oldboy-elegy のブログ

ずいぶん長きにわたりグータラな人生を送ってきたもんです。これからもきっとこうでしょう、ハイ。

(雑感・雑記帳 No. 18 )「 芭蕉は忍者だった?」 それとも単に俳諧師?元禄期のサロン文化をもとに、独断と偏見でもって「忍者説を全否定!」

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oldboy-elegy君、実は「忍者小説」が大好きなのだ。
ただし術と精神力が人間の可能な範疇にある必要がある。



非現実なあり得ない忍術に興味はない。
ましてや大きなガマの背に乗り、十字を切って変身するなど全く持って噴飯ものである。
 
それらは「真の忍者」を愚弄するものであると思っている。

素質と長年の心技鍛錬の結果到達するもので、リアリティーさに欠けるものは御免だ。

「それでは、oldboy-elegy君!、君がイチ押しする
忍者ものの作家とその題名は、当然あるんだろ?、教えてくれない」と読者の声。

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「もちろん、いいよ、それは池波正太郎さんの著作で(忍びの旗)これに尽きると友人にも公言してるよ」

「3~4回は読んでいる、孤高の甲賀忍者、上田源五郎の一生を綴ったもので、今読むのと,若い時とはまた違った感慨が心を突き動かすんだ」

 当初、「忍者・源五郎」は「甲賀忍者」としての「掟」の下での行動になんの疑問も持たなかった。
ただただ、その卓越した「術」を使うのが「楽しくてしょうがない」と言う、ある意味健全な若者であった。

しかし青年期、壮年期と成長するにつれ、「その行動規範」が個人の自我に重き置いた忍者に変貌、変質して行くのである。
当然、自ら置かれた組織の意思と「対立」することになる。

まず、その過程の出来事と心の変化に全く無理がないのである。

それ故の心の葛藤と行動が、「池波正太郎」さんの卓越した筆力とともに、素晴らしい「読み物」となっている。

「恋愛」「家族愛」「属する忍び集団へのしがらみと反逆」など、見方によれば「忍者」の名を借りた骨太の、現代小説を読んでいるかに錯覚する。

ここで「なんでこんな話になったのかな?!」と自問するoldboy君。

そうだ、「松尾芭蕉」と言う俳諧師の本当の姿は、実は「伊賀忍者」であった。
などの話が良く言われるのだが
本当はどうなんだろう。

 

今日の話の本題はこれであった。

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芭蕉伊賀忍者であった」と言う話の素を幾つかあげてみるね。






●1 芭蕉自身、伊賀の出身で「松尾」の姓を持つ
郷士」の出。
一見、農家ではあるが、事が起れば「士分」として
戦場に出る。
当時、多くの忍者の身分
もこれ。

●2 「おくのほそ道」歌枕や名所旧跡を巡る、
600里(約2400km・
150日)に及ぶ吟行。
芭蕉自身46歳で出発、51歳
にて病没。

当代きっての俳諧師、その世評・名声はすでに確立していた後の行動であった。

歳から見て、結構な強行軍(1日15~16k)でもあった。

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以上の観点から、誰かに
命令され東北吟行の旅を
装い、出立か。

(左のイラスト画像は、言わずと知れた独眼竜で名高い伊達政宗である)




関ケ原」以降、「幕府」は、この地の大大名「伊達家」を取り潰すための理由、口実を必要としていた。
 
芭蕉曽良(そら)の2人旅は、東北、外様最強の雄藩「仙台藩」を中心に民心の雰囲気や城郭、軍事施設の見聞のためのもので、
俳句吟行の旅は、カモフラージュであった。

●3 旅中、多くの藩の「関所・番所」を苦も無く通過
している。
  
ご存じのように、「藩」は、一つの国のような存在。
つまり芭蕉達は「万能の通行手形・パスポート」を持っていたことになる。

当代きっての有名人とは言え一介の「俳諧師・文化人」としては異例中の異例。

いかに有名人であろうと、町人は町人、通常の
「通行手形」なら「一か所、一用事、の往復の旅程」
が精一杯であるはず。

従って、この「万能通行手形」の発行元は、それなりの権力者、それも「幕府」が関与していたものであると?

●4 つぎは当然「旅費・路銀」のこと。
以下oldboy-elegyくんの勝手な試算ではあるけど
あげてみる。
金額は現在の貨幣価値・単位円でざっとみた。
 
もちろん、折衝役、会計、旅情報などはすべて弟子の「河合曽良・かわいそら」が「仕切っていた」はず。
◎宿泊代・朝夕食込み  
◎昼食・元禄の頃、すでに1日3食化。米だけでも
 1人1日4~5合 が必要された時代
◎籠・馬・渡しなど交通費(人足賃)、
◎江戸や道中先への連絡、飛脚など通信費
◎文具(筆、紙、墨などの補充)
◎衣服の洗濯手入れ・髪などの手入れ 
◎休憩・茶代など雑費   などなど

学者などが物の本で150日の行程で二人して100万円
とした人もいる。

これなど1.000.000円÷2人÷150日≒3.333円となる。
1日1人3.333円である。

どこの坊ちゃん学者か知らないが、学者と名の付く
人達にはこの手の「世間知らず」の人も結構いる。

チョット脱線するが
大学の人文系の論文など、PDf記述で「だれにも読んで欲しくない」ような、段落、区切りもなく、行、列を確認しながら読むこともある。
読みずらいことおびただしい。

もうひとつ
所属している、研究室がなにか有意義な「発明・発見」したときなどの発表の席、なにやら「見栄えのしない、おまけに滑舌(カクゼツ)に難ありの老人が登場するテレビのインタービュー場面があるが」いただけない。
以上oldboy-elegy君の難癖でした。

oldboy君が思うに、いくら低く見積もっても
一人2万円ていどは必要と思うがどうだろう。
ましてや、旅人は当代一流の「文化人」であり、江戸の
「蕉風・俳諧師」の芭蕉様である。

貧乏人が安宿に、路銀を心配しいしい、旅を続けるの
とは訳が違う。

そこで少なく見積もっても1日2万円~3万円と
考えるがどうだろう。

これを旅程150日で計算すれば、
20.000円(1日)×2人×150日=6.000.000円
30.000円(1日)×2人×150日=9.000.000円

してみれば、総務課長の「曽良」さんの胴巻きに
納まって
いる銭入れには少なくとも旅のはじめ、
500万円ていどの現金が入っていることになる。

当時の通貨、両で何両になり、その重量はと考えると、なにやら矛盾が一杯でてくる。

つまりこの部分の事が、「親方日の丸」いや違った、
「親方幕府」となり、「実は隠密」と言われる由縁
でもある。

●5 芭蕉忍者説の最後は「実は忍者は芭蕉ではなく、随行者、河合曽良」だとする説もある。

曽良自身も「曽良旅日記」なるものをしたためているが
「おくのほそ道」とは道程の食い違いや期日などの不一致が多くみられる。
旅の日毎の収支や会計報告は存在しないようだ。

曽良自身、芭蕉の弟子であった事は間違いは
ないが、晩年、徳川家の依頼で九州へ赴き、
「仕法家」風の仕事をしている。

※仕法家(しほうか) よく土木をし、土地の改良、
耕作地の拡張、河川の付け替えなどによる食料の
増産に帰依する専門家。
有名な人では「二宮尊徳」さんがいる。

曽良」自身、この西国道中にて亡くなった事に
なっている。

これらの不確実で不信な存在が「曽良・忍者説」
が出る根拠にもなっている。

以上列挙してきたが、どれも「芭蕉忍者説」を
否定できる確固たる資料や事実はない。

すなわち、公儀隠密と言われても、
「そうではない」とキチンと説明することが
できないのである。

ことほど、さように「忍者・隠密」論は多く存在
する。
だがそうではないとする理由もないと言うことだ。

oldboy君、の、こうであって欲しいとする思い、
姿は以下の通りである。

芭蕉曽良」は「忍者・隠密」ではないことを、
論拠付けしたいのがこの記事の当初からの
「もくろみ」である。

なぜなら、大好きな「池波正太郎」の小説「忍びの旗」
の「忍者・上田源五郎」のあの存在感とカッコよさが
消えうせる。

oldboy君的には芭蕉が「忍者・隠密」など、
許容できるイメージでは絶対にあってはならないの
である。
見た感じ、一尺もジャンプできないような、年寄り忍者など「イメージ」がズッコケる。

さあここで、「芭蕉一行」は「忍者ではない」とする
「論理的説明」の構築にチャレンジしてみようと思う。

「彼らは隠密だぞ~」「忍者だぞ~」とするお話は多いが論理的に反論したものは知らない。

「おくのほそ道」の「あの芭蕉」が
「忍者であるはずがない」とする社会通念が
大きく存在し、キッチリとした論理的反駁もない
ままに居座ったもののように思う。

この事が、すべてであると思うのだが、どうだろう。

ここから後は、この「不毛の感情・情緒」に
ある程度の「なるほどと思わせる、論理性」を
持たせようとoldboy君が努力したものである。

あの「忍者・上田源五郎」のために。

もちろん、何時もの様に、oldboy-elegy君の「独断と偏見」での「語り」であることに変わりはない。

●そのためには芭蕉曽良」たちが生きた「元禄」と言う時代をある程度知っておく必要がある。

戦乱の世も終わり、徳川の幕府統治が、良し悪しは別に、一つの決まり(法)の下での「国家運営」が始まったのが17世紀の始めである。

「徳川の治世」、言わずと知れた「江戸時代」の始まりである。
それ以前の応仁の乱~江戸時代までを「戦国時代」とするなら約140年近くが戦乱の世であったことになる。

自分達が「戦国時代」と聞けば、日本中、大小の勢力が、刀・弓矢・鉄砲・での命のやり取りを「のべつ、くまなく」繰り広げられていたと思いがちだが案外そうでもない。

いま、我々が習う「日本史としての戦国時代」の項目は数回の授業で終えてしまうはず。

その間、「関ケ原の戦い」を初めとする、有名合戦や「古地図」がテンコ盛り掲載された教科書を見て、試験のために記憶にきざみ、次のエポックに進む。

ところがこの戦乱続く世も、基本日本の人口は一貫して増加傾向にあり1000万人を超えたのも、この時代だとされているのだ。

殿様達は戦の基本が「食料」の増産にあることを熟知しており、戦の前に田畑の開拓、改良をよくするのが、強国への近道である、と心得ていて、年中、命のやり取り・チャンバラをしていた訳でもない。

田植え、収穫期の稲刈りごろの「大合戦」は殆んどないか、珍しい。

農民は農作さえすれば、多寡は別に最低生きられることを知る。
またこれまでの領主が戦に敗けて死んだとて、農民である自分の命も失われるものでもない。
年貢の料率が変わるだろうが。

工人は刀・弓矢・鉄砲や日用品などのマニファクチャリングに精を出せば生きることは可能、

最後に商人は上記の「全ての物の流れの取引」に関与、口銭を得ることに勤しむことが成業とよく知る。

なにを言いたいのかと言えば、一見、日本中が殺し合いの大参事の真っただ中(なか)と思われるが、全体を俯瞰すれば、いたって平穏無事な世の中であったのも、ある意味、真実だったのかもしれない。

これに就いてはこのような話も残っている。
関ケ原の合戦」のおり、近隣の村々の農民が手弁当で集まり、まるでサッカーの試合を見物するかのごとく声援を送ったそうである。

これには余禄がついている。
どのあたりで、何々軍が大負けして、多くの戦死者が出た、などの情報をもとに、合戦終了後に刀剣など武器、武具は勿論のこと、携行している食品や衣類などを持ち帰ったそうである。

つまり、教科書などに載らない生きるための人間の日々のウゴメキが存在するのである。

これも記録はないが歴史の一断面に変わりはないはずである。

さて芭蕉一行の旅立は「元禄2年の春」のことである。
世に言う「元禄文化」真っ盛
りの頃の事だ。

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※このイラスト画像は、「お犬様を抱っこした」将軍「綱吉」




時は「5代将軍・綱吉」の治世である。
綱吉自身も「生類憐みの令」なる法も発布している。
乱世が終わり60年後くらいの事だ。
あの殺し合いの時代から考えれば隔世の感アリである。

ともかく将軍様まで、現在の世界中の「動物愛護団体」から表彰を受けても可笑しくないような法律を発布するような時代でもあったようである、この元禄時代は。

詩文(狂歌、川柳、連歌俳諧、俳句)・絵画・天文(暦学)・和算(数学)・落語(落ち噺)・物語本の出版

などのあらゆる芸術・学問が文化として京、大坂を震源地に江戸にも拡散、すぐに全国的な潮流として日本中を巻き込み「元禄文化」として開花して行く。

特に和算(数学)、天文学、暦学などでは、西洋の
先端科学にせまる、業績をあげる分野も出現した。

してそれらの発表、切磋琢磨する場所が、身分に関係なく同好の士が集まりサロンを作り、もう少し固くは連を作り
緩くは寄り合いを持ち、大いに楽しんだのが「元禄文化」であった。

oldboy-elegy君、これらの集会を全て「サロン」あるいは「サロン文化」と表現している。

西洋では「パトロン」と呼ばれる「芸術家擁護」形態や、
近代にはフランスのモンマルトルのコーヒテラスに、哲学者、小説家、詩人、絵画き、建築家などが横断的に集まり、一つの芸術運動のムーブメントして機能したこともあった。

ただ日本の「元禄文化」は全てを横断的に意識した芸術
運動には発展しなかったようだ。
ただ思潮としての「大きな流れは」疑いもなく、存在していたのだが。

さてここで、我らが「俳諧師芭蕉様」はこれら「サロン文化」の「もてもてトップランナー」の御仁でもあった。

どこかで大句会があれば、サロン会の一番ゲストと
として招かれるお人である。

この「芭蕉様」が「奥羽路に句作行脚の旅に」の報が
聞こえたら、それぞれ藩の城下の「殿様・高名な武士
・庄屋・大農家・大商家・地方サロンの主催者」
など招待合戦が勃発すること必定である。

そんな現象は人間の性(サガ)でもあるし、当然のことである。

ところが、実際には、芭蕉の回りがなぜか静かすぎるのだ。
そこで注目されるのが、河合曽良の存在である。

彼は、師匠芭蕉の総務、経理、渉外など俳句以外の日常
の全てを仕切る立場にあったのはハッキリしている。

勿論、彼も道中、句作もしているが、どうも釈然としないとoldboy君感じている。

かれ「曽良旅日記」なるものを、したためているが、それもおざなり感が強い。

「旅日記」ではあるが、師匠の「おくのほそ道」のしるす
日付や出来事の間に「齟齬」も多い。
※齟齬(そご)とは 意味や事柄の食い違い や 合わない事。

どうも曽良さん、道中、師匠「芭蕉」の脇にピッタリ寄り添い旅をしていたとは思われないのだ。

そろそろ、oldboy君が「何を言いたいのか・何を示唆しょうとしているのか」見えてきた吾人もおられるのではないか。

先に断わっておくが、oldboy君、「曽良」さんを悪者扱いにしょうとしている訳でもない。
ただ人間と言うもの、なかなか「一筋縄」で「こんな人」と決めつけるには「複雑」にして「怪奇」すぎる。

多分oldboy君とて、「曽良」さんの立場で、こんな場面に
「遭遇」したなら、きっと同じような事をやらかしてしまう自信はある。

なにせ、師匠「芭蕉」はこの「日ノ本」の隅々まで知れた
「俳聖」であられる、その方がまもなく、この田舎路を「句作」のために、お通りになるのである。

この情報は、一行が江戸を出立したときから聞こえているはずである、それもトップニュースとして。

詳細情報は「曽良くん自身のリーク情報」であるかもしれない。
※リークとは 意図的に漏らす・機密を漏らす など

書いてるoldboy-elegy君、なにやら、わくわく、
ドキドキしてきた。

どこぞの大名家の家老・庄屋・御城下の豪商など土地の
富家や名士が集まる同好の連やサロンの座主が「招待合戦」を始めるのが目に映る。

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ここで、「サロンの超大物ゲストとしての招致合戦」が起きるのは必定、相場が立つのも当然の成り行きである。

これで「芭蕉一行は忍者ではない」との結論が出たも同様である。

莫大な路銀などの経費、通行手形の件、など「忍者説」を
裏付ける根拠がすべて「雲散霧消」するのである。

曽良さん」、必要経費以外の稼いだお金どうしたの?

当時、国内が平穏になると、商業の進歩に伴い、飛脚・早飛脚・為替手形による送金システムなども存在していた。

して二人旅の最終地は、出発の地「江戸」ではなく「京都」で「曽良君」なぜか「師匠と途中で」お別れしている。

「おくのほそ道」の原稿はこれも江戸ではなく、京都の出版業者に芭蕉は持ち込んだようだ。
この推敲に「芭蕉」、2~3年をかけている。

「おくのほそ道」出立の時、彼46歳、没年齢51歳で
あった。

このお二人、「おくのほそ道」後の交友・交宣も何故か希薄である。

因みに「曽良」さん、「師匠・芭蕉」のお葬式にも出席していなかったらしい。

思うに「曽良」さん、実に人間的である。
芭蕉」さんとの関係も、こう書けば、ある意味なぜかユーモラスでさえある。

結局のところ、後年、文字として残される歴史は単に
「結果」だけを記したもので、そこに至る人としての
本当の部分が欠落してしまいがちである。

今日の記事もまた、oldboy-elegy君の言うところの
人間のあり様の「面白さ」かも知れない。

バカの酔狂話ぐらいで「フン」と鼻で笑ってもらっても結構だ。

最後に、「曽良さん」の縁者、ファン、学者さんなどがおられたら、「御免なさい」言うほかにない。 

書いていて、頬が緩み、ほんに楽しかった。 
今日は、ここで終わらしていただく。

       
 viva 賛・人間


            了

          oldboy-elegy

 

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oldboy-elegy (23)失神寸前の腹痛・救急車・ER・全身麻酔・手術・オムツ?そしてご入院、全て人生、初物ずくし。

  この記事、oldboy-elegy君がブログを始めたころのもので、少し表(おもて)に引っ張りだしたくなり、リライト、新記事扱いにてUPしたものだ。

 なお、この出来事(難事)は2018年5月末のことであった。

 
初掲は2019・05・06で oldboy-elegy (5)の扱いである。

 

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 当初、リンクにて紹介をと思ったのだが、内容はそのままで、タイトル、文体、改行、読みやすさを主体にリライトして新記事としてUPさしていただいた。
ぽつぽつと五月雨式にタイピングしている。


それも右人差し指のみで、左,手の平は顎にある。

月、3記事3投稿も当然の成り行きである。

 パソコンの脇に小さな円筒形の透明のプラケースが鎮座しておられる。

 
中には黒光りする石ころ状のものが大小2個、大きいほうはなにげに「黒糖かりんとう」を連想する。

 
術名(腹腔鏡下胆嚢摘出術)であるそうな。
oldboy君の場合、おなか上部に2か所、おへそ、側腹部の計4か所に穴を穿ち(うがち)の手術であった、らしい。

 
高校時代、下校時、3人組に襲われ下駄で顔面を殴打される、その時、唇の内側を3~4針縫ったのが唯一ケガらしいケガで骨折経験もない。

 犯人の一人を知っていたが面倒なので知らぬ存ぜぬですませた。
中学時代の知り合いである。
異性がらみの災難であった。

 中学生のおり体育教師にヘッドロックをかまされ、本気で頭に10連発程のゲンコを受けたこともあったが、ヒリヒリと、少し熱ぽかったぐらいで済んでいる。

 
これもoldboy-elegy(No.2)にて記事化している。

 
花よ蝶よと(男子でもこう言うのかな?)育てられたわけでもないし、むしろ真逆で「好きにやんなさいよ」と、言わずもがなの母の雰囲気であった。

 
oldboy-elegy 君、そんな母のことが大好きであった、なにか同志のようにも感じていた。
 
 
彼、この歳まで手術も入院加療の経験もなかったのは、ただただ幸運だったにすぎない。

 ここ2,3週間、腹部に鈍痛があり、不快この上ない。

近くのクリニックの先生も、紹介状を書くから「早く精密検査を」と勧めてくれていた。

 取り合えづ、処方の痛み止めの薬だけですませていたのたが。

 先ほどまで胸のあたりに不快な鈍痛を感じていたと思えば、急に胃のあたりに刺し込みが走る。

 そうこうするうちに肝臓付近から右わき腹へと「痛み」が運動会をし始める。

 もうダメ、これ以上辛抱しきれないと観念したのが、夜中の零時過ぎごろの事である。

 これまでに経験したこともない激痛である。

 今朝一番にクリニックへ行き、病院の紹介状をと決断をするが、それまで待てるかどうかも疑問だ。

 ここで、「阿保・アホ」がした理解不能の「あほ療法」をお教えしょう。

 「貧すれば窮する」切羽詰まった状態のoldboy-elegy君の閃(ひらめ)きである。
良いはずがない。
「今、俺は腹の痛みに全神経が集中している、それ故その感覚をもっと分散するのが肝要であると」

 
その結論がこうである。

「熱い熱い風呂に入ろう!」

 体の調子が尋常でない時の考えも又尋常ではない、のは当然である。

 
「湯の熱さのため痛みが分散され半減は期待できないとしても、せめて1割でも軽減できるならメッケもんである」と。

 
読者諸氏、笑ってくだされ、「七転八倒」の激痛の中での思考はこんなもの。

 湯の設定温度は43度、もともと風呂そのものがそんなに好きでもない oldboy-elegy 君、オツムの閃き(ひらめき)がこれ。

 あとはこの熱湯に2分、いやもっと5分浸かれば大成功、その間、きっと痛みが割り引かれるはずである。

「実際、これを実行したの?!」との声、もちろんやらしていただきました。
「して結果は?」ハイただただ、痛みと熱さの2重苦を体験しただけで、「効果?」 言わずもがなの惨状でした。

 
明け方の4時ごろ「万事休す」。

oldboy-elegy 君、ほとんど失神状態。
近所のクリニックが開くまでもう待てぬ。

 
痛みの緩急もなくなりただ急々状態で救急車を呼ぶことに。
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 上掲のイラスト2枚は記憶にはない。
ただどこか遠くで救急車のサイレンが聞こえていたのは憶えている。

 地域の大きな病院のERにて検査、その前に何をされたのか、急に痛みが引き、ボーと夢見こごちのoldboy君。

 
ハスの華も下界の様子も見えなかったし、お釈迦さまもお留守だったのだが、きっと天国に来たのものだと思った。

 あとで聞くと、モルヒネ類の痛み止めをされたらしい。 

 完全に時間の感覚が無くなり、つぎに意識が少し戻ったのが手術台の上のようである。

 なぜなら、寝かされている oldboy-elegy  君の頭頂部方向から「ヌー」と女性の顔がでてきて「麻酔医の~」の言葉が終わらないうちに深い眠りに落ち込んでいった。

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 40才前後色白で、たしかフチなし眼鏡をかけた、いかにもと言う風貌の女先生であったのをぼんやりと憶えてる。

しかしこの記憶そのものが不完全で架空の事のように思えるのもまた事実である。

手術室に入ったのが午後2時過ぎごろだったらしい。
麻酔から覚めたのが夜10時ごろ。

 
この間の約8時間の睡眠がはたまた不思議な感覚なのだ。

 
そうもう一度くりかえす、「この不思議な感覚?!」
自分だけが体感?しただけかも、これを一般論として「全身麻酔」による睡眠とは」と言うつもりもない。

 どう表現してよいのか分からないが短い言葉でチャレンジしてみる。

 
「自分の生(せい)の一部を切り取られたような気分」、うむ!この言葉が近い気がする

 
普段7、8時間ぐっすり眠ったあと、「あ~、よく寝た、体調も最高!」とは感じても、なにも人生の(生)の部分が7,8時間、自分の意識から持ち去られたとは思わないし、思わないですよね、普通。

 
ここでoldboy-elegy 君の頭に閃(ひらめき)きが走る。
往々にして彼の閃きは「はずれ」が多いのだが、「これは当たりかも!!」と思わせるものであった。

 先に断わっておくが、このかってな推量は(科学的根拠)があるのかもしれないし、多くは「言及」されていて、oldboy 君だけが知らないのかも知れないと。

 
「検索すればするほど文章が書けなくなる」と言うのが,「前にも何処かで言った」ことがあるように、oldboy-elegy 君の持論である。
 
 
なぜならoldboy君、文章が知らず知らずのうちに説明くさくなり、その部分が宙に浮いた感覚になってしまうのである。

 
科学的で論理的なテーマには必要なことであると思うが、彼のようないい加減な文には害毒でしかないと勝手に思っている。

 
それでは「自分の生の部分が切り取られた気分」と先ほど言ったが、この気分はどこから来るのか。

 通常ひとの睡眠とは、仮に7~8時間自然な睡眠をとったとしても、(覚睡)と(非覚睡)を一晩に何度も繰り返しているのが普通とのこと。

 つまり脳の働きがオンの状態とオフ状態とを繰り返しているのが(睡眠)の自然なありかたであると。

 そうすると、全身麻酔後の俺の睡眠は自然な人間の睡眠とは違い、(非覚睡)だけの闇(死)の睡眠だったのかもしれない。

 
普通、7~8時間の熟睡のあと目覚めたとしても、なにかしらの「時間の流れ」を感じるのだが皆さんはどうだろう。

 
ところが今回の「全身麻酔」による「睡眠」は「睡眠に入った瞬間に目覚め」実際8時間の物理的ラグがあったにも関わらず、存在しなかったかのような感覚なのだ。

 そうだきっと、先ほど「なにか自分の生の一部分を切り取られた」感覚と言ったが、
きっとこれなんだと確信(自分勝手に)するに至ったのである。

 ともかくも oldboy-elegy 君的には、この一事だけでも大いに意味があったと思うことにしている。

 
ここから彼の普段の姿、ちょっとしたイロ付きのoldboy-elegy に変身するのである。

 
とにかく麻酔状態から目が覚めた。
あの失神するかのような激痛は消えていた。
痛みはあるにはあるが質的にぜんぜん違ったものである。

 手術は内視鏡によるそれで腹部に3~4か所穿ち、大きく開腹したわけでもない。
あたりをキョロキョロ、いくつかの夜間灯や繋がれた医療機器の小さな光やその点滅が見てとれる。

ベッド脇に大きめのガラス窓があり、その脇の廊下の向こうにはナースセンターが見て取れる、そこでは幾人かの女性看護師さんが立ち働いている。

 ふいに足元の向こうにあったカーテンが勢いよく開く。
「oldboy-elegy さん、目、醒めた?」と女性の看護師さん。
「いま何時です?」と俺、「もうすぐ10時、よう寝たはったわ」。
この明るい声を聞き、初めて下界に舞い戻ってきたような気がしたoldboy-elegy 君であった。

「オシッコしたい時してもらってええんよ」
俺、一瞬事情が呑み込めず(?)の状態。

 
「おむつしてもらっているんよ」
「?!!!」と俺。

「終わったら、そこのコールボタンで呼んで、すぐ来るから、ああそれに、この部屋、今日、手術終わった人専用でナースセンターの横にあるんよ、明日からは入院病棟に移るから」と言いつつカーテンの向こうに。

oldboy君、(おむつ、オシッコ!!)のこの言葉を聞いたとたん、猛烈にもようしてきたのである。

 そうここで予想もしなかった6番目の(人生の初物)が登場(おむつでオシッコ?!)。

 
考えてみれば、いや考えなくとも、今俺がおむつをしていると言うことは誰かが俺におむつをはかせたと言う前段階があるのは自明の理。

 oldboy-elegy君、ここ何年、いや随分と、我が息子が(オシッコ)以外で活躍したことがない。

 
最近は江戸川柳にもある(朝〇や~、小便までのいのちかな)さえも恥ずかしながら遠のいている、

 
いわばほぼ童貞同然の無垢な oldboy-elegy君、半人前の股間を見られたのが病院のベッド、と言う現実が何故か哀しい。

 
看護師さんにとってもプロとしての仕事の一環、なんの感慨もなく淡々とこなされていることは重々分かっているがそこはそれ!。

 おむつの中にオシッコをすることに抵抗があったことは事実だがそれも最初の数秒だけ、抗しがたい生理の現実には勝てるはずもない、すぐに天にも昇る心地良さに変心、ああ我ながらこの言動の不一致といいかげんさにあきれる。

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 ことが終わったoldboy 君、ベッド脇にぶら下がっているコールベルを排尿の恍惚感の中で静かに押させていただいたのは当然である。
 この記事おつむに始まりおむつで終わった、

 そしていつもの様にラフのまま投稿したのが午前5時ごろ。
さきほど救急車のサイレンが遠くで聞こえていた、いや本当にそうである。

 はこばれていく人の事が気にかかる、以前より一寸だけ優しくなったような気がする

 アッそうそう、タイトルの最後の「初の入院」は単に入院であり、それ以上でもそれ以下でもなかったようである。

             
             
                  oldboy-elegy

「中学生のおり体育教師にヘッドロックをかまされ、頭におよそ10連発のゲンコを受けた時も、ヒリヒリと、少し熱ぽかったぐらいで済んでいる。」の一文が本記事の始めに出てくる、この顛末の全てが次のブログである。
読んで頂ければ幸いである。

oldboy-elegy.hateblo.jp

 

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oldboy-elegy (22)「おねしょ」へ誘(イザナ)う?夢見(ゆめみ)一題・笑うなかれ、彼にとっては重大ごと!!


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 本日のお題は
睡眠中に誰でもが見る、あの「夢見・ゆめみ」のことだ。

 「将来の貴方の夢は」の「夢」では決してない。

「そんなこと、当然でしょ!」
人生の第4コーナーをノコノコ走って、いや違った、ゼイゼイ息を切らして歩いていらっしゃる,先の少ない
oldboy-elegy君のこととて「それしかあるまいて」などの声が大向うから聞こえてくるようである


 それも「ジークムンド・フロイド先生」の「夢判断」の話でもなく「レム睡眠・ノンレム睡眠」などと「夢見・ゆめみ」の最近の科学的成果を、披露しょうとするものでもない。

 oldboy-elegy君、そんな能力は持ち合わせてはいないし、頭脳のカケラもない。

 普通、睡眠中に見た夢など、目覚めた瞬間に忘れているか、多少の憶えがあっても現(うつつ)との整合性がないためか、それこそ「雲散霧消」と化してしまい、大方は記憶に残らないのが普通だ。

 それでもoldboy-elrgy君、幼年期からこれまでの「夢見・ゆめみ」の中で、しっかりと憶えているものが幾つかある。

 それらは単発の一回こっきりの「夢見・ゆめみ」ではなく「同じ状況、同じ結末」のものを繰り返し何回も見ることが特徴である。

 全て、結末は少々ネガティブなもの、ハッピーエンドで「ニコニコ、にたにた」で終えるものではなかった。

 このうちの一つが今日、記事にするoldboy-elegy君、幼年期の「夢見・ゆめみ」にまつわる話である。

 これは彼にとっては大いに実害があり「いまいましく」も「コッパズカシイ」ものであった。

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 なにをかくそう、左掲のイラスト通り、実害とは「おねしょ」のことである。
河内弁ではもっときたなく、強烈な言葉に変容する。
「ねしょんべん」と表現するのが普通だ。
しかし何故か母から叱責や揶揄された記憶はない。

 ただ,この緊急時にも助かった
事は、家には狭いながらも裏庭があり、三方が高い板塀に囲まれていたことだ。

そこには物干し場があり、他人に、それと悟られずに濡れ布団を干せたのは彼には幸いであった。

 oldboy君の沽券(彼にも彼成りの沽券がある)に関わるゆゆしき問題でもある。
●沽券(こけんと読む)・人の値打ち、体面(たいめん)、品位など。

 この「おねしょ」グセは小学校の3・4年位まで引きずっていたと思う。

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 母が、近くの神社で、おねしょ封じのお札をもらってきたこともあった。

 この屈辱には必ず前段階の決まった「夢見」が引き金になっていた。

 oldboy-elegy君、幼少のみぎり、母のわずかな収入だけで親子二人の糊口をしのいできた時期がある。
島根県は松江でのことだ。

 その折、母は病院の下働きをしていたらしい。

 彼女の学歴は故郷、鹿児島での旧制高等女学校(5年制)の3年か4年の途中退学であった。
母のチョットした誇りと言おうか、自慢の一つであった。

 ともかく、oldboy-elegyくん、大阪は河内の小学校に初登場したのが松江での後のことである。

1年生の6月か7月のことになる。

 それ故、幼稚園なるものはしらない。

 お妾さん(母のこと)

が男の子(oldboy君のこと)の手を引き、強引に父親のもと(大阪は河内)に押しかけたのが真相であったようである。

 父親は本妻との間に3人の男の子がいた。
すべてoldboy君よりずっと年長である。
うち、父の元に残った二人は今ではすでに他界している。
本妻が連れて出た末っ子との行き来はない。

 しかし、こんな父親でも、oldboy-elegy君、幼少期から今に至って嫌ったことも、憎んだこともない。
むしろ特別裕福ではなかったが、よくやったもんだと、今では尊敬とはまた違うある種の感慨を抱く、と言うのが本音である。

 そのころの父親の趣味が社交ダンスにビリヤード、その上オシャレとくるからカッコが良い?。
つまるところ、基本「女好き」であったようである。

 まあ、これらの事は今日の話の主題でもない。
こんな、そんなの父に就いては、近い将来ブログ記事にて紹介さしてもらう事もあるだろう。

 ただ、ある程度、母子の置かれた様を知ってもらうことが、「おねしょ」に通ずる「必然」への過程と思って記事を読み進めてほしい。

 oldboy君母子が、父のいるこの大阪の地を踏んだのは多分この時が初めての事だったと思う。

 想像するに、母としても「相当の決心」の上、この地に「乗り込んできた!!」ことは、想像に難く(かたく)ない。

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 oldboyくん、この時の父の顔と胸の内をおもんばかると、何故か、チョット可哀そうではあるが同時にオカシクもある心境になってしまう。

 大阪環状線(当時、省線と言った)から近鉄大阪線への乗り換え駅の鶴橋での大混雑に、ビビった自分が、母の手にぶら下がるようにしっかり握っていたことが、

 ブログ記事を書いている、今、突然、その場面を思い出したのである。

 鶴橋駅など学生やサラリーマン時代、なんの感慨もなくほぼ毎日利用してきたはずである。

 それが今突然、記憶の底に沈殿し、忘れていた像が「母の肌感覚」とともに眼前に浮かびあがってきたのである。

 思わず、自分の両手を眺める。
oldboy君、「茫然自失」の体(てい)に陥ってる。

今ここで少しブレイク(休息)することにする。

 oldboy-elegy君、この大阪・河内に登場する直前は、前述したように島根県松江市で母子二人だけの慎ましい生活をしていた。

 もう小学校に上がろうかという年齢の頃である。
商店街の陶器屋さんの倉庫が裏通りにあり、その2階に設えられた部屋が我らが母子の居住空間であった。

 ここでの生活が、後のoldboyくんの「おねしょ癖」の要因になる、「夢見」の元になるとは、それこそ「夢にも」思わなかった。

 この2階部屋、大きな窓からの採光も良く、結構広く、当時としてはマアマアな「貸し部屋」だった思う。

 倉庫への入り口は頑丈な木製、両開きのドアで、非力なoldboy君でもなんとかその開け閉めは可能であった。

 倉庫はこれまた板張りで、低い木製の棚がいく列も奥にに延び、瀬戸物などの陶器類がところせましと置かれている。
その間を奥の突き当りまで行き、左に向いたところに幅広の階段があった。

 そう、この階段を上ると我らが母子の住まう部屋になる。

 ここまで書くと、この居住空間、可もなく不可もなく、むしろ良い印象を与えるのだが?。

 「トイレは?」そうそれだ。
ここからの話、多少尾籠(びろう)なことで申し訳ない。

2階にはトイレ、炊事などの水回りの設備はなかった。
それらは部屋に上がる階段の下に造作されている。

 もちろん、現代のトイレとは訳が違う、ましてや倉庫の中の便所、快適さを求めたものではなく、単に緊急に「用を足す」だけの設備である。

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 灯りは弱く不気味だった。
「裸電球」が大小便の間の天井に一個張り付いているばかりである。
倉庫内の事とて、明るさは昼、夜、そんなに変わることはない。

 読者諸氏には少し話が見えてきたのかな?

 とうぜん、oldboy君、このトイレに入るのが大嫌いだった。

 ただ大便は避けることが出来ぬが小用には避ける方法が存在していた。

 この倉庫の重く大きな「引き戸」を開けると、目の前を道幅2~3メートルぐらいの地道がどぶ川を伴い左右に延びていた。

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 何をかくそう、このドブ川がoldboy君の専用の水洗便所になるのにそう時間はかからなかった。


 ただ難点は倉庫奥、階段うえの我が部屋から、このドブ川まで少々距離があることで、それを除けば、「デフォルト・もと」のトイレに比べると「天と地」ほどの快適さを享受できること請け合いである。

 遠い分、我慢した上での放尿、ある意味超絶の快楽を伴う解放感が身を焦がす。

 一体「俺」は何を書いているのだろう、「この変態子供野郎め!!」

 ともかくも、このエクスタシー感覚の放尿は、島根の松江にいた時は、これが「おねしょ」に「発展」することはなかったし、ましてやその原因となることなど想像だにしなかった。

 すべて「大阪は河内」に来てからの出来事である。

 これまでの不安定なデラシネ(根無し草)人生に終止符がうたれ、曲りなり(複雑な家庭環境)にも「安穏」な生活を得、三月ほど遅れたとは言え無事小学校にも入学、近所の「ガキンチョ」との交友もジョジョに深まっていった時期のことである。

 こんな中、あの忌まわしい「夢見」が、なんの前触れもなく、「そう突然」に始まったのである。

 尿意を我慢にガマンをかさね、あの陶器店の2階から転がるように階段を走り降り、重い両開きのスライド・ドアーをもどかしく開き、外に。

 そこには、あの懐かしのどぶ川が「ようoldboyくん、久しぶり、どうぞどうぞ心行くまで」と誘いかけてくるのである。

 そう、「至福の時間と行為」の中で、これが「夢見」であることに「なんの疑念」も持たずに「現・うつつ」の事として、事を済ませたのである。

 もう多くを語るには及ばない。
この忌まわしい「夢見」はこれよりのち、3、4年続くことになる。

 もちろん、これが毎夜と言うことではない。
それでも月の内、数回は確実にあったように思う。

 ただ、この「おねしょを伴う夢見」は続くのだが、いつの頃からか「夢見の中で、今見てる夢に何かしらの疑問をはさむ」ようになっていったのである。

 「む~、これは夢だろう」と自分に「言い聞かせる」ことが、不思議なことに可能になってきたのである。
そうすると憑き物がおちたみたいに、やがて「オネショへの前奏曲たる夢見」も見なくなってしまったのだ。

 ただ、修学旅行の

「お伊勢参り」には、「おねしょ癖」が取れて数年経ってはいたが、少なからず緊張を抱えた「一泊旅行」であったことは告白しておく必要がある。

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 この「夢見」、「夢判断」で有名な精神科医の「フロイト」先生なら、どのような診察をされるのか、大いに興味がわくところである。


上掲のイラスト似顔絵画像、「ジークムント・フロイト」である。
もちろん、「いらすとや」さんからお借りしたものだ。

 ほとんど「期待」しないで検索したのだが、ビックリ「ありました!!」
「いらすとや」さんに乾杯。
              了
          oldboy-elegy
 

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(雑感・雑記帳 No. 17 ) 同じ素材(第一次大戦・西部戦線)から作られた新旧二つの映画、oldboy-elegy君なにか釈然としないものを腑にのこす。


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 軟弱もんのoldboy-elegy君、今日は少し方向を変えた記事になってしまう。


もちろん、いつも通り、彼流の「独断と偏見」で語ることには変わりがないのだが。

 
パソコンで人様のブログやユーチューブなど、のんびり気分でネットをさまよっていた時、なにげに、
邦題「1917 命をかけた伝令」なる映画のトレイラー(予告編)に行き着いた。

 英米の原題は単に「1917」となっている。
西暦1917年の意味だ。

 その解説や短い実写フィルム(トレイラー)、それに対しての多くのコメントがあり、読むうちに何かしら、釈然としないものを感じ、筆(キーボード)を取った。

  「映画ドットコム」、東宝・東和配給による映画案内「1917 命をかけた伝令」の映画解説の、ある文言に、oldboy君、感応してしてしまう。

 まず、彼oldboy君がこの映画に何故、反応をしたのかを話しておく必要がある。

 それは同じ「第一次世界大戦」「塹壕戦・ざんごうせん」「西部戦線」を素材にした映画が1930年ごろに製作され、この日本でも大昔たびたび上映された経緯がある。

 それが「西部戦線異状なし」と言う邦題で、このたびの「1917」と同じアメリカ映画であった。

  両方ともアメリカ映画ではあるが、視点はドイツ側から見たものが「西部戦線異状なし」で「1917」は米英からのものである。

 「西部戦線異状なし」は「戦意鼓舞され、愛国者に仕立てられ戦場に赴いた」青年志願兵の目線からの物語である。

 oldboy君、若かりしころ、この映画「西部戦線異状なし」を何回か見ていたという経緯で興味を持ったものと思う。

 この新旧二つの映画を知らずのうちに比べ、違和感を感じ「釈然としない」気持ちになったようである。

 映画、邦題「1917 命をかけた伝令」は米英合作映画で監督は「サム・メンデス」である。
「007スカイフォール」など手掛けた、有名監督でもある。

 ここで少し「007」の話を。
早速、脱線で申し訳ない。

oldboy君、初期の「007・ジェームスボンド」は大方見たが、近年のものは見ていないし、見たいと思ったこともない。

 とくに「ショーン・コネリー」の「ジェームス・ボンド」は好きだった。
もっと言えば、「007」ものは、「ショーン・コネリー
に尽きると思っている。
「ショーン」以外の「ボンド」役、なにやらニヤケ顔のいけ好かないあんちゃんのようで、気品がない。

もう一度言うが「ショーン・コネリー」は歳を取るほどに「渋く」カッコ良くなっていく。

 有名になれば仕事場であるハリウッドに居を移す俳優が多い中、彼は生まれ故郷のスコットランドを離れることはなかった。
いわゆる、足が地に「着いた」お人でもある。
因みに彼、英国より「サー」の称号を与えられている。

 さて、ここで話を本筋にもどす。

 「1917」が本来の映画題名で、「1917 命をかけた伝令」は日本だけでのタイトルである。

 タイトルだけでも、なにか1歩も2歩も後退したように思うが?どうだろう。

 oldboy君が言う、その釈然としないものが「何なのか?」を書く前に、
当時(1917年頃の)世界の基本的な政治的状況を簡単に説明せねば「その釈然としないもの」が理解されないと思う。

 この映画の基本となる素材は「第一次世界大戦」である。
フランス・イギリスとドイツ帝国の対立を軸に各国がそれぞれの思惑でどちらかに組し、ヨーロッパを中心に中東、北アフリカ、一部アジア、後にアメリカも巻き込んで勃発した戦乱を「第一次世界大戦」と言う。

 アジアで日本も日英同盟を理由に連合国の一員としてこの大戦に参加している。

 この時、ドイツは戦闘の長期化を望まず、一気にパリ陥落を目指し、手薄なフランス北東部の小国、ベルギー、ルクセンブルグを蹂躙、一気に南下、パリを目指した。

 フランス軍は敗退に次ぐ敗退で、パリの50キロ近くにまで追い詰められたが、ドイツ軍の兵站が追い付かず、英軍の増援もあり、何とかパリ陥落を逃れたのである。

 しかし事情はフランス軍も同じで、ドイツ国境近くまで押し返すも、どちらの側も決定機のないまま対峙し、戦線が膠着状態に入ったのである。

 さあここで言う映画「1917」の舞台が整った。

 この対峙する戦線を「西部戦線」と言う。
戦線の長さは北のベルギーから実に750キロメートルに及ぶ。

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(wikipediaより)

●上の地図の赤い線がフランスとドイツが対峙する「西部戦線」である。
赤線をはさんで東側(右)がドイツで、西(左)がフランスになる。
左上部の海が「英仏海峡」、ちょろっと覗く陸地がイギリスで「ロンドン」の名も見える。

 ここで後に第一次世界大戦のヨーロッパ戦線は別名(塹壕戦・ざんごうせん)ともいわれる戦闘方式に終始することになる。
このウジウジとした状況が約3年も続くのである。

塹壕とは
 
戦場で、歩兵が敵弾を避けるために作る防御施設。地面に溝を掘り、掘った土や土嚢 (どのう) を前面に積み上げたもの。

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★上記の画像が、西部戦線における、典型的な「塹壕」と呼ばれる構築物である。
見ても解るように、塹壕は横一線に真っすぐに作られることはない。
横にくねくねと掘削するのが基本である。
なぜなら、敵の砲弾が塹壕に落ちてきても戦死、負傷者が一定の区域に限定され、トータルとしての戦闘能力が大きく損なわれる事はないとされている。
この点、映画「1917」の塹壕は幅が広く直線的で、掘られた土砂が見当たらないし、美しい。(特にポスターなど)

 さて、ここでoldboy君の釈然としないことの一番めである。


 ★「映画ドットコム」の解説には「フランスの西部戦線では」と記されている。
しかし基本、フランスには「西部戦線」なるものは存在しないはず、敢えて仏英目線で言うなら「東部戦線」である。
西部戦線」とは「ドイツ軍」から見た名称であるはず。

 (ウィキペディヤ)から引用した上掲の地図を見てもらいたい。
赤く伸びた戦線はドイツから見た時のみ西側に位置する。
「フランス」からの西はもはや、「英仏海峡」か「大西洋」「イベリア半島」のみである。

 その上「ドイツ」自身、当時、別に「東部前線」なる戦線が存在し戦争をしていたのある。
対峙国は「帝政ロシア」「ポーランド」などだ。

 故に結論としての「西部戦線」とは「ドイツ帝国」におけるフランスと対峙する戦線であり、決してフランスがこれを「西部戦線」と正式に呼称するはずはない。
 しかし「映画ドットコム」の解説には「フランスの西部戦線としっかり記述されている。

 なぜこうなってしまったのか、oldboy君が考える原因が、もう一つの「第一次世界大戦」を素材にした、有名な映画「西部戦線異状なし」の存在にあると思う。

 この映画、oldboy君の若かりし頃、学生自治会や左派系集会などで、しばしば無料上映会が学生会館などで行われた経緯がある。

 世はまさに、学生運動も終末期に向かう、前夜であった。

 この映画の原題は「All quiet on the Western Front」で邦訳も、そのまま「西部戦線異状なし」となる。
因みに(quiet)は平穏・静か などの形容詞、名詞である。
この邦題、言語こそ違うが、原題の「意」がそのまんまなのが良い。

 これも、アメリカ映画であったが視点はドイツからのものだ。
物語は、当時のドイツの若者たちが、いかにこの戦争に関わり、時代に翻弄され死んでいったかを主題に描いた「反戦映画」の金字塔的存在であった。

 ドイツは「西部戦線」の膠着により、兵員の補充に苦心、兵役義務のない若い学生を「洗脳」して愛国心に訴え、戦場に送りだしていく。

 なにやら、何処かの国でも同じような事があったようである。

 物語はこの若い学生達が「国難・愛国」の言葉を胸に戦場に行き、亡くなって行く様子を克明に描いた作品であった。

 映画のラストシーンは、主役の若者が目の前に飛来してきた蝶を捕まえようと、「塹壕」から身を乗り出し手を伸ばしたその瞬間、敵の狙撃によって死ぬのである。

 個人として、人間としての存在は亡くなったが、「西部戦線」はこの日も「異常なし」つまり「All quiet on the Western Front」とクレジットされるのみである。

 「
All quiet  on the Western Front」と若者の死、この見事なコントラストが戦争の残酷さを際立たせる。


 この映画が昔、
日本国内で盛んに「反戦映画」として上映された。

 それが年月とともに、東も西もドイツもフランスも関係なく、兎も角あの戦線
は「西部戦線」であると固有名詞化され人々の頭に残り、認識されるようになったのではないだろうか。 

 oldboy君、書き出す前、もっと頑強に「反論」しょうと思っていたのであるが、なにか最後に腰折れ状態になってしまった感がある。

 ふだんから「日和見主義・ひよりみしゅぎ」を標榜する彼にふさわしいのかも知れない。
お許しあれ!

さて次の違和感と言うのか、釈然としない感の二つめである。

 サム・メンデス監督の「1917」に多くのコメントが寄せられているが、「西部戦線異状なし」に言及した人は、映画ではなく「小説を読んだ」と言う方が一人おいでになっただけのようである。

 同様の素材でも、余りに違った描きかたの映画のため、コメントは意図的に消されてしまったのかもしれない、きっとそうだろうと、かってに思い込んでいる。

 このサム・メンデス監督の映画「1917」は、ただただ戦場でのリアリティ感を求めて設定されただけで、それ以上でも以下のものでもない。

 宣伝の謳い文句は「全編ワンカット、ノーカットで撮影」などその撮影技法のみで終始、アワード(賞)もほぼ、これまた「撮影技法」についての物がメイン。

 要するに、映画「1917」は「西部戦線異状なし」と、もともと比べるべき作品ではないと言うことである。
観客一人ひとりが、戦場に放り込まれた疑似リアリティー感を楽しむためのエンターテイメント映画であり映像なのである。

 チョット面白いことに、配給元の「東宝・東和オフィシャルサイト」も覗いて見たが、映画のスペクタクル感や臨場感の話だけで終始したものであった。

 それに「1917のサム・メンデス監督」が自身の映画の説明に「Western Front」と仰っている肉声が混じっていたのを聞いて、oldboy君、なにやら「あほらしく」なってしまった。

 「西部戦線異状なし・All quiet on the Western Front」の原作はドイツ出身のエーリッヒ・レマルクである。
ドイツ側から書かれた「反戦小説」を基にアメリカで映画化されたものである。(1930年製作)

 1930年と言えば、あの「アドルフ・ヒトラー」率いる
国民会議・ドイツ労働者党」いわゆる「ナチス」が選挙で大躍進を遂げた年でもある。

 もう「第2次世界大戦」の萌芽が始まっていたのである。


このoldboy-elegy君のブログ、二つの映画、基本、素材は同じでも、あまりにかけ離れた「意図」の元に製作された映画であるため、突っ込みどころが腰折れ状態になった感が大きい。

 ただ良かったことは、大昔に作られた映画「西部戦線異状なし」を紹介できたことだ。

 この映画youtubeでもフルムービーを現在視聴できる。
リンクしょうと思ったが、個人の資格で鑑賞してほしい。Part1.Part2で約2時間の長尺で白黒映画である。

 

●最初のイラスト画像に戦車が描かれているが、「第一次世界大戦」では武器として「戦車」はもちろん「飛行機」それに「毒ガス」も登場した最初の戦争でもあった。
            了
         oldboy-elegy

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oldboy-elegy (21)ガキンチョ御用達の専門店?!(駄菓子・おもちゃ屋)その名も「チュウコヒン!」とはこれ如何に??

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1955年(昭和30年)ごろのガキンチョ(腕白坊主)達の生態をおもしろ、おかしく、そしてチョッピリ哀しく記事にした。

oldboy-elegyくんの
ブログ、大きく分けて2種類の意識分けで記事にしているつもりである。

 一つは、「oldboy-elegy(NO)」で始まる記事で、彼自身が現実に経験したことを、あまり論評、良し悪しを加えず、物語風に書きあげている。

 時代の流れの一断面として、なにかを感じて頂ければ、それで成功したも同然であり、嬉しい。

 もう一つは、老いたとは言え、取りあえず彼も現代に生き、棲息している「人間」の端くれである事には変わりがない。
日々、様々な情報が彼の耳目に流れこんでくるのも必然である。

 それは、テレビ、ラジオ、新聞、書物、インターネットと多岐にわたる。

 そんなこんなの内、彼の心の底に感応した出来事を
雑感・雑記帳 No.」として、「独断と偏見」による「私見」として吐いている。

 基本、彼のブログの大分類は上記のふたつから成立している。

 カテゴリーによる分類も考えているが、なんせ、記事数が少なすぎる。
月あたり3記事、やっと全部で30記事を超えたばかりの体(てい)たらくなのだ。

 さて今日のお題は「oldboy-elegy No」で始まる記事である。

即ち、現実に彼が経験・遭遇した事柄を、物語風に記述したものである。

 

 幼年・少年期のガキンチョ(腕白坊主達)の日常の生態が主題である。

 まず念頭に入れておいていただきたいのは、なんといっても、当時の子供の多さである。

以前(雑感・雑記帳 No.11)で

「子供たち(花)はどこに行ったの」
を記事にUPしたが、これは今日(こんにち)の状況を主題にしたものである。

 

 アメリカのフォーク・シンガー、「ピート・シーガー」の作詞、作曲による「花はどこに行ったの」をもじって
「子供達(花)はどこに行ったの」とタイトルを付けさしていただいた。

 その記事、最下段にリンクを貼っておくので、見て頂ければ嬉しい。
現在の子供の少なさを、ある意味嘆いたブログでもある。


 これと真逆の時代がoldboyくん達の「幼年・少年期」であった。

この年代の出生数(昭和24年ごろ)はなんと270万人弱、これが令和元年(平成も含めた通年を1年として)にいたっては約90万人、1/3まで減少する。


 時代は高度成長期の前夜である。
親たちは汗まみれで働き、今風に子供達一人ヒトリに寄り添い面倒を見る余裕もない時代であった。

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 それでも子供達は子供達で集団として徒党を組み、自分達でその才覚を遺憾なく発揮、大いに走りまわり、遊んだものである。

 我々ガキンチョに対しての親のスタンス(かかわり)を見て,「親としての責任感が不足」ましてや「愛情不足」などの言などは当たらない。

 少々危険で危なっかしいことも、当時の感覚では、それと気が付くこともない。

 これらの集団の単位は横断的(学年別)ではなく、住んでいる地域、町内が最優先で、小学1年坊主から最年長の6年生までがグループで一団として行動する。
親の影はどこにもない。

 べったん(メンコ)、やビー玉などの「やりとり」の真剣試合はいつも、隣町のグループとやることになるが、そこには厳然としたルールが存在する。
それでも一色触発の危険状態に陥ることもあるが、我々には勇吉がいる。

 彼はこのあたり一帯をまとめる的屋(てきや)の「親分」の孫でもある。

 しかし彼は「自分のグループ」だけを優先することはない、それだけに誰からも信頼されていたし、一目置かれる存在でもあった。
彼の「言」は常に「最終結論」であることを、みんなが心得ている。

 小学1年の「勝男」は未だ体も小さく弱よわしいが、年長の「吉雄」の弟「孝雄」が面倒をみる。

 「勝男」はいつも兄貴分の「孝雄」に小走りでついて行く。

 その「勝男」の渾名がすごい事になっている。
「あおばなちょう、とんねるどうり、にばんち」これが彼のフルネームならぬフルあだなである。

漢字混じりで普通に書けば
「青鼻町トンネル通2番地」誰が付けたか知らないが、これが「勝男」の渾名である。
普段は「勝男」とか「アオバナ」と短縮形で呼ばれている。

 少々尾籠な話で申し訳ないが、
「青鼻」は文字通り「青色(みどり)の鼻汁」のことで、いつもエレベーターのごとく鼻汁を鼻腔の下で上下させていた。
「トンネル通り2丁目」は二つの鼻の穴を指す。
彼の衣服の袖口などは、鼻汁を拭くため「テカ、テカ」と光ってる。

 つけ得て妙な「渾名」で、今でも覚えていることが、なにかしら滑稽である。
従って、ここで使われている子たちの「名」は基本、彼等の名誉のため仮称であるのは当然である。

 oldboy-elegy君がこの地「河内」に、母の手に引かれ、やって来たのが小学1年の6・7月のころであった。
この時が彼の初の学校体験である。
むろん幼稚園は知らない。

 「妾の子」など、「出生」の事で「渾名」をもらったこともなかった。

 親たちも、ただただその日を生き抜くことに精一杯の時代である。

 だからと言って、近所や近隣の人達の関係が薄いと言う訳でもなかった。

 年末など隣近所で寄り合い、餅つき大会のダンドリを理由に行う「忘年会」や、コメ、醤油、ミソの貸し借りなど、当然のように行われていた。

 「アッ、今ここで思い出したことがある」
母から醤油を買う用事を頼まれ、エッチラ・オッチラやっとの思いで、家にたどり着いたは良いが、土間から座敷への上がりカマチの石段に一升瓶をぶっつけ、台無しにしたことを。

 
このことはハッキリ記憶にあり、醤油の匂いが今だに鼻腔に残っている気がする。

しかし母に怒られたと言う絵柄はない。

 こんなヤンチャ坊主の集団が、路地から路地に「ワー」と湧き出、歓声とともに走り去って行く。

 月2回の縁日の折など、親からもらった少々多めの小遣い銭を握りしめ、近くの「ガキ御用達のスーパーマーケット」に集団で走り込む。

 はてさてこの店の名が「チュウコーヒン」と言う。
屋号として看板が上がっていたわけでもない。
ガキンチョ(腕白坊主)仲間の話でも普通に「チュウコヒンいこや」などと通用していた。
※「いこや」は「行こうか」の河内弁である。

 しかしこのたんなる「チュウコヒン」の符号が、「中古品」になり、その意味を知ったのは、ずっとずっと後のことである。
どうせ「口さがない」大人たちの会話から、子供達は意味も解らないまま店名だと思い口にしていたのであろう。

 とうぜん、ガキどもは、このことは知らないのだから、店主の初老のオバサンの前でも普通に口にしていたはず、
どんな思いでいつも聞いていらっしゃたのだろう。
「ゴメンナサイ」おばさん。

 店の広さは「間口2間半、奥行き1間ほどの子供専用の「だがし兼おもちゃ」屋である。

 この記事の始めにUPしたイラスト画像をみてほしい。
店自体の造作や佇まいはおよそこんな感じかな。
ただ飲み物の自販機やアイスボックスがそこにあるのが少し残念ではある。

 店の右半分は駄菓子で奥に通じる左半分は非食品で、おもちゃ類で占められている。
夏場の暑い盛りには、店先に手動のかき氷器も登場。

 いまチョットした「駄菓子」ブームなそうだ。
しかしoldboy-elegy君には、今の駄菓子は「お菓子」の「お」の代わりに「駄」を無理やり付けたように見える。

 何故かって、あまりに上品な「見ため、つくり」なのがその原因なのかも知れない。

  各種せんべい・サイコロアメ・べろべろ・酢昆布・紙ニッキ・わらび餅・みかん水・ラムネ などきりがない。
このうち、紙ニッキなど、今考えればひどいものである。

 厚手の紙にニッキの味をしみ込ませ、かみごとしがむのである。
ニッキ味が無くなると、辺りかまわず「ペッペッ」とはきだす。
その色たるや、まことに毒々しい、真っ赤・紫・緑・黄色 など原色で構成されている。
まるでペンキのよう。
シガンダあと、唇、口腔はそれらの色に染まる。
袖でふき取ると、ペンキの色がそこに転移するしろものであった。

 高級品では牛乳キャラメルがあったがガキンチョの小遣いでは丸ごと1箱は買えない、しかし一粒一粒ばらしたものが用意してあり、これなら手に届く。

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 oldboyくん、食い物よりおもちゃ関係でお世話になった感が強い。

 べッタン(めんこ)・ビー玉・コマ・Y字ゴムパチンコ・花火(とくに、投げ弾・煙幕・ねずみ花火)・模型飛行機(ライトプレーン)・ちょっとした文具 などなど、列挙すればきりがない。

 品一つ一つに物語がある。

これまでのブログ記事に登場したものも結構ある。
べッタン(メンコ)・投げ弾(花火の一種)・ゴムパチンコ・模型飛行機 ・などなどである。

 やや長じて、高校生のころ、アルバイト料が入ったおりなど、このチューコヒンの先のコーヒー店、「インデラ・コーヒー・カレー店」などちょくちょく行ったものだ。

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 あれからどれくらいの年月がたったろうか?

 たしか千年紀(ミレニアム)が変わる頃か、こちら側の事であったように思うがハッキリしない。
7才年下の妹と落ち合い、あの繁華であった商店街を中心に歩いたことがあった。
因みに、彼女は他県に嫁いでいる。

 その彼女がため息交じりに言った。
「兄ちゃん、この商店街さびれたなあ、なんかこれまで殆んど人とすれ違わへん」とポツリ。

 oldboy君、この一言で目と鼻先にあるはずの「インデラ・コーヒー店」があった石畳の路地まで歩く気力が失せた。

 大学を出て就職後、確か2、3度は来たはず、以来この地を離れて幼年、少年、青年時代の多感な思いが記憶の底に沈殿したまま思い起こすこともなかった。

 人生も最終コーナーにさしかかり、この地、この頃の自分の存在がいかに大切なものであったかを再認識するようになった。

 これもブログの記事を書くことで、再発見したことの一つである。
とくに母のことなど、これだけ集中して思い起こす作業をすることは初めての事だと思う。

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すぐ先に神社の大鳥居が見える、「インデラ」はすぐ目と鼻のさきにあったが、もう充分であった。



 これらの残滓を目にして「懐かしい」などと、想うにはあまりに時間がたちすぎてしまった。
見たくもない現実がそこにあるのは「明確」に予想できる。

「もう駅に帰ろか」と妹を促した。

チョット先に見える、大鳥居の下には7~8人の子供の妖精が静かにこちらをみている。
ひときわ背の高いおさげ髪の女の子が立っている。
右手を胸の当たりまで上げ、手の平をこちらに向け、ゆっくり揺らし、声は聞こえないが「さよなら」と言っているらしい。

 彼女、我々ガキンチョお目付け役の「安田の華ちゃん」である。

 第何次かの「北朝鮮」帰還船でまだ見た事のない彼の地に一家で渡って行ったそうな。

 oldboy-elegyくん、大学生のころ、母が「安田の華ちゃん亡くなったやんやて」と風の便りで聞き及び、最後に「自殺やったらしいわ」とポツリと言った。

 そこには勇吉はじめ吉雄、孝雄そして「アオバナ」の勝男もいる,
みんないる。
もちろん、「華ちゃん」の脇には、少し頭を傾(かし)げた「満面の笑み」のoldboy-elegyくんの姿もある。

 帰りすがら、もう一度振り返り、大鳥居の下を見たがもう誰も居ず、石畳の参詣道が奥に向かって続いているのみであった。
「わ~」と走り去る子供達の嬌声が聞こえたかに思ったが定かでない。

            了
         oldboy-elegy

 ↓ 今日のブログ記事とは真逆の「今現在の子供達」のことを(雑感・雑記帳)として以前にUPしたものです。

 併せてお読みいただければ幸いです。

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(雑感・雑記帳 No.16)      「エアーたばこで禁煙中」令和2年1月27日で満3年になりました。自慢の咳払い「エヘン!」

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  oldboy-elegy君、ただいま、禁煙の真っ最中である。

 決して「タバコをやめました」とは言わないのが彼の信条である。

人生のある時期、一定の期間「喫煙の習慣」を持った身なら、それ以後の貴方は「決して非喫煙者」の列に加わることは無いとoldboy君は考えているのです。

 もし、あなたが人生における、ナンギに遭遇した時など、知らずのうちに、指先にタバコがはさまっているかも知れません。
だからと言って「負け犬」ではないと思うのです。
ただ深く考えず「気楽」に実行するのが「寛容」かと思うのですがどうでしょう。

 ただそれほど、「喫煙の習慣」から離脱するのは難しいものです。

  実はこのブログ、今回で三回の追記事となります。

禁煙開始日       2017・01・27 
初回 エントリー記事が 2019・06・13 
           ブログ開始同年4月
二回目         2019・11・19
今回          2020・03・10
    時系列的には上記のようになります。

 oldboy-elegy君の禁煙の動機は重度の風邪症状で喫煙のドクターストップが宣告されたのが始まりです。

 10日ほどタバコ断ちをし、体調も概ね復調し、そろそろ「タバコ」をと思い始めたころ、自分の体調に生じた変化に気が付いたのです。

●恒常的にあった喉(のど)のイガイガ感がなくなって、「爽やか感」さえ感じた。
●もう一つは、尾籠(びろう)な話で申し訳ないのだが、鼻汁、鼻くそが、なにやら、何時もの色ではなく、白っぽく、透明感のあるそれに変わっていた。

以上の2点です。
わずか10日程度の禁煙で味わえる至福の感覚です。
これを自覚し、もっと禁煙を継続すれば次はどんな「ごほうび」が待っているのか、との思いがキッカケでした。

 しかし全て順調に経過した訳ではありません。
勿論、人並みに「禁断症状」はあったのですが、それを克復する方法がoldboy-elegy君の場合「エアーたばこ」だったように思います。

 もともと、胸いっぱい、肺一杯に吸煙して、鼻からゆっくり排煙するタイプの喫煙者ではなかったようです。

 タバコを「吸う」と言う行為そのものが「極度」の習慣性を帯び、ニコチンがタールがどうのとは少し違うのかなとは感じていました。

 朝、目覚めた瞬間から
寝起きに1本・食事の後に1本・新聞を読むとき・出かける前・電車のホームの端の喫煙ルームを発見した時、と言うように行動の変化の節々(ふしぶし)で喫煙していた様です。

 世の中にはoldboy君ような、喫煙習慣の方も大勢おられるはずです。
「エアーたばこ」での禁煙効果は、このような方に効果が大きいと思うのですが、どうでしょう。

 
おかげ様で、この3年間、一本のタバコにも「火」をつけたことはありません。

ただし「エアーたばこ」なる方法の励行(れいこう)には変わりありません。

 初めてこの記事を読まれる方のために、oldboy-elegy君の言う「エアーたばこ」の概念(少々おおげさ)を再掲しておきますね。

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「シャベル(スコップ)や座敷ボウキを手にエレキギターを疑似演奏、または何も持たなくともその気になりきる奏者?の本気度とそのパフォーマンスをエアーギター(エアーエレキ)などと言うらしいのだが、そのシャベルやホウキを本物のタバコに置き換え、火を付けず疑似喫煙する行動をエアータバコと言う」

 以上がその概念です。

 
つまり、本物のタバコに「火を付けずに」疑似吸引をする行為であると考えてください。

 
タバコは「フィルター付き」がお勧め、何回も繰り返し使用可能です。
ただし、紙巻部分とフィルターの境界部分に湿り気が出てきたり、変色してくれば取り換えねばならないのは当然です。

 気楽にポケットやバッグに入れて持ち歩くのが良いかと思います。
なぜなら、「いつでも吸えるよ」のノープレッシャー状態に置くのが自分には良かったように思うのです。

 
まー、ひとそれぞれ、自分に合った方法を気軽に選択し、最終的に「エアーたばこ」に無理なく持ち込めたならOKです。

 あとは、1週間から10日間実行したころ、自分の体の状態の変化をじっくり観察するのが肝要です。

 ほんの些細な変化でも感じたり、気づいたりしたなら、きっと「明日からのエアーたばこ」への大きな原動力・モチベーションとなってくれるはずです。
・のどのいがらっぽさが軽減したように感じる。
・呼吸が楽になった。
・他人の喫煙の煙が気になる。
・自分の喫煙部屋のニコチン・タールの匂いを感
 じる。
・鼻をかんだ時、鼻汁が少し綺麗になったように
 思う。
 
 などなど

  oldboy君の場合一か月1箱(20本)でこと足りるようです。

 
取りあえず、禁煙3周年を記念?として再再掲さしていただきました。

 おひとりでも、この記事に賛同して実行、長期禁煙に持ち込めたなら、当方、嬉しい限りです。

            
          oldboy-elegy

oldboy-elegy (20) ソウル(Seoul)暮色  金(キム)課長のお宅に「お呼ばれ」のはずが、着くなり奥さん、ぼんくら男二人を指さし大剣幕、いったい何が?

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 この日は、キム課長のお宅にお呼ばれの約束がある。

 少々oldboy-elegy君、気が重い、強く辞退したのだが押し切られた形である。

「社長の了解もとってある、妻も、どうぞ、お待ちしている」とのこと。

 なにもご自宅まで行かずとも、ホテルのあるこの辺り(ソウルで一番の繁華街・ミョンドン)で何処か普段行けない料理屋で食事すればすむことではないのか。

 ましてやこの二人、揃って「下戸」である。
奥さんの手を煩わす事など堪忍してほしいとoldboy-elegy君、
本気で思っている。


 今日は寝起きから、なにやら気分がすぐれないのはこのせいだと思う。
「あ~、やだやだ」と思うと余計に気が滅入る。

 気分一新のため、めったにしない「モーニング・シャワー」なるものをする。
この行為も「接待を受けたからには」の気持ちの、あらわれである。
oldboy君、風呂派なのだが。

 今日の、記事のお話の分岐点と言うのか「間違いの元と言うのは」どうもこの辺りから始まったようである。

 シャワーの後、部屋の壁に埋め込んだ大きな木枠の鏡の前に立ち、ドライヤーで髪を乾かしている時である。
「ムッ!」、髪の毛が伸びぎみで、少しムサイかな、思ったのが今日のタイトル、「課長の奥さん、大剣幕」の始まりだったようだ。

 

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つぎに「早めに仕事を切り上げ床屋に行こう」と決心したのが、間違いのレールに乗った瞬間であった。

 oldboyくん、この街(ソウル)で床屋に行ったことはない。
滞在期間はせいぜい1週間ほどで、問題でもない限りこれを超える事はない。

 そのため散髪は国内(日本)でやる、それも勤務時間中、会社近くの行きつけの「床屋」でやるのが常である。

  oldboyくん、何故、この地(ソウル)で散髪をしょうと思い立ったのか?
そう全て「お呼ばれ」のせいである。

 このあたりoldboyくんの性格でもある。
基本、グータラではあるが、「他人に迷惑を与えない限り」の但し書きがつく、いたって真面目な奴なのだ。
自分から何日も先の予定の提案はしない、先様からのお話も「どうしょうもない」もの以外は「近場に来てから」連絡頂戴などでお茶をにごす。

 いったん約束すると、その完全履行が常識で、何日も前から気にかかるお人なのである。

  ここで、もう一つoldboyくん、間違いをおかしたのである。
「課長、今日散髪に行きたいので、何処か床屋、紹介してよ」と電話で頼んだら「ああ、いいよ、それなら私も」と二つ返事、夕方早めにホテルに来るとのことである。

 「私も」?、つまり、キム課長自身も床屋に行くって事なのか?
この時点で深く考えはしなかったが、この一言で「奥さんの大剣幕」への道筋が決まってしまったようである。

 oldboy-elegyくん、外回りの仕事2、3を急ぎ済ませ、早目にはホテルにご帰還である。


 ホテル裏のそう広くない道筋の向こう沿いに小さな「なんでも屋」の雑貨店がある。
この店、ストリート・フード店ならず、ストリート雑貨店である。

奥にコンクリート塀を背負い、店自体は間口2MX奥行40~50センチ位の露店で、天井は帆布のテントである。
コンクリート塀の背部分も大きな木製の棚が設(しつら)えてあり、商品が並んでいる。

 夜、店仕舞いの折には、この部分の品を下の平台に移し、最後に背棚を平台にかぶせる様にしてたたむ。
あとは大きな錠前を幾つか掛け、雨除けのビニールテントで覆い、最後に自転車の古るチューブを幾筋かかけて終了である。

 なぜ、そんなこと知っているのかって?、oldboy-elegyくん、何度か店仕舞いを手伝ったことがある。

 もちろん、タバコもあるが、ジッポのライターから栓抜き、洗面具などの日用品、「銘柄やデザインさえ文句を言わねばなんでも揃うよ」と言うのが、この店の「売り」なのだ。
なにやら、テレビドラマの「深夜食堂」の口調に似てきた。

 oldboyくん、普段ここでタバコを買っている、銘柄はシルバーグレーのハードボックスに濃紺の漢字で「松竹」となっている、韓国製だ。
ヘヤ―ドライヤーもここで買ったものだが、強・中・弱のスイッチの内、強は熱風すぎて、怖くて使う気にはなれぬ。


 このストリート雑貨店主、パク(朴)さんは、oldboyくんの、この地での
韓国,朝鮮語の先生なのだ。


 もっと言えば、彼、大阪の生野(韓国・朝鮮人が多く住む地域)の出身で、故あって帰韓したのだそうだ。
事情は聴いているが、ここで書いてもセンないことなので書くまい。


 それゆえ彼の日本語と言おうか大阪弁は基本、朝鮮なまりがあるものの、なんの不自由も感じられない。

 朝鮮語のイロハを習い始めたのは良いが、意思の疎通が完璧すぎて勉強そっちのけで無駄話(大阪弁にて)に重点が移り、今は利害関係ゼロの友達になってしまった感が強い。
それでも教授代は毎回支払っている。

 朴さんに勉強会?のキャンセルを伝え、ホテルの部屋に入る。
今買ったばかりの「松竹タバコ」を吸いキム課長を待つ、そのうち眠くなり、ダブルのベッドの端でうたたね。

 oldboyくん、このごに及んでも往生際が悪い、「あ~、やだな~、朴さん(雑貨屋)と話しているほうがよっぽど楽しいのに」と、まだグズグズ言っている。

 ドアのノックの音で目が覚めた。
キム課長さんであろう、ここからは先、「嫌だ、イヤだ」はできない。
いくら表情に出さずとも、相手さんに失礼である。
 
 「課長、ご招待、お忙しいのにすいません、それに僕、お土産の用意もしてないのが気にかかり・・・・」とモゴモゴモゴ。
「なにも、そんなもの気にしなくとも」とキム課長。
そうこの言葉を引き出すための「モゴモゴモゴ」なのである。
お金の問題ではない、ただただ「面倒」なだけである。

 救いはこの人(課長)、oldboyくん以上の「下戸」であることが「不幸中の幸い」である。
酒を強要される心配はない。

 「それでは4時にホテルを出て、一緒に散髪に行きましょう、特別知っている「床屋」はありませんが、この辺り(ホテルの周囲)ならいくらでもあるでしょう」とのこと。


 彼の務める会社B社はつい数ヶ月前はA社と名乗っていたのだが、居抜きでB社に売られたのである。
 居抜きとは、従業員、事務所、得意先始め関係する全てをマルッポB社に売られ、経営者だけが変わったと言うことである。
キムさんの言うことでは、今度の社長の尹(ユン)さんはそこそこの資産家であるらしい。
 
 この国では、こう言う形の「代替わり?」は結構あるとのこと。

 この度の「お呼ばれ」も新社長の了解の上でのことである。

 ホテルを出て、新世界百貨店(シンセーゲィ・ペグファジュム)の方に歩きだし、最初に目に留まったクルクル回る三色のサインポールの床屋に入る。

 30分ほどで終了、日本の床屋に比べて毛髪のハサミの入れ方が大胆な感じ、それに、これまでより短髪に仕上がったようだ。
oldboyくん、これはこれでスッキリ、気に入っている。
今度、大阪で床屋に行く時は今までより短髪にしょうかとも思う。

 キムさんも、先ほどまでの雰囲気とは様変わり、何かしら凛とした感じ、絶対中途半端なロン毛より恰好が良い。

 彼、実は予備役の兵隊さんでもある。
防空訓練の時など、白い帆布のタンカに人を乗せ、走りまわっている。
そう思うと、後頭部のバリカンでの刈り上げが兵隊さん然としている。

 散髪代金も押し問答の末、彼が払う、こんな私的な事で、これで良いのか、いよいよ気が重い。

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 明洞(ミョンドン)の繁華街を出た先の大通りのタクシー乗り場は大混乱の中にある。

 素人の日本人が簡単に乗れるものではない。

 当時は相乗りOKで、同方向に向かう客を探し満席にして発車する。


 
 「これ、シンチョン(新村)行よ、後二人いないかー」と決められたタクシー乗り場は無視、ずっと離れた場所から大声で同方向の客を探す。

 当時、タクシーに使われた車体の多くは「ポニー」と言う車種で、運転手含めて5人乗りである。
時には、定員オーバーでも平気で乗せる。
客の一人当たりの運賃は目的地までのメーターの半額ぐらいで、それも、あいまいである。
客にとっては安く、運転手にとってはより多くの代金、つまりウインウインの関係である。
メーターは一応、賃走になっている。
もし何回かに一度、客を定員いっぱいに乗せ、メーター「空車」のままで走れば、全てポケットにできるのかな?とフト思った。

 客を多く乗せればそれだけ効率よく稼げるのだ。
国も全量輸入であるガソリンの、大きな節約になる。

 しかし運転手くん、日本人には結構つらく当たってくださる。
行く方角を一生懸命聞き取り、車に向かって手をあげ走っていくが、日本人だと分かると、定員以下でもドアーをバッタン、と走り出す輩もいる。

 乗せてから日本人だと判ると「チチ」とあからさまに歯噛みする奴もいる。
oldboyくん、「乗ってしまえばこちらのもん」何故か勝ち誇ったような気分になる、ある意味それやこれやを含めて楽しんでいた。

 さてキムさん、随分離れた場所から「おいでおいで」をしている。
oldboy君、急いで駆け寄り、乗り込むが、客は我ら2人のみで走りだした??
彼に、いくら払うのか聞くも、教えてくれない、あるいはもう払ったのかも、「いいからいいから」と言うばかりである。

 車は南山(ナムサン)トンネルを通り貫けしばらくは方角の感覚はあったのだが、やがて何処をどう走っているのか分からなくなる。

 この車、この瞬間、ある意味「地獄の一丁目」に向かって、ひた走っていたのである。
とくにキム課長にとっては。

 まだ夕日の残照が残っている。
やがてタクシーが止まった、すぐ目の前が課長の自宅らしい。
流行(はやり)りの集合住宅(マンション)ではなく一戸建てである。

 木製の頑丈そうな門に高い塀が家を巻いている。
門と住居の間には庭があるようだが、日本の様に木々が植わってる様子はない。
門扉には頑丈な鉄製の板が両端にはめ込んである。

 明らかに外部から侵入を拒むような雰囲気のつくりである。

 その頑丈な門扉の脇にはめ込まれた鉄板の上に、大口を開けたような鉄製のノッカーが付いている。

 「課長、立派なウチですなあ」とoldboyくん。
言いながら、内心(立派ではあるが、閉塞感と湿っぽい佇まいでなにやら隠花植物を見ている感覚に陥る)と感じていた。

 「この家、私がたてた家ではなく、もともと親父が建てた家なんです、親父夫婦も歳で、住むのに楽なマンションに数年前に移ったのですよ」とのこと。

 キム課長、やおらこの立派な、黒光りする鉄製のノッカーを数回打ち付ける、しばらくすると、門扉の向こうの玄関ドアのわずかに軋む音。

 ここまでは特別なことは何もなく、事が進んだのだが!!
やがて門の内側に人の気配が近づき、重々しい門扉が開かれる。

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 事は、キム課長とoldboy君が玄関先の庭に入ったところで起こったのである。

 取りあえず奥さんに挨拶をと「今日の食事会のお誘い、ありが、あり、アリ・・・・?」ぐらいのところで、急に奥さん俺を見てではなく、ダンナと俺の頭を見て、挨拶の口上を手の平を突きだしストップをかけたのである。

 ここからがいけない、彼女の形相が一変する。

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読者諸氏、文楽人形の「安珍清姫」の「清姫」が「安珍」に裏切られたと知るや、その表情が瞬時に「鬼」に変貌する「人形の頭・かしら」を見たことがありますか?
清姫」の柔和な顔の口が大きく耳元まで裂け、口内は真っ赤、目も大きく見開かれ、
頭には2本のツノがニョッキリと生えるのです。

 まさしくこれを再現したものと言ってよいでしょう。
彼女、「まあまあ・・」とするダンナ(課長)の手を振り払い、なにやら、oldboyくんの韓国語能力では聞き取り不能

 ダンナの綺麗にカットされた頭を指さし、怒りはますます増幅してゆくようです。
こうなれば、脇に突っ立っているoldboyくんなど眼中にはないのかも知れません。

 よくわからないが、どうやら、我ら2人がそろって床屋に入った事が、原因のようです。
ちょっと静かになりかけても、課長が少し何か言おうものなら、途端に奥さんのテンションは倍化し、手が付けられぬ状態です。

 いやはや、こんな激しい夫婦喧嘩を見るのはoldboyくん初めてのことです。
夫婦喧嘩と言ってもこの場合、彼女からの一方通行なのだが。
これには何か大きな誤解があるようですが、よくわかりません。

 日本人の場合、隣に友人や客がいての場所で、こんな激しい「夫婦喧嘩」なんてあるでしょうか?
少なくとも夫婦二人だけの場所ならいざ知らず。

 さすがに、バツの悪さにきが付いた課長「すいませんoldboyさん、とりあえずホテルにかえりましょうか」と言い、門外にoldboy君の背を押したのでした。

 結局、お呼ばれは中止に。

 帰りのタクシーの中で、彼女の剣幕の正確な原因を聞くに、その原因が判明したのです。

 当時、ソウルの床屋さんには、いわゆる「風俗床屋・マッサージ床屋」を本業としながら「床屋さん」を標榜する店が多くあったのです。

 キム課長夫婦の場合、そのため自宅近くの奥さんも良く知っている「床屋」しか行かせないのがお決まりです。

 キム課長もずっとこの事を結婚以来、長年、遵守してきたのです。
彼自身、風俗床屋やマッサージ床屋が街中にはたくさんあることは、先刻、知っていたのですが、私oldboyくんと同伴で行くことで、当然「免罪符」が取れるものと勝手に思い込んでしまったようです。

 奥さんにすれば、「このいけ好かない日本人にせがまれ、風俗床屋に連れていかれた」と、綺麗に刈りあがった二人の「オツム・頭」を見ると、イッキョに理性がぶっ飛び「この性悪、日本人め」となり「このエロダンナめ」と相成った、しだいらしいのです。

 「キムさん、今晩どうするの、この部屋に泊まる?」
「イヤ、もちろん帰ります」とホテルのルームサービスで頼んだ、サンドイッチ・アラカルトを食いながら返事。

 やがて彼の大好きな、ボクシングの国際試合が始まると、ベッドの端に背筋を伸ばし、テレビを見いる何時もの姿があった。

 「だいじょうぶやろ!!」とoldboyくん、今になり、なにか楽し気な気分になっている自分に「悪い奴」と頬が緩む。

                了 

              oldboy-elegy
   

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(雑感・雑記帳 No. 15)   default・デフォルト・デフォー・何故か馴染めぬこのIT用語? by oldboy-elegy

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oldbboy-elegyくん、最近「デフォルト」なる言葉をよく見聞きする。

その場所は殆んどIT,PC関係でのこと。

 



 
この記事は、なぜ「デフォルト・default」なる単語が「既定値・初期設定」の意味で使用されるのか、納得できないし、腑に落ちない人(oldboy-elegyくん)の、ひとりごとである。


 IT、PCスキル、殆んどゼロ状態のoldboy-elegyくん、「この機能はデフォルトで設定されています」の記述を見ればなにやら「ホッとし、安心する」マインドの持ち主なのだ。

 「あなた好みにカスタマイズ、しましょう」などの案内があれば「ノーノ~、サンキュー」、このままで結構と有難く辞退させていただくのが常である。

 その有難い「デフォルト(初期設定)」も恐らく
チョコッとしか活用しきれてないのではと思っている。

 今、彼が「はてなブログ」で使用しているページのデザインも、テンプレートの最初に紹介されている、「S
mooth・デフォルト」である。
ほとんどデザイン性はなく、簡潔・明瞭なところが気にいっている。

 しかしそのデフォルト設定も、機能化さすには、それなりの手順が必要で、多くはグーグルで「HELP情報」を頼りに検索し、読み、理解して?、ようやく、オッチラたどり着くほどの体(てい)たらくである。


 ヘルプ情報も「検索の最上位」などの記事など、oldboy君には、あまり役に立たないようだ。

 なぜかって、カタカナ用語が多く、こちらが知りたいツボが「あまりに当然すぎて」か、飛ばされていることが多い。

 G
検索順位、5~6番ぐらいに、「自分もそこで苦労した」的な記事に良く出会う。
そんな人の記事は、なぜか分かり良い、そして文章に優しさと温もりを感じるoldboyくんがいる。


 検索の最上位記事など、スクロールするうちに何処か関係のない、宣伝広告や提灯記事に引きずりこまれた気分になるものが多い。
これもひとえに、pcスキルの貧弱なoldboyくんの、ヒガミ根性のなせるものかも知れない。

 oldboyくん、50年ほど前、京都で法文系のいい加減な学生をやっていた。

 いい加減なのは「彼自身」であり、決して大学がいい加減ではないことを、ここで断っておく。

 取り敢えず「デフォルト・default」なる言葉はこのころインプットされたものだ。

 専攻の経済、商学で出て来る「デフォルト」の意味はすべて否定的要素や不安を誘う意味に使われている。

 そこで「いらすとや」さんでお借りした画像を見てほしい。

 会社のビルが倒壊し、社員が頭を抱えている図だ。
つまり「会社の倒産」を視覚的に表現したものである。

 この「会社」の代わりに「国・国家」としても同じ。「債務不履行」による「default・デフォルト」状態であると表現する。

 随分、ネガティブ(否定的)な言葉だ。
 
 手元にある「研究社のnew collegiate 英和辞典・初版1967 1985第5版発行」を見るが
(名詞)不履行・怠慢・債務不履行・欠席・欠場
(動詞)債務を履行しない、怠る・欠席する・
 などでIT・PC用語の記載はない。

 もっと言えばoldboyくん、この辞書よりまだ20年前に学生をやっていたのだ。

 1985年改訂の版に、現在のIT・PC上の
(デフォルト)概念が不掲載なのに、当然もっと昔人間の彼の脳内の記憶野に存在するはずがないのは道理である。

 あるのは「債務不履行」などの経済用語や「欠席」などの否定的な意味だけである。

 おなじ言葉「default 義務・債務などの不履行」がなぜ「既定値・初期設定」に繋がるのか、oldboy君の古ぼけた脳内では同じ単語として紐づけできないのである。

 つまるところ「AからB」でも「BからA」でもいいから繋がる要素は無いものかと苦悶(少々おおげさ)する
oldboyくんがいる。

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 ここでG検索を試みる。
結論を言えば、「俺の存在は前世紀の遺物」となり果てたようである。

 ただこの「不履行・債務不履行・欠席・棄権」などの否定的、ネガティブな言葉と「既定値・初期、標準設定」が同じ単語「default」で表す、かすかな繋がりを見つけたように思う、がさあどうだろう。

 「default」を接頭語「de」と、名詞の「fault」に分解して考えてみようと思い立つ。

1)接頭語「de」は、古フランス語からラテン語にさかのぼるころの意味合いに「ある物事からゆっくりと離れて行く様子」なる説明を発見。

2)一方「fault」の意味は「欠点・欠陥・あやまち」である。

ここで1、2 を合わせて考えると

「欠点からなにもしないでゆっくりと離れる」つまり「何もしない」事が「そのまま放置する既定値、初期のまま」に繋がったように思うのだがどうだろう。

 この「解」、当たらずとも遠からずの感あり、oldboyくん、すこぶる気にいっている。

 いささか強引ではあるが、自分の中に少なからず「腑に落とし込んだ」つもりにはなった。

 これを発見して、???が?位になり、少しは心穏やかになったようだ。

 結局、結論を言えば
パソコンスキルの貧弱なoldboy-elegyくんにとって、デフォルト設定(既定値)は好ましい存在であるが、多くの人達にとってそれはダサク、かっこが良くないものかもしれない。

IT・PC技術にタケタ人達
 デフォルト=格好悪いこと

oldboy-elegyくん
 デフォルト=楽で頼もしい存在

つまり現代人とoldboyくん達、古代人の「デフォルト」なる言葉に対する「マインド」に大きな違いがあり、認識の相違として存在しているのかも知れない。

  あ~やだやだ、こんなショウもないことについて、あれやこれやと屁理屈をこねまわし、諸兄の明晰な頭脳を煩わす自分、「昭和はずっと遠くになったもんだ」と自戒することしきりである。

 最後に、言葉なんてもの、時代によりどんどん変化するのは当たり前、一つの単語でも、使い方により真逆の意味があっても良いのではと思ったしだいである。
         
          では では

          

            了

         oldboy-elegy
 

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(雑感・雑記帳 No. 14)①仏壇の母にタバコと初めてのカーネーションを ②母はクロ(猫)の救命士

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 oldboy-elegy(19)にて、(母関連の過去ブログ2題)をリンク形式にて先日再掲さしていただいた。
(雑感・雑記帳)として記事化している同様2題も、ここにUPする。

●仏壇の母の遺影に命日、正月、お盆以外、特別に「母の日」を意識して、献花、供物をしたことはない。
親不幸な息子である。

 このたび初めて「母の日」としてカーネーションを捧げたが、これもひとえに、ブログを始めたのがキッカケだと思う。
「ゴメン、カーチャン!!・頭がそこまで回っていなかった」

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●我が家に迷い込んできた黒猫である。
母が付けた名前が、そのまんま「クロ」である。

 その後の彼(クロ)はと言うと、飼い猫と野良の間を行き来する存在で、家人称して「自由猫」とも呼んだ。
ある冬の寒い日、クロ、コタツから「ゆらりゆらり」と出て来たが廊下で「バタリ」
この難儀を救ったのが「我が母」であった。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 ★上記2題「母の日」と「母と猫のクロ」を
 再掲(リンク)する。

      亡き母へのTORIBUTEとして

エントリー2019・05・13

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エントリー2019・07・26

 

 

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oldboy-elegy (19) ①母、俺のワルサの事で、学校に呼び出し・②母の故郷、鹿児島でルノアールの裸婦を見た?

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私oldboy-elegy君、「漱石」先生の猫じゃあるまいが「どこで生まれたか見当がつかぬ」状態なのである

いや~、実際にそうであるからどうしょうもない

このことについては幼少のころから今の今まで自ら積極的にかかわろうとしたことがない。

なぜなら「母が困るだろう」との思いが自分(oldboyくん)の中に、優先事項としてあったからだと思う。

 そうoldboy-elegy君、戸籍上、母の「私生児」で父の戸籍には入籍されていない。

 彼の大学卒業を前に就職の事を心配してか、母が猛烈に父にせまったことを記憶している。

「まあまあ、なんとかなるよ」と彼はその場をとりなすのであるが、実際心底そう思っていたのである

銀行大会社を目指しているわけでもなし、まったり気分で働き、食いハグレしない程度に収入があればそれで良し、上昇意欲ゼロの欠陥学生であった。

 何度か戸籍関係の書類を手にしたことはあるが「熟視、熟読」はあえてしなかった。
なにか母への背信行為のように感じてしまうのである。

 このデラシネ(浮草・根無し草)感は今も続いている。

ブログにも母が時折登場する。

 「フンなにを生意気に」と小さな仏壇の中の母の遺影が、言葉とはうらはらに、唇の端で笑っている。

 

 言わずもがな母子の思いも、駄文のひとつのペイソス(情緒・哀愁)かもしれない。

 

             ごあいさつまで

             

              oldboy-elegy
  
 上記の文はブログ、プロフィール中のoldboy-elegyくんの自己紹介である。

 はやいもので2019・4月からブログを始めておよそ10か月である。
ただ情けないのはその記事の数。
トータル30記事で、月3個のペース。

 多くの方が毎日か、それ以上の投稿、月にすれば30~50記事、それも入念な情報収集から初めて、情熱ほとばしる記事内容に仕上げてUP、本当にビックリさせられる。

 ここで恥ずかしながら、当方も「30記事達成記念10か月にて!?」としていく編かにまとめて、過去ログをリンク形式で投稿しょうと思いたつ。

 カテゴリーを作るのは50記事を超えたぐらいと決めているので、それまでの替わりぐらいの位置づけである。

 冒頭の自己紹介(プロフィール)にて、oldboy-elegyくんと母との関係を再掲したのは、この母子が織りなす記事が結構あるので、まずここから始めようかと思い立ったからである。
以下がそれらの記事である。

今回は、母に登場願った記事の内、初稿近くの2記事を投稿する。

 記事はエントリー順ではあるが、内容は時系列を無視して、自分の生きてきた時空間を思い出すまま行ったり来たりとさまよっている。


       亡き母へのTORIBUTEとして

 
 エントリー2019・4・14
●この記事で母の人となり、oldboy-elegyくん母子の雰囲気と時代を感じ取ってもらえれば嬉しい。

oldboy-elegy.hateblo.jp

 

 エントリー2019・6・5
●母に手を引かれ、鹿児島開聞(カイモン)の彼女の実家?に身を寄せていた時の話
oldboy-elegy.hateblo.jp


             了
          oldboy-elegy
 

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(雑感・雑記帳 No.13)「ほれそれ、あれあれ」頭に描く像は鮮明なれど、言葉が出ない。oldboy-elegy君的対処法?!

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 お正月もoldboy-elegy君の脇をスタコラサッサと走り去った。
いやはや、こうメリハリのない日々が続くと人間の脳髄の退化を早めるのかもしれない。
ちかごろ、脳のシワが摩耗してか、記憶のアウトプットに時間がかかる。
「ほれそれ、あれあれ」など、頭に描く記憶の像はハッキリしているのだが、すぐに言葉になって、口から出てこないのが悲しい。
でも不思議なことに、それぞれの「言葉の名詞・word」が出力不足でも、それらを結びつける「論理の体系」には陰りがないし、より深化したのでは、と感ずることも、なきにしもあらずの自分がいる。(ここでoldboyくんだけが、そう思っているんだろうと突っ込まない事を希望する。)
最後のさいご、言葉が出てこない時は「万能大量記憶復元装置」パソコンの検索と言う手段が存在する。
この点、年寄りにも、文明のおこぼれが頂戴できる、ありがたいことである。

  
oldboyくん、基本「パソコンの検索機能」をフル活用したブログ記事はあまりお好きではない、何故なら、おのれの頭の悪さや、茫洋感が失せ、文章に個性が無くなるように感ずるのである。

 なぜか若い時(幼年・少年・青年期)の記憶は、起った物事はもちろんの事、人の名など含めて今も比較的迅速にアウトプットが可能だが、新しく記憶分野にインプットされた語彙が、瞬時に口からお出まし(アウトプット)にならないのだ。

 それがタイトルに書いた「ほれそれ・あれあれ」と言うことである。

 例えば、oldboy-elegyくんのブログにたまさか登場する「インデラ・コーヒー・カレー店」のママさんの名など「インデラのママ」で良さそうなものだが、今もフルネームで記憶している。

今ここで「書いてみろよ!」と言われれば、即、書けるが50年ほど昔の事ではあるが、少々はばかられるので、書かない事にする。

 「oldboyちゃん、また頼むよ」と、ママさんの声のトーンも耳の奥に残っている。
何種類かの香辛料(スパイス)の入った真っ黒な小さな「木臼」と茶色の「突き棒」を渡される。
カレー用の香辛料(スパイス)をつぶす作業の依頼である。

 インデラのカレーはトロトロ感なしの、しゃぶしゃぶカレーである。
彼女曰く「うちのカレーは本格インドカレーやで」と自慢しておられた。
そう言えば、oldboyくんちのカレーライスはもっとトロミが強かったように思うが、今もって、インド風、日本風の区別を知らない。

 そう言えば近所のガキンチョ友達の家でカレーライスをいただいた事があるが、スプーンを使わず、箸で食ったことがある。

 トロトロカレーもシャブシャブカレーも両方、好きであったことには変わりはない。
仕事(香辛料つぶし)のお礼にとコーヒー券1枚をもらう、たまにカレーライスをいただく事もあった。

 oldboy-elegyくん、インデラコーヒーやカレーライスの話をしたかったのかな?

 いやいや、今日の記事のメイン・ストリーム(主な流れ、主軸)は記憶に就いてのあれやこれやである。

 特段、学術的な要素はゼロで、ただただ己の身に起こった事と抵抗手段などを書き連ねて行くのみ、その過程で「そーや、そーや」の共感や、「そんなことあらへん、あんたボケが始まったんちゃうか?」などの非共感の突っ込みを入れてもらえば十分である。

 oldboy-elegyくん、言葉のアウトプットの悪さに気が付き始めたのは、ここ5・6年のことである。
いや、それ以前から(悪いなー)の感覚はあったのだが、そう気にするほどではなかったし、もともとの彼の脳の素材を考えるなら欲は言えぬ。
ともかく世間一般の同輩の人たちが口にする程度の笑い話の範疇(はんちゅう)であった。
それがいつの頃からか「チョットあきませんな」と自覚するようになった。

 今日のイラスト画像は「メモとメモ帳」である。
何故かと言えば、「人名を含む固有名詞のアウトプットの悪さ」に抵抗してやろうと「一念発起」したのである。

 以前は苦も無く「スラッ」と出ていた言葉が「ほれそれ、あれあれ」状態になった場合、最終的に思い出せず、検索なりで得た正確な言葉と意味と関連情報を「メモ」にして残していくのである。

 実は、この「メモを取る」作業の前にもうヒト行程がある。
忘れた言葉を「片っ端から」メモするなら大変な「量」になるし「時間」もかかる。

 それに、知り合った「図書館仲間」と月の内、数回「茶話会・ちゃかい」と称して、喫茶店にあつまる。
そのおりの「ヨタ話中」にメモを取るわけにもゆかない、他の人の興ざめを誘う事、必定である。

 そこでやるのが、「失念語彙・忘れたことば」を時間がかかってでも、自力で思い出す努力をするのである。
即の検索は「失語症」を助長すると、oldboy君、勝手に思っている。
もともと知らない言葉、事柄はこの工程の俎上にあがることはない、したがって「ほれそれ、あれあれ」状態になる言葉は「以前は知っていて、今もその明確な像が」脳のどこかに存在している時だけである。

  oldboyくん、忘れた言葉を思い出すために「三つの方法」を試している。

①連想思い出し想起法 

 ● 思い出したい言葉の例 「バルト3国の国名」この時点で(バルト)も
あれあれ、それそれの状態。
(この例も、今年(2020年・1・13)の実際のメモ用紙から引用している)

 ●連想できる関連のある言葉(資料も何もなしの状態で)
ヨーロッパの「北海」東南にある3小国・自然に出て来た国名は何故か「ラトビア」のみ・領事、杉原千畝ポーランド、ロシアに挟まれた国々で、「杉原さんは、これら3国のうち、どこの領事」か確定の必要あり。
何故かこの連想段階で、思い出せなかった「バルト」の言葉がフイに「復元」、始めから判っていた「ラトビア」と「バルト」海の語調がなんとなく近しく感じ、感応したのかも。
のこり2国名が思い出せず。
ここで固執せず次に

②ア、イ,ウ、エ、オ 50音想起法
 ひらがな想起とカタカナ想起、この場合は「カタカナ想起法」で実行。
日本語で思い出したいときは「ひらかな想起」、他は「カタカナ想起」で。
目を閉じ、50音ア行から順に「目の裏あたりで字面と同時に今知っていることを「想念」しながらツブヤイテ行く、この場合実際に声を出しつぶやくより、瞼の裏で字面「アならアを」想起する方が良いように思う、たぶん、この方が闇の底に沈んだ「忘れた」言葉と感応しやすいのかもしれない。

 ユックリと「ア・ア」「イ・イ」とやっていく。
この方法ですぐに「ア行のエ」が感応、「エ、エ、エ・・・」とやってるうちに「エストニア」が想起できたのである。
のこり1国は数回、50音を唱えたが、感応もせず、もちろん「復元」もせず失敗。
ここで検索に走っても良いのだが、自力でここまで「思い出した」のだから「ぜひもう一国の名前を」の気持ちもある。

③放置想起法 ここで一度、積極的に「思い出すこと」を放棄して、コーヒーブレイクなどで気持ちを弛緩させる、ただし頭の片隅に悔しさを少し残して。
こんなおり、フイに「リトアニア」なる言葉が口から飛び出すことがある、自力で全て達成の快挙である。

 現実はoldboyくん「リトアニア」が出てこず、不成功であった。
それに「杉原千畝」さんがこの3国のうちの、どこの領事であったのかも正確に知りたかったので「検索」して手書メモとして残したのである。
杉原千畝リトアニアカウナス)が答えの最終の形である。

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    No.1                                           No.2                                         No.3


上の3枚の画像は「記憶をより鮮明に刻印(脳に)するため」検索結果の正確な語彙のみを記入したoldboy-elegyの自筆のメモである。
へたな字を晒して申し訳ない。

No.1(左)
●2017・10・21 土 となっている、鉛筆書きで再生紙利用のメモ用紙のため、コピー状態が不鮮明なのはお許しを。
●検索・メモ取りを始めたのは同年の5月ごろからである。
●このころ、まだ「ブログ」がなんたるかも知らず、単に「失語症」の対策として始めたのである。
●今ではこのようなメモが400~500枚になっている。
●最近では、時おり読み返し、ブログ記事中に挿入することもしばしばである。
●No.1のメモ内容
 陰謀 「陰謀のセオリー」
 メル・ギブソン
 ジュリア・ロバーツ
 (The) Catcher in The Lye  
 by Salinger
----------------------------------------------------------------------------
サリンジャーの有名な小説「ライ麦畑でつかまえて」をプロットの伏線におき、映画「陰謀のセオリー」が進行するのである。
このメモを見るだけでも、記事の一篇が書けそうな気がしてくる。
内容は「雑感・雑記帳」の扱いになるはず。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー ーーーーーーーーーー
 No.2(真ん中)
●上段2段、2018・10・7 (日) の日付
●上2段も鉛筆書きのため不鮮明
●途中からボールペンになっている。
●日付は2018・11・5 (月)
●detox 体内に溜まった毒物を排出させる行為 解毒

●11月6 (火) hostage 人質

●No woman No cry
 もうよせよ、泣くなって
●ボブ・マーリ
 you 'd best do something right now
 今すぐ~した方がいい
●everything's going to be allright
 きっと、うまくゆくさ

(1枚の用紙に3日分記載)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ボブ・マーリ(ミュージシャン)
レゲーの神様と言われる、ジャマイカ生まれ。
no woman no cry の中の一節
everything's going to be allrightはあまりに有名
もうよせよ、泣くなって
きっとうまくゆくさ

なにか泣けるぐらいの感動の一節、メモしなくっちゃ!!となる。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 No.3 (右)

●2019・3月12日(月)
 上から3行、鉛筆書き
●とんかつソース 豚肉

●サインペンで枠に
 杉原左内の娘   (杉原千畝さんとは関係なし)
 根岸流手裏剣の名人
 辻売り ウナギ
 又六
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 じつは、oldboyくん、「池波正太郎」さんの大ファン
 「剣客商売」「鬼平犯科帳」ほか文庫本で出版されたものならほぼ揃って所有している。
ベッドに入り、一篇なら20~30分で読める、oldboyくんの睡眠導入剤替わりをしてもらっている。
登場人物の中でも一番好きなのが「手裏剣の名手・杉原秀とウナギの辻売りを商いとする・又六」の関係である。
ただ残念なのは、この2人が同時に登場するのは2編だけだったと思う。
「池波先生」天界から、この二人の事をたくさん書いて欲しいものである。
たった数行のメモではあるが、これだけで書きたい「雑感・雑記帳」の構想がうかんでくるから不思議だ。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 ブログを書くようになってから、もう10か月になる。
ただし公開記事数はようやく全部で30ほどで、月3篇程度。
oldboyくん、プレッシャーのないのが一番、自分の楽しみとしてやっている。
こんな失礼な記事でも読んでくださる方がジワジワ増えている、ありがたいことである。

 このメモ作りを始めたのが2017年の5月、ブログ記事のためのものではない。
「ほれそれ、あれあれ」にわずかでも抗(あらがう)ためのものである。

 だがこのメモ書き実践、もともと意図していなかったブログ記事を書くための素材として、今では大いに役に立っているが、実際の会話中の(ほれそれ、あれあれ)の改善・即戦力としてはコスト・パフォーマンスも悪く、じっさい、どれだけ効力があるのかは大いに疑わしい。
しかしoldboy-elegyくん、この作業を今後も継続することには変わりはない。

    Viva  「ほれそれ、あれあれ病」に賛

          了
        oldboy-elegy

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oldboy-elegy (18) 今東光さん、おれ達の成人式の来賓記念スピーチで  「ヘソのない女性を見た、あれはいかん!」いったいなんのこと??


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平成も終わり、「令和」だそうな。
その令和元年も過ぎ去り、今はもう2年である。
oldboy-elegyくん、「昭和」「平成」「令和」の三つの元号をくぐり抜けて来た感慨は全くない。
若かりし時からのモットーは「ノープレッシャーのだらだら人生で良し・ただただ戦争の無い時代に生きれたら本望!」だ、など、「世間で言う出世欲ゼロ」にして、たぶんに「他力本願」な奴である。
この目標は?、ほぼ達成の感ありである。

「昭和」など縄文時代の次ぐらいの「意味不明」な大昔のことと思っている御仁も存在するのかもしれない。
考えてみるに、西暦で年代を切り取るとすれば、ミレニアムとセンチュリーの二つの言葉をよく耳にする。
前者は「千年期」後者は「100年期」と言うらしいが、どうも「自分の生きた時代」の証(あかし)がはっきりしない。
この点、日本人は元号でもって表現すれば、その人の「立ち位置・好み・考え方」
などが、なんとなく、分かるような気がする。

 例えるなら、「明治期の富国強兵・大正モダニズム昭和10年ぐらいからの太平洋戦争・昭和レトロ・昭和は遠くなりにける」などがそれで、その時代を生きた人達の「立ち位置と時代の雰囲気」がおよそだが「元号を冠する」ことで推量できる。

 それもそのはずで、天皇と言えども、この世に現実に生きた人であり、元号はその「表象」である。
同時に、我々庶民も同じで「人の寿命」の枠内での事である。
それが「ミレニアムとかセンチュリー」など人を無視し、単に数字ありきの世の区分とは別物で、「文化的ポゼッション」もあらわし、多分に人間的だと思うがどうだろう。

 ただ一つ、自分の年齢の計算が「元号」では難しくなってゆく、ただでも頭の悪いoldboy君、こればかりは「西暦」にくみする。

 法衣に袈裟(けさ)がけのお坊さんのイラスト画像が今日の主人公の「今東光・こんとうこう」さんである。
「こんとうこう」さん、って誰?と思う人も、この「令和」の今日、結構多いのではと思うがどうだろう。

 この方、基本、天台宗のお坊さんであるが、小説家であり「直木賞」作家でもあられる。
もともと若い頃から多芸と言えば良いのか、気の多い方で、小説はもとより絵画なども志したこともあったが本道の天台宗僧侶に専念、絵の道などでは、いくつかの展覧会に出品するも、間もなく「筆を折られた」との事。

失礼を承知で言うなら「おのれの才能のなさ」を自覚されたのかもしれない、「いや~
きっとそうだろう」

 関東は横浜の生まれで父(船乗りにして船長)に連れられ神戸に来たが、
その時、入学した学校が、関西の私学の名門「関西学院中学部」であった。
しかし、彼、この学校を「諭旨退学・ゆしたいがく」となっている。
ここらあたりから、だんだんとoldboy-elrgy君の知る「今東光先生」らしくなっていく。
「ゆしたいがく」とは何ぞや?「たいがく」は「退学」で学校をやめることである。
学校をやめる理由にはいろいろある。
①学費が払えない。
②所定の試験の成績に達しない
公序良俗に反する言動、振る舞いが見られる、など

 はっきり言うと「諭旨退学」とは、本人と保護者に理由を説明し、「強制的」に学校をやめてもらうことである。
いったい「東光先生」は何をやらかしたのか?
関西学院」はキリスト教プロテスタント)系の学校で、牧師の娘に、今風に言えば「ちょっかい」を出した、のが、退学の原因であるらしい。

 しかし、oldboyくん「東光先生」を弁護するつもりはないが、このはなし何か、「腑に落ちない」思いがある。
戦前の「中学」は男子のみで女子はいない、就学期間は5年、年齢は12才~16才までである。
お相手の女子は、もちろん、女子禁制の中学部にいるはずがない。
ならば、考えられるのは当時「女子高等女学校」なる課程が、中学校同様12才から「4年制・5年制」として存在していた。

 このような事を考えるなら「今(こん)先生」の片思いだけでは、決して「どうにかなるものではない」し、女性の側の「今先生に対する、何か(恋慕など)が無くては、成立しえない話なのであるまいか。
その彼女が「牧師の娘」で、この牧師がなんらかの「関西学院」関係者であった事を併せて思うなら、「諭旨退学」と言う名の処分の裏の事情がなにやら見えてくる。

 ところがどっこい「今先生」、「関西学院・諭旨退学」のあと、同じ兵庫の県立、豊岡中学校に入学するも、地元の「文学少女」と「その仲」になり、これまた「退学処分」となる。
今度は、「文学少女」をと聞くと、「今先生」の悪意とはいえないまでも、なにかしらの意思を感じて、oldboy君、彼をかばう気にはなれない。
しかし、さすが「今東光・こんとうこう」先生、中学時代を通じて、2回の退学、それも2回とも「女性」がらみ、が原因なのが、「いかにもの」納得感が嬉しい。


 「今東光先生」この後、学校と名の付くところには入らず、全て独学であったらしい。

 そんな「今東光さん」、長じて、天台宗の仏門に帰依し僧侶となり、戦後、昭和26年(1951年)に八尾市の東端の山本町にある「天台宗末寺の天台院」の住職として来られたのがこの地「河内」との縁の始まりで以来23年間の長きわたり、この地の住人として過ごされたのある。

 「今先生」、「河内」入国の折の齢は、すでに50才を幾分過ぎたころのことである。
それまでに、天台宗の入山(僧侶になる)修行は厳しく、比叡山での勉学、僧侶試験、などの関門を突破されたのである。

 その後、文筆活動は中断されていたのが、この天台宗叡山の末寺・天台院の住職として特任されてから、「河内の歴史・河内人の気質・風土・言葉」に接し、再び彼の作家魂に火が付いたのである。

 彼、中学時代での「女性関係での退学処分、それも違う学校で2件」長じて「無類の喧嘩好きで無頼漢的素養あるも、良い意味での自由人」などの、もともとの彼の内なる人格が、この地、「河内の人々と風土」と合体した時、彼の身に、ある種の「化学反応」がおき、「今東光」としての「書き手」に、新たにエンターテナー的要素が加味された瞬間だったように思う。

 この河内・八尾・の天台院の住職期間、昭和26年(1951年)~昭和50年(1975年)の23年間が文筆家としての1番の高揚期であったのかもしれない。
彼の多くの著作の中に、いわゆる「河内もの」と言われるジャンルがある。
作品名で言うと
「悪名」「闘鶏」「悪童」「こつまなんきん」「河内風土記」「おのろけ説法」
お吟さま「河内フーテン」「河内カルメン」・・・・エトセトラ
おいろけ・喧嘩・河内の風土・河内人・などがその小説のモチーフである。
中でも、「お吟さま」は1957年、直木賞・受賞作品でもある。

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 さて長い前振りであったが
このブログのタイトル「今東光さん、oldboyくん達の成人式来賓の折のスピーチが「へそのない女を見た、あれはイカン!?・いったいなんのこと?」を読み解くためのものであり、「さもありなん」と思っていただくための「導入部」なのである。
それゆえ彼の基本的な「人と成り」を知っていただき、「河内・八尾」の風土にインスパイア―された彼の作品(小説・映画など)がひろがり、同時に、この「河内」の印象も「良きにつけ、悪しきにつけ」拡散していったのです。
とくに言葉としての「河内弁」は最悪です。
むすめさんが話す「大阪弁」はミミズラにも良く全国的にも、そう悪い印象は無いようだが、「河内弁」としての男言葉の「印象と評判」は最悪です。

 「オンドレ・ナメチンケ・ヨコズラ・ヒッチンド・ワレ」
この言葉、あえて訳さなくてもほぼ解るかと思うので、このままにしておきます。
oldboy君が思うに、「河内弁」の特徴は「大阪弁泉州弁・和歌山弁」など語尾が下がり気味になり、滑舌の悪さが気になるのですが、何故か「河内弁の男言葉」の活舌は言葉の語尾までしっかりしたものがあります。
それが「われ」言葉を強調してるように感ずるのですが、どうでしょうか?

 さて八尾市としても、「わてが町の全国区の有名人で文化人(河内では珍しい存在?)に、「成人の日」の特別ゲストとしてお出ましを請うたのも至極当然の成り行きであったろう、と思います。

 これで「今東光さん」が「河内・八尾市」の成人式・来賓スピーチの壇に居られた経緯を「およそ呑み込んでいただいた」ことと思う。


 市長か役所の担当者か知らないが、恐縮のしたり顔で「時間はこれぐらいで、その上 (今先生の河内物の小説を読んでいるせいか)少々危険を感じながらも「もうスピーチの内容は先生におまかせで結構です」などの依頼の様子がoldboyくんには、なにやら目に見えるようです。

 oldboyくん、本当を言うと、この日の「先生」のスピーチのこの文言「へそのない女性を見た、あれはいかん!」のみ鮮烈に記憶していて、他の訓話的おはなし、は記憶にはありません。

 上に、ラインダンスのイラスト画像を貼りつけたのだが、これであらかた察しがついた方もおられるかもしれない。

 このイラスト、若い女性のレヴィユーにおける「ラインダンス」の画像である。
それも終戦後20幾年ぐらいの「宝塚音楽学校」のラインダンスの図と思って頂きたい。

 「東光先生」がいかなる経緯で「宝塚」に行かれたか知る由もないが、
難関な試験を突破して入学された、若く、美しく、躍るような何十人もの女性の肢体がタップを踏みながら、ラインダンスをする光景には、「先生」ならずとも、ココロオドルものがある。

 さてここで先生、眼前の踊り子さん達を見て「あれ!おや?」と、自分の「美意識」にそぐわない、ものを発見されたようです。
当時の宝塚のラインダンスの衣装がどんなものかは分かりませんが、先生の言葉から推察するに、最低、おへそが見えてもオカシクないものだったはずです。
ところが、ところが、それが見えなかったとおっしゃっているのです。

 原因は衣装の下に、ベージュと言うか、肌色のタイツ様の肌着を付けていたのが、真相のようです。
昔も今も「宝塚音楽学校」のモットーは「清く、正しく、美しく」で体現されているのです。

 このことが、「東光先生」の美意識にはそぐわないようでした。
そこで(当然、見えるものが見えないのは、不自然だ)となり、あの発言に至ったのが、その経緯であり、真相のようです。
「へそのない女性を見た、ありゃいかん!」の「お話」は本音だったように思えるのです。
これが「新成人」にたいする言葉としてふさわしいものかどうかより、実に「今東光」さんらしいものだったとoldboy君は思うのです。
なぜなら、半世紀も経った今、この一言のために、ブログを書くはめに陥った老いた男が一人ここにいるのですから。

 おへその事は別にして、人間の肢体、四肢のバランスは不思議なものです。
昔、大学生のころ、友人O君の下宿先の寺、観智坊の住職に案内され「東本願寺」の観光客が入れない奥域まで入った事があり、そのおり、広い、畳敷きの大広間に足を踏み入れたことがありました。

 その大空間には、一人の方がポツネンと仏殿に向き合い座っておられたのですが、薄暗い中の彼のシルエットを感じるだけでどんな方かは判然としません。
ただ言えることは、その座っている状態や雰囲気になにか違和感があったことは否めません。

 ちょうどその方、お祈りを終えたようで、立ち上がらずに、両手を畳の前に差し出し、体が少し遅れて滑るように付いて前進されるのです。
そう、どうも両足がないようなのです。
さきほどの、座った姿勢の影に「なにか違和感を感じた」のはこれが要因だったのでしょう。

 薄明りの中の、座っておられるシルエットを見ただけで、なにかが違うと、感じる人の脳や目の能力、不思議なものです。

 ましてや「東光先生」が宣う「あるべきおへそがない」のはもっと違和感が強烈だったかも知れません。

  因みに、「今東光」さん、「OSミュージック」の「ストリップショー」の企画・演出を担当をされたこともある、いかにも彼らしい。
もちろん、レビューにおけるラインダンスは「おへそ」は見れたはずです。
見ていないoldboy君、返す返す、も残念の限り、の気持ちです。
すこし俺、エロじじいぽくなってきたようである。

 最後に二度目の奥様、きよ夫人の述懐でこの駄文を終えることにする。

「本山(天台宗延暦寺)から給料がでるわけでもなし、お布施も30円ぐらい、
今(こん)の印税あっての暮らしでした。
檀家の話は喧嘩・博打・夜這い(よばい)・女郎(じょろ)買い、そればかり、NHKはじめ放送局が取材に来ても放送(録音)できない状態でした」・・・ウィキペディアより

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(雑感・雑記帳 No.12) 除夜の鐘、騒動記・「うるさい、騒音だ!」との声。 いつもの通り「独断と偏見でもって語ってみる」 by oldboy-elegy

 

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 oldboy-elegyくん、「さあーて、どこから書こうか」と思案中に、唐突に「木枯らしとだえーて、さゆる空より~・・・」の一節が機能障害一歩手前の脳に去来。たしか、文部省唱歌の「冬の星座」のはず、さっそくG検索を実行。ふだん検索で固めた(文)はoldboyくん、お好みではないのだが、なぜなら少々の「ボンヤリ感の漂う文章」の方が「自分らしく」て「よかろう」と勝手に思っているのです、ハイ。
ありました、ありました、この歌詞の1番のうしろの方に「ものみないこえる、しじまのなかに」のしじま」の部分です。
除夜の鐘→ご~ん→深夜→静寂→しじま→木枯らし途絶えて→そして
「冬の星座」へと連想、そしてここに行き着いたようです。

 
この「しじま」、漢字でも「静寂」とするらしいのですが、それも「まったくの同義語」でもないようです。
そこで、申し訳ないのですが、oldboy-elegyくん的に以下のように解釈させていただきました。

 「静寂」は「おのれが現在いる、近しい空間」の静けさで、五感で感知できる範囲のもの。
「しじま」は「はるか、自分を離れて、天空から宇宙まで」を含む静寂で、五感を離れ、心で感じるもの、とさせてもらいます。
そうすれば、「しじまのなかで」の前節「ものみないこえる」の、作詞の意図がはっきりするように感じるのです。
「ものみないこえる」は「者、皆、憩える」で、「人間を含む、動植物や物、存在する全てが憩える」と解釈するなら、「天空・銀河、果ては冥界」までもアリかなと思えるのです。

 oldboy-elegyくん、およそ50年前の大晦日のお話です。

 夜具(当時せんべいふとん)に入り、枕元のラジオも消し、部屋は真っ暗闇の状態です。
身も心も、外界と一体となり、静寂の中に在り、ある意味「至福」の時かも知れません。

 「うむ?!」とおよそ50年後の今、思う事があったのです。
時空を行ったり来たり、申し訳ない。
「そう言えば、俺、生で、除夜の鐘、聞いたことないなあ」この事です。
自宅のあった「河内」のこのあたり、ほんの近場に、真宗系の大寺院が二つあり、中堅寺院や末寺の坊などを入れると無数にある土地柄なのに。

 oldboyくん、実家を離れたのが、二十歳過ぎで働き始めたころのことである。
すぐ近場に大寺などあったが、記憶に鐘撞堂(かねつきどう)や鐘の存在は知らない。
本堂とは別に境内の敷地脇にあった建物は決して鐘撞堂(かねつきどう)ではなかったはず。
3階建てぐらいの楼閣のような建物で、当時、1階にはソロバン塾があり、じっさい、oldboyくん、母の強要でここに入塾したことがあるが、1、2か月で強制退塾とあいなったのです。
「こらoldboyうるさい!!」と、一喝、読み上げ算用のテキスト本を投げつけられ、これを反射的にハッシと受け止め、みんなの喝采を集めたのが、原因だったようである。
かようにここも、けっして鐘撞堂(かねつきどう)ではなかったはず。

 このあたり、寺がたくさんあったのに、なぜ除夜の鐘が一つとして鳴らなかったのか?
今思い起こしても、原因はこれしか考えられないのだが。
戦時中、半強制的に金属器などを「お国のためと」お上にさしだした時期があった。
梵鐘(かね)などは金属の王様、これ1個で鍋、釜いくつ分に相当するのか見当もつかない、そんな鐘が鐘楼に無事にぶら下がっている訳はない。
そして、戦争も終わり、そんなに経っていないころ、国中が貧乏の極致、失った鐘の再設置など、考えもしないし、食うだけで精一杯の時代であった。

 2、3Km先に国鉄(JRではない)の貨物専用の広い操車場があり、冷たい冬の夜間など、貨物列車の編成中の連結器の音が「ガチャ・ガチャ・ガチャ・ガチャ―ン」と「静寂」を破り、聞こえてくることはoldboyくん、記憶にあるが「ナマ除夜の鐘」の覚えはない。

 「天空の凍てついた夜の静寂(しじま)」を緩やかに破る、鐘の音を一度は聞いてみたかった思いは今もある、それも真っ暗な自分の部屋の寝床の中で、きっと心地の良いものだと想像する。

 はてさて、21世紀のこの時代「除夜の鐘」が「うるさく、騒音」に聞こえる人達が結構、いるそうである。

 札幌のある寺院、苦情のため、今年初めて、除夜の鐘撞(かねつき)を中止するはめになったらしい。
鐘の音が「ある種」環境破壊?であり、自然音でもなく人為的なものであり、もっと言えば「騒音いがいの何物でもない」と電話による苦情が入るらしい。

 普通に考えれば、現代の建築物は昔に比べ、気密性に優れ、防音にも配慮された造りなっているはずである、にもかかわらず「除夜の鐘の音」を騒音と感じる人が増える傾向にあるというのである。

 この人たちを、あながち「文句言いのモンスター」と決めつけるのは短絡的で、
本当に「騒音」として聞こえている可能性もありうる。
本人にとっても「あんなうるさい」を「情感あふれる日本の音」と愛でる人の気持ちが、心底、理解できないのかもしれない。

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 たとえば、セミの声だが、日本人は幼い時から種類別の鳴き声(擬音として)を結構表現できるのが普通である。
例えば
ヒグラシ(カナ、カナ、カナ) 
ツクツクボウシ(ツクツク、ボーシ)
クマゼミ(シャー、シャーシャー、シャワシャワ)
ミンミンゼミ(ミーン、ミーンミーン、ミンミンミン、ミー)
アブラゼミ(ジャー、ジャー、ジージー
ニーニーゼミ(チィーチィーチチチー)
などなど、鳴き声のオノマテぺ(擬音・擬態語)はoldboyくんが勝手につけたが、ご不満の方もあろうかと思うがおゆるしを。

 まずセミの(種類別のなまえ)(姿かたち)(鳴き声)(出現時期)など答えられる日本人は結構おられるはずである。
欧米人、とくに白人では、クマゼミの集団がうるさくそこで鳴いているのに、聞こえない、聞き取れない人も大勢いるらしい。

 なぜか、多くの外国人と日本人とでは、これらの「音おと」を処理する「脳の認識する分野」が違うのが原因であることが分かっている。
日本人は左脳の言語を司る分野で聞き、処理し、多くの外国人(アジア人も含む)は右脳の音楽、音に対処する分野で聞いているのだそうな。
言っておくが、これらのことは「遺伝的素因」とは関係はなく、幼児から大人になる過程で付与されるものらしい。

 あと虫の種類とその鳴き声も同じで、

これだけの分類ができるのは、学者で無い限り「日本人」だけのようである。

 また「松尾芭蕉」の有名な俳句で
「静けさや 岩にしみいる 蝉のこえ」と言う超有名な俳句があるのだが、
欧米人にこの歌を説明しても、理解してもらうのは、不可能に近いものがあるようだ。

 説明で一番困難な部分は
うるさい蝉の音(声ではない)が、なぜ「静けさ」と同居しているのか理解できないこと、またそれ以上に「蝉の声」自体が聞こえない人もいるようで、よしんば聞こえたとしても「雑音・騒音」ぐらいの認識であるらしい。
ふつう日本人なら、「山寺に向かう芭蕉が途中、「ニイ、ニイ」と鳴くニイニイゼミか「カナ、カナ、カナ」と鳴くヒグラシあたりを想像すると思うがどうだろう?
蝉が鳴くことで、うっそうとした木立のなかにある小さな池にカエルが一匹飛び込む姿を見て「静けさ」が深化し、強調される感覚は欧米人には理解してもらうのは不可能かもしれないし、「それがどうした」となりかねない。

 このジレンマが日本人同志でも起こりうる可能性が今のグローバル化の世、有りうるのは、当然かもしれない。
どちらが正しい、間違っているの問題ではない、と思っている。
今後、「除夜の鐘」を聞き、これを「好もしく」聞く大きなグループであるはずの、いわゆる「日本人」の中にも、徐々に「騒音としか認知できない人達」の存在が増加していくことは確かなことかもしれない。oldboyくん的には、残念ではあるが。

 セミの「声」や虫の「音・ネ」を、聞き取れない「日本人」、あるいは聞こえても「騒音」いがいのなにものでない、と感じる「日本人」。
いくら説明しても「静けさとセミの音(おと)とが一つの句に同居する感覚を理解できない「日本人」、も、少しずつではあるが増加傾向にあることも「事実」なのかもしれない。

 しかし、これらの現象(セミの声、虫の音が聞こえない、聞こえても単に騒音)は、世界的にみればごく普通で、日本人の方が特殊なのだそうな、あとわずかに、南洋諸島の幾つか国、島々の人々の中に日本人同様に左脳の言語野で聞く人々が存在しているらしい。



 そこで、ここからは、いつものoldboy-elegyくん的解決方法(すこしおおげさ)を「独断と偏見」をもって提示してみたいと思う

その根拠はある著名な心理学者の研究を参考にしたものである。
「除夜の鐘」と「心理学者」を結び付けた研究や言質(げんち)をまだ知らない、もしおられたらゴメンナサイ。

 心理学者(カール・グスタフユング、1875~1961)その人である。
多少前後はあるが、「フロイトアドラー」を加えてスイス生まれの「心理学者3人衆」である。

上記の黒線太字の部分訂正いたします。当方の勝手な思い込みで記事化してしまいました。申し訳ありません。 
ユング=スイス生まれ フロイトアドラーオーストリー生まれ
             訂正日 2020.03.31


フロイト」などは「夢判断」などで有名だが、現在の心理学者の殆んどは、この3人の研究、業績を基本とした系譜に属していると言われている。

 oldboy-elegyくん、この3人の内、特に「カール・グスタフユング」の言葉に注目している、と言うより、もともと自分に一番しっくりする「考え・論理」だなと思っている。

 「民族による音や音楽にたいする感じ方の違いは古代から伝わる神話や伝説、芸術など、人類の心の中で脈々と受け継がれてできたもの(集合的無意識)を土台に、その上に(個人的無意識)が存在し、その最上部に固有の(意識)が形成される」と言うものである。

 個人の心理的要因、形に「社会や民族」と言う概念を基本に据え、人の心を普遍化し、イメージパターン化、した初めての心理学者である。

 考えてみなさい、もしあなたが今日、明日にも結婚するとイメージしてください。
あなたと、彼(彼女)は今までの数十年間、全く違う環境で生活してきたのです。
育った土地と風土を始めあらゆる環境と経験は違ったものであったはずです。
それぞれA国、B国としても良いでしょう。

 しかし、ひとつ屋根の下に住んだ場合、今まで知らなかった、相手の言質(げんち)、食事、行動など、になにかしらの「違和感」を感じてしまうことも多々あるのは事実です。
小さな「文化」の衝突です。

 あらゆる育ちの環境の違いが、「ユング」の言う、深層に「集合的無意識」として、自分も気がつかない心の形質が育ち、備わっていたはずです。

 現代の若者はある意味、「結婚したら発生する不都合にたいする」予知能力が、高度の情報化時代の中、見えているのかもしれない、それも過剰に。

 ともかく、結婚・同居の不都合の発生は「集合的無意識」が出会いとして「意識化」される。
残念ながら、これを是正する方法は、話あうことしかありません。

 いえることは、ある個人が不快に感じる「自然音・環境音・騒音)に出会った場合、個人が既成社会の(集合的無意識)を壊すことは出来ません、ただし今ある既成社会を形成する大部分の人々は、彼を文句言いの「怪物モンスター」「不寛容の人達」として対立せずに「実際そのような人達は存在しているのだ」と認識し、誠意を示し、科学的に説明し、少しの時間を拝借し、緩やかな納得を得るしか方法はないのかと思うのだが。
どうだろう。

 根本から解決はできなくても、「了解・納得」は可能であるはずと思うのだが。

 グローバル化・急激な情報化文明は、予想もしなかった新しい文化の概念・ストレス・衝突を生むのかも知れない。(文化の交流)

 よく「日本人」はこの国の良い事の一つに「明確な四季」をあげる。
もっと言えば一年を「70節季」に分ける「粋人」もおられる。
俳句の「歳時記」の世界の事だが、この「除夜の鐘」もこの内の、「日本人」が長年にわたり育んできた「心象風景」の一つである。
やや大仰(おおぎょう)に言えば上記の「70節季」一つ一つ「除夜の鐘」同様に、危機に晒されていくのかもしれない、残念ではある。

 だが一概に嘆いてばかりの一方通行の概念ではない。
近頃、「日本人」にしか理解が難しい「心象」が様々の形でイクスポートされ始めたのである。
例えば、「まんが、アニメ、小説、映画」「日本のさまざまの節季行事・歴史」など、ユングの言う「古代から伝わる神話・伝説・芸術などの、人々の心の中で脈々と受け継がれてきた集合的無意識」から生まれ、具現化された「意識や心象風景」が発信されている。

 ここで取り上げた「虫の世界とそれを取り巻く人間との世界」を描いたアニメ、「蟲師」なども外国に紹介され、それなりに、好評なのだそうな。
蟲の名、蟲の音を愛でる人達、が日本以外の地に現れてもおかしくない時代なのである。
ひょっとしたら、外国の地でダンナが「虫かごで蟲を飼い、あ~、良い音(ね)だ」などと愛(め)でていたら、それこそ「離婚問題」になり「訴訟」の対象になる時代が来るのかもしれない。
「除夜の鐘をうるさい・騒音だ!」と対をなす話である。

 こうなれば、最終、文化の「相互理解・mutual understanding」しか手がないのかもしれない。
想像するに、ある意味、可笑しくも楽しい世界で、対立と憎しみそして不寛容な方向には絶対向かってはならないで欲しいものだ。

 


 いやはや小難しい世になってきたもんだ、「ノー・ストレス」を、生きることの基本としてきたoldboy-elegyくん、「やれやれ、つかれる」の思いが本音かも。


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oldboy-elegy (17)茫洋の君(きみ)と、50年以上前の教室の風景そしてその現実

/> 同じ授業でも、今からの話は、体育のペーパーテスト中での守山君との、

 

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彼、守山君(仮名)とは中学、高校と同窓で同じ学校に通った。
その茫洋(ぼうよう)とした風貌と行動はoldboy-elegy君にとっては、すこぶる好ましい人物として映っていたのである。
「茫洋」と言う言葉、多分にフレキシビリティ(柔軟)な言葉で、使用する場所や場面で肯定的側面から否定的な感覚まで幅広く表現することができるようである。

 勿論、ここではoldboyくん、肯定的な意味で使っている。
「広々と果てしなく、心もゆったり、ただ多少のぼんやり感があるのは否めない」と、これがoldboy君が思う守山観である。

 ただし彼、学科・教科に関してはすこぶる優秀なのである。
俺などより数段上位のはずである。
そんな彼が時折見せる信じられない位のバカげた行為と馬鹿さ加減が、その茫洋感と重なり、たまらない魅力を醸し出すのかも知れない。
クラスでこのような見方をしていたのは、恐らく、oldboy-elegy君一人だけだったはずである。

  まず守山君、物事に取り組む姿勢は常に真摯で真面目なのである、この点、やらないで済むことなら、やらないのが一番と思っている不埒者なのがoldboy君である、こういう性格、自分自身、良く判ってるだけに、余計に彼の事を好もしく思えたのかも知れない。

 そんな彼が時折見せる「茫洋感」の負の部分でもある「ぼんやり感」を皆にお教えしようと思う。
重ね重ね言うが、彼の事を「諫めて」いるのではない、oldboy君、その事も併せて彼(守山君)の事を好もしく思っているのである。
否!、もっと言えば、ときおり見せる、「信じられぬ行動とぼんやりブリ」と普段の「成績優秀、生真面目」な彼との、その落差がたまらないのかもしれない。

 まづ、最初の「ぼんやり話」と言うか、それを通り越して「うすらバカ」の極致と言えるあきれたものを一つ披露しょう。

 イラスト画像は、見た通り、なんの変哲もない教室の画像である。

 そのころ、そう今から50年以上昔の教室の風景も、さして現在(今)と見た目は変わらないと思うがどうであろう。
学校も生徒の急増のため比較的新しく建てられた校舎である。
ただここに生身の生徒を放り込めば、その光景は一変する。
一番の違いは、何といっても、その当時の生徒数の多さでないかと思う。

  記事の内容は勿論、守山君の事ではあるが、もう一つ、50年以上昔の教室の現実を合わせて記述して行こうと思っている。
そこに繰り広げられる滑稽にして、同時に哀しいドタバタ劇を見て欲しい。
同年配の方には懐かしく、若い人達には遥か昔の非現実の世界を感じていただけたら嬉しい。

 今では国からの指針、指導もあるが、およそ1クラス、40人前後で、田舎や過疎域に行けばもっともっと少人数のはずである。
それがoldboy-elegy君の時代、一クラス、50人以上は普通であった。

 
英語としての時間は週に4~5時間設定されているのだが、そのうちの1時間はクラス人数が60人を超えてしまうのである。
英語の時間に限って週1回、何故そうなるのか想像できます?
見当のつく方は多分年配の方だと思うがどうだろう。

 この教室のイラスト画像からは想像もできない当時の現実があったのです。


 そのキーワードは「就職」と言うことばです。
貧困や、親の無知(特に女性の教育不要と考える)などで高校への進学が叶わない人達が1クラスに7~8人はおられたのである。
ましてや国や自治体の無料化や助成がある時代ではない。

 oldboy-elegy君の住まうこの地域特有の現実でもない、多少の数字や率の違いはあるとは思うが、おしなべ、国中がこうであった、これが時代である。
集団就職」と言う言葉や映画「三丁目の夕日」がモチーフにする時代である。
因みにこの映画、「鈴木オートのたった一人の従業員、星野六子(むつこ・女優は堀北真希さん)」が青森からの集団就職列車に乗って東京にやって来る」設定になっている。
ここで感心したのが「六子」の名前である、実に時代背景を感じる。
女ばかり6人姉妹もありうることだが、兄弟・姉妹、含めて6番目と言う事だと思う。
この時代、5人、6人の兄弟の数は当たり前とは言えないまでも、そこまでも珍しいことでもなかった。

 oldboy-elegyくんの前回のブログ(雑感・雑記帳 No.11)の人口動態グラフの内の「合計特殊出生率」を見ると、最高値は(昭和24年・1949年)で「4.32」となっている、一人の女性が生涯で出産する子供の数の平均の指数である、したがって「六子」もムベなるかなの感がする。(このブログ、本記事下にリンクあり)

 oldboy君も社会に出たころ、九州は宮崎駅で「集団就職専用の列車」に遭遇したことがある。
寝台列車でもない、普通仕立ての4人掛け、今思えば古式蒼然とした車両である。

 行き先は20時間以上先の大阪であったと思う、
駅のホームは学生服姿、セーラー服姿の未だ、いたいけな容貌の多くの子供たちと、これを見送る親や先生など関係者でごった返していて、あちらこちらで人の輪ができ、その雰囲気は 嬉しさや、楽しさとは無縁のものであった。

 同時にoldboy君、自分の会社の工場女子寮の人達のたくましさを思い浮かべた時「今は不安だろうが、きっとやれる、やれるよ、心の内で励ましたくなったのも事実であった。
やがて「蛍の光」が流れ「さよならテープ」もちぎれさり、ホームでの悲しみの喧騒も終わる。
因みに、oldboy-elegy君、列車ホームでの「さよならテープ」を見たのは、この宮崎駅が初体験である。

 ひょっとしたら、oldboy君の会社に来る子も居るのでは、一瞬、思ったが、九州の労務出張所は奄美と聞いた事があり、鹿児島駅はあっても宮崎はないなと思い直した。

 oldboy-elegy君も母が居なければ、多分、ここで「就職組」に在席していたかも知れない、いや、きっとそのはづであったと思う。

 小学1年生の入学式を、oldboy-elegy君は経験していない。
ましてや幼稚園なるものも知らない。
小学校は2、3か月遅れで母に連れられ直接教室を訪れたのである。
床に白い大きな紙(模造紙)を何枚も床に広げ、子供たちが四方から寄ってたかってお絵かきの最中であった、勿論、oldboy君もこれに参加したものである。
これが彼の小学校の入学式であった。

 このことはoldboy-elegy君のブログ(雑感・雑記帳 No.1)母の日、にて既出である。

 いま思えば、教室の後ろで一人佇む母の顔に安堵の表情が見られたかの様に思うのも不思議な事ではない。

父は当初、自分の生業である「歯ブラシ職人」にoldboy君を仕立てようと思っていたふしがある。

 ここで本文に戻す、当時、この中学校での就職組の3年生は、週1回、「職業」なる教科があり、これを1時間捻出するため、英語を1時間削り、これにあてていたのである。
余分の教室がなかったのである。
つまり、就職クラス(1)・英語クラス(2)の3クラス(3教室)を一編成として同時間に行われるのである。
これに実人数をはめていけば、50人クラスx3・で総員150人、就職希望者がクラス8人とするなら8x3・の24人となる。
ゆえにに(150人-24人)÷2=63人(英語の1クラス人数)となる。
実際は一クラス、50人を超えていたので、もっと多かったはずである。

 英語の時間のクラス人数はなんと(一クラス50人としても)63人にもなるのである。
この日は生徒にとっても地獄である。
休み時間は、机、椅子の大移動で、就職組の教室はガラガラ、反して英語組の教室は通路も設定できぬほどの満員状態なのである。
今、思い起こせば、何気に、楽し気な気分になるが、遠いとおい昔の事である。

 なにか懐かしく、少し哀しい気分で、思い出すままに記事を書いていると、もう一つの主題である「茫洋の君・守山君の事」を忘れるところであった。
<br奇妙なやりとりを記したものである。
試験が中間試験か期末であったかは記憶にはない。
ここでイラスト画像を見て欲しい、クラスの人数は通常の50人少しで、席は俺が窓側の「おれ」と記入したあたりで、彼、守山君は、俺のすぐ前の「もり」と記入した席にいて、テスト中の図と思ってくれ。

 暫らくすると、彼、守山君の様子がなにか変で、当初はトイレでも行きたいのかと思っていたのだが、どうもそうでもないらしい。
何かじっとして居られない様子で、腰を浮かしたり、首を振り振り、終いには自分の頭をゲンコツで軽く叩き出す始末である。
その間、鉛筆はセッセと動いているのだが、すこし気になり「先生に言おうかな」と思い始めたその時、彼、守山君が、答案用紙の裏に何やら書きoldboy君にチラチラ見せ始めたのである。
一瞬、カンニングと思ったのだが、俺が要求したものでもなし、ましてや守山、そんな奴ではない。
先生、教壇から離れた窓際で眠そうにのんびりの御様子です。
書かれた文字は簡単に読むことができたのだが意味が分かりません。
それは「め、な のかたかな教えてくれ」と書かれていたのです。
oldboy君あれこれ質問することもできず、取りあえず言われた通り「め→メ・な→ナ」と答案用紙を小さく破り、そこに走り書き、伸びて来る、彼の手の平に握らせたのである。
するとすぐに彼の挙動不審の体の動きが止み、静かになったのです。

 みなさん、これ一体何だったと思います、試験が終わると、oldboy君が尋ねるより先に両手を合わせて「ゴメン、すまん、実は・・」と喋り出したのです。

 解答正解の「トーナメント」がいくら書いても「トーナナント」になってしまい、「メ」が書けなくなってしまい、あげくのはてに、頭が真っ白になってしまったのが
真相だったようです。

 oldboy君「そんだら、全部ひらかなで書けば」と言うと、はっとして「その手があったか、気が付かんかったわ」、と茫洋の君。

 はてこの行為、解答を教えたことでわなし、カンニングではないわな、と言うことで二人の間で決着したようであるが、みなさんどう思われます?

 このような彼のピンボケ行動は他にもいくつかあるのですが、

運動場で三角ベースの野球(ソフトボール)しているおり、超大飛球を背走しながら、素手でナイスキャッチ、大ファインプレーです。
試合状況は確か1アウト、ランナー2塁、ここで彼なにを思ったのか、キャッチしたボールを地面に叩きつけ、本人大喜びで走って来るのです。
あまりの喜びで、ゲームの状況がすっ飛んだようです。
ボールはあらぬ方向に転がり、2塁ランナー、無事ホームイン、1点献上です。

 もう一つはバレーボールの授業。
当時9人制が基本の時代です。
ポジッションは固定で彼、後衛の真ん中。
セカンドサーブ(一人で2回のサーブ権あり)のボールがバックラインを越えようとしたとき、やおらボールに飛びつき、大声で「アウト」とのたまう。
ボールに触れずに、コート外に見送れば、労せず1点、頂けたのに。
当然、審判は「ホールディング」の判定にてこれも相手に1てん献上。

 書こうと思えばまだ幾つかあるのですが、まあこの辺で置いておきましょう。

 Viva「茫洋の君・守山君の笑顔」そして「超・満員の教室」の喧騒が50年の時空を超え、今もoldboy君の脳裏に、目に、耳に残っている残影に賛。

 最後に、彼の名誉のために報告すれば、高校卒業後一浪の後、見事、公立
の大学に受かったそうだ。
oldboy君など比べて、よほどの根性の持ち主なのである。

                了  
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(雑感・雑記帳  NO.11)    子供たち(花)はどこに行ったの? oldboy-elegy君的「人口動態表」の見方

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内閣府発表の人口動態に関する統計資料です、都道府県別「合計特殊出生率」など興味がつきません。以下にリンクを貼っておきます。

出生数・出生率の推移: 子ども・子育て本部 - 内閣府

※上記のリンク案内、現在では「not found]」扱いになっています。申し訳
ありません。
記事内容は、上記グラフのみでも、通用いたします。
失礼します。 (2022年・04にて付記)

 

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  oldboy-elegy君、幼少のみぎり、大勢のガキンチョ(腕白坊主)の集団の中で生きるすべを学んで?来た様に思う、良し悪しは別にして。

 ブログ記事のいくつかは、その折の事をおもしろ、可笑しく、
そしてちょっぴり哀しく書き上げたつもりだ。
読んでいただいて、何か読者諸氏のためになるような情報があるのかと言えば皆無かも知れない。
食べ歩き?ないない、「本人、おなかが空いた時の食事が最高の御馳走」と思っている節がどこかにある。
パソコンのスキル情報の発信、これは絶対にない、「教わるスキルは山ほ
どある」が。
何か商品情報でも?これはもッとない、「壊れた時が買い替え時」ぐらいにしか思っていない。

 
それでは、何を売りにブログ記事を?
oldboy-elegy君の立ち位置、目的の事なら?、「コーヒーブレイク」のための「お休み処」ぐらいのつもりで書いている、と言えば良いのかな。
「チョットした懐かしさとelegy(哀しさ)」を感じ共有していただければ、それが嬉しい。
また、御同輩の方なら、今は亡き父母の事や、成就を得なかった彼女の事などに「人知れず、寸時の間」思いをはせ、頬を緩ませるのも、一興かもしれぬ。
まあ、そんなところである、自分が思うに、迫力の無い事、おびただしい。

 そして、また新たな気持ちで、戦いの大海原に出航して欲しいものである。

 自分(oldboy君)には戦いの場は似合わない。
これまでの人生、自分にプレッシャーを与える物事からは極力避けてきた経緯がある。
もし、この21世紀に社会人として出発せねばならぬなら、oldboy君、1年、いや数か月のうちに脱落すること請け合いである、すなわち天性の「根性」なしで「グータラ」な御仁なのである。
それが証拠にoldboy-elegy君の「ブログ一行紹介」ではこうなっている。

「ずいぶん長きにわたり、グータラな人生を送ってきたもんです。これからも
きっとこうでしょう、ハイ」

ふざけた野郎である。

 さて今日のトップ画像はいつものイラスト画像と違い「資料画像」である。
それも日本の「人口動態統計」と言う少々重い雰囲気のものだ。

 先ごろ、厚労省は、「今年中に(令和元年)新生児数は90万人を割るのが確実」と発表、これは統計を取り始めて(明治以後)初の事らしい。


 oldboy君のブログを読めば、ワイワイ、ガヤガヤと大勢の子供たちが登場するのが常である。
それに比べて21世紀の現在、彼等が街中や児童公園、広場などで学年に関係なく子供達だけの集団で遊ぶ姿は殆んど、いや全く見なくなったように思う。
たまさか見かけても、親の監視のもとに遊ぶ子たちだけである。


 そこで実際の人口「動態」、つまり「経年」に渡る「実数」を見たくなり、厚労省
(2016年・H28年)発表のこのグラフを記事に貼る事にした。
このグラフ、「出生数」の棒グラフのほかに「合計特殊出生率」なるものが、赤字の折れ線グラフで同時表示され、特異年のみではあるが、実数が記載されている。
oldboy君、「自身の感覚」と「事実」の間に「乖離」があるのか、もしあれば何故なのかとの思いで見たかったのである。

 つまるところ、「この少子化に対する危機的状況」に「政府がどうの、こうの」ではなく、単純に「oldboy君には、この実数以上に子供の姿が見えない」と言う「現実」の「意識と実感」に就いて書いて見たいのが主旨である。

  例えば、(若いお父さん、お母さんが、子連れで歩いてはいるが、その視線の先は自分達の、それぞれのスマートホンに一生懸命)、みたいな事である。
まあ、いつもの「彼、一流の独断と偏見に満ちた」感想だと思ってくれ。


 そこでこの記事のタイトルは「子供たち(花)はどこにいったの?」となっている、のである。

 往年のプロテスト、フォークソング「花はどこへ行った?」をもじったものだ。
「Where have  all the flowers gone」がそれである。
作詞、作曲は米国のフォーク歌手、ピート・シーガーで、後に多くの有名歌手がカバーを出している。
有名どころでは「キングストン・トリオ」「ブラザーズ・フォー」「PPMこと、ピーター・ポール&マリー」、日本人では「加藤登紀子」など大勢いる。

 今の若者たちには、上記の人達すべて「それだれ?」と言う事になるのかな?。

 実はこのピート・シーガー、oldboy-elegy君とは多少にして、大いなる縁?がある、と勝手に思っている。
彼(ピート・シーガー)の生年月日は1919年、5月3日生まれである、1919年を除いて月日はoldboyくんと全く同じである。
ここで「あほらし」と少し軽蔑の念をもって「笑えたくば笑え」、笑うのは自由である。
確率365分の1、稀有なことと俺は勝手に思っている。

 それにoldboy君、昔からの現行憲法の擁護(論)者である。
5月3日は祭日にして休日であることが、その主たる事由で、政治的意味は皆無であるのが彼らしい。

 歌詞の後半は「男たち、どこに行ったの? みんな戦場に行ったよ、それでみんな墓場に入ったよ、それで娘たちは墓場の花を摘んでいったよ」・・・意訳。

 その昔、その詩から強烈な印象を受けた事も憶えている。

 もう一つ「If ,I had a Hammer・天使のハンマー」なども欧米人特有のアイロニーが効いた作品であったように思う。
もし俺が訳詩するなら「天使のハンマー」ではなく、ここはストレートに「俺がハンマーを持ったなら」とするが。

 おまけにもう一つ、これは彼(ピート・シーガー)の原曲ではないが「We shall over come・進もう乗り越えて」も彼とともに、存在感を発揮した曲である。
合衆国60年代、マルチン・ルーサー・キング牧師を先頭に黒人解放のための「公民権運動」の原動力をなす「主題歌」でもあった。
ジョン・バエズもそこにいた。
またPPM(ピーター・ポール&マリー)のマリーはこう言った「社会の変革には必ず、音楽の声が、ともにあった」と。
21世紀のこの時代、歌の好みもあまりにセグメント化(細分化)され、マリーの言うような事が現実に起こる事があるのかどうか疑わしい。

 さて肝心のグラフに戻ろう。
「出生数」とは文字通り、その年に生まれた新生児の単純合計である。
S24年・1949年がベビーブーム頂点の年で新生児数は2.696.638人である。
ほぼoldboy君と同年配のかたがたである。
途中、丙午(ひのえうま)・新生児の厄年(やくどし)や第二次ベビーブームなど、曲折はあったものの漸減傾向に歯止ハドメがかかることはなかった。
最終、右端のH28年・2016年には百万人を切り、976.978人にまで落ち込む
ことになる。
S24年ピーク時の36~37%の水準である。
これが今年・令和元年末には90万人を下まわるらしい。

 それでもoldboy君、超満員の小学校の教室、70人越えの中学校の英語の教室などを経験してきたが、現在の今、数字以上に子供たちが少なくなったと感じてしまうのだが?
 
 これは実数の事より、社会の在り方、有り様が完全に様変わりした事の方が意味が大きいのではないか。
oldboy君、子供の頃、親と遊ぶ事なんてなかった、よしんばあったとしても、年1回遊園地に親の義務感で連れていかれるのが関の山、親は親、必死に働きづめ、こちら子供としても
「かえってアリガタ迷惑」で、その「ギコチナサの感覚」は「いかにも喜んで見せるが」正直、芯から喜んでる訳でもない。
イケ好かぬ子どもである、「どこか太宰」の「人間失格」を思いおこす。

 学校から帰るやいなや、玄関先にランドセルを投げ置き、すぐに外に飛び出し、暗くなるまでヤンチャし、遊びほけているほうがヨッポド良いのである。

 街の児童公園(今では街区公園と言うらしい)から子供が消えて久しい。
ボール投げ禁止、大声を出さない、走り回らないなどの注意書が書かれた街区公園もあるとのこと。
これでは子供達に静かに公園でケータイゲームでもしろと、それなら家でおやつを食べながらゲームをし、時おり親に勉強を強要されているほうがましかと思ってしまう。
 
 今の子供たちに「この広場自由に使って遊んでも良いよ」と言っても、ただただ戸惑うばかりで、あまり嬉しい事では無いのかもしれない。

●まず、他人との生身の接触がなく安全なのは自分の家
●住居形態の変化 特に都会では、戦後一貫して地方からの流入者は中層、高層のアパート、マンションに居住。隔絶された隣家、近所、町内、地域を長年にわたり形成
●両親の共働き、による子育ての物理的困難さ。
●極端な都会集中、東京一極集中と言っても良いかも
●PC,スマートホンの発達、それとともに、SNSによる人間関係の疑似体験(自分に合わないものは初めから関係は持たないし、煩わしい事は簡単にボタン1個で拒否・消去できる世界)
●人間同士の生身の接触は初めから「なかよし広場」、合わないもの、やっつける相手はいくらでもいる、ゲームの中に。
●大人も、同じく、この環境の中に入る、「帰宅して、少しでも気に入らない人」と「同居」するよりSNSの向こうの気の合う人とコンタクトする方が楽しい。そしてセックスレス化。

 こう列挙すれば、子供が危険を冒してまで、外に出る必要もないし、ある意味自己完結も可能である。
このように見て来ると、oldboy君、数字以上に子供達が眼前から消えてゆくのを納得せざるを得ない。

 結論として言えるのは、「文明の発達、進化が、これまで余り影響を受けなかった文化(民族としての美徳や特性)と言う牙城にまで変化をもたらし始めたのかも知れない」

 もう一つの聞きなれない言葉が「合計特殊出生率」であるが、一人の女性が生涯に産む新生児の平均の数である。(赤い折れ線グラフの部分)
中でもエポックメイキング的な年、二つのベビーブームや、ひのえうまの年、最低率の年などがピンクの棒グラフで記載されていて、それぞれ白枠に実数が書かれている。
条件として15才から49才までの間と言う縛りがある。

 夫婦2人で2人の子、大まかに言えば、かろうじて「人口の維持」が可能な数字で、「合計特殊出産率 2.0 」と言う事だ。

2016年・平成28年では
全国平均(1.44) 東京(最低で1.24)沖縄(最高値で1.95)
平均値以下、北海道、大阪を始め(11都道府県)
平均以上(36県)

注目すべきは、中国・四国・九州域の全ての県はこの平均値をうわまわっているのである、特に戦後一貫して若者が、関東、関西の工業地帯に移動して行ったことを考えると特筆ものであると思う。
ところが東北各県のこの数値は意外に低く、平均以下の県も数県存在する。
それだけ、特に関東以北(東北など)は東京への若者の吸引力が強力だったことが分かる。

 映画「ALWAYS 3丁目の夕日」の時代背景はこの頃のことである。

 oldboy-elegy君も若かりしころ九州は宮崎駅で「集団就職列車」に遭遇したことがあった。
このことは 「oldboy-elegy NO.8・初めて社会に出て働き始めたころの話」としてブログ化している。
 最下段に記事をリンクしておくので読んでいただいたら嬉しい、なお時代の雰囲気を感じてもらえば最高だ。

 文明、文化、移民、IT, 首都圏の分散化、などとトータル的に手を打つことができるのか、あるいは全て放置して流れるままに行きつくとこに行けば良いと「ケ・セラセラ」精神の無手のまま行くのか、勿論oldboy-elegy君にはわからない。

     oldboy-elegy君、当然この行く末を見ることは決してない。

                了
                oldboy-elegy

 

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