、訪韓の折、必ず1・2回くるのがoldboy君である。
それでも、一階の飴色の金属枠扉は高級感漂う重厚さがある。
この重々しい両開きのスイングドアーを押し開き中に一歩入ったなら景色、雰囲気が一変、4、5坪程度の朝鮮人参店ばかりが結構広い1階売り場全体を埋めているのである。
読者の方は知っておいでかどうか知らないが、朝鮮人参の化粧箱は基本、赤色が中心であるから、この空間の異様さは特別の感がある。

 もちろん「朝鮮人参」を購入するために教えてもらった訳でもない。
読者諸兄はお分かりかな、そう闇の「両替商」も、これら店の裏の顔なのである。
井野さん曰く「まあ5万円も両替したら2万ウオンぐらいトクになるんかな、なあ朴ママ」と女性店主に、念を入れる様に目配せする、すべて日本語である。
「もし人参のみやげ買うなら、ここで買ったらいいわ、これほど粗悪品掴まされる品物あらへんからな」と井野さん。
朴ママ、ニコニコ首を縦にふりふり「よろしくね、まかいしといて」となまりの無い日本語でoldboy君にご挨拶。

 いらい両替は、よもやま話を含めてこの朝鮮人参店でやっている。
そのおり、濃いこいーいコーヒーが出でて来る。
朝鮮人参は以来、頼まれ物で何回か買い、日本に持ち帰っている。
人参そのままの形状の物は買ったことはない、顆粒状の小袋入りのもので、母は一度口にしたが、それきりである。


★★★3  第三話  いつもこの部屋を予約する理由

 

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 oldboy君、この日も無事仕事を終えホテルにご帰還。

レセプションカウンターでキーを受け取り、自分の部屋に。
日程が決まれば直ぐに、日本から予約を入れるのだが、それでも時折満室で、
1日だけだがよそのホテルに宿泊することがある。

そんな時の手配は全て定宿にしているこのホテルがやってくれる。

 基本的な日用品やはては電気スタンドまで段ボール1箱にまとめてホテルカウンター裏の小部屋の一隅に預けて帰国する。
何故か、ホテルの照明、oldboy君にとってはルクス不足に感じてしまうのだが、
彼だけの感覚なのか、わからない。

 予約する部屋は決まっている、4階エレベーターホールを出て右に、長い廊下の突き当りを鍵型にさらに右に、そして一番奥の右側の部屋がお気に入りなのである。
それには、oldboy君なりにキチンとした理由が存在するのである。
まず、ベッドの広さがダブルである事、普段、布団で寝ている身にとり、この贅沢は何にも代えがたい感覚なのである。
次に、突き当りの部屋であるので廊下を行き来する人が、向かいの部屋の宿泊客以外は皆無なのが嬉しい。

 最後に、この部屋が気に入っているもっと重要な事がoldboy君にはある、さてそれが何かお分かりかな。
「火災の恐ろしさ」に関係がある。

1971年の師走、クリスマスの朝に出火、200人近くの人々が亡くなった「大然閣ホテル火災事故」が起きている、そんなに昔の事ではない、火災現場もここ明洞(ミョンドン)からそう離れていない。

「大然閣ホテル火災」の死者の多さの原因は、22階という、高層造りで、火の回りが
異常に早く人々は火炎に追われ、飛び降りた事とされている。


 そこでoldboy君の投宿しているホテルの4階の廊下の突き当りには、鉄枠、両開きのガラス窓が、設えられていた。
開けるのに、何の造作も要らぬ。
ただし安全に関する備えは全くない、外付けの非常階段は勿論、避難用縄梯子(はしご)は無論、一筋のロープさえ無いのである。
ホテルの名誉のために言っておくが、21世紀の現在の話ではない、40年以上昔の状況をお話しているのである。

 だがこの窓のすぐ下は、アスファルトの地上ではなく、お隣の、3階建ての有名中華料理店の大屋根なのである。
通常時、この大屋根に飛び降りろと言われれば、運動音痴の彼にはちとしんどいが、いざとなれば、「やれん事はない」程度の高さなのである。
そう、この事が「この部屋を気に入っている」一番の理由でもある。

 「お前、小心者すぎるやろ」と言う人もおられるかも知れないが、何も手間暇(てまひま)かかるものでも無し、「自分の意識の奥にインプットしておくだけのこと」で安心感が違う、「夜は高イビキ」で眠れるということである。

 
★★★★4  第四話  4階廊下に10人ばかりの男女、わいわい、キャーキャー
      と辺りかまわぬ嬌声の中

 暮れなずむ夕日の中、oldboy君、やや早めにホテルにご帰還である。
今日、井野さんのお誘いで、「新村・シンチョン」ロータリーの「兄弟カルビー店」での食事会にご招待。
繊維会社の会長さんである「張・チャン」さんと言う方の招待である。
ビジネスの用向きでなく、「久しぶりに会って、楽しくお話しましょう」、が主旨とのこと。
当然、oldboy君の同席は了解済みのことである。

 井野さん曰く「この張会長はきれもので、出身は北朝鮮の平城(ピョンヤン)近郊の村、特筆されるのは戦前の日本が設立した「平城師範学校卒」との事。

 のちにoldboy君、何が気に入られたのか不明だが、ビジネスとは関係なく、幾度も食事のお誘いを受けている、中でも特筆ものは、彼の会社行事のハイキングにも参加したこともある。

 早朝、ホテルの部屋の呼び鈴がなり「誰だろう?こんなに早くに」と出てみると、そこに出勤途中の張さんが立っておられ、「昨日会社で山登りに行き、これを買いました」とリンゴ4~5コの入った竹ザルを土産に手渡されたこともある。
二つ下げておいでになるので、今から上階の井野さんも訪ねられるのだろう。


 彼、張さんに就いては、いずれ一つの記事として書くつもりである。
oldboy君が知る朝鮮、韓国人の中で、唯一無二の知識人だったかも知れない。

 

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 さて、井野さんとの約束時間まで少しある、ルームキーを受け取り、自室に手荷物を置きに戻るため、エレベーターで4階に上がる、扉が開くとベルボーイの黄(ファン)君が仲間のもう一人のクロークとホールの横に置かれている簡易机の横に立ち、二人して同時にoldboy君みる。
イラスト画像のベルボーイ君は赤色、詰襟姿であるが、黄(ファン)君はやや濃いベージュ色だったと記憶している。

 ファン君、困り顔で俺を見て、通路、廊下の奥を指さし、oldboy君に懇願の様子。
廊下突き当りの角部屋の前で10人ちょいの男女が「ワーワー、キャーキャー」と大騒動、アルコールも入っているらしい。

 その嬌声の中から、日本語も聞こえてくる、男は皆、日本人であるらしい。
ファン君「別にいいんですが、もう少し静かに、部屋の中でと、頼んでいただけません」と遠慮がちにoldboy君にお願いする、顔には「日本人同士のよしみで」と、無言のプレッシャー。

 僕ちゃん(oldboy君)、急に気弱になる。
不得意な事、数々あれど、根っからの「不戦論者」である彼の一番の不得意種目である。
君子でもないが「危うきに近寄らず」は彼の主たるモットーの第一番目をなすものである。

 嬌声の中から「アミダで決めよ、それが一番公平やろ」の大声が、耳にはいる。
今晩のお相手を、アミダくじで決めようとの事である、
見ていると、この提案に、みんな同意らしいが、部屋に入る様子は見えない。
どうもこの場でクジをやるらしい。

 ファン君、oldboy君の後ろに回り、押し出そうとする素振りである。

対面(といめん)の迷惑団体が、一層声を張り上げ、掛け声をかけ始めたのである。
どうやら準備ができアミダくじが始まったらしい。

 oldboy君、この一層の喧騒と「ホイホイ・・・」の掛け声に押されるかの様に意を決したのである、まさか死ぬこともないだろう、それにこれからもこの慣れ親しんだホテルのスタッフに、あの人、「あかんたれ」」と影で後ろ指を指されるのはもっと苦痛である、との思いがさせたのかも知れない。

 決心すると、逆に義憤が生まれ、即、彼等の方にスタスタと足早に近づいて行く。
この行動、自分でも信じられないoldboy君である。

 「あんたたち、この廊下は君たちだけのものではないんよ、やめろとは言わないが、せめて部屋の中で遊んだらどうだ、あそこにいるベルボーイ達の表情、見て見ろ、あの視線」的なことを、oldbou君、言ったようだ。

 すると、男達の中の一人が,顔を斜にしながら、oldboy君にツッカカリ両襟首を持たれることになったが、何故か怖くはなかった、これが「肝が座った」状態と言うのだろう。


 この時である、この集団の内の年配格の男が「こらxxxやめとけ」と襟首をつかんだ若者をしかりながら「みんなわしの部屋に入れ」と仲間を語気荒く恫喝したのである。

 この日、この後(あと)、井野さんと張さんの待つ「新村カルビー店」へ急ぐことに。


翌日の夜、ルームサービスでコーヒー&ハチミツシロップつきのパンケーキが届く、勿論、ただである。
ファン君(ベルボーイ)の精一杯のoldboy君へのお礼の意味である。

                 了  

              oldboy-elegy

 

oldboy-elegy.hateblo.jp

 

(雑感・雑記帳 No.8)ラグビー を真ん中に、oldboy-elegy君の各種スポーツ観を、独断と偏見を持って話してみる。

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  左のイラスト画像、「いらすとや」さんからお借りした、ラグビー、プレー中の図柄である。
赤いユニホームが「日本」で緑が「アイルランド」と見立てるなら、ピッタリ感、100%です。

 こころなしか赤のジャージの彼は
福岡選手に見えぬこともない。

 今、巷(ちまた)では、スポーツ・シーズン花盛りで、「ラグビーW杯・日本大会」「サッカーW杯アジア予選の始まり」「バレーボールW杯」などの国際試合などが目白押しの状態である。
この先導役はラグビーなのではと勝手に思っているがどうだろう?!。
oldboy君、基本スポーツ向きの体躯や根性を備えていないのだが、それだけにテレビ観戦は大好きなお人である。

 今日はラグビーを中心にスポーツ全般について、私見を語りたいと思う。
多分に「お前の偏見や」と憤慨される場面もあるかと思うがお許しあれ。

ここで本音を言ったなら「もうお前のブログなんぞ読まないわい」と仰る人もおられるかも知れないが、とにかく嘘は書けないので初めに公言することにする。

アメリカンフットボール」「野球」に「ゴルフ」、このみっつ、最近ではテレビで視聴することもないし、関心もないoldboy-elegy君である。

 ただ野球に関しては、幼少のころ、地元の高校が夏の甲子園に出場した折、義兄に連れられ行った事が野球実観戦の唯一の体験である。
ここでの「ゲームとしての野球」そのものの記憶はゼロである。

 ただし、甲子園球場の雰囲気は「緑のグラウンドと、それを取り囲む白一色の観衆」
という視覚的記憶は今も強く残っている、もう一つの嫌な体験とともに。

 義兄からお金を預かり、「かち割氷(かちわりこおり)とラムネ」を買うために席を離れたのが運の尽き、二度と元の場所に帰還できず、半べそかきかきの小一時間、ようやく見つけてくれた時、ビニール袋の氷はほぼ水に、たしか7歳の真夏のある日の出来事であった。
これが原因で「野球は見ない・関心がない」と言う訳でもない、それにはoldboy君なりの理由が存在するのである、人はこれを屁理屈と言う。
お前のそれは、単に「屁理屈」で「偏見」と言うお方は多いと思うが、こればかりはどうにもならぬ。
特に、「野球」はこの国では「国民的スポーツ」でコアなファンは圧倒的な数になるはず、これを否定するのには、多少の勇気もいる。

 あと、オリンピック・世界陸上など普段見る事のない競技などはそれなりに関心もある。陸上競技のトラック、フィールド、マラソン、それに柔道、水泳 等々特に、これはダメと言う物もない。
あーそうそう、駅伝競走はもう一つ好きになれない競技の一つである、これもoldboy君なりの理由がある。

 この競技(駅伝)、団体競技個人競技の両方の要素を合わせ持つ不思議な競技である、走るのはその区間は己一人である、その区間をリレーで繋ぎ、それぞれのタイムの合計が成績であり、ここの所は団体競技と言える。

 陸上競技の中で、一番過酷な競技は5千Mや1万Mの中距離帯であると言われることがままある、まさに駅伝は、競技全体しては長距離を(団体競技)、これを中距離で6~7区間程度に分割され、それぞれの区間が1人のランナーにまかされる、ここの所は「個人競技」なのである。
 oldboy-elegy君、まさにこの団体競技的な部分がお気に召さないのである。
近年、この競技、箱根駅伝を頂点に人気は高い。

XX大学、△△会社、**高校の名前入りの昇り旗の下を選手たちが必死の形相で、団体競技としての栄光を勝ち取らんとして、坂道を登り、下って行く。
そしてコースに林立する昇り旗だが、疲労困憊の選手がこれを見て、再度心身が鼓舞されるものなのか、怪しいものである。
所属チーム名の恰好の宣伝媒体になっている感がある。
むしろテレビ映りを意識した、商業主義のシンボルではないのか、近年その傾向が強く感じられがどうであろう。

 駅伝が持てはやされるようになって、相当の年月が経つが駅伝出身のマラソン、や中距離、著名選手の名前はあまり聞かない、ましてやオリンピックや世界陸上などでも同様である。
とくにマラソンと、箱根駅伝を考えるなら、およそ相関関係は、素人目には無いように思うし、むしろ科学や心理学的根拠とのそれは、限りなくゼロに近いもののように思う。
オリンピックや世界陸上でのマラソンは、箱根駅伝コースとは別物である。
またスピリッツも「仲間のため、学校のため」で自分自身は「犠牲」以外に思いつかない、oldboy君こうした「考え」が嫌いで性に合わない。
「個人の極限」を超えて「それ以上の極限」を「団体競技」は「根性」と言う言葉で「強要」する、見る人はそれを美化して「落涙」する。
もっと言うなら、古式騒然とした「日本的想念」を書き換え、上書きしたもののようである。

 このことなど、真に科学的・心理学的に検証されねばならないと感じる。
「俺はもう走れない、ここでコースを外れるか、倒れるかギブアップしたい、しかし仲間がいる、それを無にしたくない、走れ、いやもうダメだ、監督は言う、根性だ、あと1Km」と。
「根性」と「商業主義」の権化のような競技に、oldboy君には見える。
それ故か、この「駅伝競技」なるもの、世界に拡散、輸出される気配は見えぬ。
原因はこの、日本的な想念と個人に与える強烈なプレッシャーが嫌われているのかもしれない。
しかし、このことがまさに、日本人の好きな観念、想念なのである。
「駅伝」に関してのoldboy-elegy君の独り言はここで終わりにする。


 ここから、この記事の冒頭で呟いた(野球・アメフト・ゴルフ)に関心がない、oldboy君の理由(人は屁理屈と言う)を披露する。


●野球
① まずゲームでの休憩が多すぎる、そのため少し無理すれば毎日でもゲームが
可能。
たいへんな練習と年月を経てのゲームであることは理解するが、観客に披露する
場面での運動量・エネルギーカロリーが少なすぎる。

② 攻守が入れ替わり、攻撃側はバッター以外はご休憩、あとはピッチャーと
キャッチャーだけのボールの交換。
守備の内野、外野手も緊張はしてるんだろうが基本静止画像+程度。
そのため、いい場面の時は、概ねトイレに行ってるか、キッチンで冷蔵庫を
漁っている時におきる、結局、録画を見ることになる。

③ 道具が多すぎる。経済への波及効果は認めるが、個人的には金がかかりすぎる。

④ 本家アメリカのMLBメジャーリーグ)の優勝決定戦を「ワールドシリーズ
と言う!これ如何に、USAが何時から世界になった。

アメリカンフットボール
① これも攻守が完全に入れ替わり、半分の人が肉体的には全休である、
アメリカ発祥の人気スポーツはお休みが好きらしい。

② ヘルメット着用義務のため、初見者には、誰が誰だか分からない、バック
ナンバーが頼り。
背番号がやたら大きいのはこれのためだと、密かにoldboy君は思っている。

③ 攻守とも完全に役割が決まっている、花形ポジッションが幾つかあり、
フレキシビリティ(柔軟さ)に欠ける。

④ 休憩中の選手がサイドラインに沿って居並び、その風景は甚だ異様に映る。

⑤ 日本でもそれなりに歴史はあるが、大学での強豪校はいつも概ね一緒。
見た目は華やかだが、組織は古い因習に満ちている感がある、特に関東では。


●ゴルフ
① 学生のころ、塾の生徒(中学生)、20人ほど引率し、六甲にハイキングをした
事がある。その帰り、少し山道をそれ、やがて金網の長い長いフェンスに
遭遇、随分の遠回りを強いられたことがある。
フェンスの内側はゴルフ場であった、3、4人のおじさん達のグループが広い広い
コースにチラチラと見えた、何故かその時「このスポーツ?だけは生涯絶対しな
いぞ」と決めた。
クラブは握ったこともない、したがって駅のプラットホームでコウモリ傘を
クラブに見立て、振り回し(スイングする)た事もない。

  これらの真逆のスポーツが「ラグビー」と「サッカー・フットボール」かも知れない。
兎に角、40分x2 の間、休憩は許されない、その時は交代でコートの外に出されることになる。
敵は同じコートの内にいる、体と体の接触、ぶつかり合いはもとより、意図的に(ラグビーの場合)二人、三人がかりで、100Kgを超える全身を使いぶっつかってくる、勿論ルールの範囲内の事であるが、それでも殆んど怒りを伴う争いは起らない。

 ただサッカーに就いては残念な事は「simulation(まね・ふり)」「diving(ファールを受けたふり)」「無駄なパス回し」などファールにまで至らなくても見ていて気持ちが良いものではない。
とくに残り時間10~15分でスコアー(1-0)などの場合、勝っている側はあらゆる手段をこうじてまでボール保持に努める、これルールでなんとかならないものか。

 それでは「ラグビー」と「サッカー」の一番の違いは何だろう。
もともとは同根のスポーツで発祥は英国である。
どちらも、必要な道具は「ボール1個」のみである。
サッカーに限れば路地や空き地、あとは人がいれば、それでOkである。
ただチョットした試合形式のプレーは「ラグビー」には無理がある、
キックなどの練習はできても、遊びにはならない。
この点、サッカーは「ボール1個と一人から5人10人と人がいても」それなりに遊ぶことが可能である。

南米などの映画や動画を見る時、サッカー遊びをする子供たちが映り込むことがよくあるが、ラグビーではまず見ない。

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 はっきり言えば、oldboy-elegy君の団体競技での一番は「大学ラグビー」であった。
つい先年までは花園ラグビー場、鶴見球戯場、長居球戯場そして気が向けば京都は西京極、宝ヶ池まで出向く事もあったが、数年前に免許証を返納したこともあるが、それ以上に、あまりにも母校の弱体化が進み、最近では「大学サポート番組」のブログをお気に入りに保存しているのみである。

 ここでoldboy-elejy君が体験したチョットした話をはさむ。

 もう今となればそこそこ以前の「花園ラグビー場」での事である。
母校は第二試合で、2時からのキックオフであるが、今は未だお昼前で、第一試合開始までも少々の時間がある。
バックスタンドの裏に広い空き地があり、そこが当時、無料駐車場になっていた。
ここから徒歩でラグビー場正面の入場券売り場に出る。
また近鉄東花園駅からここまで徒歩で10分少々、ここも濃い人の列が続く。

 oldboy君少々小腹が空き、ラグビー場メインスタンド裏の2階通路奥にある大食堂(セルフサービス)に直行、カレーライスを注文、先ほど学生君から頂いた、母校発行のスポーツ新聞を読みながら食事をする。

 そこに「ここいいですか?」と若い女性の声。
顔を上げると、杖をついたそこそこ年配のご老人とそのお孫さんと見られる娘さんが目の前に。
oldboy君、あわて立ち上がり「どうぞ、だれもいませんよ」と右手、手の平を上向きにどうぞと前にだす。
ひょっとしたら(母校の大先輩かも)の意識が彼を反射的に、起立さしたのかもしれない。

 老人は、お孫さんらしき女性の手をかり、食堂のパイプ椅子に、ヨッコラショと着席、女性はそのままキッチンカウンターの方へ。
ご老人、oldboy君が見ていた母校発行のラグビー特集が掲載された新聞に目をやりながら「今年はどんなもんでしょうかな?」と話しかけてこられた。
お聞きすると、やはり同じ大学の大先輩で和歌山市在住との事、女性はお孫さんとのことである。
そこに彼女、トレーにカレーライスを2皿乗せてご帰還、我々が何やら話していることを察知、ニコッと笑顔をoldboy君に差し向ける。
「この時期になったら、毎年私の運転で1、2回和歌山から出て来るんですよ、今日と、うまくいったら大学選手権の初回の花園開催の時と・・・お爺ちゃん、普段あまり外出しやらへんのに、なにかこの季節、元気にならはるみたいで・・」とお孫さん。
「そうや、もし俺が、しんどいから今年は辞めとこか、など言いだしたら、もう遠くないと思っとときや・・」とニコニコ顔のご老人。
お孫さん「冗談言わん時、それも人前で」と作り顔でおかんむり。
oldboy君「先輩のその感覚、分かる気がします・・」と相づち。
「先輩など言われるだけで、なんやら若返った気分ですは、有難う」と、これまた先輩。
ラグビーでの母校の活躍、あまねく卒業生達の「健康」と「心身状態」の良し悪しを司る(つかさどる)ことを、学校当局は知っていなければならないが、そうでもないらしい。

 「それでは、ここで失礼します、未だ席も決まってないので」とお孫さんの軽い介添えで立ち上がりスタンドのほうに。
oldboy君、立ち上がり直立不動「先輩もお元気で」と、会釈とともに、軽くコウベを垂れる。
学校発行のスポーツ新聞、持っておられなかったので、勿論お渡ししておきました。oldboy君なにやらチョットしたふんわり気分である。

 たったこれだけのラグビーにまつわるお話、第一話として、取り上げさしていただきました。

 ラグビーにまつわる話の第2話である、oldboy君、ときおり駅前商店街に出て、お茶会(コーヒー店にて)を友人数人と催すことがある。
勿論、今はやりのスターバックスなどではなく、昔からの所謂「街の喫茶店」であり、タバコOKの店ではあるが、一応、簡単な衝立でコーナー分けがされているだけである。
oldboy君も含めて4人だけの参会であり、喫煙、非喫煙者は半分、半分である。
席はいつも、喫煙席に入る。
もちろん、oldboy君、禁煙中の身で、やがて3年になるが、受動喫煙などと目くじら立てる事もしない。

 そこでのよもやま話に、ラグビー日本代表(ブレイブ・ブロッサムズ・勇敢な桜の戦士)の話が出た。

 「よくあんだけ、ぶつかり合いするのに、喧嘩にならへんのが不思議、あれでルールの内側のスポーツって新鮮」

弥生人の中に、濃い外人がたくさん居るジャパン、なんか違和感あるな」
「究極の観戦のためのスポーツやな、自分も参加したいとは思わないし、殺されそう」
などなど。
oldboy君以外はラグビーを腰を落ち着け、テレビ観戦したのも初めての事らしい。

 「ジャパンのキャップテンの名前、知ってる?」とoldboy君が聞く。
スポーツ新聞を片手に「リーチ・マイケルやけど」と友人の一人。
他の二人も「そやそや」と相づち。
「リーチ・マイケルってなんか名前に違和感あらへん」とoldboy君。
「外国人やろ、普通に」「日本人、キャプテンにしといたらいいのに」などの返事。

 「彼、日本人やで、帰化してはるんや、15歳の時に札幌にきて、今も勿論奥さん、お子さんと日本住(ずみ)やし、それに奥さんは日本人。
だから、リーチ・マイケルは英語でなく、ある意味、日本語のカタカナ表記や、もともとニュージランド人でマイケル・リーチ(Michael・Reach)がそれまでの彼の名や」一同キョトン顔。
「普通、マイケルはファミリーネームではないわな、名前やわな、だから帰化申請の時
日本流に家の名前を前に、自分の名前をあとにしはったやんや、つまりリーチ家のマイケル君に、彼の強い決意の表れでもあるんやと思うが。

 ここからは喫茶店での話を離れて、代表選手の基本的なステイタスを記述しておく。帰化してない外国籍選手もおられるが、また違った条件の縛りの中での日本代表選手なのである。

●当該国に3年以上(36か月)の居住。来年から(2020年から)は5年以上(60か月)以上の居住が必要と改定される。
●上記の居住の問題よりももっと強い国家代表になるための制約がラグビーにはある。
一度、ナショナルチームの選手になり公式戦に参加したら、その後、他国の国家代表にはなれない、の規定である。つまり、国籍はネイティブのままで他国の代表に一度でもなればその時点で自分の生まれ育った自国の代表は勿論の事、他の国家代表にもなれないのである。
他のスポーツでこれほどの制約を課したものは知らない。

 ラグビーの選手生命は概ねそう長いものではない、自分の青春に、全てを懸けることを決心して参加して頂いているのである。

 これらの事がラグビー国家代表の強烈なファイティングspritsの源泉なのかもしれない。
それ故、彼等は助っ人ではない、彼等自身のことである、こんな思いでジャパンに参加してもらっている、外人だからと非難する人も多いが、これらの事を知れば、むしろ感謝せねばならない、日本と言う国を選んでもらったのだから。

 もう一つ、外国籍の選手数であるが、日本だけが多いわけでもない、ただ日本人顔の中に彼等の風貌はいささか異質に見えるのが原因かも知れない。
他の外国チームの中に入れば、ある程度、同族・同質に日本人には見えてしまう。
調べて見れば日本より多くの外国人が在席するチームもある。
これを記述するなら今回のワールドカップでは以下の通りである。

各国における外国籍選手の人数
サモア(13人) ウエールズ(12人) トンガ(12人) スコットランド(12人)
日本(選手31人中11人) フランス(10人) オーストラリア(9人) イタリア(9人)
アメリカ(8人)などである、決して日本のみが多い訳でもない。

 この記事を書いている最中に、日本(ブレイブ・ブロッサムズ) がスコットランドを破ったゲームをみることができた、プールAで4戦全勝の成績でベスト8に進出、日本初の快挙である。

 はじめ松島選手のヘヤースタイル、変わってるなと思っていたのが、今では彼の笑顔とともに、最高のベスト・マッチングと思えるようになった。
人間か、俺だか知らないが、いいかげんなものである。

                 了
               oldboy-elegy

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oldboy-elegy (14)救いの神(ボンネットバス)降臨、しかし元凶は俺なのか??!!

 

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 このイラスト画像、勿論バスである。 
ただしバスはバスでも昔懐かしボンネットバスと呼ばれる形式のものである。
 アメリカなどのスクールバスは概ねこのスタイルのものが今でも多く使用されているとのこと。
 塗装はウオーニング(危険認識)カラーの黄色が主流なようである。
 車両の構成部分の中で一番重量比が高いとされるのがエンジンである。
その部分が運転手、乗員の部屋とは別にボンネット部分に格納されている。
そのため衝突時にも人身に与える障害が軽減されると言うのが理由であるらしい。

 「
なぜそんなにボンネットバスにこだわるの?」と諸兄はお思いなさるかと。
今回の記事、one noteをネタ帳替わりに使用しているoldboyくん、そこに、「山中良樹くんの事(仮称)・ボンネットバス」のメモがブログを始めたころにすでに記入されていたのである。

 
記事化するにはどうしてもこのボンネットバスのイラスト画像が必要条件であり、無ければ、話の印象が随分と棄損されてしまうとまで思っていた経緯がある。

 
今回も、ネタ帳を、ぼんやりした頭で繰って(スクロールする)いたら、これまた、なんとはなしに「ボンネットバス」の部分でストップ、「まあ無いやろな」
いつもの通り初めからあきらめムード。
つまり探しても「あるはずがない」とoldboy-elegy君、決めつけているのである。
「まあいっか、どうせ暇なんやし、検索して見よ」の声が、これまたうつろに後押し。
取りあえず、いつもお世話になっている(いらすとや)さんで「ボンネットバス」にて検索。
すると、なんとなんと、あったではないですか、それも一枚だけ、またその一枚がoldboyくんが、「さもありなん」とイメージしたものとピッタシ一致。
瞬間、「この記事一丁出来上がり」と感じて、今こうして作業中(記事を書くこと)の身でございます。

 「いらすとや」さん、いつもいつもお世話になります、もう少し、私のブログに人気があればと思うのですが、この点お許しくださいね。

 さて前書きが少し長くなったのですが、何故「ボンネットバス」の画像が必要だったのかを含めて、納得して頂ければ嬉しい限りでございます。

 oldboyくん、幼少の頃、確か、小学3年生の頃のお話です。
年は変わったと言えど春は未だ未だ先のこと、近所の同学年の「山中良樹」くんと連れだって登校途中のことです。
彼とは学年は同じだがクラスは違っています。
山中君ははoldboy君の家の裏手にある畑に沿い、4,5軒ある小ぎれいな平屋の1軒に住む子であるが、そう仲が良いとか、普段の悪さ遊びの連れとか言う訳でもありませんでした。

 つい最近越して来たらしいのですが、どこか我々と違い粗野な部分は全く感じられず、言葉も同じ関西言葉ではあるが、河内弁ではありません。
そうそう彼、この寒空に半ズボン姿なのです。
誰か近所の大人を介して、お母さんともども挨拶に来られての付き合いであり、母などは「朝、学校に連れもって行くんやで」と気に入っている様子なのです。

 それを言えばoldboyくんも小学1年の途中入学と言う事もあり、当然生粋の河内弁を駆使出来るわけもなく、言わばエセ河内弁なのですが、そこは少々の調子の良さといい加減な性格でカバーしている存在なのです。
「おんどれ、なめちんけ、よこずらひっちんど、われ」は河内弁の定番フレーズですが、oldboyくんが言えば何処か調子が狂うようで笑われるようです、「よう、われ」。

 軒を連ねた町中を抜けると、すぐに視界が開け、やや広めの農道が真っすぐ東に伸びていて、小学校の西門に突き当たるのです。
道幅3m位で門までの距離、300m位かもう少し短いかな、この道を鋏んで田圃と畑が続きます。

 ただここで、言っておかねばならぬ事が一つ、それは、この農道の南側にもう一本並行に走ってた府道(県道)が存在していたのです。
府道と言ってもバラス(ジャリ)を敷いたギリギリ対抗2車線程度の道です。

 二人は農道を離れ、田圃(たんぼ)に降り嬉々として飛び跳ねています。
今朝は良く冷えたのか絶好のコンデションです?。
刈り取った稲の株に昨夜来からの冷え込みで霜柱が立ち、薄い氷が張っているのです。
これをズック靴(薄いゴム底の運動靴)を履いた両足で跳ねるように踏んづけて走り回るのです。
「バリバリ、ギュ、キュウ」など、踏みつける調子でいろいろな音が発生するのと足裏から伝わる感触はたまりません。

 ひとしきり、嬉々として飛び跳ね、遊んだ二人は元の狭い農道ではなく、広い府道(県道)の近くまで来て、そのままこの広いジャリ道に上がろうとしていたのです。
この道路脇の辺りは田圃(たんぼ)ではなく、府道に沿って畑となっていたのです。

 その時、考えもしない大変なことが起きてしまったのです。
良樹の悲鳴と水音が殆んど同時に聞こえてきたのです。
oldboy-elegyくん、とっさに振り替えるが良樹の姿が見えないのです。
水音、時折悲鳴、くぐもった声がするばかりです。
それでもわずか10メートルも行かない先に彼を見つけたのです。

 そこにあったのは!、皆さん分かります、畑の造作に隠れるように野井戸、野井戸があったのです。
彼が覗きこんだ時は良樹ほとんど水没状態で、このあとすぐに手足をばたつかせた彼が現れたのです。
野井戸は直径1.2~1.5Mぐらいの円形、縁の高さが畑の地面から20~30センチぐらいしかないコンクリ製で、子供でも足をすくい取られるほどの代物です。

 とにかくランドセルを放り出したoldboyくん、懸命に手を差し出しのですが、あとわずかの所で届きません、良樹のランドセルの肩バンドにも同様です。
そうこうするうちに良樹、水に沈んだり浮いたりで、このままでは大変なことに、の思いがoldboyくんの脳裏をかすめるのです。
あたりに、誰かいないか、縄か棒切れでもとキョロキョロした時、oldboyくんの目に飛び込んできたのが府道を西からやって来る、バス、そう近鉄バスボンネットバスなのです。
oldboyくん、もう必死です、府道に飛び上がり目の前に来たボンネットバスに身を投げ出すようにして止め、自分でも何を言ったのか、言葉にならない言葉で何かを言ったのでしょう。

 運転手さんや、乗客、女性の車掌さんも含め、5~6人の人たちが道からドタドタと畑に飛び降りすぐに良樹をなんなく野井戸からひっぱりあげてもらったのです。
oldboyくん、人生でこれほど怖い思いをしたのはこれが唯一の事だったかもしれません。

 良樹は意外に元気で「ゲホ、ゲホ」しながら泣くこと泣くこと、ただ助けていただいた人たちがどんな方なのかなどの記憶は全くありません。
それでも良樹、「家に帰る」と、泣き泣き言うので目前の学校ではなく家に連れ帰ることにしたのです。
付き添って彼の自宅まで言って事の顛末をおばさんに報告したまではoldboyくん、記憶にハッキリと残っています。

 もしもしあの時、あのボンネットバスが通らなかったらと(考える度胸)は彼にはありません。
へたすれば一生の負のトラウマをあの時、背負うことになったかも知れないのです。

 偶然の神様に感謝、そしてなによりもあのボンネットバスの走り来る雄姿に乾杯。
これこそが「救いの神の降臨」と言わずになんと言えば良いのでしょうか。

 その後、良樹のお母さん、近くの寺で新しい名前をいただき彼に与えたのです。
祝い事としての紅白饅頭の入った白い箱に新しい名が書いてあり、母に読んでもらったのですが今は記憶としては残っていません、勿論饅頭の事はしっかり覚えています。
この事件の後のそう遠くない日に良樹は隣町に引っ越して行ったのです。
勿論小学校も転校と言う事になります。

 ここまでブログを書き進めたoldboy-elegyくん、「ウム」とあまり気分の良くない思いが胸に引っかかったのです。
よくよく考えてみるに、彼を救ったのはoldboyくんであるのは確かですが、同時にこの事件が発生した、もともとの原因もoldboyくんに有ったと言う事実を今この時に(記事をかいている)初めて知ったと言うか、思い至ったのです。

 霜が立ち、氷の張った田圃(たんぼ)の切り株を嬉々として踏みつけ廻り、その音と足裏の感触の楽しさを教えた張本人は、誰あろう、oldboyくんなのです。
つまり、俺と連れ添って登校さえしなければ良樹は野井戸にはまらずに済んだ事になるのは明瞭です。
 良樹の引っ越しは単なる引っ越しであったのか?と今この瞬間に疑問がわいたのです。
oldboy君の母が言うには、引っ越し先はそう遠くでもないらしい。
特別に引っ越し、転校の理由がどう考えても見当たらないのである。
なにやら、いにしえ人が吉凶をみる「方違え」の風習を見るようでもあるのです。

 当然、親としては、元凶は「あいつ・oldboy」であるとの思いがあるはず。
「彼さえ居なければ、息子がこんな目に合う事は無かった」と考えるのが自然なのでは。
その元凶に「命を救われた」ことで、胸の内は複雑である、のは普通です。


 改名から始まり、方違え引っ越し、転校はすべてoldboyくんから、大切な我が息子を切り離すための方策と行動ではなかったのか、と思えるのです。

 考えすぎの「穿った見方」なのか、今となっては全て時空の彼方のことであり本当のことは永久に謎のままなのです。

 ただあの賢明な私の母があまり、ことの次第をoldboyくんには伝えていないように思うし、「言ったところで、せん無い事」と考えたのかもしれない、と、この瞬間(記事をかいている今)思いいたったのです。
つまり、「母は全ておみとうし」で、このことを、彼には言わずにいたのかもしれないように思うのだが、いやきっとそうだと思う。
なにも小学3年生の子に、無駄な贖罪(しょくざい)を背負わす必要はないと考えたのかもしれない。
「ゴメンな、母ちゃん!」

 ともかく、このoldboy元凶論、このブログ記事を書くまで、恥ずかしながら気が付かなったのです、ただ自分がボンネットバスを止め、彼を曲りなりにも救った事が全てだったのです。

 俺はこの歳になってまで、亡き母の庇護(嫌な思いをさしたくない)のもとで生きているのかとの思いが募るばかりです。

 この記事、ボンネットバスとoldboyくんの手柄話のまま終わるつもりのものが、何故か後味の悪い妙な気分のものになってしまったようです。


 それからあの危険な野井戸の存在がその後どうなったのか、知りません。
今の時代ならそこそこのニュースになっていたかもしれないがどうでしょうか?。

                 了
        
             oldboy-elegy

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(雑感・雑記帳 No. 7)大好きな男性デュオ・Simon&Garfunkel・について。 殆んど言及されていない?こと!!

f:id:oldboy-elegy:20190918175355j:plain  oldboy-elegyくんの記念?すべき最初のブログはアメリカン・ポップス、あるいはカントリー・シンガーのパティ・ペイジが歌う「テネシーワルツ」であった。
あろう事か、その時のブログタイトルが「ラジオとパティペイジ、テネシーワルツそして千〇ミュージック」である。
千〇ミュージックとはその昔京都に実在したストリップ劇場のホールの名前である。
別にペイジを諫めるつもりは全くない、むしろ懐かしさとほろ苦い哀しさを主題に書かせていただいたつもりである、それがoldboy-elegyくんの(elegy・哀しさ)たる由縁で全記事に通じる、ある意味、主題でもある。

それでも不謹慎なと思われた方には、ここで「御免なさい」と謝るほかない。

 そのおり、「ペイジ」が歌う、「テネシー・ワルツ」の「Tennessee・・・」の部分の発音が「Chennessee・・・」に聞こえる、つまり、日本語で表現するなら「テネシー」ではなく「チェネシー」とoldboyくんの耳に入る、他の外国人さんのカバーなどを聞けば、普通に「Tennessee・・・」と聞こえるんだが?。
そんなこんなを、「千〇ミュージック・ホール」を通じて書かしていただいたのが、oldboy-elegyくんのブログの始まりであった。

 タイトル画のイラストはアメリカ合衆国はニューヨークのセントラル・パークにて開催された「サイモン&ガーファンクル」の野外コンサートのシルエット画像である!!と思ってくれ。
その記念の日が1981September19・(9月19日)(現地時間)なのである、38年前のことである。
メモリアルデイに記事を公開しょうかと思ったのだが、oldboyくん、自分にプレッシャーを課すこと事を極端に嫌う御仁で「マアーいいやできた時で、ユックリ書こう」に、気分変更、この日になった次第である。

 時刻は日の入り前から夜間の公演である、集まった観衆は50万人をこえる。

 薄い残照の中、「Mrs Robinson」から始まる。

ステージのセットは何を表現しているのか、中西部の農場のサイロかそれともシカゴを中心とした東部工業地帯の重工業、自動車産業の衰退の始まりの象徴なのか、あるいは都会のバックストリートの荒廃した佇まいなのか、ともかく電飾もなし、キラキラ感はゼロ、簡潔そのもの、あるのは撮影の為の最小限必要なライトのみである。

 二人の衣装は?これが全くステージ衣装とは無縁の普段着然としたもの、「ポール・サイモン」はラウンドネックの白のTシャツに黒っぽい薄地のカジュアルスーツ、一方「アート・ガーファンクル」は着古したインディゴカラーのジーンズに細めの黒のベルト、白のややハイカラーの木綿地らしき長袖のシャツ、そこにボタンも止めないまま黒のベストをハオッテいるだけ。
寝起きのベッドサイドに散らかっていた昨夜の服装かもしれない(冗談)。
笑ってしまうのは、「ガーファンクル」のシャツの後ろがジーンズにキッチリ収まらず、はみ出していることである。


 日本なら誰かが気が付き、それとなく伝えるのが普通であるが、それもないままオープニング曲へ。

 ただ一つ残念な事は、アンデス北部のボリビア、ペルーあたりを発祥とする「フォルクローレ南アメリカ民族音楽)」をもとに編曲した名曲「El Condor Pasa・コンドルは飛んでいく」が今回のコンサートで歌われていないことである。
この曲、特に日本人に好まれているものでもある。
峻烈、極まるアンデスの峰々の間に横たわる氷河と谷底の緑の間をゆったりと飛翔するコンドルの姿は、曲調と重なり何故か強く惹かれるものがある。

 この1981セントラル・パーク・コンサートは入場無料(フリーコンサート)である。
当時、財政難に喘いでたニューヨーク市地域活性化のため彼等にお願いしたある種のチャリティコンサートと言う性格がある。
このため曲の選定も(アメリカ、ニューヨーク)などの言葉が入った曲や、彼等のオリジナルが殆んどのように感じる。
ここに「El Condor Pasa・コンドルは飛んで行く」を入れるのは、いくら彼等のアレンジでもコンサートの主旨からも異質感があるのは否めないと思うがどうであろう。

 時代は合衆国東部の鉄を基盤にした重厚長大な産業(鉄鋼、自動車)が斜陽化し、西部のカリフォルニアなどを中心に勃興しつつあった電子機器やIT産業の時代に入って行く前夜のことである。
重要な事はこれ以後、あれほど強固に思えたアメリ中産階級が雪崩をうって縮小し、資産、所得の社会的階層(ヒエラルキー)が、「持てる者はより豊かに、持たざる者はより貧しく」の時代の入り口にあった事だと思う。

 ここからがoldboyくんが考えるサイモン&ガーファンクル」のオリジナル話(ばなし)である、多分。

 いろいろ日本語での検索を試みたのだが、多くはアマゾンを初めとするレコード販売の案内で、時折ブログ記事にてそれぞれの人達の思いや 日本公演時の出来事・エピソードが語られたものである、oldboyくんが記事化しょうとした主旨のものは無かったように思う。
ただコンサートそのものを収録した画像に関する英語での反応については、oldboyくんの拙い英語力では手に余る。

なにせ、これから俎上に乗せる問題の曲(明日に架ける橋)のみで3000を超える英文の書き込みがある。
それでも50件(わずかすぎる)ぐらい、よろよろ、ヨタヨタ読ませていただいたが、oldboyくんが考える方向からの書き込みは無かったように思う。
ただ読み残した3000以上(余りに多い)の英文の書き込みの中にoldboy-elegyと同じ趣旨の文言があったときはご堪忍のほどお願いする。

 その事とは「アート・ガーファンクル」についてのものである。
もう随分前の事であるが、ブログでは絶対ない、youtubeとも違う、多分NHKの教育テレビだったと思う、(間違っていたらゴメンなさい)。「 アート・ガーファンクル」の1時間ほどの単独ロング・インタビュー番組を見た事がある、製作はアメリカのテレビ局のものであったと思うがどうであろう。
検索でこの動画そのものを探そうとしたが見つからず失敗、どなたか見た方がおられても不思議ではない。
oldboyくんこの動画内容の殆んどは失念、しかしただ一か所、強烈に印象に残る場面があったのである。
それは彼(アート・ガーファンクル)の口腔(こうくう)と口蓋(こうがい)の形について語っている場面である。
解剖学的に口腔とは口の内側の事で、口蓋とはその上側の部分の事であるらしい。
口腔外科(こうくうげか)と言う専門の診療科もあるぐらいである。
つまるところ、彼、アートの口の中、口腔(こうくう)の形が解剖学的見地から、歌をうたう事にいかに理想的なものであるかを延々と語っていた場面である。
 このロングインタービューを思いだした時、「アーそれで!!」と強く納得することがあった。
今回、ポールもアートもソロで各々2~3曲歌っているが、そのうち「アート・ガーファンクル」のソロ「明日に架ける橋・Bridge over Troubled Water)を視聴して、なんだこの撮影はと、感心するやら、ゾクゾクするやら、最後は感嘆のあまり、歌い終わると同時に、良い意味の心地良い疲れを感じるほどの感覚をいただいた。

いままで、幾度となく見て来た録画だが、今回初めてあのインタビューの事を意識し、視聴して全く異次元の感動を得ることができたのである。
少し、視点を変えてみるだけなのに、こうにも印象が違って見えることには驚きであった。

 歌唱時間は約4分半ぐらいで、始めから2分20秒位までは、いつも見ているそれとそんなに違った所はなく、チョット力(ちから)が入ってるな、思ったぐらいである。
撮影スタイルと言うのか、撮影技術と言うのも普通で、全身から顔のアップに入ったり、カメラ位置が反対サイドに変わったりと、なんら特別感は無かったのだが、曲の半ば過ぎから、画像の撮影スタイルがガラリと変わったのである。


 それ以後、彼のステージ上の全身を撮影することは殆んどなくなり、大部分が彼の頭部と言うか、顔のアップに費やされ、彼の口内、口蓋、舌の動き、喉の奥、喉ちんこまでが画面一杯にド・アップされて撮影されだしたのです。
しかも、この状態がほとんど歌い終わるまで継続されているのである。
最後にカメラが彼のUPから離れ、全身を映し出した時、腰のあたりで左手で力一杯、こぶしを握るが、それでも控えめな動作は、観衆に見せたものではなく「よし完璧にやれた」と自分自身に言い聞かせた動作だったと思う。


 この特殊な撮影はガーファンクルとカメラマン、あるいはディレクターなどとの了解の上、意図的になされたもののように思うのだが?!!どうだろう。

 そこで兎にも角にも、これらの事を意識して視聴して欲しいのである。
当初、ここにyoutubeのURLのリンク張るつもりだったのだが、権利関係が分からないので各々個人として閲覧するのがベストと判断した。
該当コンサート名を記述しておきますので興味のある方は視聴されて確認されるのも一興かと思います。

★下記の画像アドレスはリンクされておりません。
 検索にて、コピー&ペーストでお願いします。
 
直接「明日に架ける橋」に入ります、2分20秒あたりからあとがoldboyくんの
 気になる箇所です。


Simon&Garfunkel-Bridge over Troubled Water (from The Concert in Central Park)

 oldboyくんにとっても、あのインタビューの記憶が完全に具現化された瞬間でした。


 ずっとずっと昔、高校生の頃だったと思います。
「サマーセット・モーム」の小説、「月と六ペンス」を読んでいた時のことです。主人公は「ゴーギャン」と言われいます。
特別面白いとか興味があって読んだわけではないし、学校の課題でもなかったはず、ただ「モーム」の名にひかれて手にしたぐらいの事です。

 南の島(タヒチ)で、主人公が自堕落な生活をしていたジャングルの葉っぱ小屋に、誰かが訪れたのです。
その小屋に入った瞬間、粗末な小屋の壁いっぱいに描かれた彼の絵が圧倒的な力で訪問者の目に飛び込んできたのです。

 oldboyくん、このくだりで、フイに背骨から脳髄にかけて何かが走り、涙が出そうになったことを記憶していますが、それを引き起こした原因も感覚もそれ以来二度と我が身に訪れたことはありません。
もとの平和な凡人に戻っただけのことです。

 芸術家とは、そんな感覚を一生持ち続けることができる特殊な人達だと思うのですがどうでしょう。

 「ガーファンクル」はあの時、その極みの感情の頂点にあったように思います。
人によっては、それは演出だったかも知れないよ、言うかも知れませんが、oldboyくんそんなことどうでも良いことで、あのテレビでのロングインタビューとセントラル・パークでのソロの歌唱表現が一本の紐で結ばれた瞬間だと感じたのです、同時にこのことを記事化にしょうと決めた瞬間でもあったのです。

 ともかく、oldboyくん、このことを曲がりなりにも記事にできたことは嬉しい限りです。          ではでは

                    了
              oldboy-elegy

  下記のリンク記事がoldboy-elegy君の記念?すべき第一作のものである。
良かったら、合わせて目を通していただければ感謝。

oldboy-elegy.hateblo.jp

 

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oldboy-elegy (13)  些細な、ささいな事。互いに口にすれば面白くなくなるとの思い、20年ぶりに無事決着の運びとなりました。ホッ!

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  講義が始まるまで少し時間がある。
4階の教室まで上がると、三々五々と学生が集まってきている。
講義名は?今は完全に忘却の彼方のoldboyくんである。
ただ必須科目であったことは確かである。
何故なら、彼がわざわざ受講のためにお出ましされたのがその証拠である。
K館4階のこの教室、3人掛け10脚×5列ぐらいの広さである、受講者は約100人位だと思う。

 
教室内にもすでに学生がちらほら、友人のOくんも間もなく来るはずである。
oldboy-elegyくん、記念のブログ第一話の記事(ラジオとパティペイジとテネシーワルツarchive(1))に登場の九州出身のあのOくんである。
在学中、ストリップ劇場の半券50枚を収集して「我が家のお宝にする」と豪語していたあの御仁である。
その目標は10枚弱で敢えなくとん挫、今は麻雀ギャンブラーの身である。
雀荘「夕日荘」に昼夜お出まし、グレーのジャンパー姿で、両切りの安物タバコをくゆらせている格好はまさしくそのものである。

 やがてその彼が、トレイドマークのモスグリーンのショルダーバックをタスキに懸けて教室に登場である。

 
ここでチョット説明しておきたい事がある。
タバコと言おうか、喫煙に対する、認識がいま現在とは全然違っていた当時(約50年前)の事である。
「なぜ今、唐突にタバコの話を?」

 
実はこの教室の後ろからの出入り口の外の脇に、デッカイ灰皿が設置されていたのである。
鉄製の60~70センチ位の高さの黒色の4本足に、アルミ製の洗面器をもう少し大きくし、なお且つ浅くした格好の灰皿が置かれていたのである。
中には火消の意味で少量の水が入っている。

 
ここは大学である。
それも講義室の後部と言えども出入り口である。
「タバコを吸うのはここだけにしときなさいね」と言う大学からのメッセージなのか、
学生へのサービス精神なのかは知らない。
今では信じられない光景であることは間違いない。

 これが50年ほど昔の当たり前の風景であり、当時の喫煙に関する文化が見て取れる。
今では教室はおろか、キャンパス全体が禁煙域なのは常識であり、さもなくば学生も集まらないし、大学の存在・存続も考えらないのが常識である。
それが現在の人たちが見る喫煙に対する文化なのである、隔世の感がある。

 
そのスタンド灰皿を囲み5~6人の学生が煙をくゆらせている。
何の変哲もない当時の教室前の風景である。

「どう調子は」とOくんに、賭け麻雀の勝ち負けのことを聞いたのである。
「勝ったり負けたり、多少プラスかな」
「講義終わったらどうするの」とOくんが聞いてきた。
今晩の宿の事である。
「今日から、3日連チャンの塾のアルバイトですわ、ありがとう」とoldboy-elegyくん。
塾のない日は時折、彼の下宿に留めていただいているのである。
特に翌日午前中の講義の時は大いに助かるし、前日の夜遊びも時間を気にせず勤しむことができる。

 
「そろそろ講義時間やな、タバコ1本、吸うとこ」今日は(しんせい)である。
「あ~そや、マッチがなかったんや、火貸して」とoldboy-elegyくん。
まだ100円ライターが存在しない時代のことである。
彼Oくん、アルミ製のスタンド灰皿の前から離れて講義室の中へ、手をヒラヒラおいでおいでとooldboyくんを招いてるOくんのこの行動に「??」、今からタバコを吸うのである、灰皿から離れてなんとしょう。
するとOくん、ショルダーバックを自分の体の前面に移動、バッグを開け始めたのである。
Oくん、ダンマリで無表情のままである。
なにか、タバコ1本吸うのに、事がなにか重大な雰囲気なのである。
マッチを俺に渡すだけの事、oldboy君は「なんだこの雰囲気は!!」と心の中で感じている。
彼、「なんでもないよ」との様子のまま取り出したのはデッカイ卓上用のオイルライターである。
陶器でできたナツメ型の白い壺の表面に、なにやら群青色の葉っぱの模様が入っている焼き物で、高級そうである。


その壺の中に大きなライターが収まっているのである。
それらのセットを立ったままカバンからウヤウヤシク、ゆっくり取り出し、3人掛けの木製の机の上に、ソロリとこれまた無表情のまま置く彼。

 
oldboyくん、おもわず笑い、吹き出しそうになったのだが全て急遽撤回、無表情、ダンマリのまま、彼のうながすまま、ガチャリと火を付けていただき、顔をライターに近づけタバコに着火、いつもより胸に深めの一服を吸い込みゆっくりと吐いて、無言のままこの儀式を終えたのである。
すこし頬の筋肉がバカらしさと可笑しさのためピクピクしたかもしれない。
その卓上ライターが彼のバッグに納まっても、マッチを借りたぐらいの意識のままで、とりたてて変化はない。
そしてそれ以降、互いがその事について、何かを、口にすることは一生無かったのである。

 oldboyくん、この日、この講義だけで塾のため大阪に帰って行ったのである。
彼Oくんはこのまま(麻雀屋、夕日荘)に直行のはずである。

 
たったこれだけのことであるが、あの豪華な卓上ライターが、誰の物で、何処にあったのかをoldboyくんは知っていたのである。
その上での行動なのである。
普通なら「ウッヒッヒ、なんじゃこれ、お前こんな重いライターカバンに・・」と彼を指さし、笑い転げるのが普通である。
しかしO君とoldboyくんとのアクッションは、これとは真逆のものである。
考えて見てくれ、いい大人が、無言のまま、自然(?)に、しかも教室での事である、
一瞬でこの反応の仕方が「かれに対する一番の反応」であり、「かれ一流のユーモアへの返礼」と感じたoldboy-elegyでもある。
この奇妙なセレモニーを見ていた学生もいたはずである。
デッカイ、陶器の卓上ライターを見て「なんじゃこいつら?!」と思ったはず。

 
このOくんの下宿先は寺である。

観知坊(仮称)と言う名の真宗系の末寺の小さな御坊である。
本物はこのタイトル画像のお寺をさらに小さくしたような雰囲気である。
多分この画像は一応本堂と思われるが実際の観知坊はこの向かって左脇に庫裏が存在し、住職さん一家の生活の場として使われていたのである。

 
して彼の下宿部屋はどこに。
この寺も京都市内の町中にある。
画像の左端の庫裏からさらに左に幅1m位の道が奥に向かって続いている。
あと、高いブロック塀が民家との密集を隔しているのである。

 そうこの狭い道筋のドン突き右側がOくんの下宿部屋の玄関である。

Oくんの取り出した、豪華な卓上ライターは庫裏にある応接部屋の大きな卓上に鎮座していたあの卓上ライターに間違いありません。

 去年の秋、寺の住職さんが松茸づくしの夕食会にOくんともども招いていただいのがこの部屋なのです。
oldboyくん、この事を母に告げると、なんと1KGの牛肉を手土産に持たしてくれたのである。
普段から、実家での食事は「お金をくれとは言わぬ、ただしおかずに文句を言うな」と言われてきた自分にとってはビックリである。
これも亡き母との良き思いでとして残っている。

 その時、松茸ずくしの料理を食したのがこの部屋であり、そこに鎮座していた卓上ライターがまさしくこれだったのです。
当然、その時oldboy君、このライターを使っているのである。

 
もうあれからほぼ50年の年限が過ぎ去りました。
ただ彼Oくん、我々の仲間内で最初に亡くなった人でした。
お葬式にも、緩い(ゆるい)お誘いがあったのですが、近いうちに線香をあげるためお伺いするとだけ約束をしてお断りしました。
40才を少し出た若さでした。

 それから1年も待たず、oldboy-elegyくん、Oくんの遺影の前で手を合わすことになったのです。
お母さん、とお嫁さんの二人だけの参会者です。
 あの卓上ライターの始末は付かないままの状態です。
今日oldboyくん、ある決心のもとにここに来たのです。

 お寺の庫裏での松茸ずくしの夕食会の事、勿論ストリップ劇場の半券のことなど、
そして最後に卓上ライターの事、教室での様子から雰囲気まで全てお話し、聞いていただいたのです。

 そして今日ここで終止符を打つのが最良の上策と思っている事も併せて。

  その言葉がこれです。

「これ下宿の庫裏の応接部屋の卓上ライターやん」とoldboyくん。
「そうや!!」と覗きこむように、ニタと笑う彼。

 たったこれだけの事です。
すべて彼が仕掛けた彼一流のワナであったはずです。
かれもきっと憶えてたはずです。


 
全て彼一流のユーモアがなせる事なのか、兎も角も20年以上にわたる中途半端な状態が今日、お母さん、お嫁さんの下で無事終止符が打たれたのです。

 
始めの内、少し解せんな顔をなさっていた、目前のお二人も、最後にはニッコリと納得、を超えて涙顔。

 ここで 遺影も何故かシタリ顔に、変化したように思うがどうだろう。
「これで良かったんやな?」

皆さんどう思います。
バカみたい。
暇な奴やな~。
なんとなくわかる。

その後長きにわたり季節のハガキが来ていたのだが、最近ではそれも途絶えた。

                  
     了

              oldboy-elegy

  O君との交友録の第一ページが下記の記事である。
良かったら、目を通していただければ感謝。

 

 



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oldboy-elegy (12)  お逮夜市(おたいやいち)で的屋(てきや)のねーちゃんの口上「これではお昼の弁当のおかずが足りまっしぇん」を真似るの巻。

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左の図、バナナのたたき売り露天商の人のイラストである。
縁日、市、お祭り等の祭礼に店を出す露天商や大道芸、はたまた見世物小屋のような大掛かりなものも含めて、それに従事する人たちのことを「香具師(やし)、または的屋(てきや)と呼ばれている。
ここでは「的屋てきや」として表現することにする、特に意図はない。

 

市(いち)は随分と賑わったものである。
今では、この地域の商店街には「お逮夜市(おたいやいち)」の上り旗がある
ばかりで、人通り
がない分、かえって閑散として見える。


今はoldboy-elegyくん達ガキンチョ(腕白坊主達)がこの街から消えて久しい

インデラコーヒー・カレー店のあった石畳の路地に子供達精霊の歓声が白いケム
(けむり)となり、走り去った。
あの楽しかった日々は2度と来ない。

 oldboy-elegy君、ここの所、体の部品の機能が低下ぎみである。
なかでも目には困りものである。

最近、彼、人もすなるブログなるものを始めてみたが、できはともかく自分
では気に入っている。

しかしパソコンスキルは、ほぼゼロである。
教室などで基本から教わったこともない、その時必要なことを、ヘルプブログ
記事を頼りに悪戦苦闘中である。
基本的なIT用語の理解からのスタートではあるが、それすらoldboy-elegyくん
には「しんどい」事が多々ある。
マア、それも含めて楽しんでいるのであるから、良しとしょう。


折角書き上げた記事中では新しいスキルは決して試しはしない、なにやら文章
そのものが雲散霧消しそうで恐ろしいのである。

こんな状態の中、1時間も苦闘すれば、右目が涙目になり、文字が霞んで
くる。

行きつけの眼科医が言うのには、「瞼を動かす筋肉が緩くなり、下垂し
逆まつ毛状態になっている、そのまつ毛が眼球に触れ、不快感が生じている」
とのこと。

世間に、この症状は結構多く、これの手術を得意とする、形成外科医を
眼科医に紹介して頂く。
手術、抜糸、予後診察も含め約一か月半が経過、随分と楽になったように
思う。


真宗系の大寺がこの地域に二つある、一寺はこちら、もう一つは隣の地区で
その間1.5Kmぐらいしか離れていない。

この両寺を結ぶ参詣路は毎月11日、27日の両日、お逮夜市(おたいや)と
呼ばれる市が立つ。

勿論、的屋(てきや)の種類、店の数も、ハンパではない、人出も近隣、
近在はもとより遠く「大和」あたりからの参拝者も多い。

主要な参詣路はもとより、ちょっとした横道や裏道、はては路地裏までありと
あらゆる種類の商いの店が集まる。

生活雑貨、漢方風の薬、農具、種苗、鉄器の修繕、古道具、古着などありと
あらゆる業者がつどう。

中には、眉につばを付けたくなるような店も存在するが次の市にもキチンと
そこで商いをしている。
ある意味、世間も社会も鷹揚で寛大な時代でもあった。

断わっておくが今の時代の話ではない、50年も60年も昔の事である。


勿論これらの場所はoldboy君など、ガキンチョ(悪ガキ)にとっても最高、
最強の遊び場であることは言を待たない。

oldboy-elegyくん、母によく頼まれものを仰せつかる。
母の故郷(鹿児島)の黒砂糖のかち割である。
近くの菓子店などにもあるのだが「何処か違う」と言って、母は、そこでは
買おうとされない。

サトウキビの出汁(でじる)を大鍋で、グツグツ煮て、真っ黒の黒糖
の塊を作る。
最後に冷やした塊を取り出し、金槌で一口サイズに砕くのである。
鹿児島名産トウキビ黒糖のできあがりである。

母の好物である、因みに母は鹿児島出身。
黒糖売りのおばさん「かあちゃん元気か?」と俺に声をかけながら、2、3欠片
(かけら)おまけしてくれるのが常であった。

母と、この黒糖売りの女性、顔見知りでもあるらしい、同じ鹿児島県人同士、
遠い大阪の地で時たま顔を合わせチョットした同郷人同士の会話があっても
不思議ではない。

oldboy-elegyくん、近所の孝雄と二人でお逮夜市(おたいやいち)の探検で
ある。
孝雄は過去記事の「修羅場と化す正月の映画館」で登場していた「吉雄」の
弟である。

寺の脇の石段で、ちょんまげはしていないが、サムライ風のおっさんが口上し
ながら
漢方?の傷口軟膏を売っている。
大きな2枚貝に赤い封のものと、緑の2種類があるが違いは知らない。
まずこの封を切るまで20~30分は口上が続く。

oldboy-elegyくん、このお人を以前から何度か見かけるが、脇の刀掛けに
置いてる日本刀を「抜くぞ、今ぬくぞ、それ抜くぞ」と口上するが、ついぞ
抜いたのを見たことがない。


「これをみどもが抜いてみなされ、すぐにお巡りさんが来て、御用はしかり」、
こちとら二人、先刻から、承知なのである。
しかしここでは、口上の上げ足は取らない。
何故?、もし刀が本物の時はどうする、と、恐ろしいのだ。

やがて二人はそこを離れ、次なる標的を探す。
しかし隣地区の領域、あの道路から向こうへは足を踏み入れない。
もし入るなら、あちら側の悪ガキに絡まれる事も覚悟せねばならない。

勿論、逆の場合、こちらへの越境、侵入も同様の事が起こりうる。

時折、的屋の大親分ではなく、中(ちゅう)親分の孫、勇吉(仮名)
ともども、
4~5人で、大手を振って、相手の縄張りに侵入したこともある。

勇吉の爺さんの威光である。

機会があれば的屋の親分の孫、勇吉の事も記事化するつもりである。

二人がなにげに足を止めたのが「卵の膨(ふくら)し粉売りやさん?!」の前。

こんな商品、今まで見た事も聞いた事もない。

そんなこんなで考えてみると、卵など当時、気軽にいつもいつも食える食品で
なかったはず。
それにもう一つバナナも同様の位置づけの食品であった。

今考えてみると、卵とバナナ、言うところの物価の優等生であったと思う。

50~60年ほど前のそれらの値段がいくらだったかは知らないが、病気の時の
お見舞い品や特別な時の、高価な食品であったことは間違いない。


それ故「卵の膨らし粉」なる商品が存在した理由も今ならいくらか理解できる。
oldboyくん達、子供二人の頭がようやく出る高さの店先の奥にフライパンがあり
仕切ガラスのこちらには、積まれた「卵の膨らし粉」なるものの小箱が
並んでいる。
フライパンは実演販売のための道具である。

二人がここに足を止めた理由は、「卵の膨らし粉」に興味があった訳でも
ない、
ひとえにその口上(売るための言葉の抑揚などの調子)に気が取られたので
ある。

口上「卵1個、これじゃ愛しい旦那のお昼の弁当のおかずが足りましぇん、
そんじゃ
2個3個と使いたい、それでは今度はオゼゼ(お金の事)が足りま
しぇん、そんなこんなで家計は火の車、ほんで必要なのがこれ・・・」

ここで「卵の膨らし粉」が出て来る寸法である。

およそ、こんなような「口上」であった、よく覚えていたもんだと思う。
oldboy君、必要な事はすぐ忘れるが、こんな、しょうもないことは、頭に
残っているのだ。

手の平を上に、前に積まれた黄色の箱をなでる様に示す。
孝雄とoldboyくん、終いには的屋のおねーさんの口上を人差し指で調子取り
とり声色(こわいろ)をマネする始末。

客は他にはいないし、時折覗く人もチラ見するだけで足も止めない。
そのさえない風景の真ん前に、生意気なガキンチョ坊主二人のみが陣取って
いる、
おまけに、あろうことか自分の口上を指で調子を取りながら声音をマネして
やがる

その光景を想像してみてくれ。
店先には客とて呼べないガキ二人のみ、おまけに自分の「売り口上」を指で
調子を取って歌っている。

そのうち、おねーさんの口上が止み、陳列台のむこうから、こちらをネメツケ
怒りの形相。

ここで初めて状況を察したのか、即、この場所から雑踏の中へと遁走を計る2人
であった。
「孝雄、あのおね~、えれー怒っとったど」とoldboyくん。

その時である、後ろから走ってきた誰かが、2人の頭を結構強くゲンコで
ボカン、ボカンと殴りつけ「くそガキ!!」と罵倒し、肩を怒らし戻って
行く。


一瞬何?がと思ったのだが、走り去る(卵の膨らし粉)売りのオネーさんを
見て納得。
これを見たまわりの大人たち、ニタニタ、口を押えて笑っているオバハン
もいる。

そう言えば、シリンダー機構のオルゴールを口上し販売している的屋
(てきや)の寅さんをこのお逮夜市では見たことがない。

一体全体、彼は今どこで口上して商売しているのだろうか。

一度会って聞いてみたいものである。

 最近、グローバリズムとか、合理化、などの観点から彼らは世の役立たずと
みなされるようになった。
1970年前後からどんどん窮屈になっていく、それ以前はそう言う人たちも
社会の何処かに狭いながらも立ち居の場所が存在し、社会(世間)も
かましい事は言わず、そうしたいならそうしてもいいよ、ぐらいの寛容の
雰囲気があったように思う。


映画でも、寅さんシリーズ、釣りバカ日誌植木等のスーダラ人生など が
人気を得たのは超高度経済成長期前夜のことである。

基本、今では許されない存在で必要性がなく、不合理、不道徳的存在として、
むしろ忌み嫌う非合理の人たちとされているのかもしれない。

人は、それぞれが生存するのに、もっともっと多種多様な価値観が存在する
社会を必要としていると思うが、現実には逆の方に向かっているように
感じられるが、どうであろうか。
時代はIT,AIなど超情報化時代の中、社会の在り方、多様性などが進んだか
の様に思うが何か一元的で実は真逆の方向に向かっているのかも知れない。


そして今はもうインデラコーヒー・カレー店のあった路地には走り回る子供
たちの姿も歓声もない、あるのはただ無機質な静寂のみである。


                                                         了

             oldboy-elegy

この下のリンク記事も今日のこれの姉妹編である。
ただ舞台が「市いち」から「正月の映画館」になっている。
往年の名作「ニューシネマ・パラダイス」の劣化版である。

読んでいただければ幸いだ。

 

 

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oldboy-elegy(11) 大学4回、最終学年の夏休み、就職未決のまま旅に出る。途中そこそこの距離を無料でタクシーに乗せていただいた、50年の時空を超えて今お礼を言いたい。


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 以前、ブログで「学生生活最後の夏休み、就職未決ながら貧乏旅行を優先」の事を少し書いた。
今日、「結構な距離をタクシーに無料で乗せていただいた」時の事を記事にしてみる。
そして50年の時空を超えて運転手さんに「ありがとう」とお礼を言いたい。
ご存命かどうかは問題ではない。
そしてこの旅行を通じて言える結論がある「人は全て優しかった」これである。
おれも願わくはそんな人間でありたい。
この運転手さんのイラスト画像である。本当はもっと年配の50歳前後の方だった。

 
今回は能登半島、新潟、佐渡島尾瀬ヶ原尾瀬沼)、日光、東京、ただし東京・大阪間は友人のいる2か所で下車、全行程2週間強の貧乏旅行であった。
半分近くは野宿である。
野宿、聞こえが悪いが、この方式すこぶるストレスフリーな快適な方法である、特に夏場には。まず交通機関の時刻を気にしなくてもよい事、ただ現実にそこに汽車、電車、バス、道が存在する事だけを確認すればあとはなんとかなる。
もう一つ、近くに警察なり交番があれば一声、声をかけておくのがベスト。
oldboy-elegyくんの場合この方法で夜遅く、現地の旅館の布団部屋に超超格安、にて紹介して頂き、おまけに坂の上の現地まで案内していただいた。
お巡りさん、自転車押し押し大変、有難うございました、上越線・沼田での事でした。

 この翌日、尾瀬沼、富士見小屋にてoldboy-elegyくんの大チョンボ発覚、あまりに美しい景色に写真をと、親父から借りたオリンパスペン(カメラ)を取り出す???!!!
「ない、ナイ」ショルダーバックは勿論、リュックサックの中身をすべてひっくりかえすが、オリンパスペンが行方知れず。
この時oldboy-elegyくんの弱いオツム(頭)にローソクが点灯、「アッツ!!!」思い出したのである。
佐渡両津港から佐渡汽船で新潟港行に乗船、その時、船内には入らず甲板デッキにへたり込み、眼前の欄干に吊るしたのがカメラだった。
甲板を吹き抜ける心地よい風に身をまかせウツラウツラ状態であったことは間違いない。
しかし??なぜ下船のおり吊るしたカメラが目に入らなかったのか、それも不思議。
尾瀬ヶ原の2つの小屋から昼夜佐渡汽船に連絡するが発見できず。
しかしoldboy-elegyくん、持ち前の復元力でキッパリ忘れる事に成功。

 ここからがタイトルの「そこそこの距離を無料でタクシーに乗せていただいた」に入る。
能登をぶらぶら中のことである。

 
いま高台にいる。
両手を真横一杯に広げると全面の180度はすべて日本海である。
夏の落日の陽光は西にある。
東の空は白に薄紫の刷毛で履いたような雲が浮かんでいる。
明日もきっと良い旅び日和になるだろう。

 
場所は奥能登曽々木海岸、先ほど降りて来た坂の上には「時国家」とか言う豪族の屋敷が2軒ある
なにげにそのうちの近い方の一軒を外から見学してバス停に到着したばかりのoldboyくんである。
荷物は固い綿の帆布でできたこげ茶色の大きめのリュックサックを背負い、肩には母手作りの紺色のショルダーバッグを斜めにかけている。
リュックは大阪鶴橋の国際マーケットで中古品として購入、ショルダーは普段から通学で使用していているものである。
リュックの中身と言えば下着、着替え、洗面用具など生活用品一式に渦巻き式の除虫菊製の蚊取り線香そのほか寝袋、こうもり傘、うちわ等はリュックの外に取り付けている。
ショルダーにはノート、筆記用具、タオル、チョットした菓子類ビスコなど、それに財布に学生証などと親父から借りたカメラ、オリンパスペンとフィルムなどである。
因みに今日までの三日で写真は2枚のみ。

 バス停の後ろの草むらにリュックを下ろし、へたりこみバスを待っている。
もう最終の時刻を幾分か過ぎている。
遠望が利く地道の道路、バスが来るはずの西の方向を見るがその気配なし。

 少しはやきもきもしたが、すぐに決心、今日はこの辺りで野宿、それもいいか。
この旅初の野宿である。
なんだかそう決心するとoldboyくんワクワク気分である。
海岸を見れば貧弱ではあるが松などの木々が見てとれる。

 低めの枝ぶりの良い木、松などが理想、を見つけ、こうもり傘を括り付け、広げ、その下にグリーン色の寝袋を敷き、蚊取り線香を燻らせば完璧。
あとは波の音を聞きながら満天の星があれば言うことなし。
oldboy-elegyくん一人悦に入っているのである。

 そこへ彼の背の方に車が一台停車、タクシーである。
「学生さん?ここ、いくら待ってもバスは来ないよ」のご宣託。
「???」と不信顔の彼に、最近この道は利用されなくなり、すべてもう一段下の海岸に近い道路を利用するとのこと、彼、運転手さん、まったくの気まぐれでここを通ったとの事。
東行きも西行も最終便は少し前に終了しているらしい。
「??!」すると俺が降りたバス停は、ここより下の、新バス停と言うこと、気が付かなかった。
それならせめて、ここの旧停留所の標識ぐらい撤去しておくのが普通であろうと思ったのだが、こちら別段そのためにことさら被害にあったわけでもないし、無言。
「明日どこへ行くの、東それとも西」と運転手さん。
「ええ、能登半島の東端の先っぽの狼煙(のろし)にでも行こうかなと思っています、天候が良ければ佐渡が見えると聞いたので・・」ここでoldboyくん少し身構える。
「安くするから乗っていかない」と言われるかもと。
「このタクシー飯田町のもので、どうせ帰り便やし、乗せてってあげるよ無料で、乗っていきなさい」とのお誘い。
ここから飯田町まで20キロ程度で、この街からも狼煙(のろし)行のバスもあるとのことである。
運転手さん、疑ったりして申し訳ない。
そもそもoldboyくんの風体を見て、こいつお金持ちの御仁だと思うやつなどどこにもいるはずがない。
こうもり傘に寝袋などを見れば貧乏旅行の極みであること一目瞭然のことであることに自分自身今気が付く。
むしろこんな御仁(oldboy君のこと)に近づかない事が一番の良作とするのが社会常識なのである。
「海岸からちょっと先のお寺がユースホステルを経営している」とのこと。


 ただならば話は別、いくら時間の余裕があっても行程の先に行くのが鉄則、ましてやすぐに夜になる、つい先ほど決心した楽しい野宿も中止、ただし「楽しい野宿」の事は運転手さんには言ってない。
いくらなんでも失礼であろう。

 タクシーは海岸から離れてやまの中に入る、20分程度で飯田町のユースホテルを経営するお寺さんに到着、道中、大学の事や、この旅の行き先などの話をしていたらあっと言う間の事。

 行き先は新潟まではハッキリしているが、佐渡に渡るか、上越線で沼田に行きそこから富士見峠にでて尾瀬ヶ原に行き日光
方面に出るかは未定である。
全て成り行きまかせの旅である。

 「それでは元気でな、いい旅になることを祈っているよ」と言い残しタクシーは去っていった。
走り去るタクシーを見ながら、ユックリ、深々とおじぎをするoldboy-elegyくんであった。

 「車に有料で乗せられる」と一瞬でも疑った事、「申し訳ありませんでした」

 このあと翌日にバスで緑剛崎灯台(通称・狼煙灯台)まで行き、東の海上を眺めたが、結局のところ佐渡は見えず。
ここで「見えぬなら、自分の足でそこへ行き、見てやろう」と、決心する。
新潟大地震の1年か2年あとのことである。
新潟港の船乗り場が随分沈下していたのと、港外に出ても暫らくは油臭く感じたのだが。

 大学の友人Kが是非泊まって行ってくれとの申し出、彼の母がたの実家が小松市から出ている軽便鉄道の終点、尾古屋鉱山と言うところにある。
ここでの泊まりがこの旅の初泊である。
俺K君のお母さんに会った事もないし、ましてやそのお兄さんの事、当然知る由もない。
懸命に固辞するも押し切られた格好で了承、少し気が重い。
非常な歓待を受け、ありがたいのはありがたいのだが、oldboyくんにとってはお尻が少々むず痒いものであり、翌日ようやく一人になって、解放された気分になった。

 すまんK君、いろいろ面倒をかけました。


 そして穴水のホステルのお母さん、気を遣わしてゴメンなさい。
満室状態で断られましたが、野宿のための玄関脇の樹木と芝生の使用、屋内のトイレや水道などいろいろ便宜を計っていただきました、それも申し訳なさそうに。

 2週間を超える旅になった。
結局、旅のだいごみって何なのだろう、景色や食事、勿論それもあろう、しかしそれ以上印象に残るものとは、「人!!!」これに尽きると思うがどうだろう。

 家にたどり着いたら飼い犬の「ホス」に吠えられる。

               了

             oldboy-elegy

 この貧乏旅行のあと学校に戻り、就職も決めた。 
人生最後のモラトリアム期間の4年間は、こうして過ぎていった。

 社会人1年生の頃のブログも記事化してある。
oldboy-elegyくんと言う極めて緩い(ゆるい)御仁ではあるが、この人、この21世紀の社会では座る席、占める場所などきっと無いのではと心配する。
まあブログと言う一種特別な世界からの視点であることを肝に銘じてみていこうと思う。
oldboyくんのように、お花畑を行くノー天気な人もマダマダこの世には多く存在しておられることを信じて。

 もしよろしかったら、下記関連リンク記事も目を通していただければ幸いである。
右下のイラスト画像が我が家の誇り高き雑種犬「ホス」に、旅行から帰ったおり、あやしがられ、吠えられた時の図である。
失礼な奴である。
基本このワン公、拾い主の妹が「ご主人」と思っている節がある。
時折、実家に顔を出すoldboy君は警戒対象の存在かもしれない。

 それでもたまに散歩に連れ出す時もある。
「しっかり俺の顔、憶えておけ!!!」


                  
             

 

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oldboy-elegy(10) むりやり母に水練学校に入れらるの巻

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水練学校のあった河原の雰囲気

   母は1年を通じて殆んど着物で通した人。
ただ例外は夏場で、それでも綿地や麻地の簡単なワンピース風のデザインで、見方によれば浴衣に見えなくもない。
以前ブログの何処かで記事にしたが、oldboy-elegy君の悪さで学校に呼び出されたおりも薄地の着物にベージュの日傘、手には小物入れの為の信玄袋と言ういで立ちで来校された事があった。
信玄袋の中身はタバコ、キセルにマッチも入っているはずである。
実際、学校の応接室で教頭先生、担任の前で紫煙をプカリとやられた母の姿を見て、恥ずかしさの中に何か「かっこいい」と思った事も事実である。

 
その母が今日は正真正銘の浴衣姿である。
それも簡易帯や細帯でなく、通常の広めの帯である。
まさしく正装でのいで立ちなのだ。
いったい何が始まろうとしているのか、彼、嫌な予感と不安の中にあった。
「あんた今から出かけるよって、タンスにある白の半袖と洗った半ズボン急いではいといで、下駄はあかんよ、ズック(白の運動靴)でええから」と命令口調。

oldboy君、身支度しながら、「どこへ行くんや」と母に聞くが返答はない。

 いつも母はこうである。
「行ったら分かる、あんたの為になることや!」とだけ言い、oldboy-elegy君の身支度を急かす母。

 あとは、転がるように付いて行くだけ、手を引かれるわけでもない。
ここで母に「どこへ、何しに?」など質問しても、まともな返事があるわけでもない事は百も承知である。

 その道の先には、隣町の真宗系の大寺がある、母は急に歩速を緩め、信玄袋からなにやら書き物を取り出し、あたりをキョロキョロ。
チョットした商店街の八百屋の前で「このへんで至心会(ししんかい)と言う水練学校の事務所、知ったはります?」と尋ねると、即刻判明。

 母、その八百屋でデッカイ西瓜を1個買う、手土産替わりにするのである。
oldboy-elegy君には単に「〇〇学校」と聞こえ恐れおののく、水練の意味が分からなかったようである。
基本、学校と名の付くところ、あまり好みで無いようである。
 母、デッカイ西瓜を彼に手渡し(あなたが持つのよ)と無言のアピール、ついでに「水泳の学校や、イヤは許せへんで」とご宣託。
母のやり口はいつもこうである。
「あんた落としたらあかんよスイカ」と、のたまう、必死になり、ひょこひょこ母を追いかけるoldboy君である。

 彼が逃げ腰になる事は先刻ご承知なのである、そのためにも有無を言わせぬ状態をこしらえてからご宣託されるのである。

 すぐに「至心会」と書かれた金属製のプレートを発見。
しもたや風の小ぎれいな普通の民家である。
小さな中庭の見える畳の部屋に通されると奥から白く長いあごひげを蓄えた初老の方が入って来られる。
この方が大和川水練学校・至心会の会長さんである。

 入会に際して皆さんに必ず確認していることが一つだけある、これだけご了承して頂けたらどなたでも大歓迎との事。
この水練学校、「至心会」は「速さを競う競技水泳は一切行っていないし、一線を隔している、それを求められるならお断りいたします、と。
「至心会は古泳法を基本に日本古来の泳法を教える場所で、子供たちが水を怖がらずに、慣れ親しむのが初期の目標であり・・・・」など今で言う「生活水泳」の考えを述べられ、「このことを了解の上、入会を判断して欲しい」との趣旨をお話になった。

 母はもとより依存があるわけでもなし、むしろ賛同の体である。
oldboy-elegy君はと言えば、内心「えらい事になってしもうた、電車の駅だけでも5個か6個目かの遠くの「河内国分」まで行き、そこから歩いて約30分、その上、宿題なんかしとったら、」もうまったく地獄の夏休みに。

 ただすぐ後で分かった事だが、oldboy-elegy君、週3回のコースである。
さすがに毎日は「こいつには無理」と母の御判断、的を射たものでさすがといいたくなる。

 考えてみるに初めから最後まで、母の手の平の上で踊らされていたのである。
この後、5年の長きに渡り「至心会・大和川水練学校」に通うことになり、お世話になるとは、自身にとっても驚き桃ノ木山椒の木を、地で行った感がある。
最後の年は、白帽子に黒線2本の教練助手で中学2年生の時であった。

 最初は赤帽、次に白帽、そして黒線が一本、2本と加わるのである。
教練助手と言っても小学生の赤帽くん(初心者)に「決して水を怖がらせず、水遊びを手伝う」のが与えられた仕事である。
もっとも、水練学校の会費がタダと言うだけで、アルバイト料や交通費が出るわけでもないが、別にそれで満足していた。
それまでの人生(大げさ)で何かを成し遂げた感とは無縁であった彼、誇らしい事でもあった。
白い帽子に黒線2本、これにoldboy君、カッコよさと、ある種のステイタスも感じている。


  母上曰く「もう何時やめてもええよ」の下知。
完全フリーな夏休み、1年ぐらいあってもいいだろう、と考える。
実はこれも手の内、同じことを思っておいでになる。

 ここで秘密を一つ、oldboy-elegy君、赤帽(初級者)を2年やっておいでなのである。
基本ドン臭いのである。
しかしこれには母は一言もなにも言わなっかたなあー、と思う、結果これが良かったのかも知れない。
水泳て不思議なもので、何か一つ上手く出来るようになれば、体がそれなりに順応し、初めての泳ぎ方でも、少しは恰好が付くのはどういう訳であろうか?。


 ここでこの水練学校が標榜する古泳法・または日本泳法なるものを少し紹介する。
浜寺にある有名水練学校「浜スイ」は基本、近代泳法の平泳ぎ・クロール・背泳ぎ・バタフライの4種で、日本泳法は「こんな泳ぎ方」ありますよ、程度教えると聞いているが、本当のところは知らない。

 基本、近代泳法は「スピード」、古泳法は「持久力」、この言葉に代表されのでは、と思う。
古泳法の基本中の基本は「立ち泳ぎ」と「浮き身」であると思うがどうであろう。

 「立ち泳ぎ」とは、、首から頭は水面より上にあり、呼吸は自由にできる。
足も含めて体全体は水中に対してほぼ垂直である。
足の動きは基本やや外向きに水を蹴り、場合により緩やかな円運動もある。
体力を温存しながら出来るだけ長時間保てるかが重要なことである。
浮きながら、流木をひろったり、浮き輪や(今ならペットボトルなど)を探すことも大切な付帯行動である。

 「浮き身」は体全体を水面上向きに無抵抗に投げ出し、全身の力を抜き水と一体になることである。両手はやや広げ、両足も同様である。
ここで肝心なのは呼吸法である。
ゆっくり、ゆったり と呼吸し、いつも肺に残存空気があるように意識すること、しかし上達すれば意識しなくとも浮けるようになる。
この2泳法、普段、川で練習している人なら、海でこれをする時、無敵で天下を取った気分になること請け合いである。
塩水と真水の比重の違いである。
上手い人なら、浮き身の状態で片足の膝立や、両手を胸の上で組む方もおられる。
急難時、天候さえ普通なら救援が来るまで相当の時間を稼げる。

 「抜き手」は見た目、近代泳法の平泳ぎに似ているが手の動きが全く違う。
足の動きは似ているが、平泳ぎの方がゆったりしている。
両手の動きは全く別物である、平泳ぎは、両手を同時に水中で拝むように顔の前に出す、次に力強く水を手の平で掴みそれを体に伝え、両脇まで掻き、前進する力を無駄なく体に伝える。
一方、「抜き手」の両手は基本、クロールの泳法に近い、両手が代わる代わる水を掻く、文字通り「抜き手」で、水しぶきはご法度である。
水面に対してやや立ち気味で、水音を消しながら、持ち物や刀剣を頭上に縛り急流の中、対岸にたどり着く泳法である。

 そのほか「天馬」「千鳥」などいくつかあるが割愛さしていただく。

 oldboy-elegy君の得意技はこれらの内、「立ち泳ぎ」であり、模範演技で、白扇子に墨汁で「心」の一字を書かしてもらったこともある。
諸兄よ、字の上手い下手は言うな、上手いはずはなかろう。

 この5年の間、母はoldboyくんにある餌を与え続けたことを告白しておく。
大粒の黒色とも濃紫とも見える河内ぶどう2房である。
今で言えばピレーネと言う品種かな、よく分からない。
現物の支給ではなく現金での支給である。
国分大橋の袂によしず張りでできたにわか創りのぶどうの販売店がこの時期オープンする、いくらだったかは憶えていないが、母からもらうお金で、少しおつりがあった。

 そのつりで近所の駄菓子屋の「チュウーコヒン」で何かしらの安物の菓子が買えた。
因みに「チュウコーヒン」とは「中古品」の子供言葉である。
クチサガない大人たちが「中古品、中古品」と揶揄するのを聞き、「中古品」の意味を知らない我らガキンチョは自然「チュウーコヒン」をそのまま店名として使っていたのである。
おばあさん「ごめんなさい」
何故おれはこんなに謝る人が多いのか。

 このぶどうの2房、河内国分で電車に乗り窓を上から下に大きく開放、山や田圃の心地良い 風に吹かれながら、口に入れ皮と種を電車の窓から「プープ~」と吐き出し、丁度最寄りの駅近くで、尽きるのである。

 「窓からプ~プ~吐き出す」oldboy-elegyくん、今では決して致しません、お許しあれ。

 もう一つ忘れられない記憶がある。
初めて死人?を見たのもこの水練学校でのことである。
当会の生徒ではない、一般の水泳客である。
練習場にしているこの辺りから少し上流で子供が見えなくなったとの連絡が水練学校の事務所に入ったらしい。

 すぐに練習中止になり、水練助手以上のものが呼ばれすぐに上流に移動。
oldboyくん、まだ白帽黒線1本で助手の一歩手前のことである。
やがて淵の深みの岩場で発見。
先に用意されていたゴザに運ばれ手当てが施されたのだが、救急車が来たような記憶はない。
大勢の人の間から、寝かされた子供の肌を少し見たと言うだけの事だが、不穏で強い印象を感じたのを今も憶えている。
ただその子が助かったのかダメだったのかの正確な情報はもたない。
時間の経過を考えると、どうしてもイヤな結果を想像する。



 この大和川水練学校、今はもう存在しない。
規模は小さいがそれなり存在価値はあったように思うが。

何時解散したかも判然としない。
しかし消滅理由は明瞭である。
日本の経済成長の所産である。
まず天然の川でプールは持たなかった水練学校である。
この大和川は汚染された川で有名であった。
1級河川中、常に全国ワースト1位か2位にランクイン、のひどさ。

 しかしoldboy-elegy君にとって母との思いでと合わせ大和川水練学校は、貴重な貴重な人生の一コマである。
終戦間際、船と言う船は(戦闘艦でもない船まで)軍に徴用され兵員移送や物資運搬に駆り出され、その多くが南方海域で潜水艦や爆撃で爆沈されて多くの人命が失われたのである。
国内に残った船は外洋はもとより近海を航海するのも難しいボロ船ばかり、こんな中、瀬戸内海や三河湾などでの相次ぐ水難事故が多発した時期があった。
修学旅行生など遭難。

 oldboy-elegy君の母もきっとこれらの事故、遭難の記事は知っていたのではないのか、いやきっとそうであるはずである。
これだからこうする、的な説明をする人ではなかった。
だから何か母が行動した時は、理由、説明は心の内、結論が即、行動の人であった。

 このoldboy-elegyくんのブログに母がよく登場されるが、すべてこの通りの人として書かれているはずである。
実際そうであったのだから。

 4・5年前、韓国で修学旅行生300人あまりが無くなった船舶事故があった。
これに関してはいろいろ思う事、書きたいことが山ほどあるが今日はやめておく。

 何も声高におしゃらなくとも、4年も5年もかけてある憂いを(水泳ができないoldboyくんの事)除去した母は偉大とは言わなくとも「母」であった。

 ただ。母なら絶対こう仰っているはずである。
「ソウル光化門広場や事故現場の高台に記念館を」の声に、
「なによそれ自分なら絶対いらない!!」と一蹴。

             了

           oldboy-elegy

  oldboy-elegyくんには7歳下の妹がいる。
彼女にはこのブログの存在は言っていない。
妹の知らないであろう母の若い頃の人と成りをいつか彼女に教えたいと思っている、それは50記事位をUPしたごろかなと予想している。
楽しみにしている。

 いろいろ記事中に母に登場願っているが、下記のリンク記事がその母の人と成りが如実に出ていると思う。
もし良かったら一読して頂けたら、当方(母にとっても)嬉しく、幸せなことである。
遺影の前の供物の塩豆入りの饅頭下ろさなくては、と今思い出した。
供物のタバコはそのまま仏前に。

                了

             oldboy-elegy

 

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(雑感・雑記帳 NO.6) あの外国人の女性に謝っておきたい。茜さす晩秋、夕暮れ時の京都、およそ50年前の事。 by oldboy-elegy

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茜さす晩秋の京都、北から南に向かう市電からの景色。実際にはあり得ない情景ではあるが、雰囲気だけは伝わる思う。

   タイトル画像の説明文に「実際にはあり得ない情景ではあるが」と書いた理由とは、
この市電の路線は烏丸(からすま)線と言う、京都市街の中心を左右に分断するかの
ように北から南にほぼ一直線に走っている。
途中御所があり、これが尽きる丸太町あたりでわずか東に振られ、また真っすぐに南下、京都駅近くで、今度は東本願寺さんの威光で東に大きく膨らみ、そのまま京都駅前に達する路線である。
つまりこの路線に乗っている限り、茜さす雲や市街地はあっても山など見えないのである。
四条烏丸の交差点あたりから東を見れば山は見えるかも知れないが茜さす、夕方の景色は無理である。

 ※烏丸はカラスマと読み京都人はカラスマルとは言わない。

 
oldboy君、しきりに「茜色に染まり、茜色に輝く情景」にやたらにこだわっていらっしゃる。
この気象的条件がもし無かったなら、このブログ記事も無かったはずである。

 今日から三日連続で塾での講師の仕事が待っている。
基本、週末に集中的に時間割を組んでもらっている、今日は6時から9時までの3時間が予定されている。

 
従って5時30分あたりには塾の教室には入りたく思っている。

数人の学生仲間に「今日バイト、ワリー」と声をかけ、足早に市電乗り場に急ぐ。
塾の仕事のない時など高級タバコ「ヒライテ」を手みやげに誰かの下宿に留めてもらい、最近憶えてきた麻雀などをすることもある。
因みに「ヒライテ」とは世間では「ハイライト」と言うらしい。

 校舎を出て真っすぐ西門に向かう。
もうこの時点で西の空は近場の建築物をシルエットに茜色に染まっている。
タイトル画像の山を建築物のシルエットに置き換えただけで、まことにこの画像の雰囲気なのである。

 ここでもう一度「茜色の空と雲」の画像を脳裏に焼き付けて次に読み進んで欲しい。

 すぐに濃グリーンと薄い茶色のツートンカラーの市電が、前部と後部をヨタヨタ左右に揺らしながらやって来た。

狭い市電の乗り場も学生でほぼ一杯の状態である。

 当時まだ、京都に地下鉄の無い時代で、市電かバスのどちらかである。
乗客の殆んどは学生で占められている。
車内の進行方向の右側、つまり吊革を持つ西側の人は窓外からの茜色に輝く晩秋の色と同色に染め抜かれる事になる。

 oldboy-elegy君の左前すぐに外国人の夫婦らしき二人ずれが見てとれる。
当時いくら京都と言えども西洋圏の外国人が、ましてや夫婦だけで市電に乗っていることなど珍しい光景と思うがどうだろう。
旦那に比べて奥さん、随分と恰幅がよい。
奥さんの毛髪は茜に染まった外光を受け赤く見える、が茶色にも見えない事もない。
顔だちは真後ろからでよく分からない。
あんまりじろじろ見るのも失礼かと思いそれきりになり、そのまま烏丸4条あたりにきた。
そこである程度の乗客がおりて行ったがその西洋人は乗ったままである。

 oldboy-elegy君ここで見てはいけないものを見てしまうのである。

茜色に輝く暮色の中に、忽然と彼女の顔半分がシルエットとなりあとの半分は陽光にあたった状態でくっきりとその全体像があらわになったのである。

 夕日に照らされたそれはまさしく、西洋人のもので高い鼻梁に奥の目が隠れていたのだが我々が少しは見慣れているアメリカ人的白人の雰囲気の顔立ちでもない。
いわゆる地中海東部、北部の人を代表するギリシャ系のものである。

 話の本筋はここからである。

 その端正な顔立ちのシルエットと茜色の境界に、顎から鼻腔下、眉間までもが毛でおおわれていたのである。
その毛も剛毛とは言えないまでも、そこそこの濃い影を落としている。
眉と眉の間が明瞭ではなく、一本に繋がっているように見えたのである。

 ここで固まったのが誰あろう、oldboy-elegy君である。
すべて見なかったものとして、知らんぷりすれば良かったのが、それができなったのである。
もっと最悪なのは、彼女と一瞬のことではあるが目が合ってしまった。

 彼女はoldboy-elegy君のドギマギぶりを感じて事の事情を察知したのだろうか、そこが一番気がかりなことである。
金色に輝く毛と影とのシルエット、oldboy君、今でも忘れることのできない一瞬の残影である。

 ずっと後の事であるが、何かの本で読んだことがある。
むかしのラテン系(ギリシャ人を含む)の人たちは体毛などには無頓着でおおらかであった文化があったそうである。
因みに現代の日本人は真逆なのかもしれない。
男性も一生懸命すね毛を始め、ムダ毛?を剃り落とす人がいると聞く。
この事に就いてoldboy君が何かを言うには少し歳をとりすぎてしまった。
ただあのギリシャ人(自分で勝手に決めた)の御夫人がこちらの表情を読み取り、oldboy君がなににギョットしたのかをもし理解されていたのなら、本当にごめんなさい。

 塾までの道すがらその事が気になり、oldboy君少々元気がない。
茜色に輝く空は、闇に侵食されて今はもうない。


 そして50年、ご存命の確率は極めて低い。

                 了
              oldboy-elegy

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(雑感・雑記帳 NO.5)  他人が見ればクスッと笑えるが、本人にすれば思い出したくもない、しょうもない話。 oldboy-elegy

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アイドルK子君、彼女がいないと我が部は闇、みんなのために出勤簿にハンコを!


  なんとか十か月の長きにわたる新人研修を終えた。
配属は企画部である。
oldboy-elegy君の第一希望通りである。
仕事の内容は企画、宣伝、開発、市場調査 などとなっているが言ってみれば営業部の友軍ではあるが数字的ノルマがあるわけでもない。
これまでのブログをいくらかでも読んでいただいた諸兄はお分かりの事と思うが基本、彼はグータラで出世などとは無縁の存在なのである、ましてや仕事に「燃えて」など、これほど似合わない言葉も彼的には存在しないのである。
口にはのぼせないが、企画部を希望した第一の理由が、さっき言った通り「数字的なノルマ」がない事が第一の理由である、このことは口が裂けても他人に言ってはいけないし、墓場までキーロック状態のまま連れ添わなければならぬとおもっている。(やや
おおげさ)

 
しかし年間の予算はしっかりと決まっていて、その予算で最高の効率と結果を達成することが言えば「ノルマ」なのである。
しかしそこはそれ「稼ぐノルマ」と「使うノルマ」の違いは歴然としている。

 oldboy-elegy君がこの部に配属されて1年くらい経った頃のことである。
予測通りのノープレッシャーサラリーマン生活を謳歌していたのだが、チョットいやな命令が部長より下知されたのである。

 「わたしなんかよりもっと適任者がおるでしょう」と彼、もうすでに、逃げの態勢なのである。

 「同期の営業2課のH君なんか理論派だし、その手の雑誌、よく手にしてるの見ますし」と振ってみた。
いや~、本当に彼なら喜んで参加するだろうとの思いで名を上げたのだが、部長ユックリ首を左右に振り、半分呆れ顔、その上おまけに右手人差し指をoldboy君のまん前まで伸ばし机を2回軽くたたき、次に俺を指さし「ダメ、お前」と無言の圧力。
それだけ同期の連中、それぞれの場所で頑張っていて「戦力」なのである。
一方oldboy-elegy君を見れば「なにやら締まりがなく、ネクタイのノット(結び目)も下がり、毎日が遊園地に来たような雰囲気、きっと上司はそれと感じ、指名したのかもしれない。

 この会社の主力取引銀行である〇〇銀行が「経営学セミナー」なる講座を月1回、年10回ほどいろいろのテーマで開くとの事、毎回有名どころの講師が予定されているらしい。

いよいよもってoldboy-elegy君には苦手この上ないものである。
有名どころと言われても、だれ一人思い浮かばない。
植木等なら喜んで参加させていただく。

 「毎月第三土曜日、10時からお昼ぐらいまで、時には昼食会もあるらしい」とのご宣託、万事休すである。
これだけの事で、彼、もうすでに地球最後の日を迎えたような気分になっている、「ノープレッシャーな安穏な日々」が一変したかのような気分である。

 それに土曜日は隔週半ドン(1時までの勤務)が実施されているのである。
「まあええか、直帰するよー、と電話すればOKやし、しやけどなんか調子が狂うな」と気が重いのである。

 手帳の予定表が隙間もないくらいビッチリ書き込まれていて初めて気分が落ち着く人、一方できるだけ予定を入れないでその日その日、自由に絵を描くのが好きな人、oldboy-elegy君、勿論後者に組みしているのである。

 長い前口上であったが、ここからが「他人が見れば笑えるが、本人にすれば思い出したくもない話」なのである。
何回目かのセミナーが行われる当日、oldboy-elegy君、中之島大川南にあるこの旧財閥系の銀行内のセントラルロード、メインストリートいやプロムナード、まあどうでもいいや、ともかくそんな所をセミナー会場に向かっていた。
天井はやけに高く、柱などはエンタシスがかかり、ここを通る人たちを威圧するのである。
彼、一番不得意とする場所と雰囲気である。
このずっと先の右奥がセミナー会場である、この通路結構幅がある。
対面(といめん)からダークスーツの人達がやってくる。
彼らは押しなべてoldboy-elegy君の通り道を左右に避けるように脇に移動、わざわざ足を止め首(こうべ)を垂れるのである。
彼、こんな場所に知り合いがいるはずもないのだが、そこは日本人、挨拶されたら挨拶で返答するのが道理であり、礼儀と言うものである。

しかしどうも解せない感覚が残る。
そこへ後ろから来た5,6人の集団が早足にoldboy君の脇を塵・芥(ちり・あくた)を払いのけるように、通りすぎて行った。
ここまで来て初めて今の状況に合点がいく彼、最上級の挨拶した人達はなにもoldboy-elegy君に敬意を表したのではないのである。
当然と言えば当然であり当たり前の事であるが、タイミングが良すぎたのである。
彼らはoldboy君の後ろから来た集団に黙礼したのである、とりわけ集団の先頭を行く白髪の老人に向かっての行為なのである。
これも後で聞いた話であるが、その白髪の老人こそが、元財閥系の〇〇銀行を率いる堀〇頭取であったようである。
してみれば俺のあの返礼は何だったのか、「恥ずかしい」よりも「実に自分に腹ただしく間抜け」な気持ちが胸の奥に残ったのは事実である。
「なぜ俺が返礼を、それも確か2度までも・・・」ええーい悔しいの歯噛み状態なのである。

  人は笑うかもしれない話かも知れないが、自分としては「未だに腑に落ちきっていない!!」のである、とくにそのアホさ加減にである。
〇〇銀行の堀〇頭取などどうでも良い事でoldboy君にとって「うちの課長ほどの値打ちもあるものでもなし」ぐらいにしか思っていないのである。
何故なら今も鮮明にこうして記憶していることだけ考えてもあほらしいのである。
oldboy君、もう一つ社会的ヒエラルキーと言うのかステイタスと言うのかが分かっておられないようである。

  タイトルとしての話はここで終わるのだが、もう一つこのブログの目的(だいぶに大げさな表現)は1970年代の労働環境や世事、世評の事も伝えると何処かで書いた覚えがある。
ただここで記事にした事が当時の社会全般に当てはまるのかと言えばそれも一概には言えないと思うがさあどうであろう。
 
 会社業態から言えば、この会社中小企業に分類される。
配属先は本社で営業を中心に120~30人位の編成である。

 まず、出勤のためのタイムカードがない、ただし出勤簿なるものがあり、少々の遅刻なら途中、公衆電話からでも報告しておけばOKである。
三文判を部員全部が彼女ケイ子君に預けている、勿論部長も課長も例外ではない。
2019年の現在、「出勤簿に押印・連絡さえすればOK」などユルユル状態の会社なんて存在するのだろうか。

 タイトル画像は当部のアイドル、ケイ子君である。

●イラスト画像のケイ子君、スーツのようであるが実際は白のシャツに濃紺のジャンパースカートがユニホームであった。
おしゃれ要素は白いシャツのリボンかな、細い紐状のものから大きなモンシロチョウを連想するものまでいろいろ。

 あらゆることに対応していただいている。
今なら「なんでもや」と評されある意味蔑みの対象に思われ、自分でもそう感じている人も多いのではあるまいか。
 朝の出勤時のお客さんへの直行連絡や用事などをメモした付箋を机に貼るなど、彼女が多くをこなしてくれている。
oldboy君など、お客との面談のおり、きちっと締めることのないネクタイを指さし、無言で「ネクタイ、ネクタイ」と注意もされる。
すこし大仰に言えば「部全体の潤滑油であり」「皆が頼りにしている」アイドルである。
なにより良いのは、彼女自身がその事を知っていて、楽しくやっていることである。

 この会社、営業職でも30分づつの計算で超過勤務となり給料に反映されるのである。
ただし直接の上司に申告が必要であり、その残業内容を正される事もあり、拒否されることもある。
おまけに5時半くらいには、総務部の担当者が全館を見廻り、届出なしの残業者がいないかをチェックして回るのである。

 oldboy-elegy君、特別感心したこともない、これが当たり前のこととして存在していたのである。
ただ一つこれだと思ったことがある。
 組合の存在である。
これまで工場など現業部門と本社・支店などの管理部門の組合の上部団体がそれぞれ違っていて、随分苦労したと聞かされたことがある。
長い紆余曲折のあと、上部団体を脱退して、単に企業内組合として再出発したとのことである。

 この結果、会社としては組合の希望を完全無視と言う訳もできないし、これまでよりも近しい関係を築くことが必要となる。
以前のブログで(新人研修のおりの労務課での話)を記事にしたことがあるがそこにもそんな匂いがしないこともない。

 これがoldboy-elrgy君の50年ほど昔の勤務時間の話とアイドルK子君の労働感覚の在り方を記事にしてみた。
狭い範囲の見聞、経験ではあるが、今のこの時代なにが進歩・進化したのか彼には分からない。

 彼、今なら意識の低いハラスメント社員に分類されるんだろうなー、「クワバラ・クワバラ」

 
                了

                                            By    oldboy-elegy



 下のリンク記事はoldboy-elegy君の研修中の出来事を書いたものである。
現業部門(工場)の労務課で経験した事。
興味ある人には今日の記事と合わせて見ていただくのも一興かと思う。

 

 

 

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(雑感・雑記帳 NO.4)  我が家で飼って?いた猫、クロ(オス)の一大事。救命士は母 。   oldboy-elegy

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孤高の猫、クロの雄姿である。

  クロはそもそも、いつごろから我が家に出入りするようになったのか?

 母がクロと、土間のカマド脇で出会ってから1年待たずしてあのチョットした事件がおきたのである。

 チョット等と母に聞こえたならきっとお怒りなさるだろう。
それ故、亡き母に敬意を表し「あの大事件」と訂正することにする。

 その大事件は正月明けの1月の15日前後の事である。
何故、そんな事、憶えているのかって?

 それはクロの倒れた廊下の天井から色とりどりのかき餅がズラリとぶら下がっていたのを、記憶している。

●かき餅をオカキと言う人もいる。
  
   ゴマ、黒豆、エビ、大豆塩豆、しょう油,等、ほかにも色々の風味(フレーバー・Flavor)のものがある。
年末の吉日の晴天の日に近所、向こう三軒両隣が集まり、餅つき大会が毎年行われていた。
晴天の日と限定しているのは、どこの家も屋根のある下で餅をつくほどの広さも高さもないので、公道を利用しての作業となる。

 これがまたなんとも、気が乗れない一因なのだ。

 時には、通りすがりの人たちがじっと佇み、見物されることもある。
人によっては餅のつき方、こね方に意見する人いる。

 この年末の行事、各家の男どもの肝いりで開かれるのだが、女どもにはすこぶる不評である。

 oldboy-elegy君の母など「忙しく、煙草も吸われへんし、男どもは後かた付けも知らん顔」と不満たらたらの体である。

 この時に、鏡餅や丸餅に加えて、かき餅もつく。


 これらが硬くもなく、柔らかすぎずの状態で、押切包丁で丁度切り易いのが正月の10日過ぎ当たりなのだ。
これらの切り餅を家族総出でタコ糸(昔はわら)に10段位ずつ括(くく)り付け、廊下の天井近くに、サンを張りぶら下げていく。

 母もoldboy-elegy君もあれば食べるよ、ぐらいの事で、なくて困るものでもない、と思っている。
欲しいならお店で一袋買えば良い、それの方がズットと経済的で労力も要らない。

 年末の一連の労働と天秤にかけるなら、即廃止にして欲しいものだ。

 ああそうそう、餅つき当日の何日か前に、男どもが「段取り」と称して集まり酒盛りを始めるのも餅つきの一部である。

 言ってみれば「忘年会」の理由付けなのだ。
この点、母もoldboy君も気持ちは同根で「餅つき反対派」である。

 問題の猫、クロと母の出会いは自宅の台所である土間でのことであった。

(土間とは床材などを使用していない地面むき出しの空間であり、主に台所として使用される)

 その日も、母は買い物から帰り、玄関脇の引き戸の向こうの台所の土間に下駄のまま入り、カマチ(部屋への上り口)前の畳に腰を下ろし、やおらキセルの入った袋を取り出す。
服装は勿論いつも通りの着物姿である。

 一服を終えるとすぐに真っ白の割烹着を付けるはずである。
oldboy-elegy君、よくカマドの薪(タキギ)番を母に命じられたものである。

 家の部屋の中で一番暖かいのも台所である土間である。 
何故なら、土と外壁タイル(耐火タイルOR普通のタイルかは知らない)で作られたカマドがあり、一度火を入れたら簡単には火は落とすことはない。

 火の着いた薪は、用事が無くなれば灰をかぶせ、火力を弱め持続力を高める。
なお且つ釜などに水を張りカマドに乗せる、極限までそのエネルギーを利用するのが普通である。

 キセルをくゆらせていた母がそのカマドの脇になにやら動くものを見つけたようである。
下駄を履きなおしツツーと近寄り、壁とカマドの隙を覗き込んだ時、奥からニャオーと猫の鳴き声。
「あら猫が、目だけがやけに光ってるわ」と母。
これが母とクロの最初の出会いであった。

 全身クロ,ただし足には短めの白いソックスを履いている。
前足の白はやや長く、左右がいびつである。
タイトル下の画像はチョット怖い感じもし、幾分太っているようだが、当方のクロの方が俊敏に見える。

 クロはこの時すでに成猫で、したがって年齢も不詳である。

 クロの面倒は母がみてる。
面倒と言っても餌やりと外からお帰りの時の足ふきぐらいの事である。

 夕食時だけはちゃぶ台の脇に陣取る、それも決まって母と妹の間が定席である。
サバの塩焼きや煮つけなど結構な量を自分の皿に入れてもらえる。

 しかし直ぐに家から消えてそのまま2・3日戻らない事もしばしばである。
どこかに本宅があるのか、いやこちらが本宅なのかよく分からない。

 およそこの様な雰囲気の自由ねこである。
oldboy-elegy君、この猫を見ていて「こいつの彼女どんな娘かな?」
「こいつ喧嘩強いんだろうな」「グループの大将なんかな」とついつい自分にはないものを想像して羨ましがっている。


 クロの足取りがおかしい。
歩く前に体が先に出て右に左にユラーリ、ユラーリの酩酊歩行。
そのまま板張りの廊下までヤットコ歩きドターと倒れこむ。

これを見た母、すぐに異変に気が付く。
父がこしらえたタドンか豆炭かのやぐらコタツからお出まししたばかりである。
「あんた、桶に水と手ぬぐい2,3枚すぐ持って来て」と言うなり自分もすぐに立ち上がり、ドドドと下駄も履かずに土間のカマド脇に常備している大うちわを。

 母、とってかえすなり、冷たい板張りに寝かしたまま、大うちわで「パタパタパタ」
今度は両手で「バタバタバタ」とあおぎ始める。

 そこにoldboy-elegy君、母に頼まれた水の張った桶と手ぬぐい数枚を持ってくる。
「あんたあおぐの交代や」と言い、大うちわを俺に渡す。
くろ、いつもの精悍な目ではない。

 手桶の水で手ぬぐいを軽く絞り、鼻を残して顔、首、頭を冷やす。
「完全に中毒やな、クロ」と母。
一酸化炭素中毒やわ、大丈夫かな」とoldboy-elegy君。
「誰もコタツ入っていないし、豆炭に少し灰かぶしたんが悪かったのかな?」と母。
つまり、豆炭に灰をかぶせると燃焼が遅くなり、そのぶん火持ちが良くなるの道理である。
しかし良い事ばかりではない、不完全燃焼のため一酸化炭素ガス発生の危険度も増すのである。
母はこの事を言っているのである。

 濡れ手ぬぐいで足裏も手裏?もシップ。
暫らく続けていると、心なしか呼吸も落ち着いてきたように思う。

「なんかチョット落ち着いてきたみたいやな」とoldboy-elegy君。
「もうちょっと続けて、ここ寒いから、もうちょっと良くなったら座布団に寝かしたろ」と母。
「もう回復基調みたいやな、目の色が違ってきたわ」
「あんたタバコ盆持って来て、もう大丈夫やろ、一服するわ」と母。
「しかしよう自力でこたつから出てきたもんやな、でなかったら私ら見過ごして、今頃・・・」
さらに涙目の母。
いやいや、今で言う「救急救命士」並みの母の活躍にはoldboy-elegy君、大いに感嘆し、そして賞賛もしい、同時に驚かされたのである。

 母子が島根県の松江にいたころ、病院の下働きをしていたことがあったらしいが、この時の経験も幾分役にたったのかもしれない。

 その時廊下の天井からかき餅の欠片(かけら)が廊下に落ち、結構、大きな音がした。
クロがその音に驚き頭を起こしそちらを見る。

                了
             oldboy-elegy

  数年のち、妹が日本犬の雑種の子犬をひろい連れ帰って来た。
その子犬の名を「ホス」と言う。

当時人気だったアメリカの西部劇ホームドラマ「ボナンザ」の「カートライト3兄弟」の一人である「ホス」の名を借用。
ただし当家の「ホス」は何故かメスである。
今日の今日までoldboy-elegy君、犬のなずけ親は妹と、かってに思い込んでいたが、実は母とのこと。
確固とした証言であり、妹は電話の向こうでそう言い切った。
この事実が分かった事だけでもブログにした値打ちがあったと言うものだ。

                                                  了
            oldboy-elegy

 

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oldboy-elegy(9)  Tenko(女性の名)は恋人だったの? 違う?ただの女友達?それは絶対に違う、適切な関係を表す言葉があれば教えて欲しい。

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セーラー服はこんな感じ、学生服には校章入りの学帽が必要、学ランと言う言葉、当時無かったように思う


画像の注釈の追加・女子のリボンの色は濃エンジでラインも同色、スカートはやや長い、靴下の事、何故か思い出せない。
                        

 (雑感・雑記帳 NO.3)の冒頭で(老化の兆候か?、体の部品の機能がダウンしている、特に最近目の調子がいかぬ)、とグチらしていただいた。
眼科医曰く「瞼の筋肉が弱り、下垂傾向、そのためまつ毛が眼球の表面にあたり、いわゆる逆まつ毛状態、不快感はそれが原因」とのご診断。。
そのまま、この手の手術の得意な形成外科の先生の紹介をいただき、診断を受けた。
後日、手術と決定、30分ぐらいの術時間で入院の必要もなし眼帯もしなくてokとのこと。


手術を受けてきた。
抜糸は1週間後とのこと。
ひどい痛みはないが右目全体がチクチクする。
oldboy-elegy君「あの~先生、テレビやパソコン触ってもいいですか?」と質問。
「あなたが苦痛でなかったらいいですよ」とあっさりokの返事。
鏡で自分の顔を見ればゲンナリ四谷怪談のお岩さん状態である。
下瞼からホッペタ上部にかけ結構な腫れ、おまけにやや赤紫色に変色「ウッヘーなんじゃこれ!買い物いややな~、むしろ眼帯欲しいわ」の思い。

 それから1週間が経ち、抜糸を済ませてきた。
小さな小さな糸切りバサミでチキチキ・ピッチンと糸を切るかすかな音。
腫れは術後すぐと比べて随分に小さくなったが、下瞼から頬にかけての皮膚の色はまだまだ完璧とは言い難い。
両目にもともとあった貧弱な二重の瞼のうち手術をした右目は今完全に一重になっている。
次の検診は8月中旬とのこと。
Dr「もし何かあればいつでも来院してください」とのこと。
つまりここから後は自然治癒にまかせるとの事である。

 完治後、左右の目の形が違わないか少し気にかかる。
Drにその事を質問したかったが何故か言えぬまま、「ええ年寄りが、何を気する」のかと思われるのがイヤだったのである。
oldboy-elegy君、豪気者の母上の下で育った割には肝っ玉が意外に小さいのである。

 一応、前記事で目の手術の事に少し触れたので、その顛末をとの思いで今日この記事に書かせていただいたのである。

 ここからが記事の本文である。
「oldboy-elegy君の場合  Tenko(女性の名)は恋人だったの?***」随分なタイトルではある。
この記事を書くはめになったのは以前の「oldboy-elegy君、この歳になり初物4連荘、救急車、美人麻酔医師、手術、最後にご入院」の記事中に使用した言葉が原因である。
もうその時から今日のこのような記事を書くことは必然なのであった。

 その文とは

 「下校時、3人組に襲われ下駄で顔面を殴打される。唇の内側を4針縫う。
犯人の1人を知っていた、中学時代の同級生である。
おんながらみであった。」

 上記の文が冒頭すぐに出てくる。
そのうちの「おんながらみであった」の部分である。
当初、その記事中でもう少し説明を加えようとも考えたが、あまりに枝葉末節にすぎ、本文の骨格から離れてしまう、と考えそのような言葉のまま(おんながらみであった)として捨て置いたのである。
その上なにかしら、不遜さも感じる、そう「おんな」の文字が気にいらなかったのである。

 そして今になり、その事情を記事にすることに相成ったのである。

 彼女の名は「てん子」「Tenko」と言う。
名字はここでは必要でないので「Tenko」で通すことにする。

 中学時代のクラスメートである。 
じつは、Tenko、このoldboyくんのブログに、2度目の登場である。
そのブログの、タイトルは(母ちゃん、oldboy-elegy君のせいで学校に呼び出される***)の記事中に既出なのである。

その時、彼女(Tenko)は名無しの女学生で非常事態のoldboy-elegy君の前に突然、表れていたのである。

 もし良かったら読んでいただきたい。
サイドバー、アーカイブ中のタイトルは「母ちゃん、oldboy-elegy君のせいで学校に呼び出される。中略・・・・、教頭、担任の前で紫煙をプカリ」である。


体育の教師に本気でヘッドロック状態で10発ほどボコボコそしてまたもボコボコと殴らた事があった。
その時、「気に入っていた女子がハンカチを水で濡らし手当してくれたこと、コレ」の当人がTenkoだったのである。
彼女自身は転校生でまだそんなに月日が経っていないころの事である。

 俺を下駄で殴打したKも同じクラスの在席者である。

 中学のころTenkoと俺が特別仲が良かったと言う事でもないし、互いに意識することもなかったと思う、単にクラスメートの一人としてプラスoneぐらいの感覚であった。
しかし内心仲良くなりたいなと思う気持ちは、その青春の入り口に立った男の子が示す意味不明の逆行動を見れば笑ってしまう。

 むしろ嫌われているかもと思っていた。
あるとき彼女の椅子の背もたれの2つの出っ張りに、洗った靴下をかけ、干したことがある、これにはTenko怒り心頭、本気で2、3発胸をしばかれたことがある。

 俺を下駄で殴打したKに関しては、これもクラスメートの一人として知っている程度で、ましてや彼がTenkoのことを恋慕していることなど知る由もない。

 この事件から数年後、Tenkoと俺は偶然地域の同じ公立高校に入学する。
偶然と書いたが、まあ学業成績はドッコイドッコイゆえ地域の同じ公立高校に進むのは、費用の面からも当然の事であった。
Kは電車で5、6駅先の工業高校に行った。

 高校での初のホームルームの日、俺の隣の席は誰あろう、Tennkoである。
「なんやまたお前か、高校の気分全然せ~へんわ、堪忍してくれよ~」とoldboy-elegy君の嘆き節。
TenkoはTenkoで「なに言っとん、それこっちの言うセリフやわ、あほらし」と言いながらげらげら笑っていなさる。
改めてクラス全体を眺めてみると、知った顔があちらこちらに。
Rがこちらを見てニコニコ顔で手を振っている。
Tenkoも俺も中学時代から苗字も名前も変わっていない、してみればアルファベットも同じはず、クラスが同じなら真横は特別にしても、すぐ近くの席になることは不思議でもなんでもないのである。
「oldboy-elegy君、高校に来てまで汚い靴下、椅子に干さんといてよ」とTenko.
「なんや未だ憶えてるんけ、執念深いヤッチャなあ、お前」と俺。

 oldboy-elegy君、Tenkoとあれこれ話すようになったのはこれ以後のことである。
女性との間で「裸の付き合い」とは少々異論がおありの方もあろうかと思うが、これから1年2年と経つうちにホンに妙な関係になってしまうのである。

 oldboy-elegy君、中学時代と違い、だいぶに大人になってきたようである。
妙ないたずらもしなくなってきた。
それ以上にTenkoが急速に大人びてゆき、それに圧倒されていたのかもしれない。

 やがて1年生も終盤にかかり進路の決定に迫られることになる。
進学か就職か、進学の場合、理系か文系かの選択も同時に決めねばならぬ。
当時、比較的成績上位の高校でも結構多くの就職希望者がいた。
とくに女子の場合がそうである。
良いか悪いかは別にして、大学卒業してからの就職より高卒で就職する方が都市銀行を始め有名大企業に入れたのである。
Tenkoも就職を希望するうちの一人であった。
「おまえと中二から3年間も同じクラスやったな、それも俺の席の近くばかり、今度こそお別れやな」
Tenkoは中学2年の時、父親の転勤で名古屋から移ってきた転校生だったのである。
「よう言うわ、あんたこそ私の近くをうろうろして!」とTenko.
「おまえが側におれへんかったら、もう一度高校に入った新鮮な気分になるんかな、それとも落ち着かんようなるんかな」とoldboy-elegy君。
「よう言うは、失礼な」Tenkoふくれぎみ。

 もう冬休みに入ろうかとするある日Tenkoに廊下で呼び止められる。
「あんた24日、クリスマスイブの夜空いている」とTenko。
「??!!」の俺。
「家でクリスマスパーティするんや、ちょっとパーティは大げさやけどな」
「ほかに誰くるんや?」
「母と弟に私だけ、お父さんは残業、それにお客さんはあんただけ、嫌や言わんといてや、初めてケーキを母と作ろうと言うことになって、親子3人で食べても味気ないし、あんた誘ったんよ、母さんも大賛成で力も入る」と言う訳や、とTenko。
それにプレゼントいらんよ。ただしケーキの味保証せんから」と有無を言わせぬ調子で喋り俺を覗き込む。

勢いに押されて反射的に「分かった」と返答のoldboy-elegy君である。

 その時、持って行った手土産が30cmほどの大きさの卓上用の門松である。
寺院脇の花屋のあんちゃんの商売用の門松である。
彼、毎年この時期、近くの農家の軒先と言うには随分広い場所を借り大量の門松を作っているのである。
小は卓上用の30cmぐらいから大は1.5Mぐらいの特大のものまでいろいろである。
「必要なら、どんな大きさのものでも作るよ」と言うのが彼のコンセプトである、あれこのセリフ何処かで聞いたよな気がするな。
oldboy-elegy君、去年の年末からこの門松づくりの下働きの手伝いをアルバイトとして手伝っているのである。
殆んどの材料や資材はタダ同然の物である。
一番それらしき材料の竹は、枚方の彼の知人の竹藪からの調達品であるそうな。
南天の木もそんなところである。
あと空の灯油の一斗缶、安物のプラスチック製の植木鉢
荒縄、針金、土などなど。
oldboy-elegy君、一度ならず、クマザサ取りに金剛山の山間部に花屋のあんちゃんと小型トラックで取りに行った事がある。
もっと言えば「盗み」に行ったのである。
即ち門松づくりは、格好よく言えば「労働集約型?」の産業なのである。
少々コストがかかるのは葉牡丹ぐらいのものである。
それだって花屋が本職の彼、いくらだって増やす術を心得ている。

 このバイト、少々きついが、相場の2~3倍の時間給である。


 この門松の販売先は大阪市内のヤクザやさん一件のみである。
決められた大きさと、本数を小型トラックに積み込みヤクザヤさんの組事務所に行くのである。
場所も何気に記憶している。
交差点の北東角に小さな公園がありこの奥に飲み屋、食堂が並ぶ、その中の一軒の2階部分がそうである。
組事務所の部屋の半分もあろうか、デッカイ、キングサイズのベッドがドカーンと置かれている。
色は、あまりにらしいので良く憶えている、白とも銀色ともつかぬものである。
そこへ奥の部屋から3人のヤクザやさん登場。
そのうちの2人を乗せ、夜中の心斎橋と脇道を行ったり来たり。
彼らに指図され「1.5mを1本、1m1本、卓上2個」などをトラックの端に引っ張り出すのである。
あとはヤクザやさんの若い衆がやってくれる。
時折、バーのマダムらしき女性が出てきて悪態をついている。
無理やりに置くだけおいて、集金は後日と言うシステムらしい。

 今日のTenkoへの土産がこのうちのミニ門松と言う訳である。
事情を話すと一本無料でいただいたのである。


 あれからもう随分と経つ、時折あの門松を貰った花屋の2、3軒先のコーヒー兼カレー屋、インデラで落ち合うこともあるが、高校生の身分でそうそう行けるはずもない。

 多くはTenkoの家の近くの小さな神社に行く。
社殿とこの前に置かれた賽銭箱はなにやらくたびれ感が漂う、脇の社務所らしき造作にも人影を見たこともない。

 体育教師にボコボコにされた時、そのあまりの激しさに殆んど反射的に外の廊下に設えてある水道まで走り、ハンカチを濡らしシップしてくれたのが、対対の最初の出会いと言えば出会いである。
しかしその行為はoldboy-elegy君だからどうのとは一切関係はなかったのである。

 大学に行く気はTenko、全くない。
第一今以上勉強するなど考えもしないし、これ以上、何を勉強するのか見当もつかないのである。
「もともと勉強、嫌いやし、折角試験も無くなんのに、なんで好き好んで・・」の心境らしい。
「それに私、年の離れた弟も居るから、そのぶん早く社会に出て働いたほうが自然やし、うち自身の値打ちも出るはずやと思うんよ」

 「それよりあんたこそどうなんよ?」
Tenkoには大方の自分の家の事情は話している。
母親の戸籍に入籍、いわゆる私生児、小学途中入学、保護者は母、義理の兄貴二人の存在、実は先妻と言うのか現妻言うのか知らないがもう一人男の子(3男)を連れていたのである。
oldboy-elegy君、このことは随分後に知ったことである、
一瞬驚きはしたが、すぐに「さも有りなんの心境」に解脱。
両親はこれらのことで時折いさかいをするが当人のoldboy-elegy君、全く気にしていないのである。
いくら気にしても、これらの属性が消えて無くなるものでもない、なら当然の事として受け入れるべきだし愚痴ってもどうしょうもないのである。

 Tenko、これらの事を、黒目勝ちの目を見開き、驚きはしているが何処か楽し気に聞いているのである。

 ここ神社の木立、藪の間からTenkoの住む小ぎれいなアパートが見える。
お母さんが出てきてなにやら自分達におらんでいらしゃる。
「コーヒー淹れるから帰ってこい、って」とTenko。


 修学旅行は150人ずつ3班に分かれた。
行先はそれぞれ違っている。
ここで運よくと言うのかまたまたと言うべきかTenkoと同コースとなったのである。

 集合は夜遅くに、大阪港天保山埠頭 関西汽船乗り場である。
船は大阪から神戸に寄港、やがて小さな明かりが漆黒の闇の奥に点在するのみである。

 甲板デッキから船室への途中でTenkoと出会う。
「ようTenko どこ行くんや」
「なにを言うてんの、あんた探してたんや」
「俺もさっきからTenkoさがしていたんや、デッキに出よか、ちょっと寒いかもしれんけど」
「カーデガンとってくるわ、ここで待っといて」

 「へ~あんた革靴履いてるんや、ハーフコートも羽織って、もう大人の恰好やな」とTenko。
甲板は結構、風が強く流れている、oldboy-elegy君学帽を押さえながら、
「学生帽と革靴がなんか自分的に違和感あるんよ、これらあの門松のアルバイトのおかげやから」、と照れ気味のoldboy-elegy君。


甲板の手すりに結構多くの自高生の顔が見える、その多くはカップルである。
「門松、母さんすごく喜んでたんよ、ヤクザのお下がりやて事情教えたら、世の中想像もつかんアルバイトあるんやなと、げらげら笑ってはったわ」
「甲板の後ろの方行ってみよか、ここ風が強いし」 
船尾のベンチはすでに満席状態。
壁を背もたれにして甲板に引いたタオルに腰を下ろす。
今想い出した、当時ハンカチ替わりに白のタオルを持ち歩く学生が結構いたのである。
いわゆるバンカラ気風の強い奴など腰のベルトの後ろにタオルをぶら下げているのもいた。
さすがにoldboy-elegy君、そんな気風ではない。

「中二の6、7月ごろからか長いな、体育の山本先生にボコボコにかまされ、さすがに半泣き状態になったは、あんときTenkoに濡れたハンカチで頭冷やしてもろたな、あの思い出だけで10年は生きられる気がするわ」
と、チョット遠くを見る目。

「なにを大げさな、チョット寒いわ、コートに入れて」とTenko。
風が少し弱った分だけ小声でもよく聞き取れる。
「私らちょっと早く出会ってしまった、子供のままに、そう思うんよ」と真剣な表情のTenko。
「なんだろうな俺達、絶対恋人ではないよな、そやけどたんなる友達でも絶対ないよな」とoldboy-elegy君。
「あんた、私のnaked想像したことある?」
「ネイキッドってなんや?」
「あんたnakedも知らんのに!大学行くつもりなん?」
「通ればの話しや、自分でもどうなるか分からへん」
「あんた折角こう言う時、ムードなしやな、女の私が思い切って聞いてるやんで、スペル間違ったら嫌やから、あんた調べてみ、意味はな、裸 や、もう味も素っ気もあらへん」
「!!??!!そう言うたら、いま気が付いたは、考えた事あらへんかったな・・・」
「そうやろなそう思うは、その気持ちがうちに以心伝心に伝わっていたんよ」
「それにもう一つ、あんた童貞?」とコートの中から黒眼が光る」
oldboy-elegy君のたてた膝にKenkoの胸が乗っかってくる。
「それが自分でもよく判らへんのや、父親の紹介で鶴橋の国際マーケットの魚屋で年末1週間ほどアルバイトに行った時に・・」
Tenko「あんたの出来事アルバイトがらみが多いな」とちゃちゃ。
きお取り直して喋り出すと「分かったもういいわ」Tenko。
「あんた困らしても、かわいそうや、もう何も質問しない」と言いながら「最初で最後、キスして」と真顔。

 コートで2人の体と顔を包みなおし、ポテットした厚めの下唇にユックリとあてるだけのギコチナイ数秒ほどのそれであった。

 「Tenko,お前この学校では恋人できへんぞ、あそこのベンチの〇〇子と〇〇雄コッチ見とったぞ」
「バカ言わんといて、どうでもええわ」とTenko。


 そろそろ「船室に戻ろか、階段横の売店でコーヒー売ってたわ、あれ飲んで温まろ」


 Tenkoが俺のコートから出た時石鹸のかすかな匂いが立ち上がってきたのを今でも憶えている。
Tenkoとは高校卒業後一度も会ってない。

 oldboy-elegy君、大学二回生の時、あの神社脇のアパートに行ったことがある、しかし表札は違っていた。
そんな予感はしていた。

              了
         
              oldboy-elegy
  この下のリンク記事がTenkoが無名のまま登場している。
水で濡らしたハンカチで手当てをしてくれた人である。

 

 



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