oldboy-elegy のブログ

ずいぶん長きにわたりグータラな人生を送ってきたもんです。これからもきっとこうでしょう、ハイ。

oldboy-elegy (36)  シエスタとは、スペインやアルゼンチンで昼食後の長い休憩や午睡(昼寝)等を取る行為のことを言う。似た習慣が50年前の台湾にもあり、彼も一度だけではあるが経験した

 

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台湾(中華民国)の国旗です



今日のoldboy-elegy君の記事は中華民国(台湾)でのことである。

いつもの通り、ことの良し悪しや、政治等を口角泡を飛ばして論じる
つもりは毛頭ない。
ユルユル話の延長にチョットした「スパイスspice」を加え、語るのも
いつもの通りである。


ことは、oldboy-elegy君が言うところの(モラトリアム期間)も終わり、
社会人になって数年たったころのお話である。
まだまだ、社会人とは名ばかりで、給料ドロボーの御身分の頃の一席で
ある。
※モラトリアム期間 社会人になるための猶予期間で、馬鹿が許される
最後の時間とoldboy-elegy君は勝手に解釈している。

それも西暦2020年の現在から、およそ半世紀ほど昔のお話である。

「ヒッヤー古っ!!縄文時代??」と思われるお人もおられるかも知れない。
それでもoldboy君とすれば、つい最近の出来事のように思うのもこれまた事実
である。

                ★
     当時の台湾(中華民国)の置かれた状況を簡単に

中国大陸を追われ、台湾に渡った(中華民国)の蒋介石が未だ健在で、
中華民国の総統であったころの話である。

毛沢東中華人民共和国中国共産党」の台頭著しく、やがて、「蒋介石
中華民国・台湾」が世界の多くの国々から国交断絶という形で公式的には姿を
消すことになるのは、まだ数年後のことである。


             ★★
          なぜ彼が台湾に出張?

彼の所属部は「企画部で宣伝・開発」が担当である。
ほぼ1年間の実習が明けての配属であり、彼自身希望した部でもあった。

希望の理由は、営業部のように、お金を稼がねばならぬ部署でなく、お金を
効率良く使うのが仕事だと、つまるところ、「稼ぐより使う方が楽に決まってる」
と踏んだのが、彼の主たる動機である。
oldboy君の思考回路、すべからくこうで、誠に不謹慎なやつである。


現業(工場)部門を含めても600人~700人程度の、文字通りの中小企業である。
それ故、営業部に持ち込まれ、はじかれた、様々な、案件・要件が
便利屋部門」の「企画部」に回ってくることも多々ある。

今回の台湾出張もこんな性質の案件で、あった。

仕事?は、台北市近郊の(樹林)なる町の、縫製工場に、新しく開発した
(工業用の縫製糸サンプルと試験データ)を届けるのが任務である。
早く言えば、運び屋で、それ以上でも以下でもない。

oldboy君に相応しい、軽便で責任のない仕事?である。
もちろん、中国語ができるわけでもなし、英語?これもグダグダの部類
はいる。

それでは何故彼に、
まず言葉に関しては、危惧することはなにもないのである、なぜなら相手先の
方々が日本語に堪能で、oldboy君の河内弁交じりの日本語より洗練されている
と聞かされている。

もう一つ、彼でなくてはならない、要件が彼には備わっている。

いったいそれは何、oldboy君にそんな得意技、何かあるの?

それがそれ、会社で一番「暇そうに見える」お人であることである。

「暇そうに見える」いやいや、実際にそうだから反論はできない。

こんな訳で、今、台北にいる。

ゆえに、こうして今「樹林」のある縫製工場に向かっている、次第である。

ホテル(台北市の南京東路?」まで慣れないoldboy君のため、社用車で送迎
していただくことになっている。
ありがたいことである。


               ★★★
       ここからが今日の本筋である、
初めて知ったこの事実、
台湾の工場、オフィス、学校には(シエスタ
昼食後の午睡・ヒルネ)の習慣があった。

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シエスタ もちろん、台湾で使われている言葉ではない、ただ行為と意味が
似ていたので、oldboy-elegy君、少々おどけ気味に使用している。



oldboy君、南ヨーロッパのラテン系国家にこの習慣が根付いていることは
知っていたが、まさかアジアのこんな近くの国にも同様の習慣が存在して
いたことには驚いた。

そう言えば、この台湾島の気候条件は「亜熱帯気候から亜熱帯モンスーン」に
属しているらしい。
台湾の向かいの大陸中国は省で言えば「福建省」で「香港」もそう遠くでも
ない。
気候も同じ「亜熱帯」に属する。
良く言えば、「昼食後のヒル」にもっとも「フィット」した環境でもある。

「香港」にも昼食後の「午睡」の習慣あるのかどうかは知らない。
oldboy-elegy君、香港へは、2度ほど社用で行ったが、この「午睡」の習慣の
アリ、ナシには気が付かなった。

ただ彼、台湾での、この習慣に1回だけとは言え、実際に経験したことがある。


そこで話を台湾、「樹林」の工場にもどす。

工場間の木製の渡り廊下など、日陰で風通しの良い床に各々マットを敷き、
多くの女工さん達が、気持ち良さそうに午睡。

また学校の教室ぐらいの部屋に、2段ベッドがぎっしり置かれ、そこにも多くの
人が、男女入り混じっての、これまた午睡。

事務所では椅子に腰かけ、そのまま机にうつ伏せにバタンとこれまたご午睡。

それぞれが、気に入った場所と姿勢でドタンと午睡。

いやはやその光景は壮観そのもの、oldboy君も促され、人生初めての、
公認の
午睡を実体験。

oldboy君の初午睡の場所はどこだと思われる?、そう、通されたのは、
2段ベッドがズラッと並べられた部屋である。
そのうちの一つのベッドの上段部分で、下段は先ほどの商談相手の一人である、
若者くんである。
時間は小一時間ほどで、ウツラ、ウツラはしたが、寝入ることはなかった。
しかし、なぜか気分は爽快であったことを記憶している。


わが会社に、この制度を提案しょうと思ったが、馬鹿にされるのがオチと、
自身で却下する。
ただし出張報告書には、ヨモヤマ話程度には書きおいた。

さてこの素敵な、習慣、今でも存在するのかどうか気になるところである。

欧米流の時間の強力な管理が「生産性」「合理化」だと思っている経営者も、
もの分かりの良い事務職を含めた現業労働者も、時代はこんな人間的行為
許さなくなっているのかも知れない。

それを考えると、すたる事はあっても、より盛んになって行くとは考えにくい
ものがある、残念だが。 


            
             ★★★★

         oldboy-elegy君の個人的感想

人間の首に強制的にワッパをはめる道具に、今では事欠かない。
スマートフォンタブレット・パソコンの発達がそれである。

oldboy君的に答えるなら
何ともすさまじい世になったもんだと、ため息 しきりである。

その昔、oldboy-elegy君、もちろん、そんな便利機器の無い時代のこと。
一度、会社を出たなら、こちらが連絡しない限り、糸の切れた凧さん状態、

こんなoldboy-elegy君でも通用?した、最後の良い時代だったのかもしれ
ない。


あ~そうそう、こんな事もあった。
やっと取り付けたデートの約束、互いの誤認識から会えずじまい、とゆうこと
あった。
今の時代、考えられない事かもしれない。
「おいお前、何処におんねん?」とスマホで聞けばこと足りるのであるから。

oldboy-elegy君、ことほどさように「便利な世の中になったもんだ」とは思うが、
何故か、「良い世の中になった!!」とは思えないのが本音である。

 
    それでは、午睡でなく、本睡眠に就かしていただくことにする。
               では では


                          了

                         oldboy-elegy

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(雑感・雑記帳 No. 27 ) 牛肉で作る「肉じゃが」を「肉じゃが」・豚肉なら「肉じゃが」とは言わない!!ある関西人の哀しき独り言

 
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このイラスト、もちろん、何時もの通り
「いらすとや」さんからお借り
したもので、
料理は「肉じゃが」である。

あれれ!!??、oldboy-elegy君
「ついに食レポ」に参戦、いやいや、

そんな無謀、間違ってもしませんよ、
間違っても!!!






第一「うまいまずい」は自分的には普通に分かっているつもりだが、
いかんせん、食い物に対する情熱が少々不足気味なのは自身、認める
ところである。

こんな彼でも戦後の食糧難の時代、なぜか腹を減らし、ひもじい思いをした
記憶はない。
6才ぐらいまで母との二人暮らしであったことを想えば、当然、俺ではなく
母が立派だったことになる。

どこかブログ記事で「公言」したことがある、
旨い、まずいは、タイミングしだい、どんな名店の料理でも、三日三晩、
同じものを続けて食べるわけにはゆかぬ。
キュウリやなすのぬか漬けが、なによりの「ごちそう」である時も当然ある。

買い出し前に冷蔵庫をのぞいて備蓄食材を確認するが、この時のoldboy君の
目は、いかに簡単に作れるかが最重要課題なのだ。

読者諸兄のブログの基本コンセプトが「食」にまつわるものは多い。
それらを読み、見るにつけ、その情熱と情報量にはいつも圧倒される。

oldboy-elegy君なら、きっと一記事も書き上げることはできぬと断言できる。

したがって、彼は彼なりの脱力系ながらちょっぴり、エレジー(哀しさ)を
スパイス(味付け)にした文章を意識して書いているつもりである。

「笑い」で表現するなら「あはっはっ」の高笑いではなく「ふふふ」
「クスクス」「グッスン」程度のものである。



                ★
      「肉じゃが」が今日の記事のタイトルになったわけ

つい最近のある朝のことである。

お日様の光がレースカーテン越しの部屋に充満している。
内側の遮光カーテンが何故か、ガラス戸一枚分ほど引き忘れた状態になっている。

やおらノビをし、眠気まなこで時計を見ると、8時をトックに過ぎている。
しかし、この時間の経過が、彼にとって意味するものはなにもない。
「ただ朝の8時を過ぎた」と言う現実があるのみで、だからどうする、とゆう
次の行動や発想があるわけではない。

この時間ゆえ急いで飛び起き、レーズン入りの食パンをトースターに放り込み
、コーヒー用の少量の湯を沸かし、小走りで洗面台に行き、歯を磨く、!!!
この行為と時間、そう、彼には長らく必要のないものになっている。

目覚まし時計の文字版の端に表示された室内温度は22度を超えている。

ベッドの中で、まったり、いや、ボ~としていると、マンガのアセチレン・
ランプ(知る人ぞ知る、大昔の手塚マンガ・キャラ)宜しく、oldboy君の
後頭部に突然にローソクが立った。
※ 上記のこと、理解できない人もおられることと思うが、別にすっ飛ばして
  読み進めてもらってもOKである。

「あーそや!、洗濯しとこ」とはなはだ迫力のないまま、ひとつ仕事を思
いついたのである。
しとこ」は関西弁の「しておこう」ぐらいの意味である。
まことに、ズッコケ話でもうしわけない。

人間、金銭のやり取りがなくとも、何かの労働?義務が発生することは至極、
健全で喜ばしいことである。
精神の受容体が多少なりとも活性化してなにかしらの意味が心に宿るのかも
知れない。

ブログを書いているのも、この延長線上の所作なのだろう、多分。
そう、誰にも強制されてもないのに「やらねば」の意思がはたらく。
たった、月3記事程度だが自分には大切な義務と時間ともなっている。

パンも焼かず、コーヒーも淹れず、歯も磨かず、すべて今は打ち捨て、洗面台
の脇に置かれた大きなプラスチックの洗濯籠の汚れ物を全て洗濯機に放り込む。

今から33分後には洗濯は完了するらしい、あとは物干し作業、うまく行けば
取り込みまでできるかもしれない、少しお日様が立ちすぎた感もあるが。

なにやら、洗濯が、自分のやらねばならぬ「大仕事」のような感覚になる。

あとは、先ほど後回しにした簡単な作業をすます。
そしてコーヒーを飲みながら、やおらパソコン(ノート)を立ち上げる。

こう書くと、なにやらパソコンの得意なお人にみえるが、これがまた「ズブ、ズブ」
の「ド素人」なのである。

ほとんど「デフォルト」状態のままの機能で使用している。
余計な事をすれば、あとに戻れず、ぐちゃぐちゃになってしまいそうで、
恐ろしいのである、情けない限りだ。

洗濯機に呼ばれ、洗い物の全てを大きなプラ籠に入れ、陽光サンサンの狭い
ベランダに出る。

そこに木製の背もたれのないベンチ兼物置台が置いてある。
これも腰痛保護のためである。
長さは1.2メートルぐらいのもので、この上に洗濯籠を置く。
いちいち腰を大きく曲げずに、物干しができると言う訳だ。

プラ製の円形に広がる・物干し器と頭上の竿2本にかかったプラハンガーに、
ゆっくりと干し物を懸けていく。
ティーシャツや長袖シャツなどは、手の平で「パンパン」とシワも伸ばす。
普段はしないこの行為、きっと今日は少々気分が良いのだろう。
たわいのない人である。

こんな時である「ウム!!」と、本日2回目の「アセチレン・ランプ!」が
oldboy君の後頭部に立った。
ベンチ下の黄色の蜜柑箱に目がいったのである。
中身は分かっている、間違いがなければ、個数にして10コほど、2袋程度の
ジャガイモが入っているはず。

これ、同時に2袋も買ったわけでもない、まだ1袋在庫のあるのを忘れ、買って
しまったものである。


ここで、1袋だけでも使わねばの気持ちがやどる。
この時、思いついた料理?が、「フライドポテトと肉じゃが」である。


一瞬「牛丼」も考えたのだが、多分これは「じゃがいも」を必要としない
料理のはずである。
今日は、すこし芽の出かけている「じゃがいも」を費消するのが目的、
そのため「牛丼」の考えは捨てる。

取りあえず、調理?経験のある「肉じゃが」に決定。
「経験」と言っても料理手順を憶えている訳でもない、今日もパソコンの
検索が頼りなのだ。


洗濯ものの、干し作業が終わるころには「夕食のおかずは肉じゃが」と決定
していた。

今日は干し物を終えても、好天の為か腰の調子も良い。


            ★★
  「肉じゃが」を「豚肉」でつくっても「肉じゃが」と言う、これ如何に?



やおらノートパソコンで「簡単肉じゃが」と打ち込む、
「簡単」の二文字はoldboy君には欠かせない。

はたして最初にヒットした、料理動画配信専門サイトの「クラシル」さんと
老舗のクックパッドさんさんで比較してみる。

クラシルさんの場合
①パソコン入力印字 簡単肉じゃが
②画像下のタイトルは 基本の肉じゃが とある
③そのまま下にスクロール、材料を見ると ここで突然 豚肉(コマ細切れ)
 となり、「」の文字がどこかに消えた

関西人のoldboy君からすれば、このレシピは「じゃが」で、決して「じゃが」
ではない、の思想をお持ちの吾人である。

クックパッドさんの場合
①パソコン入力 簡単肉じゃが クラシルさんと同じ
②画像下のタイトル 簡単うちの肉じゃが とある
③そのまま下にスクロール、材料を見ると 牛肉(豚でもひき肉でもよい)
 なっていて、表現が首尾一貫している。

首尾一貫、ブレのない、クックパッドさん、に「賛」の一票を献上したい。
慣れない男のシニア料理案内はこういう精神でなくてはならぬ。
なにせoldboy君など「料理に対する、常識とか知識」と言うものが皆無なのだ。

レシピの一言一句の字面を懸命に後追いする御仁の姿を想像して欲しい。
必死に「肉じゃが」をおっかているのに、なんの断りもなく豚肉(コマ細切れ)
はないだろう。

これだけ懸命にやっても、悲しいかな、すぐに忘れるのである。
料理に対する才能はまったくない上に、新規の脳内記憶領域は情けないほど
劣化している。

oldboy君にとって、「牛肉」と「豚肉」とは、旨い、まずいとは関係なく、
明らかに違ったものであり、キッチリ言葉を使い分けてほしいか、せめて
クックパッドさんの様に、断りぐらい入れて欲しい。

つまるところ「肉じゃが」が、なんの断りもなく、突然、、肉が豚肉に
変わるのに、料理名は依然「肉じゃが」のままは、おかしいと思う。

牛肉料理の王道料理、ステーキ・すき焼き・シャブシャブなどあるが、どれも
普段口にできる、家庭料理ではない、
よしんば、出たとしても、正月・誕生日・客 などの特別なイベント料理として
食されることが多い。
少なくとも、oldboy-elegy家ではそうであった。

このうち唯一、普通に家庭で食える牛肉料理が「肉じゃが」なのである。

それさえ「今日は、肉じゃがよ~」の母からのひと声が、どれだけ嬉しかった
ことか。

                ★★★
           それでは牛丼の立ち位置は、どうなる

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今日の記事、oldboy君の言い分は、牛肉・豚肉の経済学を披露するための
ものではない。
単に、牛肉と豚肉の区別を明確にしていただきたいとの思いで書き出した
ものである。

ただ牛丼に触れるとするなら、次の数行にまとめることができると
思っている。
oldboy君ら庶民があずかり知らぬ、国とか政治の力学が関与している分野で、
なにやらドロドロしたものを感じる。


◎国産牛、およびその保護政策の堅持。
◎オーストラリアやアメリカの輸出圧力をかわす。

上記の落としどころが「牛丼チェーン店」の存在だと思う。


             ★★★★

             おしまいに

いずれ「牛丼」も「肉じゃが」同様に、家庭用として、料理名は「ギュウドン」
のまま、中身は「豚肉」使用のものが、庶民の味として出回り、主流となるかも
しれない。

「何を言ってるの、oldboyさん、もうすでにそうなっているよ」だけは勘弁
してほしいものである。
せめてその折(牛丼・豚肉でも可)位の心付けがあっても良いのでは。
牛丼の名前で説明してきたのに、ことわり無しに、最後に(材料 豚肉)は
いけない。

インターネットでの動画・レシピ発信会社が、「おいしい牛丼の作り方」と

しながら最後の最後の材料の項目に「こまぎれ豚肉」にならないことを祈るが、
無理かも。

そう言いながら、oldboy-elegy君、料理に現(うつつ)をぬかすほど、食通
でもない。

豚全盛の世に少し、関西人としてのチャチャ(よこやり)を入れて見たかった
のかもしれない。

もともと関東圏以北を中心に広がった「豚食文化」が関西をも、侵蝕中
なのが本当のところだろう。


oldboy-elegy君の今日の記事は、関西人の「しょうもない文句たれが、
すこし斜めから記事化したものと理解して欲しい。

それに内容は、彼一流の「独断と偏見」でもって書かれたものであることは、
言をまたない。

もちろん、oldboy-elegy君の本日のおかず「肉じゃが」の肉は、最下級の
「牛肉の細切れ」である。
記事の内容通り、意地は通さしていただいた格好である。

なに、料理、上手にできたかって、
ともかく、いくら変人でも、この出来上がりを見て、「肉じゃが」以外の
名を上げるやつはいないだろうと思うがどうだろう。
味は?、もちろん「簡単レシピ」である以上、それなりのものであった。

残りは大きめのタッパに入れて冷蔵庫へ、あと2食分はいけそうだ。

あいかわらずの脱力系記事、あいすまぬ、皆の知的好奇心に、な~ん
貢献していないことは、承知の上でのことである。
許されよ!!



              では では  

                 

              oldboy-elegy

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oldboy-elegy (35)母の故郷、鹿児島での日常のヒトコマと、そこで見た性への原初的風景?を綴ってみた

oldboy-elgy君、異性に対して何かしらの得体の知れない感覚を抱いたのは
いつの頃だったろうか?。

そう初恋とか呼ばれる言葉以前のもっと原初的なものの事を言っている。

意識の中に、最初の異性として登場した女性は、もちろん母である。
しかし、それは、日々の生活の難儀(なんぎ)さからくる印象が優先し、女性と
言うより
同志的感覚であったように思う。

それが証拠に、二人して島根県の松江にいたころのことである。
母が病院の下働きに出るおり、

必ず彼に5円かの小遣いを与えたが、これを使うことはなかった様に思う。

ある意味、こましゃくれた子だったと思うし、感心することではない。
母はむしろ、この5円をおおらかに使って欲しかったのではないだろうか。

この行為は、かえって彼女を喜ばせるより、ある種の、哀しさを与えたかも、
と今では思う。


しかたなしに逃げ帰った先が、母の故郷である、
鹿児島県のこの地、開聞(かいもん)での生活を懐かしさとともに記事にして
みた。

 

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はたまた、まずい絵であいすまぬ。
母の故郷のスケッチのつもりだ。
正面の円錐形の山①が、開聞岳
標高は900メートル少し1000
メートルには足りない。
山容は美しい円錐形で、「薩摩富士」とも呼ばれている火山である。


②の海原は太平洋である。③の火山灰台地と山の境に清流が一筋あり、すぐに海に消えゆく運命にあった。

きょうの出来事の舞台はこの川での事である。

               ★★★

戦争中、この地の北方に「知覧(ちらん)特攻隊基地」なるものがあり、
南方に向かう戦闘機などは、この開聞岳に向かって、「自分の人生と日本」
に別れのバンク(両翼を左右に振ること)をして海原の向こうに消えて行った、
などの悲しい話も残っている。


この時oldboy君は父の顔はもちろん、その残影すら知らない子供であった。

齢(よわい)長じて後、いろいろの状況を鑑みれば、その時5~6才のold-boy
君であったはず。

計算の元になる、ほぼ明確な期日がある。

母が意を決して、本妻のいる大阪に僕を連れて乗り込んだのが、小学1年で、
夏休みの前のことであった。

この時点で、いまだoldboy君、学業・学校の経験はなかったのです。
それゆえ、彼、とうぜん幼稚園も知らないことになる。

 

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このイラスト、当時の子達にしては
小ぎれいで、清潔感一杯である。
oldboy君、小学校のころ、米軍の
兵隊
さんが学校にきて、DDTなる薬剤を、頭髪から、衣服の中まで、散布されたことがある。
シラミ対策である。

向かって、前列、右の子が彼であろう。
一人「ホエッ」「なんや」顔である。




学校初体験は床に広げられたおおきな模造紙数枚に、四方から子供達が寄って
たかって、お絵かきの最中であった。
oldboy君も側の女の子から借りた、クレヨンでこれに参加、何故かこの光景
だけは鮮明に記憶にある。

この時が彼の「入学式」であった。

これらの様子を見る母も安堵と喜びの瞬間だったはず。

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母はこれらのことも含み、意を決して、優柔不断な父のいる大阪に乗り込んで
来たことは想像に難くない。

押しかけ女房ならず、「押しかけお妾さん」と言うわけである。

根無し草(デラシネ)の彼がともかくも足を半分、地につけた瞬間であった気が
するがどうだろう。


この母の故郷に、どれくらいの月日暮らしたかは、よく分からない。
奇妙なことに、この家で、母の母らしき初老の老人以外、人の気配を知る
ことは無かったように思う。

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左掲のイラストはサトウキビである。
葉の部分を鎌で削ぐ。
それでも、oldboy君より余裕で長い。
それを担ぎ、おやつにして走りまわっていた。









その、おばばが、土間に積まれた、サトウキビを一本抜き取り、先の葉を
鎌で払い落し、長いまま「ホレ」とoldboy-elegy君に、投げ渡すのである。

その日の、おやつである。

この村落はシラスと呼ばれる、火山灰台地の上にある。
視線を上げれば、別名、薩摩富士と呼ばれる開聞岳があるはずだが、幼年期の子
ゆえか、山に近すぎたためか、この家からの山容は記憶にない。

この村落に点在する家々には、電気は来ていたが、水道は無かった。
そうかといって、家に井戸があるわけでもない。
火山灰台地の宿命である。

小さいとは言え、村落がある限り「水が必要」ではと、読者諸兄が思われるのは
当然のこと。

そう、そこはうまく出来たもので、村はずれに1筋の清流が流れていたのである。
開聞岳かいもん)の左すそ野を巻き、1キロも行かず、太平洋の大海原に消え
行く運命にある細い命の川である。

さあ、ここでもう一つ難儀な事情が待ち受けていた。

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恐ろしいもので、自分で描いた画をこれまで何枚かUPしたが、恥ずかしさが薄れてきた。
拙い本文記事の説明ぐらいのつもりである。

村はずれの谷底を流れる清流のつもりだ。
左端の四角の部分が漉(こ)し井戸で、そこから右上方に上る小道が、雷状に右、左、右と登って行く。

母は、バケツの水を、天秤棒の両端にぶら下げ、日に何度となく登り降りしていたのである。


川下は右方向である。

 



この清流、火山灰台地と開聞岳の境界の谷底を流れているのである。
この谷の深さたるやそこそこのもの。
一本の大きな老木脇を起点に、雷様の、イナビカリ状に右、左、また右へと
細い道が谷底に落ちていき、その終点にこの川があるのだ。

川の脇には、苔むした石の漉(こし)井戸が組まれていた。
※漉し井戸(こしいど)とは、 深く掘られた井戸ではなく、隣の川の流れを
 砂利や砂で濾過しただけのもので、覆う屋根もない、当然、鶴瓶(つるべ)
 はなかった。
 
ここが部落の共同の水場なのである。

掘り井戸ではないので深いものではない。
水底(みなそこ)は砂状で、よく見ると、透明な小エビも見える。

河幅は、それでも5・6メートルはあったろうか、それはそれは美しい流れ
である。
井戸同様に川底も砂状で、深さも彼の、ひざ程度のもの。

両岸からはそう太くもない、黄色の竹が伸び、天井の空を覆っている。
陽光と竹と葉っぱの色で川面も、黄色くキラキラ輝き、すぐに海に尽きる
であろう流れも、それは美しいものであった。

しかし、その風景とはうらはらに、母の仕事である水運びは過酷そのもの。
そんなに遠い道のりでも無いのだが、なにせこの急なジグザグ道を、
天秤棒の両端にバケツ引っ掛け、のぼるさまは、子供心にも見てはおれ
なかった。

oldboy君、なにかお手伝いしたいのだが、こればかりはどうしょうもできぬ。

各家に風呂の設備がない分、そのための水は必要ないのですが、それでも
一日何回もの水くみが必要だったのは当然です。

いまにして思えば、母がこの地を逃げ出した理由の一つであったかも知れ
ません。

洗濯などは、持ち帰った水を使うことは殆んど無いようでした。
反対に、洗濯物を持って水場に行くのです。

この時の約束事があります。
漉し井戸(こしいど)の水を洗濯に使うことは厳禁で、川の本流の水を
使う事と、作業は井戸より下流でやらねばならないなど、村の約束があった
ようです。

ある日のこと、oldboy君、母の姿が見当たらないのに気が付き「母ちゃんは?」
とおばばに尋ねると「水汲みじゃ」との返事。

この頃から、彼には、身についた「哀しい習性」があったのです。
それは癖と言おうか、思いと言うのか小学校を終える頃まで、引きずっていた
ように思うのです。

母の行動と姿をいつも、自分の視界の中に収めておかねば、気が気でなかった
事なのです。

いつか母は、自分を捨てて、何処かに行くのではないか、と言う疑念と恐れを
何時も抱く子になっていたのです。

大阪に来てからの事ですが、電車で出かけた母を、駅のプラットホームが
見えるノッパラで長い間待っていたことがありました。

その時、母が「あんたそれなんな?」と、oldboy君のセーター見て
おしゃったことがあります。
母に編んでもらったそれには、イノコズチの種子が一杯まとわり付いて
いたのです。


話を鹿児島のおばばの家にもどします。


おばばから「水汲み」と聞くなり、oldboy君、あの谷底の水場に向かって
走っていた。
道は一本道で、行き違いになることはありません。

「ここから谷ですよ、危ないよ!」の目印の老木を過ぎ、イカズチ状に落ち込む
細い道を駆け降りて行くoldboy-elegy君。

そこに突然、谷底の流れの方角から、若い女性の「嬌声とも笑い声ともつかぬ」
声が「キャー、キャー」と聞こえてきたのです。

はたして、谷底の川まで降りきると、母は井戸とは反対側、川下方向に置か
れた洗濯用の叩き石にやおら腰を下ろし御休憩の様子である。

バケツにはまだ水はない、どうも到着されたばかりのようである。

それはさておき、母の肩越しの川中に3人の若い女性が水浴びの最中なの
である。
もちろん、全身、一糸まとわぬ姿なのです。

坂の途中から聞こえてきた、楽し気な笑い声は彼女達のものである。
一瞬だがoldboy君を見るが、そのまま、水遊びとも、入浴ともつかぬ感じで
遊び興じている娘たち。

川の両岸から立ち上がった、竹と葉の黄色のトンネルの中、足元のキラキラ
光る水面の中の娘たちの姿。

どうも彼女たちにとって、この幼いoldboy君の目線や存在は、空気以下のもの
であったようです。

実はこのこと、このあとズット憶えていた訳でもないのです。

中学生のころ、美術の本か何かでルノアールの「裸婦像」を「良からぬ
目線」で見ていたおり、何故か急に、あの折の情景が心の内に再来した
のです。

少々、後付けの印象かも知れないが、今となれば、あの時の事がoldboy-elegy
君の性への原初的出会いであったように思う。

意識の奥に潜んでいた像が、普通ならそのまま忘れ去ってしまっているのが
当たり前、それがこの歳(中学生)になり、幼い頃に出会ったあの場面
(水浴びに興じる娘たち)に感応したのである。

それも、印象派ルノアールの絵の中でも特に(陽光の中の裸婦)が、それ
そのものだったようである。

この絵は同じ題材でいく枚かある。
裸婦を囲む、背景の植物の色が、グリーン・ブルー・イエロー 等々があり、
それらは、印象派独特の光の中で、裸婦の肌を際立たせている。

もちろん、イチ押しは、黄色の背景の中の「裸婦像」である。
何故かって?、そう、母の故郷の、あの黄色一色に染まったカンバスと
その中で遊ぶ娘たちの絵が、なぜか同質の感覚を与えるからだと断言できる。


「裸婦」を包む背景の描写が、あの開聞岳の竹の葉と清流と重なり、以後の
oldboy君の大好きな、名画となってこの歳に至っている

今度は、それもエロチズムを伴う感覚も併せ持つ情景として再来したのである。


もし、まったく忘れ去られたものなら、後にこうして同期・同調し、反応する
ことも不可能なはず。

わずか5・6歳の年端の行かぬ子どもの体にも、本人も気が付かぬまま「将来に
向けての」炎の烙印がキッチリと押されていたと言う事だと思う。



   では では 今宵の夢が楽しいものであらんことを おやすみなさい

                 了

                 oldboy-elegy

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(雑感・雑記帳 No.26 ) 1・ 世の中にあふれる言葉から、琴線に触れたもの、おもしろいもの、憮然としたものなどを拾い、彼的にコメントしてみた

ブログを始める数年前から、メモ取りを、習慣化するよう意識してきた。
なにも自慢話ではない、歳のせいか、物忘れが激しく「おい、それそれ、
ほれほれ」と、頭にはそこそこ鮮明?な像があるのに、名前や言葉の
アウトプットがままならない。

その為のささやかな抵抗手段の一手としての主旨である。




ただこれとて、意識の底に預けておけば、どうかしたはずみでヒョイと

口から転がり出るこもある。
悲しいかな、それでは、人との会話の戦力にはならない。

まあ、認知症の進行に些少の抵抗を試みる位の意味はあるだろう。

ソーシャルなことで、すぐに必要なときは、パソコンの検索システムと
言う
文明の利器もあるのだが。

このあたりが、メモ取りのタイミングである。

今日は、そんなこんなの中から拾った言葉に、oldboy-elegy君的な
コメントを
加えて、二つばかり記事にしてみた。

もちろん、「独断と偏見」でもって綴るのはいつもの通りである。


うまくいけば、この形式で定期的に記事化してもおもしろいかも、
と思っている。
それゆえ、タイトルの頭に、取りあえず  1・と入れてみた。


では、さっそく一つ目のお題にとりかかる。


                第一話


               拾った言葉 

         「自分のこの手で日本を動かしたい」

この言葉
メモからのものではない、ずっと長く意識の片隅に住み続けた「妖怪」の
ようなものである。
「なかなかに、粘着質」のある文言である。


この言葉を聞いてから、もう何年になるのかも定かではない。

f:id:oldboy-elegy:20201030092806p:plain



入手媒体はテレビのニュース番組からのものである。
場所は東京大学の入学試験、合格発表の会場からのものだ。

テレビ局の男性インタビュウアーが一人の若者(男性)にマイクを向けている。

「合格されたのですか?」
「ハイ」と若者は、当然と言わんばかりの風情である。
嬉しそうにも見えない。

「将来は?」の質問にたいする返答が、上出(じょうしゅつ)の
「自分のこの手で日本を動かしたい」と言うものであった。

これを耳にしたoldboy君
「ウヒャー!!」と固まってしまう。

ただ「非難」とか「傲慢」と言うより、自分とはあまりにかけ離れたお方
であり、存在であったことが原因だったと思うが!?

しかし、考えて見れば、このような人を「好ましく」思う人も「世の中には」
一定数、存在するのも、これまた事実である。

一見、当然であろうと思う事でも、全ての人が「シロ」と同意見で
まとまることは「殆んどない」のが、この世の常である。
その反対もまた、しかり、である。

真逆の色相、白と黒との間には無限の数のグレーが存在する。
そう、全てRATIO(割合・率・比)だけの問題である。
この考えはoldboy君の昔からの持論である。


oldboy-elegy君、ただ、この方とお近づきになるなり、友人として付き
合うのは遠慮させていただく。
それ以前に、この東大生君に「こんなアホと話するのも時間の無駄」と
思われるのがオチであろう。

この方、その後、どうした人生を歩まれたのかも知りたくもない、

あの言葉
「自分のこの手で日本を動かしたい」

ただただ単純に、脳裏に焼き付いていただけのことである。
そして今日、記事としてUPした、もう忘れようと、彼なりにふんぎりが
ついたはず。

             第一話 終わり

**************************************


               第二話

              
              拾った言葉

     
「こいつら、周囲に人間が居なくなったら、互いに顔を合わせ
      会話してそう」

一話目が、oldboy君的に気持ちよいもので無かったので、二話目は少し
趣向を変えて、彼好みの「シュール」であり、チョット頬(ほほ)の緩む
「ことば」でゆきたい。

※シュール 非現実的だが、あっても良いなと思わせる事象。
                        by  oldboy-elegy

たいへんに申し訳ない事だが、「秩父市」と言われても、関西の人間
(特に、ウスラ馬鹿ぎみのoldboy君)にとっては東京の北部ぐらいの
認識で「埼玉県」か「茨城県」かはっきりしなかった。

記事を書かしてもらう上で、申し訳なく思いしっかり「検索」さして
いただいたのだが「茨城県」の読みは「いばらけん」で、大阪府にある
茨木市」も、正式には「いばらし」と読み書く、らしいこと、今日、
初めて知った。

漢字の二文字目の「き」は「城と木」で違う。

この歳まで、なにげに「いばらし」「いばらけん」と、思いこんでいた
のである。

そのほか、この事で、やおら「検索」の深みに嵌り、ほぼ30分ほど、
回遊してしまった。

有難いのではあるが、ひとつの「文言」で始まった「検索行為」が
「無限ループ」に落ち込み、謎がナゾを呼び、ついには、「言葉の大海」に
嵌って(はま)しまうのである。

最終的に、自身に「強制」して、いい加減なところで「ストップ」をかける
しか、終わる方法は無い。

まあ、それだけ「彼・oldboy-elegy君」は無知で無能なお人である、
ことの証明かも知れない。

すこし寄り道した感があるが、許しを乞う。

場所は、埼玉県・秩父市の「秩父珍石棺」通称「人面石博物館」なる
私設の博物館でのおはなしである。

ここを訪問したことの「ある・ない」はともかく、「人面石」なるネット
画像を見た方は、けっこうおられるのでは、思うがどうだろう。

現在の女性館長の「お父さん」が、半世紀にわたり収集した河原(川は荒川)
の石、それも「人の顔」を彷彿させる、大小の石を展示した、いわゆる
「珍石」の「人面石博物館」なる施設である。

その数、なんと約1700体(顔・面)もあるとのこと、日本はおろか、
世界にも類を見ない、珍しい博物館である。

f:id:oldboy-elegy:20201030035622j:plain














この画像
秩父珍石館」様の許諾の上、掲載させていただいています。
もし近くにお出かけのおりは「あなた自身に」に会いに行かれてはと、
お勧めする。


上掲の写真画像は一例である。
中には、政治家や芸能人、ユーモラスなものからムンク「叫び」的な
アートなものまで、探せば、必ずあなた自身にも会えるはず。

これでこの「秩父珍石館」なる施設の概要を分かってもらえたと思う。

今日拾った言葉の
「こいつら、周囲に人間が居なくなったら、互いに顔を合わせ会話してそう」
への筋が見えたはず。

この施設に「名無しの権兵衛」なる外国人が訪れ、人面画像を自分のネット
媒体で発信した際の、これまた「西洋人の名無しの権兵衛」なるお人のコメント
が、今日の拾った言葉なのである。

たんに、驚き、おかしさ、の直接的な表現ではなく、それを超越した、
なんとも言えぬユーモアにしてシュールさが加わった「ことば」には嫉妬
(しっと)さえ憶える、

oldboy-elegy君も、意識して、このような「文言・文章」がタイムリーに
口にし、文章にできる能力と感性があればと、切に思う。

その意味で、今日、取り上げさしていただいた。

もう一度書く、
「こいつら、周囲に人間が居なくなったら、互いに顔を合わせ会話してそう」
の文言である。

ちょっと想像して欲しい、
夜も更け、人気(ひとけ)のない深夜、これらの「人面石くん」達が、
「ピーチク、パーチク」談笑の最中の情景を。

ヒョットすれば、それは現実の事かもしれない。
彼等は、人の気配を感じた瞬間にお喋りをやめ、ダンマリをきめこんで
いるのだ。
想像するだけで、怖いより、楽しい思いが優先する。

あなたの家に、もし空き部屋があるなら、きっと、このような事になって
いるはずである。


これでもって、今日の第一話の気分が吹っ飛んで、こころおだやかに
「おねんね」できると言うものである。


             では では

               了

                                           oldboy-elegy

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 </p

(雑感・雑記帳 No. 25) 「 明日に架ける橋」歌唱中のアート・ガーファンクルの口中を、2分以上もアップ画像で撮り続けた意図とは!!??


以前(2019・10・01)に(雑感・雑記帳 No.7)
タイトル「大好きな男性デュオ、Simon & Garfunkel について殆んど言及
されていない?こと!!」で紹介したのだが、今回のこの記事は、それの
リライト版ではなく、その「言及されていないこと」のみに焦点をあて、
記事化したものだ。


アート・ガーファンクルの素晴らしい歌声と、その口蓋・口腔・舌・喉の動きが、
ある種の驚きと感慨を貴方に与えるものとの思いからである。

曲は 「Over the Bridge  Trouble Water・明日に架ける橋」でガーファンクルのソロ。


参集した観客は50万人以上。
あのニューヨーク・セントラルパークでのチャリティーコンサートでのこと。



歌唱時間は4分半、oldboy-elegy君が言うところの「特別なカメラアングル」
は2分20秒ぐらいから始まり、最後までこのスタイルの画像で終始します。

oldboy君、これは意図的・意識的なものと思うのですが、みなさんは
どう思われますか?

※画像にはVEVOのロゴがあります。
VEVOとは世界最大のミュージックビデオ発信サイトで、この動画では
youtubeとの共同で配信しているもので、曲の間にコマーシャルが組み込まれ
ています。
つまり、拡散希望画像です。

取りあえず、こちらでリンクを貼らず、
下記の英文の部分をグーグルの検索欄にコピー&ペーストしていただければ直接
セントラルパーク公演会場の、「明日に架ける橋」に入るので、個人の資格で
視聴してください。

現在の所、画像は健在でした。


               お詫び
  ※下記の英文中、〇「water]のスペルが ✖「watar] と間違いがあることを
   読者さまから「指摘」を受け、勝手ながら訂正させていただきました。
   申し訳ありませんでした。 
                                期日 2020・11・2

                                     

 

    

 

 


f:id:oldboy-elegy:20201022175535j:plain
以下、oldboy-elegy君が思いいれる、彼等のこの日の公演の実況アナウンスである。

これを聞き終わってから、問題の箇所、ガーファンクルの(明日に架ける橋)に
入ってもらったら、より鮮明に納得してもらえると思う。

この記事の最後にアドレス(英文)を記載しておきます。


             ではスタート

上掲のイラストはアメリカ合衆国はニューヨークのセントラル・パークて
開催された「
サイモン&ガーファンクル」の野外コンサートのシルエット
画像である!!と思ってくれ。

その記念の日が1981September19・(9月19日)(現地時間)、39年前の
ことであった。

 

時刻は日没前から夜間にかけての公演である、集まった観衆は50万人
をこえる。

残照の中、「Mrs Robinsonミセス・ロビンソン」から始まる。

f:id:oldboy-elegy:20201023163312p:plain



ステージのセットは何を表現しているのか、中西部の農場のサイロか
それともシカゴを中心とした東部工業地帯の重工業、自動車産業の衰退
の始まりの象徴なのか、あるいは都会のバックストリートの荒廃した
佇まいなのか、ともかく電飾もなし、キラキラ感はゼロ、簡潔そのもの、
あるのはステージを照らす、ライトのみ。

二人の衣装は?
これが全くステージ衣装とは無縁の普段着然としたもの。

ポール・サイモンはラウンドネックの白のTシャツに黒っぽい薄地の
カジュアルスーツ。

一方アート・ガーファンクルは、
着古したインディゴカラーのジーンズに細めの黒のベルト、白の木綿地
らしき長袖のシャツ、そこに
ボタンも止めないまま黒のベストを着ている。

 

寝起きのベッドサイドに散らかっていた昨夜の服かもしれない(冗談)。
笑ってしまうのは、「ガーファンクル」のシャツの後ろがジーンズに
キッチリ収まらず、はみ出していることである。


曲の選定で残念な事は、アンデス北部のボリビア、ペルーあたりを発祥
とする「
フォルクローレ南アメリカ民族音楽)」をもとに編曲した名曲
El Condor Pasa・コンドルは飛んでいく」が今回のコンサートに
なかった
事。

この曲、特に日本人に好まれているものでもある。
峻烈、極まるアンデスの峰々、氷河と谷底の緑の間をゆったり
飛翔するコンドルの姿は、曲調と重なり何故か強く惹かれる
ものがある。

この1981セントラル・パーク・コンサートは入場無料(フリーコンサート)
でもある。

当時、財政難に喘いでたニューヨーク市地域活性化のため彼等にお願い
したある種のチャリティコンサートと言う性格がある。

このため曲の選定も(アメリカ、ニューヨーク)などの言葉が入った曲や、
彼等のオリジナルが殆んどのように思う。

f:id:oldboy-elegy:20201023164133p:plain



ここに「El Condor Pasa・コンドルは飛んで行く」を入れるのは、いくら
彼等のアレンジでもコンサートの主旨からも異質感があるのは否めないと
思う、
ある意味、当然のことかもしれない。

 時代は合衆国東部の鉄を基盤にした重厚長大な産業(鉄鋼、自動車)
が斜陽化し、西部のカリフォルニアなどを中心に勃興しつつあった
電子機器やIT産業の時代に入る前夜のことである。

重要な事はこれ以後、あれほど強固に思えたアメリ中産階級が雪崩を
うったかなのように縮小し、資産、所得の社会的階層(
ヒエラルキー)が、
「持てる者はより豊かに、持たざる者はより貧しく」の時代の入り口に
あった事だと思う。
いわゆる「中産階級の没落」の始まりと、同時に「アメリカンドリーム」
終焉の象徴的「時代背景」があった。


●ここからがoldboyくんが考えるサイモン&ガーファンクル
のうちのアート・ガーファンクルのオリジナル話(ばなし)である、
多分。


その事とは「アート・ガーファンクル」についてのものである。

もう随分前の事であるが、ブログでは絶対ない、youtubeとも違う、多分
NHKの教育テレビだったと思う、(間違っていたらゴメンなさい)。

「 
アート・ガーファンクル」の1時間ほどの単独ロング・インタビュー
番組を見た事がある、
製作は
アメリカのテレビ局のものであったと思うがどうであろう。

検索でこの動画そのものを探そうとしたが見つからず失敗、どなたか
視聴した方がおられても不思議ではない。

oldboyくんこの動画内容の殆んどは失念、しかしただ一か所、強烈に印象に
残る場面を記憶している。

それは彼アート・ガーファンクルの口腔(こうくう)と口蓋(こうがい)
の形について自身で語っている場面である。

解剖学的に口腔とは口の内側の事で、口蓋とはその上側の部分の事であるらしい。

口腔外科(こうくうげか)と言う専門の診療科もあるぐらいである。

つまるところ、彼、アートの口の中、口腔(こうくう)の形が解剖学的
見地から、歌をうたう事にいかに理想的なものであるかを延々と語っていた
場面である。

このロングインタビューを思いだした時、「アーそれで!!」と強く
納得することがあった。

今回、ポールもアートもソロで各々2~3曲歌っているが、そのうち
アート・ガーファンクル」のソロ
「明日に架ける橋・Bridge over Troubled Water)を視聴していて、なんだこの
「撮影の仕方は?」と思ったことと、「彼の口腔の形の自賛のインタビュー」
が突然結びついたことであった。

いままで、幾度となく見て来た画像だが、今回初めてあのインタビューの
事を意識し、視聴して全く異次元の感動を得ることができたのである。
少し、視点を変えてみるだけなのに、こうにも印象が違って見えることが
驚きであった。

そこで、そのことを、読者諸氏と共有したくてこのブログを書いたのが
主旨である。

歌唱時間は約4分半ぐらいで、始めから2分20秒位までは、いつも見ている
それとそんなに違った所はなく、チョット力(ちから)が入ってるな、
と思ったぐらいである。

撮影スタイルと言うのか、撮影技術と言うのも普通で、全身から顔の
アップに入ったり、カメラ位置が反対サイドに変わったりと、
なんら特別感は無かったのだが。

それが曲の半ば過ぎ(2分20秒あたり)から、画像の撮影スタイルがガラリと変わったのである。

それ以後、彼のステージ上の全身を撮影することは殆んどなくなり、
大部分が彼の頭部と言うか、顔のアップに費やされ、彼の口内、口蓋、
舌の動き、喉の奥、
喉ちんこまでが画面一杯にアップされて撮影され
だしたのです。

しかも、この状態がほとんど歌い終わるまで継続されていたのである。

最後にカメラが彼のUPから離れ、全身を映し出した時、
腰のあたりで力一杯、こぶしを握るが、それでも控えめな動作は、
観衆に見せたものではなく「よし完璧にやれた」と自分自身に言い
聞かせた動作だったとように思う。

この特殊な撮影はガーファンクルとカメラマン、あるいはディレクター
などとの了解の上、意図的になされたもののように思うのだが?!!
どうだろう。

※下記のアドレスがセントラルパーク公演時のものです。
リンクはしていませんがコピー&ペーストで動画にとびます。
最近、仕様が変わり、4種の動画が表示されますが、うち一番上の
4:41秒、VEVOのものが目的の動画です。ヨロシク

Simon&Garfunkel-Bridge over Troubled Water (from The Concert in Central Park)




「ガーファンクル」はあの「明日に架ける橋」歌唱時、その感情の極みに
あったように思います。
人によっては、それは演出だったかも知れないよ、言うかも知れませんが、
oldboyくんそんなことどうでもよいことで、あのテレビでの
ロングインタビューとセントラル・パークでのソロの歌唱表現が一本の
紐で結ばれた瞬間だと感じたのです、

ともかく、oldboyくん、このことを曲がりなりにも記事にできたことは
嬉しい限りです。          



「アチューイ、アジ―、アツイ」とつい先日まで季節に
文句を言って
いたのに、どうかすると「寒い」と
感じる日もある季節になりました。

   oldboy諸氏のみなさま、おからだにご自愛を  では では




                   了
              oldboy-elegy

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(雑感・雑記帳 No. 24・下)ある意味、日本人って、昔から英語、得意だったんじゃない!!??と、いつもの彼らしく、独断と偏見でもって、語ってみた。


      (雑感・雑記帳 No.23・上)前掲10月11日投稿分の
 
               続きです


●外国語(主に英語)の日本語化への努力は「読む・書く」を中心に行われ、
新たな概念の漢字造語が蓄積されて行った。

英語を中心に欧米先進国の言葉の「読む・書く・聞く・話す」の内、
「聞く・話す」を横に置いて、「読み・書き」のみを日本語に取り込み、
言葉そのものの「概念」をひたすら「造作・造語」しながら、あらゆる分野の
「欧米の原書」が「日本語書籍」に置き換わっていった。

このことが、日本の「近代言語」の基本的な特徴かもしれない。


「翻訳」され、日本語になった本たちは、これを必要とするあらゆる日本人が
利用できるものであることは当然であった。

しかも、英語を中心とする外国語を知らない人達も、それまでになかった、
新しい「概念」を日本語として取り込むことに成功したのである。

徳川期の日本の文明・文化の大きな特徴は、その時代の社会的階層
ヒエラルキー)の下層とされる「商人文化」が基本にあり、世界的
に見ても稀有な進歩の形であった。

  

f:id:oldboy-elegy:20201013174044p:plain



左掲のイラスト画像「寺子屋」の
愛らしい風景である。

oldboy-elegy君、これらの風景が、
今から250年、300年もの昔に存在
し得た事に
驚きと同時に、なにやら
胸にせまるものを感じる。






彼等は、ある程度裕福とは言え、支配階級の子弟でなく、そこいらの市井、
巷(ちまた)の商人・工人・農民 などの子達である。
悪さん坊もいた事であろう。

よく言われることに、
日本人が移民や開拓団など辺境の地に「入植」したおり、まず建設するのが
「学校」だと言われている。
して見れば「寺子屋」も、ある意味、この延長線上に位置するものかも
知れない。

因みに、西洋人はまず「教会」を作ることから「始める」と言う。

このような私塾が、必要になり、自然発生的にできたことが、まず
驚きである。
世界的に見て、このような例はあったのかは知らない。


●庶民文化の隆盛

江戸時代、元禄期・文化文政期はあらゆる科学・商業・文芸の基本的なひな型が
誕生した時代でもあった。
同時に、西洋の「文化・文明」に関する、言葉の「概念」の流入を待たずに、
同等の言葉が存在することも多々あったはず。

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木版印刷の興隆と多色刷りによる錦絵・
〇宣伝などの行為とチラシや瓦版・出版物の多様化
〇藩校・郷学・私塾・サロン・寺子屋など教育施設の充実
〇あらゆる文化文芸・芸術・科学の萌芽
 短歌・俳句・能・狂言・歌舞伎・和算・暦学・天文学 など
〇商業 荷為替・割符 など遠隔地間の手形決済のシステム
〇飛脚・早飛脚 の保護と、これを犯すものに対する厳罰化(商業保護)

などが花開くか開きつつあった。


● 大いなる例として、日本語としての「解体新書」の立ち位置を考える。

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この方は「解体新書」を著した、
杉田玄白前野良沢」お二人の
うちの「杉田玄白」さんの肖像
イラスト画である。

(雑感・雑記帳 No.23・上)
で少し、ご登場いただいたのだが、
も少し、詳しく述べる。





1722年(およそ江戸中期)は特筆すべき年であった。

日本語で書かれた医学書「解体新書」が出版された年でもある。
オランダ語から日本語への「翻訳本」だ。
もとの元本はイスラム圏のものだったらしい。

実際の解剖(腑分け)所見を基に、検証しながらの翻訳作業である。

f:id:oldboy-elegy:20201003121018p:plain



人体の諸器官の詳細図面に付した名称は、それぞれの機能を、日本人
なら一目すれば(読めば)それと連想・彷彿させる見事な日本語造語が
付与されている。

「内臓・器官・骨格」などの名称の多くは、今日の医学書でも、普通に
使われているものである。
たとえば、「神経・動脈・軟骨・膀胱・脾臓・・・」など、それに、現象を
表現する「妊娠」などもある。

この本の凄いところは、単に名称を(い・ろ・は・・・・)や(1・2・3・・・)
など符号を与えたものではない、
その臓器や器官の機能、用途を知った上で付与された「日本語・和名」
なのだ。「神経・動脈・膀胱」など、なんと秀逸な言葉であろうか。

oldboy-elegy君など「神経」などの漢字を」見ると、即座に「神経痛から
くる腰痛」を思い起す。
恥ずかしながら、自身がそうである。

これらは、オランダ語を殆んど知らない「杉田玄白前野良沢」たちが
信頼するに足る辞書のない時代、4年の歳月をかけてなしえた金字塔なの
であった。

ここでoldboy-elegy君の言いたいのは言語要素の「話す・聞く」を除外して
「読み・書く」のみに徹して、通史(通訳)ではなく、学者としての目を
通して日本語訳本を完成させたことにある。

もはや訳本はオランダの元本「ターヘルアナトミア」ではなく、日本の
「解体新書」になった瞬間でもあった。

オランダ語で書かれた「ターヘルアナトミア」が何百冊あっても意味のない
ことで、「日本語の解体新書」が1巻(1×4冊)、完訳したことで、明日には、
有能な出版社と職人たちの手で何千冊の「解体新書」が木版印刷され、
多くの医師たちの手に渡っていく。

そう、時代のバックボーンが、すでに、これらのことを、可能にするだけの
文明・文化が日本の社会に備わっていたのである。

つまり、「読み・書き」に徹し、「学者の目と理解力」で作り出した
「新造語」が「解体新書」を通じて「日本人の財産」として世に送り出された
瞬間でもあった。

事実、「解体新書」が出てからも、「雨後の竹の子」ように、様々の「医学書
が出版されたらしい。
もちろん、言葉の下敷き、お手本は「解体新書」のはずである。


以後約300年は、ありとあらゆる分野の「翻訳本」が日本語として出版され、
この国の「文明・文化」を支え続けてきたのである。
その証拠が「日本語」しか知らない「学者」のなんと多いことか。
ノーベル受賞者でも例外ではない。
(oldboy君良い意味で言っている)

もちろん、今もその過程にあるはずである。

この事実は、タイトルで言うところの

「ある意味、日本人って、昔から英語、得意だったんじゃない!!??」と言う
ことには、少々逆説的ではあるが、結論として、繫がったと理解して欲しい。


以後、日本人の医者すべてが、一段との高見(たかみ)に駆け上がったような
ものである。

●日本人の英語に対する典型、「お喋りはできない」が「辞書さえあれば
そこそこ訳せて、理解できる人」の完成である。

f:id:oldboy-elegy:20201009155428p:plain




日本人は長い間、外国語を「読む・書くのみに落とし込み」、日本語として
使用してきた。

ここでタイトルとした「日本人って昔から、英語、得意だったんじゃない
!!??」
と言う結論になったわけである。

むろん、ただし書きが必要である、日本人の「話せない・聞き取れない」は
ともかく、「コンサイス辞書と・英英辞書・時間を与えられたら、そこそこ
訳せるよ」の「英語に対する典型的な日本人ができあがる」のである。

この翻訳能力が世界的に見て、全く稀有で特異な「現象」であり、逆説的
には、このことが「長らく世界の先進国」であり得ていたのだとoldboy君は
考える。

あらゆる概念、科学から文芸までの全ての外国語
を落とし込める日本語
を持ったことの功罪
が「英語を喋れない・聞き取れない日本人」と
「世界の言語を日本語で読める
日本人」を作ったのかも知れない。

ある意味、「超不得意な場面の英語」と「得意な場面の英語」が「共存」
したのが「日本人」の外国語(主に英語)にかかわる「スタンス」だった
と言えるかもしれない。

結論 タイトルの(ある意味、日本人って、昔から英語、得意だった)と
   結論付けが完成したことになった。

ここまでを、今回の記事「上下・2編」を終わることにする。




            あとがき

 今日の記事をを書いている時、頭に去来してきたことがあった。
 とにかく、メモ代わりに書き足しておくことにした。
 考えがまとまったら、いつか記事にしたい素材である。


NO.1  
それは日本の大学の立ち位置(評価)が意外に低いのである。


なぜそう感じるのか?

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ノーベル賞(総合)・フィールズ賞(数学)・ブリッカー賞(建築)・・ETC
など世界的に名だたる科学賞の受賞者数は2000年以降だけみると多民族国家
アメリカの次になる。

反してイギリスやアメリカの大学評価機関の内容を見ると日本の大学は、
決して良いものではない。

アジアだけ見ても東大・京大など旧帝大群の評価は、その研究実績に
比べて随分と低い。

ロンドンのある評価機関(そこそこの権威)の近年のものを見ると
「東大・京大」でも、アジアでの評価は10位圏程度に留まっている。
中国の2大学・精華大・北京大が最上位で、続いてシンガポール大や
香港大など、韓国のKAIST(工科大学)・ソウル大などより評価が低iい
こともある。

日本の大学の研究業績は上記の他大学に比べれば、比べようもないくらい
圧倒的であるのに。

とうぜん、日本人なら「なんでや?」と疑問を持つことになる。

結論から言うと、
イギリスやアメリカの評価機関の評価基準の重要要素に、「研究業績
プラス、教育・啓蒙機関」としての立ち位置を重視しているようである。

言い換えれば世界にまたがる英語による、「教育機関」であることが
重要
であり、重視されているのである。

すなわち、これらの世界は「米・欧」を中心とした「英語」で回って
いるのが、いかんともしがたい「現実」なのだ。


その現実が見える現象が最近あった。

韓国のKAIST工科大学が、殆んどの授業・講座・研究室を英語のみで行う
ことにしたらしい。
そのとたんに、KAISTのアジアでの評価が東大を凌駕するまでになっている。
とりたてた、研究業績もないままに。


NO.2  ここで 韓国の言葉事情を書いてみる。


韓国語の場合、重大な不合理と不都合が存在する。

もともとの朝鮮語そのものが、欧米の文明・文化の先進概念を持たなかった
ため、代わりにそこに、長年培ってきた、日本語がはいり込んでしまったの
である。

もちろん、日本による植民地政策によることも大きいが、
なによりも、もともと、「朝鮮語」に「英・ドイツ・フランス・・etc」
などの「先進概念」は、同じ「漢字語」を底に持つ、日本語からの「借用」
にならざるをえない運命にあった。

これについては、かの国の現代の人達は「いろいろあるとは思うが、
必然の流れ」であり「論理的」である。


ただし、日本語の(西洋の概念語)を朝鮮語読みで発音し、その発音を
「ハングル・書き言葉」に落とし込むのである。

例えば、「百貨店」は、朝鮮語読みでは「ベグ・ファ・ジュ(ム)」で
その発音を「ハングル・書き」で「백화점」となる。


最近の「日帝残滓・にっていざんし」排斥運動のため、もとの「百貨店」
の漢字と同時に表意文字としての漢字から来る意味も消えてしまい、
単に発音としての「ハングル」だけが残る。

この様な比較的カンタンな言葉なら、まだしも「化学・物理・数学・
法律・・etc」などで使用する、「高次元の念語、念語」は「朝鮮語
の発音と、それを記述したハングルだけになり、言葉を意味する「漢字」が
失われているのだ。

韓国社会では、「もともとの日本の漢字語」を排斥し、「朝鮮語」のみの
表記運動があるが、通常の話言葉の50%以上、科学用語の70%以上は日本語
から来ていると言われている。
それ故、完全な排斥運動に至ってない、底深いジレンマの中にある。

oldboy-elegy君、昔、ソウルに出入りしていたころ、ところどころ漢字で
書かれた
新聞の見出しを見れば、およそ内容の見当がついたものである。
今では、発音して見て、知らなければ、それまでである、必ず、元の漢字語
が大概あるはずなのだが。

現在の韓国の新聞は、漢字は消え、あるのは、ハングルで書かれた発音のみで
ある。

         韓国の言葉事情はここまで


NO.3        それでは、どうすれば?

基本、日本の大学は日本人の為のもので、高度な研究になればなるほど、
そこに欧米諸国やアジアの日本語を知らない英語話者の頭脳が立ち入る
には、大きなロスがあり、壁もある。
日本の大学や研究機関の使用言語は「日本語」によるのが中心で、
この上に「どう外国語・外国人」に対応するのかを考えることが重要だ。


最近、外国人(日本語を知らない英語話者)の、有名、有能な学者の
碩学講座や講義を持つことも多少増加傾向にあるが、多くは、通訳付きの
「招待・招聘記念講演」にとどまるのが普通だ。

このあたりの問題は早くから国も懸念し対策を講じているが、これだと
言う結論や方法は確立されていない。

こんな難しい日本語でも、理解してくれて、日本語を学ぼうとする人達のため、
マンガ・アニメ・映像 など文化コンテンツなどをキチンと学問の領域として
日本独自のグローバルな第2軸の価値観(始めに英語ありきではなく)を
作ろうと考えた方が良いように思えるがどうだろう。

今ある、世界何位、アジアでどうの、など、基本欧米文化何百年かの中の
欧米の価値観の中での範疇ではなく。
間違っても、韓国のKAIST工科大学のように「全て英語のみ」など
「短絡思考」に陥らないことを希望する。

「研究とそれに伴う、実績」重視の基本は失わず、「初めに英語ありき」の
「欧米型評価」にとらわれない「日本」独自のものを目指して欲しいものだ。



いづれ、上記の事に就いては、ブログ記事化してみたく、今日、思った。
今はまだ「独断と偏見」と言えども、書くだけの「知見も見識」も持って
いない。

だが、おもしろい、テーマだとは思っている。


  ****************************************************************
それでは今宵はこれまでとする。
oldboy-elegy君としては「独断と偏見」と言いながら、マジ面(づら)で
終始したようである。

少々、疲れた感もある。
ブログ記事は楽しく書かねばの持論もあるが、時おり胸の内の鬱積した
しこりを精算する必要もあるらしい。

バイリンガル、幼児教育も結構だが。

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このところ、急に涼しくなり、冷凍庫に入っている、あずきアイスバー
2箱に手が伸びなくなった。
明日は「おでん」でも食ってみるか、oldboy-elegy君には自前で作る
迫力はない、もちろんコンビニ謹製のものであるが。

            

         では では おやすみなさい

          上・下     了


                                                    oldboy-elegy

oldboy-elegy.hateblo.jp

(雑感・雑記帳 No.23・上)ある意味、日本人って昔から、英語、得意だったんじゃない!!??と、いつもの彼らしく、独断と偏見でもって語ってみた。

                    始めに お知らせ


この記事、書いたのは良いが、字数が8000字を余裕で超えてしまった。
始め、文字数を削ることを考えたが、言葉が飛んだように感じて、難しい。

結論として、下記のように2分割にした。

雑感・雑記帳 No.23)現記事
(雑感・雑記帳 No,24下)タイトルは同じ 投稿日 10・20ごろ


の2編として、今日の記事に続けてUPすることにした。
少しでも興味のある方は、このことを踏まえて、読み進めて欲しい。



               前書き


※今日の記事では、戦争・紛争などが原因で他国や地域に移民、移動する
人達のことは除外して語っている、
そしていつものoldboy-elegy君らしく、「独断と偏見」をもって
書かれて
いる、ことは言を待たない。



(雑感・雑記帳No.23・上)  本文


● 日本って、世界一の外国語(英語を始め、多くの言語)の翻訳国家
      であり、今もそうである。!?

ここで「英語圏」の人が「英語本」を出版することは当然「翻訳」とは
言わない。



 言葉(言語)の基本要素は「聞く・話す・書く・読む」の四つからな
っている。

注 この記事で言う「聞く」とは英語で言う「listening・リスニング」で「hearing・ヒアリング」
のニュアンスではないことを初めに断わっておく。


だが
、地球上のある地域では(書く、読む)が未発達で「聞く・話す」
のみで生活している人達の共同体がわずかではあるが存在する。
しかしその逆の「書く・読む」だけで生活する共同体や人達はいない。


してみれば、人類の「文化的・文明的」進歩は当然、「話す・聞く」が
、まず「最初にありき」であったはずである。

「聞く・話す」の基本は赤ん坊、幼児の置かれた、生活環境と社会環境の中で
育まれ発達して行く。

「書く・読む」は共同体の中で自然に備わるものではない。
全て、「意図的・恣意的」なもので、その高度化は「STUDY・学習」に
よって
獲得されることになる。

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はたまた、oldboy-elegy君、読者諸氏のヒンシュクを買うであろう、自前の下手な文字画像をUPさしていただいた。

左掲のそれは、日本人の「英語」に対する、
一般的な能力を示したものである。
言うまでもなく、日本人の全ての人がこうであると、するものではない。
すべてRATIO(比率・割合)の問題で、この傾向が顕著であると言うことだ。
もちろん、そうでないお人も大勢おられるのは知っている。





英語を「聞く・話す」はカラッキシだめでも、「読む・書く」は(コンサイス
辞書と時間」さえもらえば、そこそこ「やれる」と自負する人は大勢おられる
と思う。
そこへ英英辞書があれば、なおさら良い。

oldboy君などは、両方ダメダメなお人ではあるが。

この国(日本)の歴史は中華圏や英語圏の優れた文明(科学)を始め、あらゆる
文化的
概念を「日本語化」して、日本語のみで恣意、思考することに成功した
稀有な民族で
あり、国なのである

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大昔、もともと「聞く・話す」だけで、「読み・書き」を持たなかった
我々の祖先は、やがて(中華圏)から渡来した(漢字)の発音を借りて
自分達の話し言葉やまと言葉)に初めて「書く・読む」の原型を付与した
のである。

ここに、言語の4要素(話す・聞く・読む・書く)の最低の「必要条件)
の雛型(ひながた)を得たことになる。

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爾来1千年以上「万葉仮名・ひらかな・カタカナ・漢字語」などを発明
しながら、緩やかに「読み言葉・書き言葉」を発展させ独自の文化を
育んできたのがこの国なのだ。

江戸時代、中期前に「元禄文化」、後期には「化政文化・文化文政期」の「2大
町人文化」が、この日本語を基に(もと)、花開いた。

なお誇らしいのは、欧米・中国に置いて「読み・書き」を必要としたのは、
主に「高位・官職・文化人」のエリートたちであり、庶民の多くは文盲で
あったとされる。
 
●徳川期の日本文化と日本語の進化

徳川期の身分制度は実質的な身分制度ではなく、単に職能区分に近いもので
あったとする説もある。
士農工商」で、ある意味、一番恩恵を受けたのは、真逆の「商工農士」の
順であった、する見方もある。

江戸元禄文化以降の学びの場は多様で、
藩校・郷校・私塾・寺子屋・サロン(同好の集まり)・などがあった。
江戸・大坂・京都 などの都市部では70%を超える識字率であった、とする
学者もいる。

だからこそ、瓦版(今で言う、新聞や号外)の発行、と言うビジネスも成立
したのだろう。
その読者の多くは、物見高い市井(しせい)の人達であった。

藩校などは、藩士の子弟のみが入学を許され、江戸時代後期は別として、
カリキュラムは、四書五経漢籍の読み書きや暗唱・暗記が中心であった。

一方、藩校・郷校、以外の教育施設は「士分」とは関係なく、親たち、本人の
才能・情熱・趣味と多少の金銭があればが叶うものだ。

この辺りからして、欧米や中華圏の事情とは全く違う。

英国の庶民は今日でも、経済・行政の中心である「シティ」のエリート達とは、
明確な差別は無いにしても、「鼻もちならない、目に見えない壁がある」と
何かで読んだこともある。

この国、日本では、日本語は、人の身分を選ばない、むしろ江戸中期以降には、
支配階級であるはずの「武士」が一番、未発達階層であったように思う。

こんなエピソードもある。
どこの藩の殿様か失念したが、参勤交代の帰郷のおり、
自国の近くまでやってきたが、そこで「路銀・旅の為のお金」が果て、家老に
自らの城下の大商人に金の無心を頼む手紙を持たせ、馬を走らせたそうである。
これなど、身分制度が実質的には形骸化していたのかもしれない。

●翻訳は「通史・通訳を職業とする人」ではなく、それぞれ、翻訳本を必要
とする「専門家」が行っていて、漢字を利用した見事な造成語が作られて
いき、蓄積されていった。

例えば、「杉田玄白前野良沢」が著した「解体新書」などがそうだ。

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(上のお人は「杉田玄白」さんのイラスト画像)

明治期には約3000人ほどの外国人(主に英語話者の)技術者が教師として
高給で雇われ来日したそうである。
当然、彼ら、それぞれは、幾冊もの自国出版の学術・技術書などを、たずさえ、
持ち込んで
来たはずである。


こうして、新しい言葉は、書物の中だけでなく、「話し言葉」の中に、落とし
込まれ、普通の日本語として、会話される。
この時、当然、この言語の元が「欧米の言語」であったことなど関係はない。

そして翻訳・出版は明治に入り、ますます加速する。


膨大な翻訳本の存在は敢えて庶民それぞれが英語(他言語も)を知らなくても、
日本語書籍(翻訳本)から、外国の優れた文明・文化を日本語で読み、議論し、
やがて、日本語化する。

そのぶん、英語(外国語)の「聞く・話す・読む・書く」の「総合力」と
してのコミュニケーション能力は未発展のまま現在に至ったのかもしれない。

このためか今でもOECD国家群の中で、日本の総合的英語能力は常に最下位
付近にある。

一方、明治期なかばには、西洋言語のあらゆる概念を、日本語で表現する
ことが可能になった、のとはウラハラに。


日本の場合、あらゆる英語情報が膨大な翻訳作業の結果、日本語として表現
されるに、至ったのである。

この作業は今も、モクモクと続いている。

世界にどれだけの種類の言語があるかはしらないが、その自前のネイティブ
言語のみで、欧米社会の持つ、発達した文明・文化の概念を表現できる
国家・民族 は欧米諸国を除くと殆んど
存在しない。

今、英文で書かれた、すごく面白い小説が出版されたとしょう。
数か月後には、日本語に翻訳されたものが、書籍店に並ぶ。
そして「英語・他言語」を全く知らない人達も、これら翻訳本を手に
して読み理解することが可能になり、その恩恵に浴する。

そう、日本人の場合は、世界のあらゆる知識を英語ではなく、日本語で読み、
考えることが可能なのだ。

英語の、科学技術用語から哲学・文学・などの、あらゆる概念に対応する
言葉が、長年の蓄積により日本語には備わっている。


そう、英語で考え、感じる、その作業を日本人は日本語で可能なのだ。

例えば、アジア圏のフィリピンはタガログ語や、島々には多くの現地語が
存在するが、高度な英語言語をそのまま自国語で表現することは難しい。
そもそも訳される言葉が自国語には存在しない場合が多々ある。

化学技術や政治・経済・法律の高度な用語を、ネイティブ語に置き換える
ことが、ほぼ不可能である。
てっとりばやく、英語能力の高い人が、原語で読むだけで、社会的な広がり
を期待することはない。

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従って、自分達がもともと持っていた言語のみを公用語として使用するのが
難しい。
そのため、世界に通用する、英語を公用語としているが、同時に、フ
ィリッピン語として、タガログ語は生活用語としての言葉と同時に公用語
としての地位にも留め置かれている。

タガログ語公用語として存在する理由は「民族としての自尊心と自負
のためだと言われている。

同時に小学低学年からあらゆる科目を英語で履修する。
そのため英語のネイティブ化が国力発揚と国民一人一人の、よりよい生活を
保障する「必要条件」となっている。

ゆえに、英語力(聞く・話す・読む・書くの総合力)は日本人と比較しても、
格段に進歩している。


いっぽう日本人の場合、英語の持つあらゆる概念が、先人の努力により
日本語そのものに備わっている。

彼等(フィリッピン人)の場合、高度な単語(科学用語など)を完全に置換
される自国言語はない。

そのため英語の発音と言葉の概念が、自国言語のタガログ語を経由していないのだ。

日本人は普段の生活言語から、科学・政治・経済・法律・音楽・詩歌など
およそ人間が考えうる全ての文明・文化領域を日本語のみで表現でき、ほぼ
自己完結できる、良し悪しは別にして。

以上、フィリッピンの例を述べてきたが、言語・民族の良し悪しを論じているもの
ではない事は、了解しておいてほしい。

日本人ノーベル賞受賞者も、その殆んどの人は日本語で思考しているのが
普通である。

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単語の一つ一つに英語を使用することはあるだろうが、思考回路は日本語
そのものがインプット・アウトプットされている。

ノーベル賞受賞者の「益川先生」など、この日本語に対する「賛美と感謝」を
受賞公演でも述べておられる。


余談だが、
近頃、oldboy君などの知らないカタカナ用語や日本独特の短縮系の言葉が
たくさんある。
たとえば「アコギ」など、当初「あこぎなまねはするな」の「あこぎ」と
oldboy君、思ったが、どうも違うようだ。
使用する場面から見るに、名詞形である。

分らないままでは悔しいので、検索してみたら、どうも「アコースティック・
ター」のことらしい。
これなど、正しい英語表記を崩した「日本語」と理解するのが正しい。
oldboy君、もし、この言葉「アコギ」を使う場面に遭遇しても、使う
勇気は持ち合わせていない。

そのほか「ブコメ」「ウパトレ」などたくさんあるが、いくら考えても
解らぬ、敢えて調べていない。

マ~、歳を取り、記憶容量が減少傾向にあるoldboy君に負担をかけたくない
ので、近寄らずにおくことにしょう。

断わっておくが、非難しているわけでもないことは了解してほしい。


      それでは、今日はこれまでとする  では では

               続く
                oldboy-elegy

以上ここまでを
 (雑感・雑記帳 No.23・上)として投稿した。

以下の記事が今日の記事の続きである。

oldboy-elegy.hateblo.jp

 



       

oldboy-elegy.hateblo.jp

oldboy-elegy (34) 新手(あらて)のおもらいさん(乞食)現る、何故か無言のまま、反射的に「どうぞ」とジェスチュア―してしまう?!

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 もう30年?ほど昔の「お話」
である。
「ヒヤーッ、古っ!!」と
あきれる読者もおられるだろう
ことは、重々承知の上での投稿
である。
これぐらい昔話でも、oldboy君には、
つい昨日のような感覚に陥って
しまうのが情けない。





上掲のイラスト画像は、見ての通りの「地下鉄」である。

乗車駅は(地下鉄天王寺)だったように思うが、これも、いくらかあや
ふやである。

oldboy-elegy君、帰社途中のことだった。
目指す下車駅は、会社のある最寄り駅(堺筋本町)である。
現在の料金では230円となっているが、当時は幾らしたのだろうか。

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地下鉄天王寺駅のメインの切符売り場ではなかったようである。
券売機も3、4台程度しかなかった上に、なにやら薄暗く、くたびれ感、漂う
場所であった。

oldboy君、500円玉を取り出し、券売機に投入。

この時初めて気がついたのだが、白髪交じりの初老のお人が、彼の右脇に
ピッタリと立っていなさるのである、それも殆んど体が触れあわんばかりの
近さで。

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oldboy君「ウウン、なんだこの人!??」の気持ちがあったのは事実だが
それ以上のことはこの時はまだ念頭になかった。

ことはこの後、すぐに起こったのだ。

切符を取り、つり銭のあるトレーに手を入れると、なんとそこには、その
初老のお人の手が先に侵入していたのである。

oldboy-elegy君の指も、瞬間彼に触れたようであるが、つり銭はキッチリ、
彼の手でガードされている。

そう、彼、「新手・あらて」のおもらいさん(乞食さん)であったのだ。

見た感じ、そう言う種類のお人とは見えない。
白髪交じりの頭髪に乱れは感じない。
ただサンダル履きなのが、気にかかる。

この時、反射的に手を引いたoldboy君である。
「つり銭を取られてしまう!!」など全く考えもしなかった。
ただ「肌が触れ合った」気味悪さ故の反応だったと思う。

しかしこの方、2~3百円のつり銭を急ぎ、取り込み、すぐ先に見える
階段を登れば事は済むはずだが、それもしないのである。

ただただトレーの口を押えていなさるのである。

ここで彼と目があった。
いぜん、手はつり銭トレーの中である。

彼の目は
多少の申し訳なさとともに、「くれるのか、くれないのか、ハッキリしろ」
と言っている、「狡猾」さも見てとれる。

ただ、強奪をする訳でもなく「お前の了解を待っている、早くしろ」と、
無言で言っているのである。

ここで拒否しても、悪態をつくではなく、ましてや力まかせに強奪をする
感じでもない。

しかし、oldboy君の手と、態度は、「お金をあげる」ことに同意していた。
なぜ、そうなったのか自分でもわからない。
そしてトレーにつり銭を置いたまま、そこから少し離れる。

ここでも、この新手(あらて)のおもらいさん、表情に日がさすでもなし、
ましてや、喜びの表情が面(おもて)に現れることは無かった。

ただ当然のように、つり銭を手にし、急ぐ様子もなく、すぐ先の階段を上って
行く、悠々と。


すべてが、おもらいさんの予定知の中での、結論だったのかも知れぬ。
多分千円札でのつり銭は狙わないように思う。

(当時、千円札での切符購入が可能かどうかは記憶にない)

なぜなら、成功の確率が一気に下がり、いわゆる「危ない橋を渡る」掛
になってしまう、はずである。

結論
〇一人行動の乗客のみをターゲットにしているはず。
〇女性は狙わない(表情・雰囲気からは読めない怖さがある)
 今日のように、手が触れ合えば、大声で叫ばれることは「必至」である。
〇身なりの良い、いわゆる、出来そうな奴は危険(oldboy君あたりが
 ねらい目)
〇千円札でのつり銭客はねらわない

まあこんなところが、あやつの基本戦術で、最後は彼の第六感・感覚がものを
言う、

そう考えると、遅ればせながら、少々、oldboy君、腹が立ってきた。
なぜなら、自分が彼の御眼鏡(おめがね)にかなった人物・風貌であり、
事実その通りになったのだから。

ずっとずっと幼少のミギリ、月2回の大きな縁日が近所で開かれていた。
その折、お寺の石段の脇に「おもらいさん」が必ずおられたのを憶えている。

白のさらしの着物を着て頭にはカーキ色(濃い緑色)のヨレヨレの軍帽を
被り、まんまる縁の濃いブルーの色眼鏡をしておられた。
肩からは、アコーデオンが重々しくぶら下がっている。

いわゆる、傷痍軍人(ショウイグンジン)さんの「オモライ」さんである。
時には、松葉杖を石段の脇に置き、本人は杖に寄り掛かるようにして、足
を投げ出し、座っていた人もおられた。

oldboy君、この姿を見てギョットしたことがある。
片足が太もものあたりから先が無いのである。

アコーデオン曲の定番は、今日も暮れゆく「異国の丘」である。
子供心に何か、切なさを感じたものである。

終戦後10年少しのころであった。
今でも、彼らは正真正銘の「傷痍軍人」さんであったと信じている。

これに比べて、今日の「おもらいさん」、対極の存在である。
おまけに不遜すら感じる。

この間(かん)、始まりから、つり銭を手にした彼が去るまで、数十秒以内の事であったろうと思う

恐らく、券売機の前に立つ前から、この阿保ずら、それに裕福でも無い癖
に少額のお金ならルーズそうな奴、と見抜いての行動であったはず。

相変わらずoldboy-elegy君、ネクタイのノット(結ぶ目)は今日も下がり
気味である。

この仕事、もし人を間違えれば、大変なことになる。
少々小突かれるならまだしも、運が悪ければ、窃盗か何かで警察に突き
出されても文句は言えないものである。

ただ彼の最後の防波堤は
「強奪、強要は一切していない、いただけるかどうかの返事を待っていた」と、
もしもの時は答えるつもりだったのかもしれない。

oldboy-elegy君、時間が経つほどに腹が立ってきた。

あの、今日も暮れゆく「異国の丘」の「傷痍軍人」さんの時の「切なさ・
哀れさ」は、微塵も感じなかった。


           今日は、ここまで
              それでは   おやすみなさい   では では


              了
           oldboy-elegy

oldboy-elegy (33)テネシーワルツとストリップ劇場・当時の, ある法文系学生の生態と??、 IN KYOTO

日記?雑文?よくわからない。ともかく自分の人生の時空を行ったり来たり、
ちょっ可笑しく,すこし哀しいが何故か懐かしい物語でもある。オールドボーイ
諸君に幸あれ。

今日のこの記事、およそ半世紀ほど昔、学生であったoldboy-elegy君たちの
日ごろの
ひとコマを切り取り活写したものである。

この記事、実は、ブログ開設初日に投稿したものをリライトしたものである。
日付は2019・04・10 となっている。

悲しいかな、初投稿から今日まで、読まれた形跡は殆んどない。
今なら、些少なりとも見ていただけるかも、との思いで再掲した次第である。

当時(ほぼ半世紀昔)の法文系アホ学生の日常をご覧あれ。
                         by oldboy-elegy

                  

わたしは女友達に私の彼を紹介したんだ。 そしたら、その女に私の彼を
横取りされてしまったのよ」・意訳  
          
テネシーワルツ by Patti Page (パティ・ペイジ)

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いま京都にいる。
京都見物とゆうわけでもない。
学生をやっている。
下宿生活でもない。
ともかく高貴なお方が多く住むと言う?大阪は河内からの通学である。

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「  学費は出す、部屋代を出せとまでは言わぬ、家での食費はタダ、ただし
オカズに文句をゆうな、こんな好条件どこにある」、と我が敬愛する母上の
言である。

私oldboy君、文句をいえるはずもない。
「ははあーッ、ごもっとも」と首(こうべ)を垂れるばかりであった。

これで取りあえず最低、生存できる保証を得たことになる。

 高校の卒業式前に小さな塾での講師のアルバイトを先輩から譲り
うけた。
同じ高校の先輩が大学を終え、就職するにあたりoldboy-elegy君をと
指名していただいたものである。

人を見る目がない先輩であったことが幸いした、失礼。

ともかく、順調?に行けば、4年間のモラトリアム(社会人になる前の
猶予期間)期間をいただいた事になる。

何ゆえか、この時代の新聞、地方版全面を充て、そこに、なになに大学
の合格者氏名を高校別に掲載していた。

順次、私立大学から始まり国立、公立と約2か月弱の間の恒例であった。

なぜこんなプライベートなことが、新聞、それも大新聞と言われる紙面
を飾るのか、今にして思えば不思議に思える。


こんな新聞を見ている近所の口さがない大人連中「oldboy-elegyちゃん、
なになに大学合格したんやて、おめでとうさん」これで終わればまだ辛抱
できるが、必ず次の言葉がくっ付いてくるのである。

「つぎ何処、受けるの?」この言葉は、次の大学、受ける人にも、受けない
人にも最悪である。
ともかくも、国立、公立至上主義の土地柄もあり「この次は?」とくるの
も当然と言えば当然である。
  
彼、一応国公立、理系の受験科目数は満たしてはいたが、多分に恰好だけの
ものであった。
私立は基本3教科、公立、国立5~7教科。

しかしoldboy-elegy君、私立大学に受かったとたん、やる気は雲散霧消、
「これでいいや、これでもよく受かったもんだ」と自己満足と自己弁護。
スタコラサッサと即、受験戦線から逃亡を決め込んだのである。

oldboy君、近所のおじさん、おばさんに「これで終わりです」と、小声で。

 ここで少し困ったことが、先輩の塾での受け持ち教科、数学と理科
なのだ。

いくら中学生中心といえど、oldboy君、純度100%の文系一択の学生であり、
高校での「理系進学コース」は「ツブシが効く」位の発想での在席であった。

結果、高校時代は一貫してアホはアホのままで、化けることはなかった。

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言いたくはないが高校、卒業前の物理の試験、2回チャレンジ試みるも2回とも
あえなくアウト。

最後には教官自らが禁じ手発動。

 最終の3度目の再々試験、大問2題、中学に少し毛が生えた程度の軽量問題を
出すと宣言。
その上、まだ御心配だったのか何日か前にガリ版刷りの問題用紙をバカ生徒
何人かにヒラリヒラリの手渡し。

一応、理系進学コースで、50人中、女子も数名、在席していたが、何故か
落第危惧種は(5~6人)すべて男子学生である。

こちとら肩をすぼめ頭をカキカキありがたく、出題確定問題、掲載の用紙を
両手でウヤウヤシクいただく。

公衆(学生)の面前で「俺に恥をかかせるな」と、のたまう教官。
口に手をあてクスクス笑ってやがる女子(おなご)もいる。

最後にこの聖人先生「この中の問題からそのまんま2題だす、いいかもう
一度言う、そのまんまだ、解けないやつは理科の準備室に来い、回答も作って
ある、俺もいちいちお前らに付会って説明する根気はない!」と一括。

それからこのバカ生徒の中の一人、佐原に向かい、「ほれそれ・・・ピアノは
上手くなったのか?」と小さな声で一言。
当の本人「はい」とキラキラ星の笑顔、教室中が静まっていた。

ここまで綴ってきたら、随分昔のことだが、その場の状況を思い出すこと
しきり。
  
ただこの高校、病気、大幅な出席不足以外、学科の成績だけで落第は
出さない事で有名であった。

数学や理科を塾で教え始めて思ったことがある。
「案外俺いけるんじゃない」なんせ飯のタネなのだから。

2月の中旬(高校卒業前)から教え始め4月に入ればもう自信を持ち始める。
このあたりoldboy君、基本的に人間が軽くできている。

そう、京都に通うようになり一年を少し過ぎたころのことであったと思う。

出来の良くない学生4人が京都では一番の劇場(なにが一番か俺は知らない)
と名高いストリップ劇場、千〇ミュージックご登場である。

このうちおれも含めて3人はこの手の劇場は初めてではない。

九州は福岡出身のOなど在学中に半券50枚を収集して「我が家の宝にしたい」と
豪語していたが、しばらくすると熱が醒めたのか、目標が麻雀に変更とあい
なった。

もう一人は出身地はともかく学生服に角帽、足元は白緒の下駄といういで立ち
である。
おまけに腰の後ろには日本手ぬぐいがぶらさっがっている。

当時、このような風体の大学生はママ存在した。

角帽、下駄は別として、詰襟(つめえり)学生服だけに絞れば結構多くいた。

oldboy君も入学式は学生服であった。

高校時代に着ていた学生服に大学売店で売られている校章の刻印されたボタン
を付け替えればOKである。

あ~そうそう、襟章もそう言えばあったな。
詰襟の右部分には校章、左には学部章、Tが工学部、Cが商学部、Eが経済学部 
などなど。

俺(oldboy君)も学生服姿のモノクロ写真を1枚、今も持っている。
角帽もあったのだが、クロ(我が家の自由猫の名)のお休みどころとなり、
彼がいなくなったあと?角帽は行き方知れずの状態である。

学生服姿のoldboy君のモノクロ写真、上半身、左半身からのものである。
やや長髪で、天然のウエーブがかかっている、当時、このくせ毛、あまり
好きではなかった。

今では、短髪仕上げの白髪頭のせいか、波打つふさふさ毛髪を恋しく思って
いる。

もう一人Y君、ちょと見は遊び人風ではあるが実際は嫌味のない良いやつで
ある。
Oが誘ったらしい。

因みに彼は北海道の首都出身。
じつはこのY君に関しても後日談がある。
またいつか、話すこともあろうかと思う。
ひとつキーワードとして「大蔵映画」とだけ報告しておく。


入場料はハッキリとは憶えてはいないが400円前後したのかな?。 
学卒初任給20.000円弱程度の時代であるのを考慮すれば安くはない。
ググればたぶん分るだろうが、 oldboy君の主義ではできるだけそうしない
で書いて行きたいと考えている。

なぜならこの話、半世紀も昔の事、多少の「茫洋感」も、かえって、リアル
感を醸すことになる、と考えている、
と言えばかっこが良いが実のところものぐさでいい加減な性格、これが本当の
ところかもしれない。

ホールの中は暗い、ちょっと離れれば互いの顔もハッキリと認識できぬ。

ただその闇の中にスポットライトに照らし出された舞台が浮かんでいる。


客席から見ると一番奥の舞台がホール一杯に左右に広がり、舞台袖はその
まま楽屋に繫がる、その最初の舞台の中央にT型にウオーキングステージが
ホール中央に向かって伸びる。
そして客席の真ん中で半月の形をした大きな最終ステージにつながる。

つまり全体としてを思い起こせばよい。
左の縦棒が一番奥のステージ、次の横棒がウオーキングステージ、次の縦棒が
客席に突き出た最終ステージとなっている。
横棒の上下に分けらた部分も客席である。

ステージの裏は楽屋であり、踊り子さん達の宿泊施設でもある。


およそ10人前後の踊り子さんと1~2人の男性で一座をなしている。
入場券のもぎりは,もぎり嬢、と呼ぶのが普通だが、こちらの世界では
もぎり男が普通のようである。

O君など、なれるものなら、なりたいものだとちょっと憧れていらしゃる。
一座は半月からひと月程度で次の巡業地に旅たつのが習いである。

吊るされたミラーボールの赤、紫、青、黄色の光が小さな劇場の壁や天井、
客席の男どもの顔を嘗(なめ)回す。

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踊り子たちの衣裳は洋装が和装よりやや多い、和装の踊り娘(こ)は
そうでない子に比べて少し年が上のように見受けられる。

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オープニングステージは今日のラインナップを飾る踊り子全員のお披露目の
ラインダンスで始まる。
客席からは男どもの「黄色い声援??」が飛び交う。

それぞれヒイキの踊り子さんに向かって「〇〇ちゃーん、今日もたのむでー」と
声援のシュプレヒコール(集団唱和)でのスタートである。

なにを「たのむか」oldboy君は知らない!?。

何人かの踊り子さんたちが入れ替わり出演したあと、今でも忘れない、
薄く透けた紗のガウンに身を包んだ少し小太りぎみ の若い踊り子さんが
登場。

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なんとその踊り子さんのダンス曲、それこそが「テネシーワルツ」で
あった。
おまけに江利チエミさんでも、美空ひばりさんでもなくあの
「パティ・ペイジ」の「テネシーワルツ」をバックミュージックにしての
振り付け??である。

すまん、ゴメン、もっと高尚なお話を期待した諸兄を椅子からズッコケさせた
かもしれない。

この曲「パティ・ペイジ」がオリジナルと言うわけでもない。
彼女自身も何人かのカバーで歌った歌手のひとりのはず。

日本でヒットしたのも彼女の「テネシーワルツ」があったからだと俺は
思っている。

その上、英語の歌詞が日本人にとってもすこぶる分かり良いのであるが、
この点を誰も言わないが、これもヒットの一因であったかも知れない。
英文歌詞を検索されてみるのも一興かと。

断わっておくが、「江利チエミさん」が嫌いなわけでもない。
ただ、この曲に関しては、あの少し鼻にかかった巻き舌部分の英語が好きに
なれなかったのである。


そのうえ「パティ・ペイジ」の歌う歌詞の筋立てと日本人歌手も含めた多くの
リメイクの歌詞の筋立てと違っているようである。

つまりこうである、
「私はボーイフレンドの彼氏とダンスパーティにいった、そこで彼をわたしの
女友達に紹介した、そして私はその女友達に彼氏をストールンされた。」が
ペイジの筋立てである。

日本人歌手も含めてほとんどの歌手のカバーはこれとは違った筋だてに
なっていた。

「男性が自分の彼女をダンスに連れていき、彼女を自分の男友達に紹介、
そして自分の彼女を男友達に奪われた」と。

一人称の「わたし」の性別が入れ替わっている。
oldboy君の感性からは後者の感覚はありえないのである。


目前の「ヌードダンス」と中高生のころ聞いた「5級スーパー真空管ラジオ
から流れるパティ・ペイジ」の声が混然一体となり、oldboy-elegyを恍惚の
エクスタシーに引き込んだのである。

サムネイル画像として使用している「布団に入りラジオを聞いている図」
などまさにoldboy-elegy君の自画像そのものである。

ホントに「いらすとや」さんには感謝の一字です。

そしてもう一つ気になったことがでてきたのだ。

最近のことだが、このブログを書くにあたり もう一度「ペイジ」の
テネシーワルツ」をyoutubeで聞いたのだが「Tennessee waltz」の最初の
Tenne」の部分の発音がいくら聞いても「Chenne」にきこえるのである。。


カタカナで表すと「ネシー」と「チェネシー」ぐらいの感覚だ。

ほかのアメリカ人歌手では「ノラ・ジョンズのテネシーワルツ」、やや
ジャズっぽい歌い方だが、聞き耳を立てて聞いてみるが、Tenneに近い発音、
最近の僕はこのペイジの「チェネシー」にぞっこんです。

これ日本語で言う「〇〇弁」の一つでしょうか?どなたか推察でもよいから
教えていただきたいものです。
あるいは「お前の耳がおかしいのでは」でも結構です。

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 5級スーパー・真空管ラジオ

 です。






これらの多くのアメリカンポップスが僕の中学、高校生のころ、五球スーパー
真空管ラジオを通して洪水のように流れ込んだ時代でした。
本当に何もかもが新鮮で布団に潜り込み、毎晩のように聞いたものです。
(僕のプロフィール画像のように)

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左の画像はoldboy-elegy君深夜放送を聞いているイラストでる。
あわせて、ブログ全体のサムネイル画像としても使用している。そして彼の枕元右側にある黒い箱が、「5級スーパー真空管ラジオ」
である。






恋の片道切符
」・ニールセダカ、「谷間に三つの鐘がなる」・ブラウンズ、
トムドウリー・500マイル」・キングストントリオ、「煙が目に染みる
・プラッターズなどたくさんたくさんありました。

これらの曲の一つが「Tennessee Waltz・by Patti page」だったのです。

話を終えるにあたり。それぞれの結末を報告いたします。
2回生の春から「英語購読」なる授業がありテキストは「倫理学」・筆者は
英国の哲学者バートランド・ラッセルです。

この知的であるはずの授業のあとワルが連れもって、千〇ミュージックへ。 
倫理学とストリップ劇場、なんたるや、この落差、ラッセルもビックリ、
oldboy君の倫理はどこに行ったのやら。

もう一つこの日の「千〇ミュージック」は終始不穏な空気が流れていたのです。
客の怒声を聞けば察しがつくと思う、

「やーい、刑事かおまわりか知らんけど、弱いもんいじめスンナ、木戸銭ちゃん
と払ったんか、わいらおねいちゃんの味方やからな」などなど。
時折こんなこともあるらしい。

何が起こったのか、たいていの人はわかるはず。

当時の5級スーパー真空管ラジオの値段(これをググってみた)。
およそ5千円前後、学卒初任給20.000円弱程度、してみれば結構高価なものである。
oldboy君、家にラジオが来た時のことを覚えている.

もっと小さなころ今は亡き義兄が鉱石ラジオを作ってくれたのを突然に思い出した。
電池も、必要ナシ、深夜になれば案外しっかり聞こえたりして、見た目は悪いが
気に入っていた。

かまぼこ板や赤黒いエナメル線の円筒形のコイル(鉱石ラジオの
部品)を、どうかしたはずみで思い出す。
今となれば、およそ半世紀もの時空の彼方の出来事である。

当時交錯した多くの人達は、今は幻影の中にのみ存在する、懐かしくも何故か
哀しい物語となってしまった。


それでは オールドボーイ諸兄もそうでもない人も、よい夢を

            では では おやすみなさい


                 了

                oldboy-elegy

 

oldboy-elegy.hateblo.jp



oldboy-elegy (32)中古ジャンパーを前に、母とのやり取り、そして、その結末。彼女のいたずら心に思いをはせる

 

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変哲もない男物のジャンパーである。
イラスト画像からくるイメージと何故か分らぬがチョイと違う。

いくら「いらすとや」さんと言えど、いつもoldboy-elegy君の望むものが、
ドンピシャで
あるとは限らない。
左掲のイラスト画像を見つけただけでも感謝せねばバチが当たる。




まず、全体の色目である。

画像はやや迷彩柄になっているが、oldboy君の買ったそれは完全な
単色でもう少し濃い目の、いわゆる「濃モスグリーン」である。

あと、袖口・腰回り・ネック に伸縮する(ゴム編み)が施されている
のは
画像と同じである。

ゴム編み部分の色は身ごろよりさらに濃いのもそうである。

決定的に違うのは、oldboy君のそれは、フェイク(偽物)で作られた
ファーの着脱可能なチョッキ(今で言うベスト)が付いていたこと
であった。

身ごろ裏側にリボンの小さなワッパ、チョッキ側にやや大きめのボタンが
ポイント、ポイントに付けられ、これに引っ掛けていくのである。
つまり、着脱式のベストで寒い日に付け、温かい時にははずすのである。

素材であるが、厚く織られた綿布(多分)であるが、帆布のような
ゴワゴワ感はない。
コーデユロイ(生地表面に段差がある織りかた)でもない。
当時はやりの合成繊維では決してない、

ただ、この品、古着やの壁にかかっていた時には感じなかったが、こうして
手元でよくよく見ると、少々着古され,
くたびれ感が生地の色目や裾・
袖のゴム編みに見てとれる。


これまで幾人の人達の手を経て、今ここにあるのだろう。
それを思うと、ジャンパーを連れて帰りたくなったのである。

oldboy君,もちろん購入を決定!!。



    
         ここから本文である

             ★
● 中古ジャンパーを手にいれる

いまアルバイト先である鶴橋の国際マーケットの鮮魚店を出て、「米軍、
放出品も、鶴橋一」の看板のある古着店の前にいる。

鮮魚店は昼には卸売りが終わり、そろそろ一般客が来る時間である。
oldboy君達数名のアルバイト店員の仕事もここまでである。

だがoldboy君、急いで河内まで引き返し、花屋のハルさんの「門松づくり」
を手伝わねばならぬ。

塾は年末・年始のお休み期間である。

門松は全量、大阪市内のバーやクラブなど花街に、「ヤクザやさん」
を通じて販売されることになる、それも無理やりの押し売りである。

年末のここ、鶴橋の国際マーケットは混とん(カオス)の世界だ。
あらゆる店舗には怒声が飛び交い、師走の人いきれでムンムン状態なのだ。

お金の持ち合わせはなかったが、アルバイト先の店名を言い、31日の
昼過ぎにはお金を持ってくるので、「確保」して欲しいと交渉、
店長も魚屋の名を知っていたみたいで、交渉成立、目の前でハンガーから
下ろし、新聞紙にくるみ、奥に持って行った。

支払いの時、いくらか安くしてもらった記憶もある。

こうして手に入れた中古ジャンパー、高校、大学の冬場の私服は、殆んど
これ一着で済ませたようなものであった。

11月も半ばになると、これのお出ましである。ファーのベストは装着しないが、
ジャンパーのみでOKだ。

冬場になれば、合繊のフェイクベストを付ければ結構、暖かい。

ジャンパーの下には母手作り(棒張り編み)の無地のセーターを着こむ。

彼女(母)は棒針編みの名手でもある。
oldboy君、毛糸のカセを両腕に引っ掛け、クルクルと母が毛糸玉を作る
手伝いをしたことがある。

もう解かれてしまったが、左肩から右裾にかけての前身ごろに、スキーを
する男の子の模様が入ったセーターがあって、小学生のころ結構気に入り良く
着ていたのを思い出す。


3月一杯はもとより、ファーと取れば、4月の中旬まで着れぬことはない。
およそ年の半分をこのジャンパー 一着で賄っていたようなものである。

あーそうそう、oldboy-elegy君、シーズンが終われば、唯一、クリーニング
店に持ち込む衣類がこれであった。
それぐらい気に入っていたのである。

もちろん、母上にお頼みしクリーニングに出すのだが、何故か料金を
払った覚えはない。

さあここまでつらつら書いてきたが、タイトルの「母とのやり取りと、
彼女(母)のいたずら心に思いをはせる」その意味はと、イブカル読者諸氏も
おられることと思う。

ここからが本文中の本文である。

以後、大学卒業までの、あしかけ6年間、このジャンパーにお世話になる
ことになる。

● お気に入りの中古ジャンパー、ご臨終か?

ここからがタイトルの「母子の言葉のやり取り」である。
言葉そのもを一言一句キチンと憶えているわけではないが、それぞれに
結果があるなら、このような言動があって当然と考え、書いている。

確か、大学3年の冬の頃、
「あんた、それ何??!!」素っ頓狂(すっとんきょう)な声とともに近づいて来た母、後ろからoldboy君のジャンパーの左袖を取り、しげしげと御観察。

「あんたジャンパー脱ぎ!!」と宣い(のたまい)、袖に自分の腕を入れ
しげしげと見入っておられる。

「あんた、このジャンパー、ご臨終かもよ」と母の宣告、袖の後ろ左肘の
部分に自分の腕を入れ、指を内側から外に突き出してなさる。

「母ちゃん、何すんねや」と静止したが、なにげに「マアーマアー擦り
切れてはるわ」のご診断である。

「あんた、塾や学校何着て行くん」と母も思案顔、
「セーターは何枚かあるから、いいとして、上着やな、あの茶色の替え
上着・・・」

(替え上着)とは今でゆうところジャケットぐらいの位置づけかも。
セーターは全て母の手製である、彼女は「棒針編み」の達人なのだ。

と言いながら、目の前のoldboy君専用の白木の洋服ダンスを開けている。

「なんやこれ樟脳の匂いキツイな」と言いながら、窓のカーテンレールに
懸けておられる。

oldboy君、突然の不吉兆にダンマリにして、不機嫌なご面体(めんてい)
である。

「今から、鶴橋まで気に入ったの買いにいくか?お金なら月賦で貸して
あげるで」と母。

それでもダンマリのoldboy君、ショックが尾を引いているのだ。

● 母、ジャンパーの手術(繕い)を提案

ここで母のお顔に突然の破顔の表情が浮かび、「あんた、それやったら、
うちが、継ぎ当(つぎあて)して繕う(つくろう)てみようか?」の
まさかの提案である。

「でけんのか?」と不信顔のoldboyくん。

「もちろんできるわよ、ただあんたが気に入って着るかどうかが問題
だけや」と母。

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以前にも記事にしたことがあるが、母は夏場の一時期を除いて、一年の
殆んどを着物で通したお人である。

今ももちろん、着物姿であるが、上から、真っ白な「割烹着・かっぽうぎ」
ハオッテおられる。
※割烹着 着物を着ている人が家事労働などを成す場合、そのまま上からはおる、
仕事着で、多くは真っ白なのが普通。

着物をほどき、反物になったそれに、ノリ張して、天日干しをし、
再び縫い直すのも平気でやり通す、お人である。

向かいの大きな家の、長い土塀を借りて作業をしている母をこれまで
幾度となく見てきている。

「ほんだら、母ちゃん(継ぎ当て)やってみて」と母の腕を信用して
不承不承(ふしょうぶしょう)ながら了解。

ジャジャーン
そしてできたのが、この下の画像なのである。

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誠にヘタクソな図でゴメン。
ジャンパーを後ろから見て
左が左袖の肘部分で、何故かそんなに擦り切れていなかった右側肘部分にも継ぎ
当てが。





まず、左袖を見てくだい。
どうみても、誰が見ても、ハートマークが逆立ちしたものにしか見えない。
あの傷み具合から見て、なぜこうなるのかの必然がないのである。

母いわく、
「始め小さく、ほつれ部分を切り取ったんやけど、すぐに大きく傷口が
広がりそうやから、結局大きく切り取り、あて布をしっかりと、繕(つくろ)
った」とのこと。

「それは分かる が、何故ハートマークがそれも逆立ちに?」と聞くと、
「遊び心にチョッピリ火がついて」みたいな返事が返ってきたのである。

右の楕円のマークは、早々ダメになるだろうと判断して先手を打った
とのご返事であった。

「マー、ぶつぶつ言わんと、着てみ」と促され袖を通す。

洋服ダンスを開けると、開きのドアに貧弱な鏡がはめこめらている。
袖の、肘を曲げ伸ばし、して見るが、何故か「これはこれでいけるのかな」
の気持ち。

へたな図をもう一度みて頂きたい。
まず、もともとの地色の濃いモスグリーンは、図の黄色ぽいグリーンより、
ずっと濃い色目で、継ぎのハートは濃紺である。
ハート柄も思ったほど目立たない。

もし、これが赤やピンクなら、どうだったのか?
今思うに、案外着ていたかも知れない、との思いも、何処かにある。

「あんた、そんなに目立てへんよ、いけるいける」と自画自賛の母」

oldboy-elegy君も、母の語勢に押されて、その気に。
「まあ、肘やし、見ようと思えば見えるけど、普通にしてれば自分で見る
事もないし」と、愛しのジャンパーの(成れの果ての姿)を見ながら、不承
ながらの了解顔。

最初の幾日かは、幾分のコッパヅカシイ気もあったが、やがて気にも止め
なくなった。

塾では、生徒たちに「先生、かっこいいやん」とか言われて、まんざらでも
ない気分に。

母には、この気分の変化を見ぬかれ、
「どやあんた、気に入ってるんちゃう」と言われる始末。


大学のクラスの連中も、初めは「笑って」いなさったが、今は
いたって無反応である。

なんと言っても、このハート付きのジャンパーの晴れ舞台は大学の
クラス(ゼミ)の女の子、S子と、これを着て映画に行ったことである。

このハートの継ぎのジャンパーを見て、断わられるかもと思いながら、
誘って見たら「良いわよ」のご返事。

彼女、実に聡明にして品のある人で、ゼミの発表にしても、哲学的命題に
しても、その理解度には感嘆したものである。
oldboy君とは恥ずかしながら、地頭がちがうようである。

彼女、山陰のある田舎町からの下宿生活であった。

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逆にoldboy-elegy君の左袖を取り、しげしげ見つめ、「あんたのお母さん、
器用でセンスあるなあ」とオホメノ言葉をいただいのである。
もちろん、このことは母に言ってない。
男の子とはおおむね、そんなものである。
後悔すること、「しきり」である。

映画の内容はさっぱり憶えていないが、何故か題名はしっかりと記憶に
ある。

アメリカ映画で、「スペンサーの山」であった。
G検索してみると、主演俳優はヘンリー・フォンダモーリン・オハラ
ある。
当時きっての、大俳優たちである。

映画館は京極通りに入った広場の東側にあった、劇場の名も忘れている。

しかし、oldboy-elegy君、隣のS子の息遣いや袖の触れ合う感触は憶えて
いる。
しょせんは、下品な奴なのである。

ただ彼、ここで大きなミスを犯していたのである。
後先考えず、授業のあと、彼女を誘ったのであるが、
まさか、このデイトの誘いを受けてもらえるはずはない、と勝手に
決め込んでいたのである。

そう、この日は、塾の授業がフルタイムである日なのである。
映画の後の食事もできず、理由を話し、お茶もせぬまま、大阪は河内
に急いで、とって返したのである。

oldboy-elegy君、どうもドジっぽい性格は性(サガ)のようである。

もちろん、これ以後2度とこのようなチャンスは巡って来なかった。

大学を卒業後、oldboy-elegy君、単独で3度ほど転居したのだが、
(あのジャンパー)は、いつとはなしに手元から消えてしまっていた。



母の、手ずからの温もりも失った。
すべて、この年になって気が付くものなのである。

 かるい、ため息を吐きながら、当時の己を振り返る。
らしいと言えばらしいと言えるが、同時に間抜けでもある。

まあこれも性分、良しとするか、とご納得。
懐かしく、ほんのり甘酸っぱい、良き思いでもある。

それでは、この記事で無しえなかった続きの夢を期待しながらご就寝
することに。

             では、では 

               了


                    oldboy-elegy

oldboy-elegy.hateblo.jp




(雑感・雑記帳 No. 22 ) 井野さんを通じて外国語との付き合い方を学ぶ。

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井野さん、場末の薄汚れた
食堂で
食事をとることが多い









過去に記事のタイトル(oldboy-elegy(15)ソウル暮色) で井野さん

を通じてのあれやこれやの体験を思いつくままに書かせてもらった。

内容は●官吏の横暴・闇の両替商・この部屋を予約する理由・ベルボーイ
の視線の先 の四つを1記事として投稿した。

今日の記事は、ソウルでの出来事を記事化するのが目的ではなく、彼、
井野さんと付き合っていく中で知り、感じた、外国語との付き合い方に
関して
思いを述べたくなった。

当然、oldboy-elegy君の数少ない読者諸兄の中にも、結構な割合で
外国語(
殆んど英語)に関してのブログ記事を出稿されているかたも
多い。


基本それは結構なことであると思っている。

ただ視点を変えて見ることも必要ではあるまいかと考え、これも
「独断と偏見」
をもって、いささかの思うところを記事化して見た。


今日の記事は、ある一つの雑記を、雑感として記事化したので、
雑感・雑記帳 No.22 )としての扱いである。


久方ぶりの「雑感・雑記帳」である。

まず「井野さん」の人柄、風評、などを簡単に書いておく。

もちろん、前の記事にも書いたのだが、もう一度おさらいする。

彼を評する言葉の多くはネガティブなものが殆んどである。
「一匹オオカミ」「韓国・ソウルごろ」「情報や」「利権や」、
ひどいのに
なると、「往復びんた」などなどである。

因みに「ソウルごろ」の「ごろ」は「ゴロツキ」の意で、
「往復びんた」は
発注先、受注元 双方から利ザヤを「かすめ取る」
からなのだそうな。


ただ一つ良い評判?は「話し言葉の達人」と言うことである。


        ここから以下が本文である。
               
               ★
①井野さん、食事はホテルで取らず、外国人(日本人も含む)が利用
しないような
場末の食堂を好んで行く。

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まず彼、ホテルでの食事は殆んどとらない。
時おり、商談などでコーヒショップで見かけることはあっても、
ホテル外での飲食が中心で生きておいでだ。

つまり現地の人達が出入りする食堂などは、「聞く・話す」の
トレニーングの場所としては最高と心得ておいでになる。

以前、「外国語を話せるようになる極意ってなに?」と聞いた事が
ある。
                                   
その時の返事が、およそ、こうである。
「言語の4要素、の内、読む・書くをいったん横に置いて、忘れる
ことや、あかんぼうや幼児を見てみ、読み書きから言葉を覚える子供
なんておらんやろ、全て聞く、喋るが基本やろ」と。

それが彼の他言語に対する、アプローチ方法で、これを体現化した
ものが、普段からの行動である。

場末の、飲み屋や食堂に好んで行くのも、このことが目的の一つ
ではあるが、それ以前に、井野さんには楽しく、自然な事なのである。

つまり、日本語から隔離されることが心地良いのだそうな。
oldboy君にもその傾向はあるが、なんせ基本的な素材、能力
が多分に不足している。

見た目には、少々薄汚れ、外国人が来店することは皆無かもしれ
ない店である。
「まあ、胃腸の丈夫なことが条件やけどな」愉快そうに笑っていなさる。

そう言えば、oldboy-elegy君、毎度、来韓のおり、2・3日は胃腸の
調子がシャッキとしないのが常である。

ある時、oldboy君に、井野さんから「お昼食べたか?」と電話が
あった。

「うまい参鶏湯屋が近くにできたと聞いたやんけど、いけへんか?」
とのお誘いである。
もちろん、否の理由はない。

ホテルの玄関で待ち合わせ、一方通行を逆行する方向に歩く。
すぐに左に折れ、坂下に出ると、角にその(参鶏湯店・サンゲタンテン)
を見つける。
※ 参鶏湯(さんげたん) 韓国(朝鮮)風の「薬膳料理」で「補身料理 
の一種
でもある」日本で言う「うなぎ料理」的存在。
若鶏一匹の腹部に、高麗人参・もち米・くるみ・松の実・ニンニク・漢方 
などを入れ「グツグツ」と煮、白濁したスープと一緒に、食べる。
多くは土鍋で出される。


井野さん「アレ、ここ、以前、日本風のそば肉やがあったとこやな」
と店を見る。

店内に入るや、30才前後の黒い前掛けをした若者が井野さんを見るなり
「イノシー!」とニコニコ顔でやって来た。

「イノシー」は「井野氏」であり、敬称の混ざった「呼称」である。

どうやら以前の(そば肉屋)からの知り合いの御様子であるらしい。

店はお昼ドキで多忙の様子である。

「この店、あんたの店」と井野さん。
親戚中から借金しての出店で、一応自分がオーナーであるらしい。

この一連のやり取りは全て、韓国語である。

oldboy-elegy君の聞き取り能力では、多分に無理がある。
およその見当はつくが、言葉から来るものより、ことの成り行
きから読み取ったものである。

井野さん曰く、「日本人のお客もどんどん連れて来てほしいやて」
との事で、さっそくあんた、oldboy-elegy君のことも、名前は告げて
ある由、「少しはいい事もあるやろ、名刺でも渡しておいたらとの
ことである。

oldboy君自身も、ホテル裏のストリートフードではなく、
ストリート雑貨店の店主、パクさんと仲良くなり、僅かな授業料と
ルームサービス・フードで夜、時おり部屋まで来てもらい、韓国語の
教授をしてもらっている。

しかし、朴さん、日本語がうますぎ、多少の韓国なまりはあるが、
殆んどネイティブ日本人なみ。
つい4・5年前まで、大阪の生野の韓国系の小さな印刷会社の営業マン
をしていたらしい。

いつも、勉強は横に置き、ワーワーと、大阪の近況などで
もりあがる。
oldboy君の語学才能のなさもあってか、折角の家庭教師も効果薄
の状態である。



②長らく使っていない言語、僅かな時間で、そこそこ復元する井野さん


またある時などは、井野さんと二人してホテル2階のコーヒーショップに
入った時など、大向うから「井野さん、イノさん」と4、5人いるボックス
席から突然、声がかかり彼をその席に招き入れた人の一一団があった。

その彼等の風貌がおよそ韓国人とは違い、どう見ても東南アジアの
インドネシアあたりの人達である。

oldboy-elegy君、通路を挟んだ、向かいの無人の席に座り、この様子を
ニコニコしながら見ていた。

始めは日本語交じりの英語での会話で、時間が経つほどにインドネシア
語が混ざり出しての会話である。

時間が経つほどに、インドネシア語が多くなる。
記憶の潤滑油が脳内、口内を一渡り巡ったのであろう。
井野さんを囲む彼等、そのたびに、大喜びなのである。

このグループの二人が以前から知り合いとの事。
約2年ぶりに異国の地で偶然に顔を合わせた喜びの雄たけびだったの
である。

じつは彼等はインドネシアジャカルタの空港のJAL地上職員とのこと。
研修の一環として、初めての来韓とのことである。

おしゃべりするほどに、長い間、使わなかったインドネシア語
滑らかになる、彼。

井野さんの真骨頂である。

ただし、言葉の4要素(聞く・話す・読む・書く)のうち読む、
書くは、インドネシア語に関しては、からきしダメ、聞く、
話すに就いては多少は出来るとのことである。

oldboy-elegy君、彼等の隣のボックス席から、嬉し気な彼らを見て
和む。
最後に井野さん、飲み物を振る舞い席をたつ。


③ある関西系の有名商社の依頼で単独にて北アフリカに出張

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f:id:oldboy-elegy:20200826150858j:plain



井野さんによる出色ものの話は、数年前に北アフリカを、東から西に2か月ほど、
ビジネス・市場調査名目で出張されたこともある。








依頼先は、大阪発祥の総合商社である。

もともとの依頼元は綿布の織物工場や染色工場などである。

売り込む品(しな)は無地の綿布や、化繊、合繊のカラフルな
プリント布地である。

正直、自社の人達は誰も行きたがらないため、井野さんにお鉢が
回ってきたのが本当のとこらしい。
もちろん、井野さん、二つ返事でOkしたのである。

oldboy-elegy君の拙い知識では「アフリカと言えばスワヒリ語
と思っていたがそうでもないらしい。

アフリカで言語を一元的に語るのは不可能のようだ。
なんせ、アフリカ言語としては1000以上、本当のところ良く判ら
ないのが実情であるらしい>

ただアフリカの殆んどの国が、フランスを始めヨーロッパ諸国の植民地
であったため、旧宗主国を持ち、その国の言語が「第一公用語」と
なっているらしい。

それ以外にアラビア語、英語が有用な言語で、ようやくその末端に
現地語たる、スワヒリ語が登場する。

この中で、井野さんが、ある程度キッチリ使える言葉は英語のみである。

ここでも彼の出発点はソウルと同様で、現地人専用の食堂や市場であった。
覚えたての現地語を英語に挟み込む手法である。

これが現地人に結構喜ばれ、気に入られたとの事。

成約反数(たんもの)は多くは無かったが、商社の担当課長から
「またの折にはよろしく」と言葉をもらったらしい。

oldboy-elegy君の推察だが、井野さん、何百枚かの名刺と詳細な市場報告書
をセットに提出したはずである。

いらい、oldboy-elegy君、彼のような外国語の使い手に会ったことがない。
旨いだけの人はいくらでもおられると思うが、そこに血と肉が一体と
なったお人を。

いくら英語を始め他言語に通じていても、こうはいくまい。
言葉の前に「井野さん」人が好きなんだ、言語の前に「まず人ありき」
なんだと思い知ったoldboy-elegy君であった。

それよりなにより、彼の風評が日本人の間で芳しくない事が不思議と
言えば不思議である。

最後に、俺、井野さんの人柄に少しでも近づこうと思うが、一人で
薄汚れ、現地人しか出入りしないような食堂などはちと荷が重い。
「井野氏」と同伴ならどこでも就いていくのだが。

oldboy-elegy君に、会社がもしアフリカでの単独ビジネスを命令、
下知されたならきっとこう答えるはずである。

「ハアッ、会社辞めさせていただきます」 
基本、彼は肝の座らぬ根性(コンジョ)なしなのである。

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本文とは直接関係はないが、以下に「賛」
として書き添えておく。

「またウオーカヒルシェラトン・ホテル
(カジノ)に連れて
行ってください!!」


     VIVA 井野さん



と言いたいが、もう随分と、遠い昔話になってしまった。
ご健在かどうかもしらない。

ほんとうに、ほんとうに、ありがとうございました。


    今宵はこれまで お休みなさい  ではでは


                了
  
              oldboy-elegy

oldboy-elegy.hateblo.jp

 

oldboy-elegy (31) ソウル(Seoul)暮色 1・戒厳令下のソウルでのあれやこれや!!・嵐の中の飛行と手荷物検査官の少額ワイロ

 

f:id:oldboy-elegy:20200809150749j:plain実は、この記事、oldboy-elegy君がブログなるものの「右や左・上や下」など、
なにも知らずに書き出したころのリライト版である。

出稿日は(2019・05・19)となっている。






因みに、ブログをやり始めて一月少々のころのものである。

記事数も月3記事ほどで、このペースは今も変わらない。



もともとのタイトルは

 oldboy-elegy (6) 戒厳令下のソウル(Seoul)・たくましきかな韓国
であった。


それがまた、哀しいかな、誰一人として読まれた形跡がないのである。
しょうがなしに、練習を兼ねて、「はてなスターやブックマーク」を
自分
で打ち込んだ寂しい思い出もある。

さて、この1年少々で世の中のあり様が「激変」。

ますます世界的に猛威をふるう、( covid-19  新型コロナウイルス感染症
原因である。

オリンピック東京開催も1年延期となったが、このままだと、来年も心配な
状況である。

oldboy-elegy君の御歳から考えると、ラストチャンスの自国開催のオリンピック
となるだろうに。
   
※因みに covid-19 とは corona virus disease 2019  の下線の部分を繋いだものである。

oldboy君、そのころに比べて、今もそう大きな進歩もないが、ともかく「半歩
いや1歩」は踏み出した感があると自分では思っている。


従ってこの場に「新記事として」さらけるのもバチが当たらないだろうとの
思いから、出稿した。

                 ここより本文
                   ★
ちょっと話が変わるが昨今、外国旅行先を選ぶ際、「言葉が通じるか否かは

重要な要素になるのか?」[行き先国の安全はもとより、衛生的で清潔な環境下
にあるのか?」「スマホ」は簡単につながるのか?」など。自身の日本での生活
がそのまま再現できる場所が良いとされることが多いように思う。

そのうえ、あろうことか、現地に行けば「日本人の友達もたくさんいるし知人
も多い」なんて聞けば言葉がない。

もうやめられた、関西出身の 漫才界の大御所も、中部太平洋のある島が
大層に、お好みだったそうである。
日本国内での権威的ヒエラルキー(序列・階層)を、旅行に行ってまで維持
したかったようである。

ま、それもアリとは思うが、oldboy-elegy 君的には、なにか損をしたような
気分になるのだがどうであろう。

oldboy君は、なにより電話が嫌いである。

もし、出張中に国際電話でもあったなら 解放感や自由感が減じて、
かくれんぼ中、鬼に捕まった気分になる。

彼の会社はここソウルに支店はない。 
したがってテレックスもない。

通常の連絡は電報で、これが一番安価である。
よって、よほどでない限り国際電話が入ることもないのである。


それで彼、なにを言いたいのか?

つまり「言葉も含め、外界から閉ざされたこのボッチ感がある種の
快感であり、生きている感覚につながり、そして妙に落ち着く」ので
ある。これがoldboy君の基本的な体質のようである。


もう一つ、言わせてもらうなら「彼はこの21世紀には存在できない
種類の人かも知れない」と言うことである。

スマートホンで24時間繋がれ、おまけに自分の位置情報など把握
されるなど、まっぴらごめんである。

その昔、ポケットベルなる便利ガジェットが出てきたときなんか「大いに
嘆き悲しんだ」記憶がある。

案の定、彼は今日の状況を直感的にに予見していたのかも知れない

もうおれにはこの世に、「存在する理由」が見当たらないとまで思い
つめたものである。

いま「存在理由」と言う言葉で思い出した事がある。

ドイツ観念論哲学からマルクス、エンゲレスの唯物史観論への橋渡し的
役割を担った人にヘーゲルと言う哲学者がいたが、彼曰く、
「存在するものは合理的である」同時に弁証法的には「合理的なものは
存在する価値がある」
と。、

oldboy-elegy君「俺はこの情報化時代、IT機器を扱う能力も知識もないし、
むしろ嫌っている」と言う事は、これからの時代に生存する合理的な意味が
ないのではないのか?
と。

まあいいや、世間が彼を必要としなくなって久しいし、多くない年金も
「若い人から見れば」不合理の象徴かもしれない。

「ひょっとしたら、俺は自分に合った良い時代に生まれ生きてきたのかも」
と思う事に、いま勝手にした。

世の60、70、80歳代のoldboy-elegyの方たち、日々どのように考え、感じ、
思いをお持ちなのか是非とも知りたいものである。

● 悪天候の中、JAL747 ソウル金浦(キンポ)空港便は飛び立った。

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今、ボーイング・ジャンボジェット747のソウル・金浦空港行きの搭乗口の待合
ロビーにいる。

突然あちらの商社からのお呼び出しなのだ。

L/C (letter of credit・信用状)に書かれた輸出期限を過ぎた商品が2、3日後に
出来上がるので、商品検査及びサインダウンを急ぎ乞う、とのことであった。


おりしも、運悪く?台風並みの低気圧が九州・西海上にあり北上中との予報。

当時、ソウルへの定期便は関西では大阪・伊丹空港からJALの1日1便だけ
だった思うが、もちろん関西国際空港KIX)は存在していない時代のこと
である。

 

ボーイング747は文字どうりジャンボジェットで500席以上の大さを誇る
機種である。

しかしoldboy-elegy君、もうひとつ、この巨大飛行機を信用していない
気持ちがどこかにある。

航空機用の特殊ジュラルミンでできているとはゆえ、鉄やアルミニュウムの
親戚みたいなものである。

それが何の支えもなしにあの巨体が空中に浮かび、なおかつ700Km/h以上の
速さで飛ぶのである。

支えと言う意味で、せめて杖ぐらいついていて欲しいものである。
その結果、大地とつながり、安心感も増す道理である。

oldboy-elegy君には、この巨大機械が物理現象や、自然の営みに反した物に
見える、ましてや自分がその腹中に乗り込むのである。、


さっきから登場ロビーで待っている。

雨も少し降っているようだが、風はここからは分からない。


時折アナウンスがある。
ソウル上空付近はまだ比較的穏やかで、視界も良好と言えないまでも問題
なさそうとのことである。

ロビーは人で一杯であり、床に腰を下ろしている人もいる。
学生服を着た高校生の男女の集団が行儀よく整列し待っているのが見える。

oldboy-君「今日はもう飛ぶな、明日と言う日もある、君子でもないが、
危うい事に近寄らないのが賢明」と思っている。

隣の初老の人が話しかけてくる、強い韓国なまりがある。

「これ今日、飛びまっせ!、絶対に」
朝鮮語なまりの大阪弁である。

俺、「何故わかるのか?」と彼を見た
「今日は満席でキャンセル待ちの客もおるみたいやし」

俺「???」と彼を見る。

「つまりや、今日は飛行機会社にとっては、もうけ日やと、いうことや」
と言いニヤニヤ。
俺 納得顔で彼に向き頷き「なるほど」と。

oldboy-elegy 君、何故か案内を待たずに、出発を確信する。

このやり取りが終わるか終わらないうちにフライト案内と搭乗手続きが
始まる、隣のおっさん、読み通りの結末にまたもニコ、当たったやろの
したり顔。


まあこんな論理で決まったとは思いたくはないが、ともかく出発である。

1時間少々の飛行時間、天候もそんなに急変しないだろうと期待している
自分がいる。

今日のフライトはベルト着用のサインが点灯したまま、急激な気流の変化に
備えてのアナウンスもあり、軽食や飲み物も早めに出てさっと片付けられた
感がある。

客室乗務員もほとんど席に座ったままである。

とちゅう多少のアップダウンはあったが金浦空港着陸まで10分少々との
アナウンスもあり、少し気が緩んだのを待っていたかのように、ふいに
ドターンと機体が急降下、これには前にいる高校生の集団から嬌声や悲鳴
があがる。

そこからがいけない、谷底に落とされたかと思うと、次の瞬間グググと
ゆっくりと上昇気分、その都度学生さんを始めあちこちから「キヤー」
「ギヤー」と、悲鳴が漏れる。

oldboy-elegy君、固く握りしめた手の平に脂汗。
もう大分に下降しているはずだと思うが地上は一向に見えない。

窓から見えるのは主翼下の補助翼(スポイラー)の忙しい動きだけである。

主翼と補助翼の間の隙間を雨粒か雲か霧か分からないものが激しく
流れているのが見える。

おまけに主翼の先っぽが小刻みに揺れている。

エンジン音も低くなったり、少し静かになって、次の瞬間明らかに
出力が上がったりと忙しい。

高校生諸君の悲鳴や嬌声も時折聞こえて来るが、一時より静かに
なっている。
慣れたと言うよりグッタリとしている。

oldboy-elegy君、窓外見ながら少しいやな事を思い出す。
普段の下降時、金浦空港が近づくと窓外前方左側に結構高い
岩山が見えてくるはず。

着陸時、機体はあの「岩山」を右から巻いて滑走路に向かう。

いま窓の外は先ほど同じで左主翼が見えるのみで普段見えるはずの
下界はまったく見えない。

もしあの岩山に当れば終わりである。

そのとたんに何あろう、下界の緑がすぐ足元に見えたのである。
すぐに滑走路が見え、次の瞬間少し荒いがドタドタと無事着地。
ここで客室内、何処からともなく万雷の拍手拍手。

ここで乗務員からのアナウンス、なにごともナッカタように、ソウルの
気象、時間(時差なし)と「またのご利用をお待ちしております」が
すべて。


● 小役人の賄賂も、ある意味社会の潤滑油、腹を立てることもあるまいと?!

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金浦空港でのイミグレーション(入国審査)は当時は結構厳しかったよう
に思う。


なんせ戒厳令下の御国である。
夜中12時から朝の4時までの外出禁止である。

タクシーも走っていない、ただしホテルなどに併設されている社交場は
その間も夜間営業中である。

もちろん12時までに入店したら4時までは出られない。

過去には在日韓国人が大統領の奥さんを射殺した事件もあった。
38度線で対峙する南北の緊張状態も高い。
夜間の結社、集会はもちろん厳禁である。

空港の警備も、拳銃だけならまだしも、肩からライフルを下げている。

当時北朝鮮からのスパイや破壊活動のための越境、侵入もたびたびあった。

oldboy-elegy君も 破壊活動のために侵入したスパイ達の装備品が展示
されているのに出くわしたことがある。

ソウル駅の中央コンコース脇にそれがあった。
インチョン(仁川)の海岸線から侵入したらしい。

エアータンクなどの潜水用具などがあったのを覚えている。
銃などは無かったように思う、もしAK47カラシニコフでもあれば忘れる
はずはなかろうと。

ま、ともかく、政情不安が常態化していたから、イミグレ(入国審査)も
おっつけ厳しくなるのは当然のことであろう。

滞在予定のホテルや、ビジネスの簡単な内容など、通り一遍のことを聞い
てくる。

しかし窓口の机上の下にもう一つ棚があり、ここにブラックリストや顔写真などの
一覧が置かれているらしい。
これとoldboy-elegy君と照合しているのである、およそスパイとは思えぬ
まぬけずらを見て、この検査官なにお思ったろうか。

oldboy-elegy 君 イミグレ(入国審査)も無事通過、機内預けの荷物を引き取る
ためにターンテーブルの脇に立っている。

着替えや、日常必要な身の回り品は段ボール箱に突っ込み常宿にしているホテル
のカウンター裏の部屋に預けている。
 
手荷物は、ちょっとしたお土産や頼まれ品(漢方薬など)がほとんどであるが、
手荷物検査でひっかかった場合のためリストを作りインボイス化してある。

やがて自分の機内預けの荷物がターンテーブルに乗ってやってきた、今回は急な出張
で準備不足のため荷は少なめである、これが有難い、しかし、ゆだん禁物である。


役人の気まぐれには手を焼く、前回はなにげに無理で税関にいったん預けかな、
と思ったものが問題なく通過できたり、今回はたったこれだけ、楽勝と思った
ものが留め置きされたり、と、その基準がさっぱり見えてこないのである。

そのため取りあえず手は打って置いたのである、費用(少額賄賂と飲み代)
がかかるが無難である。

税関で1週間も預ける羽目になったらサンプルや部品や装粧品などが手元に
ない時など、商談ができない場合もある。

ゆえにこのこと(裏金)は「必要悪」で「潤滑油」なんだと思うことに
している。
「飲み会」は商社の連中に任せている、下戸のoldboy君に、務まるわけは
ない。

ターンテーブルから荷物を下ろしボケーとしていたら、向こうから肩章付きの
水色のシャツを着た(必要悪さん)らしき中年のおじさんが何気に近づい
てくる。 

今日の手荷物検査官である、顔に憶えはない。

ひょこひょこやってきて、少し離れて立ち止まり、「oldboyさん」と小声で、
俺「はい」とこれまた小さな声で返答。

するとその方、少し離れた位置のまま、クルリと自分がきた方向にお戻り
なるが、彼の後ろ手に組んだ指が俺に「おいでおいで」をしてござる。

少し間隔が詰まると、後ろ手に組んだ手のひらが「離れて、離れて」
と合図がくる。

あくまでも自然に検査台に近づかねばならない。

検査台そのものは20台近くあり、検査官のおいでおいでにつられ左端に
近いそれに到着である。顎でしゃくられ、目配せされた検査台に並ぶ、
だいたいいつもの場所である。

 

この場所が結構重要なポイントでもある。

検査台のすぐ向こうにKOTRA(コトラ)の空港出帳事務所がある。
韓国貿易振興公社である。

公社とは半官半民の組織ではあるが基本政府組織みたいなものであると
oldboy君は理解している。

そう日本で言うところのJETOROである。

あれにたどり着けば危ないものを所持してない限りこちらの味方である。

やがて順番がきて大小のバッグを検査台にのせる、先ほどの(おいでおいでの
役人)は、すこし離れたところから見ている。

二人の係官が2個のバッグのチャックを勢いよく開き手をバッグに差し入れ、
いかにも「検査」のふりをする。

ものの、10秒もしないうちにOKがでて、検査台の外側に早く出ろと催促
される。

今晩は頼まれ品の配給とは別に今日かかわった人たちへのお礼とちょっとした
宴会である。

もちろん費用は、こちら持ちである。

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空港へは商社の社用車(ポニー)が運転手付きで来てくれてるはずだ。

ちなみに自家用車の運転手の名刺には「運転手」でなく「運転技師
だれだれ」となっている、そんな時代であった。
そう会社付きの運転手は全て「運転技師」でプロなのである。

ここでのプロの意味は日本とは少し違う。
安全運転の概念がすこぶる欠如している。
日ごろ日本で運転しているoldboy-elegy君には、
「いかにアクロバット」運転ができるかが「プロの資格」であるように
見える。

高速道路から一般道への降り口などまさに「運転技師・プロ」の真骨頂で
ある。
数10センチの間隔ですべての車両が出口に一斉に向かい先を争う。

警笛の洪水と、窓を開け隣の車と罵り合うのである。

確かに、日本では「模範ドライバー」であるoldboy-elegy君、ここでは
「運転技師」には絶対になれぬ。

個人持ちの自家用車がまだ少ない時代のことである。

 もう6000字を超えた、取りあえずここまでを「ソウル暮色NO1」として何号まで
このタイトルが続くか見当もつかないが日本では経験できないエピソード、少し
やばいこと、ほろっとすることなどを書いていこうと思う。

なんせ出だしだけは少し考えるがあとは成り行きに任せて書いている。



     では では くれぐれも安全運転を、  おやすみなさい

                                                    了
            oldboy-elegy

記事一覧 - oldboy-elegy のブログ

oldboy-elegy (30)「電車洗車機」俺ひとり?、列車に乗ったまま内側から見学!?・人は笑うかも知れぬが、当の俺、記事を書くうちに気分が落ち込んだ

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(いらすとや)さんからおかりした画像です。




むかしむかしその昔、「JR」がまだ「国鉄日本国有鉄道」と呼ばれていた
時代のことだ。
因みに、東海道新幹線は開業してから10年すこし経っていた。

oldboy-elegyくん、珍しい?体験をしたことがある。
その発端は、彼のちょっとしたミス??と言うのか、基本、天性のドジ性な
のが原因である。

したがって、本当を言えば,読者諸氏に報告することではないと思って
いた。

しかし、普段の記事からして、無力系、脱力感、満載のものが多いと自負?
しているし、まあいいかの気持ちで記事化した。

読者諸氏が読んで「こんなドジ男(おとこ)」でも、なんとか生きて来たん
だからと「反面教師」ぐらいに思って頂ければ、読む人、書く人とも、いくらか
肩の力も抜けようと言うもの。

なにがあったのかを、先に言っておいた方が良いと思うので、先に披露しておく。

実は、時系列的にゆえば「oldboy-elegy(29)」にて書いた東京出張の折の
話の次の日に起こったハプニングを記事にしたものである。


始め、両方のことを、1記事にて済まそうと考えたのだが、余りに事の内容が
違うので今日ここに「下の段」の気分で書かしていただく。

その事とは、急行車両に自分ひとり(客として)が乗ったまま、新潟駅
機関区にある電車を洗う装置に(洗車装置)侵入、通過したことである。

ようするに、車両の洗浄を外から見学したのではなく、当該車両に乗ったまま、
散水、洗浄の様子を内側(車内)から一人で見学?したのである。

本人が望んだわけでもないのに・・・

今では、JR新潟機関区の見学イベントがファンの為に、開催されているらしい。
そのおりに、乗車したまま、稼働している洗浄装置を通過する儀式もあるとの
こと、結構人気のアトラクション?であるらしい。

これもひとえに、民間会社JRの好感度UPの必要から企画されたものであろう。

oldboy-elegyくんの場合、JRではなく「日本国有鉄道」ころの話である。
国民、ましてや、客に「媚・コビ」など、売る必要のない時代のことである。

それがなにゆえ、oldboy-elegy君、一人を乗せ、「車両散水洗浄装置」なる
機械に潜ったのか?、をお話をしょう。

断わっておくが、彼、「鉄道オタク」でもなんでもないし、
たんに鉄道は
「A地点からB地点への移動のための必要手段以外の何物でもない」
と考えている御仁である。


アッ、もう一つ明かしておくことがある、
oldboy君が乗っていた列車名を告げておこう。

「急行 佐渡号」で「上野発、新潟行」であった。

なぜ、こんなことになったのか?

そう、先に言ったが、彼が望んで起きたものではない。
むしろ本人にとっては「冷や汗」もんの出来事であった。

すべてが偶然の産物で、意図したものではなく、oldboy君の不注意で起きた、
珍事件
である。

ではここからが本文と言うことで~、前振りが長くなり申し訳ない。


              ★

東京支店の営業課長の原田(仮名)さんからの依頼で、新潟の有力問屋での
「今季、冬物商品の新商品・新色・小売店へのデザイナー派遣日程・様々な
販促品の紹介」などの「説明」をお願いされての事である。
今では、このことを「プレゼンテーション・あるいはプレゼン」と言うのだ
そうな。

だが当の課長、先に新潟入りしており、oldboy-elegy君とは、その日、依頼元
の問屋で会うことになっている。

課長曰く「すまんすまん、君の好きなようにやってもらっていいよ、自分は横に
いるだけだから、それに専門の人からの話(プレゼン)だから」と直接、電話を
もらっていた。

問屋さん側は社長ほか数人の営業マンが同席するらしい。
oldboy-elegy君、基本、このような席が大嫌いなのだ。

これまでのブログで何度も書かしていただいてきたが、
「人生、ノープレッシャーで生きるのが理想」とするお人なのである。


「専門と言われても、こちとら特別、理論的に勉強した訳でもなし・・・」と
心の奥でモゴモゴと言っているoldboy-elegy君がいた。

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(いらすとや)さんからおかりした画像です。

夜は山岡先輩に、支店がある人形町の裏通りで、老舗うなぎ屋の「うな重
を奢ってもらった。
当時とて、「うなぎ」は今同様、高級食材で、御同輩・平社員の彼に奢ってもらう、いわれはないが、結局、ありがたく、馳走にあいなった。

これも東京出張のおりのルーティンとなっている、
oldboy君、旨いものには、すぐ負ける。

こればっかり(ウナギ)は江戸風に軍配があがる。

われながら、恥ずかしいが、どうしょうもできぬ。
楊枝を口に「シーハ~・シーハ~」状態である。

その後、お茶をして、二人して支店にもどった。

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画像元分からず)

新潟行きの「急行・佐渡」は夜中の11時ごろの発車、新潟到着は明日、朝の
5時ごろとのこと。

寝台車両は無かったように思う、確か全席、自由席のはず。
夜行列車にしては、走行距離も短く、したがって乗車時間も6時間ほどの
ものである。

「じゃあー、すこし早いが、上野に行こうか」と山岡先輩、oldboy君を促す。

手荷物は全部で3個である。
1個は個人の手荷物を入れた年期もののショルダーバッグで母手作りの帆布製の
もので、大学時代から使用している。

ショルダーのベルトの幅が広く、本などの重量物を入れても、肩への負担が
少ないのが良い。

2個目は、これも着脱式のベルトが付いた結構大きなモスグリーンのボストン
バッグである。
ここには、私物の衣類やプレゼン用の種々のグッズも入っている。

3個めが、結構大きな紙袋で外はビニールで覆われた頑丈なものである。
主に、紙媒体で作られた販促品や新作の雑誌などが入っている。

なぜここで、3個の荷物の内容を事細かに説明したのかに訳がある。
これらの3個の手荷物の存在が、oldboy君が電車洗浄装置に閉じ込められた
原因となった直接の犯人?なのである。
訂正!!、「直接の犯人」は「俺」oldboy-elegy君であった。

佐渡号は予定通りの時刻に発車、山岡先輩には心よりのお礼を言い、車内
に入る。

座席シートは体面2人ずつ、4人が1ボックスを構成する、昔ながらの雰囲気
のものである。

ずっと車内を見渡しても、無人のボックスはない、少なくとも一人は客がいる。
これからの道中6時間を考えるなら、靴を脱ぎ、前の座席に足を伸ばして、
少しは横になりたいのは人情である。

結局、車両中ほどの、ボックスに一人がけのおじさんの前に、「申し訳なさ」
を口に、座らしてもらった。

荷物は一番重い、ビニールで覆った紙袋を網棚に預け、毛糸関係の見本が
入ったボストンバッグを枕にする。
出張旅費の現金や切符の入った財布を入れたショルダーバッグを肩掛けの
まま、両手に抱え込む形で寝ようとの作戦である。

前のおじさん、すでに寝入ったかの雰囲気である。
席に座る前に、一言二言言葉を交わしたのみである。

こんな折の相席者としては一番有難い御仁である。
もう一つ言うなら、「高崎」あたりで下車されたなら最高なのにと内心
期待する自分がいる。

照明が落とされたのか、冷房がどうとの記憶はまったくない。

ただ頭の中で、明日のプレゼンのダンドリを反芻するばかりで、「ア~、やだな~」
と、この期に及んでも、腹の座らぬoldboy君がいる。

oldboy君、眠れず、体をくねらせ、モンモンとするばかりである。

窓外の灯りは、密に散に、後ろに流れて行く。
「急行・佐渡」は、ただ上越線を北上するばかりである。

「まあ、寝ずとも、仕事は2時間もあれば終わる、気楽に行こう」
と気持ちを切り替えたのが、良かったのか、悪かったのか。

次の瞬間、誰かがoldboy君の肩を叩きながら「お客さん、お客さん」と
言っている。
佐渡号の車掌さんである。

「お客さん、先ほど新潟に到着しています、早く下車お願いします」と急かして
くる。

彼、「ウヘー」と目を醒ましたが、まだ「充分に覚睡」仕切っていない。
車掌さん、彼が目を醒ますのを見るや、そのまま、右、左の窓の開閉を確認
しながら去ってゆく。

oldboy君が、ようやく、我に返り、辺りを一瞥(いちべつ)するが自分以外
客は一人もいない。

ただただ、慌てふためいて、荷物を抱え、車両の通路を脱兎のごとく走り、
ホームに飛び降りる。

この瞬間、体に身震いがはしる。
肝心要(かなめ)の、プレゼン用の全ての資料を入れた、あの大きな
ビニール紙袋を、座席の上の編みだなに置き忘れたことに気が付く。

「ヒエー!!」と言ったかどうかは知らない。

ここからのoldboy君の取った行動が最悪であった。

目の前にあった木製のベンチに、ショルダーバッグとボストンバッグを放り投げ、
体は一目さんに再度、車内にUターン。

これを待っていたように、列車が動き出したのである。

手には、網棚に忘れた手荷物がしっかりと納まっている。
ここで荷物が2個と1個に泣き別れ状態になってしまったのだ。

oldboy君、この一連の出来事のため「茫然自失」、脳機能も完全に
思考停止の状態である。
従って、次に自分の取るべき行動が想起できないのである。

ただただ「泣きたい気持ち」で、事を解決する「判断力」はゼロ状態
なのだ。
座席に座る事さえもできず、手荷物1個を持ち、完全にホケた、
oldboy-elegy 君である。

車両はどこへ行くのか、「ゴトゴト」と今もユックリと走っている。

ここで救世主の登場である。
先ほどの「窓を閉めしめ」後部に去ったあの車掌さんと再会である。

oldboy君の事、完全に起こして、すでに降車しているはずのお人が・・・
車掌さんの彼、こちらに近づきながら「????」の表情である。

「お客さん、なぜここに??」
言葉は発していないが、ハッキリと「目」はそう言っていらしゃる。

ことの次第を説明するのがやっとの事である。

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ウィキペディアより)列車、洗車中の画像

この列車、今「洗車場」に向かっていると事を告げると、チョット
考えていた車掌さん、
「先に洗車を済ませて、それから駅員に来てもらいますワ、部外者が
機関区内を渡るのは危険ですので、彼が駅に誘導する」と言う意味の
言葉をいただいたのである。

サー、ここで、最初に言ったように、oldboy君、国鉄の洗車装置を、
列車に乗っまま、内側から見学と言うのを体験したのである。

感想?、楽しくもなんともないのは、当たり前、ただただ、
悪夢が過ぎ去るのを「ほけた」状態で待つのみ、である。

今に思えば、この間、音声のない、白黒映画の世界にいた、
ように感じる。

若い駅員さんに先導され、結構な道のり、イヤ線路のりを歩き、
駅にたどり着く。

ホームの側のベンチに腰掛けていると、違った駅員さんが、oldboy君の
手荷物を抱え、小走りにこちらに来るのが見えた。

三つの荷物が自分の手元に再会した瞬間である。

駅員さんの最後のお言葉は「切符を回収させてください」のはずである。

記事を書く前は「間抜けではあるが、楽しいものになるぞと期待したのだが、
書くほどに、当時の自分の「精神状態」がそんなものでない事に気が付いた。

oldboy-elegy君の胸に、そのまま当時の気分がフラッシュバックした状態となり、
気の重いもので、楽しいものではなかったと言うことである。

気分は
「寄ってらっしゃい、見てらっしゃい、そしてoldboy-elegy君のバカさ
加減を
笑ってやってください」と言うことで終わりたく思う。

最後の最後に大変ご迷惑をおかけした国鉄職員の方に「ありがとうござ
ました」と言いたい。


またまたしょうむない(河内弁)、お話で恥の上塗り的記事で申し訳ない。

きっといつかは「世のため、人のため」になる記事をと自分に言い
聞かせるoldboy-elegy君、しかしあてにはできない。

知らぬ間に深夜で日付が変わってしまっている。

                            ではでは

                 了


            oldboy-elegy

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oldboy-elegy (29) oldboy君が見て来た,懐かしき(nostalgic)営業手法・山岡先輩の場合

 oldboy-elegyくん、純粋に営業職に身を置いた経験はない。
そんな彼が大昔と言えど、営業職に就いて語るのは少々おこがましい
気もするがお許しを乞う。

oldboy-elegy君大学を出て、就職した会社は社員700人前後の中小企業であった。
700人と言っても、大半は現業職(現場労働)の女工さん達である。

彼女達の多くは、西日本各地の山深き地域、あるいは離島から、会社の労務
出張所の斡旋で、就職をし、「集団就職列車」で都会に出て来た中卒の娘さん
たちであった。

住居は工場敷地内の女子寮である。

oldboy-elegy君、入社したおり、約10ヶ月の実習期間があり、うち半月ほど
工場労務課での実習の経験がある。

会社への初出勤は4月の半ば(なかば)で
、今思えば、随分とユックリ感が
強い。

どうも鼻から我々新入社員を戦力とは考えていなかったようだ。

午前中は座学で午後は、それこそ、土方から機械の油さしまで、何でもあり
であった。

大卒、高卒含めて15、16人ほどである。
全て男子で、高卒は工業高校卒である。
高卒女子(事務職)は別過程での短期実習となるらしい。

その間、岡山県労務出張所に荷物持ちの「馬力がわり」に駆り出されたり、
工場では、女子寮屋上の物干し場のロープ張(ハリ)の修理を手伝わされた
りもした。
もちろん、その折は干し物はない、前もって棟長さんに連絡済みの上での作業である。

岡山への「荷物持ち」の「荷物」とは、8ミリ映写機とフイルム・幻灯機・
写真アルバム類・父兄への手土産などなどである。

場所は、女工さん達の出身地域の温泉旅館である。
親御さん始め、兄弟、はては学校関係者など様々な人達への慰労と娘さん達の
現況報告会をかねている。

印象に残っているのは、工場の夜間高校生とそうでない人との確執が
ひどくなり、高校の制服十数着が工場内の溝に捨てられる事件が発生、
そのおりの労務課員の心痛を目の当たりにしたことである。

oldboy君、これら労務課員の仕事の一端に触れ、「こんなサラリーマン生活も
アリかな」思ったのも事実である。

彼、とにかく単純で、チョットしたことに、心うごかされ、感動・感激して
しまう性質(たち)なのである。

労務課実習中の出来事や印象も記事にしたブログ記事がある。
見て頂ければ嬉しい。

oldboy-elegyくん、営業職ではないが、ときおり各地の支店やお得意さんに
出張することもあった。

それは東京支店出張でのことである。 

そんなおり、いつも面倒を見ていただいた「営業平(ヒラ社員)」山岡(仮称)
先輩にマツワルお話である。

            

               ★

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               ★

いまoldboy-elegyくん、自社の東京支店にいる。
所属は大阪本社の企画部の平社員である。

東京支店の営業課長の原田(仮名)さんからの依頼で、新潟の有力問屋での
「今季、冬物商品の新商品・新色・小売店へのデザイナー派遣日程・様々な
販促品の紹介」などの「説明」をお願いされての出張である。

今では、このことを「プレゼンテーション・あるいはプレゼン」と言うらしい。

だが当の課長、先に新潟入りしており、oldboy-elegy君とは、その日、依頼元
である新潟の問屋で会うことになっている。

課長曰く「すまんすまん、君の思うように、やってもらっていいよ、自分は横に
いるだけだから、それに専門の人(oldboy君のこと)からの話(プレゼン)だから」
と直接、以来電話をもらっていた。

「専門と言われても、こちとら特別、理論的に勉強した訳でもなし・・・」と
心の奥でモゴモゴと言っている俺がいる。

「マア、せっかくだから東京支店のみんなにも、説明してやってくれない」
と支店長からの要望もあり、結果、oldboy君、東京出張とあいなったのだ。

oldboy君が東京出張のおりには、かならず一人の先輩に、いろいろと面倒を見て
いただいた。 
特別、上司から「東京、不案内なoldboy君のこと、面倒みてあげて」と
言われたわけでもないらしい。

その方、名を山岡(仮名}と言う、歳は俺より 5、6才年上で、身分は役職
なしの営業職、平(ヒラ)社員である。

ただ東京出張は、支店の最上階に宿泊施設があり、平社員はここに寝泊まり
するのが決まりである。
上司と同行出張のおりはこの縛り(しばり)はない、待遇はすべて、上司の
待遇に準ずるのである

それでも、oldboy君、旅館より支店での宿泊を好む人である。
だって、始業時間ギリギリまで寝ていられるのである、サラリーマンとしては
至福の時間である。

ただし山岡先輩が「oldboy君の面倒を見てくだされる限り」と言う条件も付く。

部屋数は確か3室あったと記憶している。

寝具はもちろん真っ白で、薄いノリが効いていて快適である。

時おり東北あたりからの問屋の平社員さんの宿泊もあるらしい。
もちろん、食事は出ないが、宿泊費は無料である。

こんなおりも、山岡先輩、支店での責任者として同宿するのである。
これも広い意味での「営業活動」と言えるのかも知れない。

先輩のこの営業外?の仕事、特別に辞令があった訳でもないらしい。
ただ、彼の柔和な性格とそつのなさに、会社がオンブされた格好である。

かれ(山岡先輩)の風貌?
ややずんぐり、背丈は標準、頭髪やや薄し、顔と言うのか頭はデカい印象、
目はいつも笑っている、特筆ものは立派な出っ歯なことである。
そうコミカルな印象を与えるお人である。

この方、当社にしては、珍しく「途中入社」とのこと、前歴は「陸上自衛隊員」
である。

この会社のお得意様は全て、既定の問屋である。
それを「代理店」と称し、地区ごとに、慰安を兼ねた代理店会を温泉地などで
数年おきに開催している。
時おり、海外(アジア圏)で「会」を持つこともあった。

従って「飛び込み」の営業は皆無である。
※飛び込み営業・直感で決めた、お店や個人宅にアポなしで訪問する営業。

山岡先輩の客の多くは「横山町」界隈が中心である。
※「横山町」と言えば、全国屈指の繊維問屋の集積地である。

「今日一日、月末も近いし、今月の売り上げ固めておくから、一日付き合ってくれる、
それとも何か特別、用事あるの、夜は上野駅(新潟行)まで送っていくし」と先輩。

「行くさきざきで、名刺ばらまいて行けば、それも立派な仕事だろ」とご教授。

支店のある人形町で、朝食を兼ねてのモーニングコーヒー、やおら彼専用の
営業用の小さな白い車で出発。

この喫茶店の費用はoldboy君が二人分支払っている。
なぜなら、以後の昼食・お茶・夕食代など、彼。頑として払わせないのである。
当然、出張規定で決められている「日当」はあるのだが。

山岡先輩にその辺の、心苦しさを言った上での結果が「分かった、朝だけ
持ってチョーダイ」と相成った訳である。

この会社の出張経費の精算は、飲み代(領収書による精算)などは別にして、
出張規定に基づくもので、出張地域、当人の役職などで決まっている。
上司の「カバン持ち」での同行なら、その上司の規定に準じて、同額が支払われる。


なにやら「先輩」の雰囲気が「ギアーアップ」
一軒目の問屋にご入店。
結構、大きくて、綺麗な構えのお店である。

とうの先輩、店の駐車場に車を預けるや、なにやら歩き方まで変貌、リズミ
カルになっている。
持っている、車のキーホルダーを、腰の当たりでクルクルしてもよさそうな
雰囲気でもある。

女性店員さんに「お父さんいる―?」、この店の役員であり、部長を捕まえて、
この呼ばわりである。

女性店員さんもニコニコ顔で迎えてくださる。

先輩、靴を脱ぎ、なれた雰囲気でトントンと2階に。
大きなガラス越しに先輩を見つけた先方の部長、「シーシー」と追っ払う仕草、
目は笑っている。

「今日最初の客が山ちゃんかよー、嬉しいことで、してなんの用事?」と部長。

「またまた、お分かりのはず、月末(締め切り)も近いんで、それにこれでも
サラリーマンの端くれでね、やること、やっておかないと」と山岡先輩。

ちょっと見るに、掛け合いの漫才を見ているかのようである。
もちろん、山岡先輩、この店で予定した注文、受注に成功。

今日の受注は全て「預かり」との事。
「預かり」とは「実際の出荷」なしで、伝票のみ「月内扱い」と言うこと
らしい。
とうぜん、リベート(商品の値引き)の料率が絡んでくるのだろう。

山ちゃん先輩、店を出ようとすると、
「お昼は、仕出し弁当だが」と、部長のお誘い。
「締め切り近いんで、これから4・5件・・アリガトウ」と先輩。

「アーア、血祭にあげられるお方が、たくさんおられるわけだ・・」
と先輩を指さし、目はoldboy君を見て笑っていらっしゃる、問屋の部長さん。



後で知った事だが、この店の女性店員さん、7~8人いるのだが、うち3人
ほどは「先輩」が中に入り「口きき」で入社したそうである。
それも、同じ業態の問屋での移籍はご法度とのこと。

またこれも聞いた話だが、東京支店営業職の中で、売り上げ計画、完遂能力ナンバー1
は彼「山岡先輩」なのである。

そう言えば、今朝行った問屋さんの玄関先で彼、女店員さんを捕まえて「元気
でヤッテルカ」と気安く声をかけていたのを思い出す。

oldboy-elegy君、今晩遅くの国鉄・上野発新潟行・急行列車「佐渡」にて新潟入り
の予定である。
新潟でのお得意さんでの、「今冬品の販促計画」の説明(プレゼン)のためである。

東京支店の営業課長が、先に新潟入りしており、明日、新潟のお得意先で落ち合う
予定である。

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今日の夕飯は東京支店のある人形町にもどり、「うな重」を「食する」ことに
なるだろう。
これも、東京出張のおりの山岡先輩と、oldboy君との通常の「ルーティン」の
行動である。

oldboy-elegy君、当初は「こんなこと、同じ会社の者同士、ましてや平社員」
と頑迷拒否の姿勢だったのだが、「まあ、毎月定期的に東京に来るのでもなし」
とくるめられ、恥ずかしながら、今日に至っている次第なのである。



こう言うタイプの営業マンは、今では殆んど見られなくなったように思うが
どうだろう。

その変化のターニングポイントはどこであったろうか?

oldboy君が思うに「ポケットベル」が登場した1970年代後半ごろが始まり
のように思うのだが。


それまでは、一度会社を飛び出せば、自分を時間的に拘束するのは、じぶん自身
の意識のありようだけであった。

営業職の数字完遂能力も、基本個人の意識のあり様が、結果を左右するのである

oldboy君の場合、幸か不幸か、営業職ではなく、企画部と言う、お金を稼ぐのではなく、決められた予算のお金を「効率よく」使うのが仕事である。


それでも、会社を出る時、部の要(カナメ)のK子くんには、ある程度、
訪問先の報告をしていたが、めったに俺探しの電話は無かったはず。
ただ事務所に帰ればセロテープ止めのメモ用紙が、いくつも翻っていた。

f:id:oldboy-elegy:20200729110121p:plain



このような折りにポケットベルが登場するのである。
営業職の人達は、これを持たされることには心、穏やかでない人は
多かったはずと推察できる。
ただし、oldboy-elegy君の会社では採用された形跡はない。

このころ、彼の会社にも大きな変化があった。
オフコン(オフィスコンピューター)が本社に導入されたのである。

大きな、窓付きのロッカー様(よう)のボックスがいくつも並び、中で円盤状
のテープが、ギクシャク回っている、あれである。


機種は今でも鮮明に覚えている、「東芝製のトスバック」と言った。
営業関係で「機器導入」に賛意を示す人達は殆んどいなかったと思う。

これまで、使い慣れた、手書き伝票の類が、全てオフコン基準に変更される
のである、気分がいいはずはない。

あの紙くい虫が」「会社中のメモ用紙製造機」と影で揶揄するのが
せいぜいであった。



当然会社にとってこんな便利機器(ポケベル)を導入しないわけがない。

これが、会社が社員の時間的拘束を一段と強めた最初の画期的道具であった
と思う。

以後、携帯電話、位置情報も確認できるスマートホン、四六時中社員を管理
できる世の中に変容してしまったのである。

従って、これにともない営業手法も、oldboy君の時代とは、似ても似つかは
ないほどに変容してしてしまったようである。

特筆すべきは「営業職」の「労働時間」と「時間外労働賃金」の考え方の、
大きな「後退」が社会全般に常識化したことである。


oldboy君の在職したこの小さな会社の営業職でも、夕方5時を過ぎたなら、
30分
毎に残業手当がついたのである
ただし、残業は「申告制」で、上司に、その可否を書面で問うのである。
多くの場合「否」となる。

おまけに、PM5時30分ごろには「総務部のエライさん」が、照明の落ちた
事務所の各フロア―を巡回していた。

当然、このころは未だ、曲りなりにも「労働組合労働組合」として機能
していたのも大きい。

この会社の組合は、幾つかある現業(工場関係)と事務職関係が二つに
分離しており、それぞれ上部団体が違っていた。

それも、混乱の末、上部団体を排除し、単独の労働組合として発足して、
未だそう年月の経っていない頃の事である。

さて現在はどうであろう、会社が「当然」とばかりに「営業職のサービス
残業」を強いているのが「現状」であるようだ。
そこそこ名のある会社でも「それだけの給料を払っている」と傲然としている。
※傲然 おごり高ぶって尊大に振る舞うさま

いつかこの事についてはキチンと「記事」にしたいと思っている」
タイトルは「社会全般の高度IT化による労働意識と職場環境の変化」ぐらい
かな。


今日も、街中で立ち止まり、汗をふきふきスマートフォンでのヤリトリ、
大きなタブレットを取り出し、頭を上げ下げ、連絡を取り合っている。

oldboy-elegy君には、これらの機器を使いこなす能力もない。

いまでは、これが当たり前の風景になってしまった。
もっと言えば、営業職のみならず、人、一人一人の個性が見えにくくなった、
いや、むしろそれらを消し去ることが求めらているのかも知れない。

時間外でも平気で部下呼び出す、上司も多いと聞く。
それが当人の職域特権と勘違いしているのである。


本当に、人間は便利さと「引き替え」に、何かを失っているように
oldboy君には
思えてしまう。

山岡先輩、今の時代の営業職の姿を見たなら、どんな思いを抱かれるのだ
ろうか。


今宵の記事も単に、ノスタルジック・プチ狂想曲を一曲書いただけのような
気がする。

なにやらoldboy-elegyくん、最後に来て、息が詰まってきたような精神状態に
陥ったようである。

       それでは今日はこれにて失礼する  では では

             
              了   

                                            oldboy-elegy



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記事一覧 - oldboy-elegy のブログ


           

oldboy-elegy (28)①「オネショ癖」のこと ②oldboy君的、性の目覚め どちらも根は同じ・島根県は松江での事であった

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 oldboy-elegy君、母の手に引かれ、大阪に参上したのは小学1年生の6月か7月
のことであった。

始めての教室はお絵かきの時間であったことを何故か鮮明に記憶している。

大きな模造紙を何枚も教室の床に広げ、ガキンチョ(子供達)が四方から
寄ってたかってクレパスかクレヨンでもってお絵かきの最中であった。
お絵かき道具はそばの女の子が貸してくれたものを使い、自分もこれに参加した。
なにを書いたのかは記憶にない。
※模造紙とは 大判の白い紙。

母は教室の後ろから、ひとりこれを見ていた。
今に思うと、すこしの笑顔と安堵の表情が見て取れたように思うが、
どうだろう。

oldboy-elegyくん、幼稚園の経験はない。
したがって、これが初めての学校体験であり、同時に入学式でもあった。


この記事、ブログを書き始めたころの「oldboy-elegy No3 」を大幅にリライト
して新記事として投稿したものである、
もちろん、基本,内容は変わらないが、構成・読みやすさ、などを中心に変更
さしていただいいる。


今日の記事、2編になっている。

しかしその根は、どちらも6才ごろの島根県松江市にて、母と二人きりの
生活をしていたころの体験がベースになっている。

 


①その一つは「オネショ癖」のことで、小学3、4年生ぐらいまで引きずって
 いた。
 修学旅行も「絶対大丈夫」との確信が持てぬままの情けない「お話」である。

 

②もう一つは鴎外先生の小説ヰタ・セクスアリス・性的生活」を恐れ
多くも意識してoldboy-elegy君的、性的目覚めを、「ホンワカ」感覚で
書かしてもらった。

 

                

①わが幼年期の一場面とオネショ癖のその後

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この時代、大阪の市立小学校の修学旅行先は概ね伊勢への一泊旅行であった。
伊勢参り」「お伊勢さん」と結構慕われていた。


ここで賢明な諸兄諸氏はすでに察して頂けたことと思う。

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「一泊」→「旅館」→「布団で寝る」→「おねしょ」である、さあー困った。

旅行に行かずに済むものならそうしたいが、理由が「おねしょが怖い」など言えたものじゃない。

母はすでに察して、「オネショ封じのおふだ持って行くか?」と顔で言ってらっしゃる。

ここで oldboy君がとった策、これしかない、「一晩、寝ずにやり過ごすこと」、結論はこの一択である。

幸い行き先は関西の小学校修学旅行生のメッカ,「けん玉」や「ダルマ落とし」など売る店はどこにでもある。

「けん玉」を買った、とくに理由があるわけでもないが、少し奥が深く退屈しないの ではの思いがあったのかも。

一晩どこかで、これで遊ぶしかない。
その夜,みんなひとしきり騒ぎ,遊んだあと先生がきて「こらもう寝ろ」で終了。
僕 oldboy君 も取りあえず夜具の中。


ここで告白せねばならぬのだが、自分の夜尿症にはある決まった夢が引き金になっている。

実は彼、幼稚園には行っていないし、小学校にも2~3か月遅れぐらいで入学している。

大阪の小学校入学以前、oldboy 君、母に手をひかれ、松江市のどこか(陶器店の倉庫)の2階に間借りし、病院の下働きなどして、親子二人の生計をたてていたようである。 


当時彼、父親の顔どころか、その存在さえも知らない。


ありていに言ってしまえば、「成れぬ仲の恋路のはての子のo
ldboy君」と言う
事だと思う。


勿論こんなこと母に聞けたもんじゃない、母も亡くなり、自身も齢(よわい)
重ねて初めて理解できることである。

この辺のことを書けばキリがない。
これから先のブログに少しずつ挿入はするつもりではいる。

間借りしていた部屋は、結構大きな倉庫の中の2階部分である。
倉庫内には大小、木箱に納まった陶器類が所狭しと通路や棚にならんでいたのを思い出す。

突き当り左側に階段がしつられており、登りきったところのガラス戸を開けると結構広い畳の部屋があった。
印象としては陽光が差し込む明るく清潔な部屋だったと記憶している。

この陶器屋さんの倉庫前に車がやっと通れるぐらいの広くはない地道が左右に通じていて、この道と並行に幅2メートルに満たないどぶ川が流れていた。

新参ものの自分に友達がいるわけでもなく、母のいない昼間は2階の部屋とこの辺りをぶらぶら徘徊するのが日課であった。

アッ、今この瞬間に思い出したことがある。

近所の男の子とコマ回ししたことを、そうそう母が鉄のワッパがついた駒を買ってくれたことも。
そのコマ、自慢じゃないが他の子のそれより少し高いんだ。 

 そうこの細いどぶ川が母のいない時の彼の、おしっこ用専用のトイレであった。
倉庫内のトイレは階下、階段下にあり、薄暗くあまり行きたくなかった、とくに母のいないときなど。

尿意をもよおすや、2階から駆け降り、広く薄暗い倉庫を駆け抜け、重い両開きの扉を開き、やっとこ、たどり着くドブ川、そう彼、専用の水洗の小用トイレである。

それら、一連の行動の後の、排尿はある意味、至福の瞬間でもあったようだ。

この地(松江)にいる間、この行動の意味はこれ以上でも以下のものでもなかった。

この一連の動作の果ての、おしっこの夢を見る様になったのは、この地を離れて
から始まったようで、父親のいる大阪に来てからのことである。
夢の最後に時折、実際に「オネショ」が付加されだしたのである。

どぶ川の事はこれらにからまった表象であったように思う。

大阪にきて、押しかけ女房はともかく、押しかけ「子持ちのお妾さん」と言う
ことである。
生活はともかくにも、これまでに比べ格段の「安定」をみたのである。

子供こころにも、これらのことに「安穏・安心」を察知し、いくらか気が
緩んだのかも知れない。

こうしたころに、あのどぶ川への{放尿」を夢見、同時に「オネショ癖」が
始まったのである。

さあどうだろう、あの「ユングフロイト」先生ならこのことを、どう診察されるのか?
お聞きしたいものである。

oldboy君、一晩「けん玉」をやっていた訳でもないが、ともかくにも、無事、夜
が明けてくれたことに安堵していた。

               ① 終わり

              
                ★
 
②鴎外先生の小説「ヰタ・セクスアリス・性的生活」を頭の隅に置き
oldboy-elegy君の性的目覚めをホンワカ」と書かせていただいた。


その日は雨だったのかも知れません。

母はいつも通り、病院の下働きの仕事に出かけています。
とうぜん、oldboy-elegy君が一人、部屋に残されているのです。

ここは松江市内の何処かの商店街裏の陶器店の倉庫の2階で、母子の
間借りしている部屋なのです。

敷いたままの布団の上でゴロゴロ、小さなちゃぶ台を机代わりに母が告げた分だけの宿題をイヤイヤやっつけるのが日課でした。

そんなおり階下の倉庫の重い扉が開く音、「oldboy
ちゃんいる」と自分より二つぐらい年上の早苗ちゃん(仮名)がトントンと上がってきたのです。

そう長くもない頭髪を短いおさげに結っています。

早苗ちゃんはこの陶器店の長女でちょっと先の表通りの店の奥に住んでいます。
彼女はそこを母屋、母屋と呼んでいました。

「なにしてるの?」と彼女。
「ゴロゴロ」と俺。

ちゃぶ台の上の「ひらかな」の練習帳を見て、
「勉強、えらいな」と彼女。

くろめがちの、まなこがキラキラした、いかにも健康そうな娘です。

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「うん、さっきばあちゃんにミルクキャラメル買ってもらって、あんたにもあげようと思って。」と早苗ちゃん。

彼女、これまでも何べんかは来たことがあるが、いつも母のいた時だった
ように思う?

この年齢の女の子、自分と2歳も違えばそれこそ天と地の差、何もかもが
圧倒的存在です。

oldboy-elegy君、その存在は感じても、異性としての早苗ちゃんでは
なく単に、大きなオネ―チャンの立ち位置ぐらいのものだったようです。
性にまといつく感覚など、この時は全くもってなかったはずです。

しかし100%そうだといいきれぬ感覚も、心の内の何処かに潜んでいたのも
また真実なのです。

なぜなら母の田舎に帰ったおり、村のはずれの谷川で、なにも付けずの裸で
体を洗っていた娘さん数人を目にしたおりには、ある種、これまで経験した
ことのない、ショックを受けたことがあったのです。

川は、ひざ、程度の流れで、川底は細かな砂でキラキラと陽光を反射して
います。
4~5メートル程度の川幅で、両岸から流れの天井に向かって、黄色の
細身の竹の群生が覆いかぶさって川下にウネウネと続いています。

流れは、1キロもいかぬうちに、太平洋の海原に消えゆく運命にあります。

そんな情景の中での、数人の娘さんたちの裸の姿を見たのです。
「キャー、キヤー」と嬌声の中で、躍動する肢体に、いくら幼年期の
子供と言えども、無関心、無感動であるはずはありません。

このあたりの村々は「火山灰台地・シラスと言う」の上にあり、それぞれ
の家にお風呂はありません。
海岸に出て2キロほど東に、町営の温泉が唯一のお風呂で、それとて当然
いくばくかの、お金がかかるのです。

したがって、夏場で天候が許せば、この清流に委ねることは自然な事なのです。

この事もoldboy-elegy(7)にて「谷底の小川とルノアールの裸婦像」として
記事化している。


しかし今にして思えば、oldboy君の「性的開花」の「前夜」であったことは
否めないのものだったことも真実だったのでしょう。
だって今もって忘れずにこの情景が脳裏から消え去っていない事をみれば
納得のことだと確信できるのです。


oldboy-elegyくん、今から貰えるであろう「ミルクキャラメル」に目がいくばかりです。
黄色の箱を開け薄紙で包んだキャラメル全部をテーブルの上に広げ、それを
均等に分け半分をぼくにとくれる、と言うのです。

当時このようなお菓子は高級品で食べた経験があったのかどうかは思い出せ
ません。

一粒ずつ互いに口にし、「うまいなあ」と顔をあわせるのです。

布団の上でゴロゴロ状態の自分の横に彼女もゴロンと横になり、
「今日あんた川でおしっこしてたでしょ」と顔を俺に近づける早苗ちゃんが
そこにいたのです。

早苗ちゃんの眼(まなこ)は、これまでの柔らかさが消え、oldboy君は、えたいの知れない何かを感じたのは事実だと思うのだが、
それが意味するものを具体的に分からなくとも誰かに言うべきことではないと、理解していたようにも思うのです。

 「うん、下の便所狭いしちょっと臭いし、暗い、あんまり好きやない」と自分。
そこに「飴あげる」と新しいのを口に含み、ゴロゴロしている自分の上に覆いか
ぶさり 、彼女の唾ごとミルク飴を口移しにくれたのです。
「だれにも言いなや」とちょっとドスの効いた声。

たったこれだけのことです。
何がどうなったのかは自分にはよく分からなったが、
ただoldboy君、小さな体の内に何かが「はじけた」ように「ゾクッ」としたの
です。
そう、これまで知らなかった「小さく細い戦慄」が背を走ったのは事実です。


ともかくにもoldboy君の性的人生の始まりであったことはずっと後年になり認識したように思うのですが、それも強烈に。


            ② 終わり



              了

            oldboy-elegy
 

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