oldboy-elegy のブログ

ずいぶん長きにわたりグータラな人生を送ってきたもんです。これからもきっとこうでしょう、ハイ。

(雑感・雑記帳 No. 14)①仏壇の母にタバコと初めてのカーネーションを ②母はクロ(猫)の救命士

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 oldboy-elegy(19)にて、(母関連の過去ブログ2題)をリンク形式にて先日再掲さしていただいた。
(雑感・雑記帳)として記事化している同様2題も、ここにUPする。

●仏壇の母の遺影に命日、正月、お盆以外、特別に「母の日」を意識して、献花、供物をしたことはない。
親不幸な息子である。

 このたび初めて「母の日」としてカーネーションを捧げたが、これもひとえに、ブログを始めたのがキッカケだと思う。
「ゴメン、カーチャン!!・頭がそこまで回っていなかった」

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●我が家に迷い込んできた黒猫である。
母が付けた名前が、そのまんま「クロ」である。

 その後の彼(クロ)はと言うと、飼い猫と野良の間を行き来する存在で、家人称して「自由猫」とも呼んだ。
ある冬の寒い日、クロ、コタツから「ゆらりゆらり」と出て来たが廊下で「バタリ」
この難儀を救ったのが「我が母」であった。

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 ★上記2題「母の日」と「母と猫のクロ」を
 再掲(リンク)する。

      亡き母へのTORIBUTEとして

エントリー2019・05・13

oldboy-elegy.hateblo.jp

 
エントリー2019・07・26

 

 

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oldboy-elegy (19) ①母、俺のワルサの事で、学校に呼び出し・②母の故郷、鹿児島でルノアールの裸婦を見た?

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私oldboy-elegy君、「漱石」先生の猫じゃあるまいが「どこで生まれたか見当がつかぬ」状態なのである

いや~、実際にそうであるからどうしょうもない

このことについては幼少のころから今の今まで自ら積極的にかかわろうとしたことがない。

なぜなら「母が困るだろう」との思いが自分(oldboyくん)の中に、優先事項としてあったからだと思う。

 そうoldboy-elegy君、戸籍上、母の「私生児」で父の戸籍には入籍されていない。

 彼の大学卒業を前に就職の事を心配してか、母が猛烈に父にせまったことを記憶している。

「まあまあ、なんとかなるよ」と彼はその場をとりなすのであるが、実際心底そう思っていたのである

銀行大会社を目指しているわけでもなし、まったり気分で働き、食いハグレしない程度に収入があればそれで良し、上昇意欲ゼロの欠陥学生であった。

 何度か戸籍関係の書類を手にしたことはあるが「熟視、熟読」はあえてしなかった。
なにか母への背信行為のように感じてしまうのである。

 このデラシネ(浮草・根無し草)感は今も続いている。

ブログにも母が時折登場する。

 「フンなにを生意気に」と小さな仏壇の中の母の遺影が、言葉とはうらはらに、唇の端で笑っている。

 

 言わずもがな母子の思いも、駄文のひとつのペイソス(情緒・哀愁)かもしれない。

 

             ごあいさつまで

             

              oldboy-elegy
  
 上記の文はブログ、プロフィール中のoldboy-elegyくんの自己紹介である。

 はやいもので2019・4月からブログを始めておよそ10か月である。
ただ情けないのはその記事の数。
トータル30記事で、月3個のペース。

 多くの方が毎日か、それ以上の投稿、月にすれば30~50記事、それも入念な情報収集から初めて、情熱ほとばしる記事内容に仕上げてUP、本当にビックリさせられる。

 ここで恥ずかしながら、当方も「30記事達成記念10か月にて!?」としていく編かにまとめて、過去ログをリンク形式で投稿しょうと思いたつ。

 カテゴリーを作るのは50記事を超えたぐらいと決めているので、それまでの替わりぐらいの位置づけである。

 冒頭の自己紹介(プロフィール)にて、oldboy-elegyくんと母との関係を再掲したのは、この母子が織りなす記事が結構あるので、まずここから始めようかと思い立ったからである。
以下がそれらの記事である。

今回は、母に登場願った記事の内、初稿近くの2記事を投稿する。

 記事はエントリー順ではあるが、内容は時系列を無視して、自分の生きてきた時空間を思い出すまま行ったり来たりとさまよっている。


       亡き母へのTORIBUTEとして

 
 エントリー2019・4・14
●この記事で母の人となり、oldboy-elegyくん母子の雰囲気と時代を感じ取ってもらえれば嬉しい。

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 エントリー2019・6・5
●母に手を引かれ、鹿児島開聞(カイモン)の彼女の実家?に身を寄せていた時の話
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             了
          oldboy-elegy
 

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(雑感・雑記帳 No.13)「ほれそれ、あれあれ」頭に描く像は鮮明なれど、言葉が出ない。oldboy-elegy君的対処法?!

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 お正月もoldboy-elegy君の脇をスタコラサッサと走り去った。
いやはや、こうメリハリのない日々が続くと人間の脳髄の退化を早めるのかもしれない。
ちかごろ、脳のシワが摩耗してか、記憶のアウトプットに時間がかかる。
「ほれそれ、あれあれ」など、頭に描く記憶の像はハッキリしているのだが、すぐに言葉になって、口から出てこないのが悲しい。
でも不思議なことに、それぞれの「言葉の名詞・word」が出力不足でも、それらを結びつける「論理の体系」には陰りがないし、より深化したのでは、と感ずることも、なきにしもあらずの自分がいる。(ここでoldboyくんだけが、そう思っているんだろうと突っ込まない事を希望する。)
最後のさいご、言葉が出てこない時は「万能大量記憶復元装置」パソコンの検索と言う手段が存在する。
この点、年寄りにも、文明のおこぼれが頂戴できる、ありがたいことである。

  
oldboyくん、基本「パソコンの検索機能」をフル活用したブログ記事はあまりお好きではない、何故なら、おのれの頭の悪さや、茫洋感が失せ、文章に個性が無くなるように感ずるのである。

 なぜか若い時(幼年・少年・青年期)の記憶は、起った物事はもちろんの事、人の名など含めて今も比較的迅速にアウトプットが可能だが、新しく記憶分野にインプットされた語彙が、瞬時に口からお出まし(アウトプット)にならないのだ。

 それがタイトルに書いた「ほれそれ・あれあれ」と言うことである。

 例えば、oldboy-elegyくんのブログにたまさか登場する「インデラ・コーヒー・カレー店」のママさんの名など「インデラのママ」で良さそうなものだが、今もフルネームで記憶している。

今ここで「書いてみろよ!」と言われれば、即、書けるが50年ほど昔の事ではあるが、少々はばかられるので、書かない事にする。

 「oldboyちゃん、また頼むよ」と、ママさんの声のトーンも耳の奥に残っている。
何種類かの香辛料(スパイス)の入った真っ黒な小さな「木臼」と茶色の「突き棒」を渡される。
カレー用の香辛料(スパイス)をつぶす作業の依頼である。

 インデラのカレーはトロトロ感なしの、しゃぶしゃぶカレーである。
彼女曰く「うちのカレーは本格インドカレーやで」と自慢しておられた。
そう言えば、oldboyくんちのカレーライスはもっとトロミが強かったように思うが、今もって、インド風、日本風の区別を知らない。

 そう言えば近所のガキンチョ友達の家でカレーライスをいただいた事があるが、スプーンを使わず、箸で食ったことがある。

 トロトロカレーもシャブシャブカレーも両方、好きであったことには変わりはない。
仕事(香辛料つぶし)のお礼にとコーヒー券1枚をもらう、たまにカレーライスをいただく事もあった。

 oldboy-elegyくん、インデラコーヒーやカレーライスの話をしたかったのかな?

 いやいや、今日の記事のメイン・ストリーム(主な流れ、主軸)は記憶に就いてのあれやこれやである。

 特段、学術的な要素はゼロで、ただただ己の身に起こった事と抵抗手段などを書き連ねて行くのみ、その過程で「そーや、そーや」の共感や、「そんなことあらへん、あんたボケが始まったんちゃうか?」などの非共感の突っ込みを入れてもらえば十分である。

 oldboy-elegyくん、言葉のアウトプットの悪さに気が付き始めたのは、ここ5・6年のことである。
いや、それ以前から(悪いなー)の感覚はあったのだが、そう気にするほどではなかったし、もともとの彼の脳の素材を考えるなら欲は言えぬ。
ともかく世間一般の同輩の人たちが口にする程度の笑い話の範疇(はんちゅう)であった。
それがいつの頃からか「チョットあきませんな」と自覚するようになった。

 今日のイラスト画像は「メモとメモ帳」である。
何故かと言えば、「人名を含む固有名詞のアウトプットの悪さ」に抵抗してやろうと「一念発起」したのである。

 以前は苦も無く「スラッ」と出ていた言葉が「ほれそれ、あれあれ」状態になった場合、最終的に思い出せず、検索なりで得た正確な言葉と意味と関連情報を「メモ」にして残していくのである。

 実は、この「メモを取る」作業の前にもうヒト行程がある。
忘れた言葉を「片っ端から」メモするなら大変な「量」になるし「時間」もかかる。

 それに、知り合った「図書館仲間」と月の内、数回「茶話会・ちゃかい」と称して、喫茶店にあつまる。
そのおりの「ヨタ話中」にメモを取るわけにもゆかない、他の人の興ざめを誘う事、必定である。

 そこでやるのが、「失念語彙・忘れたことば」を時間がかかってでも、自力で思い出す努力をするのである。
即の検索は「失語症」を助長すると、oldboy君、勝手に思っている。
もともと知らない言葉、事柄はこの工程の俎上にあがることはない、したがって「ほれそれ、あれあれ」状態になる言葉は「以前は知っていて、今もその明確な像が」脳のどこかに存在している時だけである。

  oldboyくん、忘れた言葉を思い出すために「三つの方法」を試している。

①連想思い出し想起法 

 ● 思い出したい言葉の例 「バルト3国の国名」この時点で(バルト)も
あれあれ、それそれの状態。
(この例も、今年(2020年・1・13)の実際のメモ用紙から引用している)

 ●連想できる関連のある言葉(資料も何もなしの状態で)
ヨーロッパの「北海」東南にある3小国・自然に出て来た国名は何故か「ラトビア」のみ・領事、杉原千畝ポーランド、ロシアに挟まれた国々で、「杉原さんは、これら3国のうち、どこの領事」か確定の必要あり。
何故かこの連想段階で、思い出せなかった「バルト」の言葉がフイに「復元」、始めから判っていた「ラトビア」と「バルト」海の語調がなんとなく近しく感じ、感応したのかも。
のこり2国名が思い出せず。
ここで固執せず次に

②ア、イ,ウ、エ、オ 50音想起法
 ひらがな想起とカタカナ想起、この場合は「カタカナ想起法」で実行。
日本語で思い出したいときは「ひらかな想起」、他は「カタカナ想起」で。
目を閉じ、50音ア行から順に「目の裏あたりで字面と同時に今知っていることを「想念」しながらツブヤイテ行く、この場合実際に声を出しつぶやくより、瞼の裏で字面「アならアを」想起する方が良いように思う、たぶん、この方が闇の底に沈んだ「忘れた」言葉と感応しやすいのかもしれない。

 ユックリと「ア・ア」「イ・イ」とやっていく。
この方法ですぐに「ア行のエ」が感応、「エ、エ、エ・・・」とやってるうちに「エストニア」が想起できたのである。
のこり1国は数回、50音を唱えたが、感応もせず、もちろん「復元」もせず失敗。
ここで検索に走っても良いのだが、自力でここまで「思い出した」のだから「ぜひもう一国の名前を」の気持ちもある。

③放置想起法 ここで一度、積極的に「思い出すこと」を放棄して、コーヒーブレイクなどで気持ちを弛緩させる、ただし頭の片隅に悔しさを少し残して。
こんなおり、フイに「リトアニア」なる言葉が口から飛び出すことがある、自力で全て達成の快挙である。

 現実はoldboyくん「リトアニア」が出てこず、不成功であった。
それに「杉原千畝」さんがこの3国のうちの、どこの領事であったのかも正確に知りたかったので「検索」して手書メモとして残したのである。
杉原千畝リトアニアカウナス)が答えの最終の形である。

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    No.1                                           No.2                                         No.3


上の3枚の画像は「記憶をより鮮明に刻印(脳に)するため」検索結果の正確な語彙のみを記入したoldboy-elegyの自筆のメモである。
へたな字を晒して申し訳ない。

No.1(左)
●2017・10・21 土 となっている、鉛筆書きで再生紙利用のメモ用紙のため、コピー状態が不鮮明なのはお許しを。
●検索・メモ取りを始めたのは同年の5月ごろからである。
●このころ、まだ「ブログ」がなんたるかも知らず、単に「失語症」の対策として始めたのである。
●今ではこのようなメモが400~500枚になっている。
●最近では、時おり読み返し、ブログ記事中に挿入することもしばしばである。
●No.1のメモ内容
 陰謀 「陰謀のセオリー」
 メル・ギブソン
 ジュリア・ロバーツ
 (The) Catcher in The Lye  
 by Salinger
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サリンジャーの有名な小説「ライ麦畑でつかまえて」をプロットの伏線におき、映画「陰謀のセオリー」が進行するのである。
このメモを見るだけでも、記事の一篇が書けそうな気がしてくる。
内容は「雑感・雑記帳」の扱いになるはず。
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 No.2(真ん中)
●上段2段、2018・10・7 (日) の日付
●上2段も鉛筆書きのため不鮮明
●途中からボールペンになっている。
●日付は2018・11・5 (月)
●detox 体内に溜まった毒物を排出させる行為 解毒

●11月6 (火) hostage 人質

●No woman No cry
 もうよせよ、泣くなって
●ボブ・マーリ
 you 'd best do something right now
 今すぐ~した方がいい
●everything's going to be allright
 きっと、うまくゆくさ

(1枚の用紙に3日分記載)
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ボブ・マーリ(ミュージシャン)
レゲーの神様と言われる、ジャマイカ生まれ。
no woman no cry の中の一節
everything's going to be allrightはあまりに有名
もうよせよ、泣くなって
きっとうまくゆくさ

なにか泣けるぐらいの感動の一節、メモしなくっちゃ!!となる。
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 No.3 (右)

●2019・3月12日(月)
 上から3行、鉛筆書き
●とんかつソース 豚肉

●サインペンで枠に
 杉原左内の娘   (杉原千畝さんとは関係なし)
 根岸流手裏剣の名人
 辻売り ウナギ
 又六
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 じつは、oldboyくん、「池波正太郎」さんの大ファン
 「剣客商売」「鬼平犯科帳」ほか文庫本で出版されたものならほぼ揃って所有している。
ベッドに入り、一篇なら20~30分で読める、oldboyくんの睡眠導入剤替わりをしてもらっている。
登場人物の中でも一番好きなのが「手裏剣の名手・杉原秀とウナギの辻売りを商いとする・又六」の関係である。
ただ残念なのは、この2人が同時に登場するのは2編だけだったと思う。
「池波先生」天界から、この二人の事をたくさん書いて欲しいものである。
たった数行のメモではあるが、これだけで書きたい「雑感・雑記帳」の構想がうかんでくるから不思議だ。

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 ブログを書くようになってから、もう10か月になる。
ただし公開記事数はようやく全部で30ほどで、月3篇程度。
oldboyくん、プレッシャーのないのが一番、自分の楽しみとしてやっている。
こんな失礼な記事でも読んでくださる方がジワジワ増えている、ありがたいことである。

 このメモ作りを始めたのが2017年の5月、ブログ記事のためのものではない。
「ほれそれ、あれあれ」にわずかでも抗(あらがう)ためのものである。

 だがこのメモ書き実践、もともと意図していなかったブログ記事を書くための素材として、今では大いに役に立っているが、実際の会話中の(ほれそれ、あれあれ)の改善・即戦力としてはコスト・パフォーマンスも悪く、じっさい、どれだけ効力があるのかは大いに疑わしい。
しかしoldboy-elegyくん、この作業を今後も継続することには変わりはない。

    Viva  「ほれそれ、あれあれ病」に賛

          了
        oldboy-elegy

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oldboy-elegy (18) 今東光さん、おれ達の成人式の来賓記念スピーチで  「ヘソのない女性を見た、あれはいかん!」いったいなんのこと??


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平成も終わり、「令和」だそうな。
その令和元年も過ぎ去り、今はもう2年である。
oldboy-elegyくん、「昭和」「平成」「令和」の三つの元号をくぐり抜けて来た感慨は全くない。
若かりし時からのモットーは「ノープレッシャーのだらだら人生で良し・ただただ戦争の無い時代に生きれたら本望!」だ、など、「世間で言う出世欲ゼロ」にして、たぶんに「他力本願」な奴である。
この目標は?、ほぼ達成の感ありである。

「昭和」など縄文時代の次ぐらいの「意味不明」な大昔のことと思っている御仁も存在するのかもしれない。
考えてみるに、西暦で年代を切り取るとすれば、ミレニアムとセンチュリーの二つの言葉をよく耳にする。
前者は「千年期」後者は「100年期」と言うらしいが、どうも「自分の生きた時代」の証(あかし)がはっきりしない。
この点、日本人は元号でもって表現すれば、その人の「立ち位置・好み・考え方」
などが、なんとなく、分かるような気がする。

 例えるなら、「明治期の富国強兵・大正モダニズム昭和10年ぐらいからの太平洋戦争・昭和レトロ・昭和は遠くなりにける」などがそれで、その時代を生きた人達の「立ち位置と時代の雰囲気」がおよそだが「元号を冠する」ことで推量できる。

 それもそのはずで、天皇と言えども、この世に現実に生きた人であり、元号はその「表象」である。
同時に、我々庶民も同じで「人の寿命」の枠内での事である。
それが「ミレニアムとかセンチュリー」など人を無視し、単に数字ありきの世の区分とは別物で、「文化的ポゼッション」もあらわし、多分に人間的だと思うがどうだろう。

 ただ一つ、自分の年齢の計算が「元号」では難しくなってゆく、ただでも頭の悪いoldboy君、こればかりは「西暦」にくみする。

 法衣に袈裟(けさ)がけのお坊さんのイラスト画像が今日の主人公の「今東光・こんとうこう」さんである。
「こんとうこう」さん、って誰?と思う人も、この「令和」の今日、結構多いのではと思うがどうだろう。

 この方、基本、天台宗のお坊さんであるが、小説家であり「直木賞」作家でもあられる。
もともと若い頃から多芸と言えば良いのか、気の多い方で、小説はもとより絵画なども志したこともあったが本道の天台宗僧侶に専念、絵の道などでは、いくつかの展覧会に出品するも、間もなく「筆を折られた」との事。

失礼を承知で言うなら「おのれの才能のなさ」を自覚されたのかもしれない、「いや~
きっとそうだろう」

 関東は横浜の生まれで父(船乗りにして船長)に連れられ神戸に来たが、
その時、入学した学校が、関西の私学の名門「関西学院中学部」であった。
しかし、彼、この学校を「諭旨退学・ゆしたいがく」となっている。
ここらあたりから、だんだんとoldboy-elrgy君の知る「今東光先生」らしくなっていく。
「ゆしたいがく」とは何ぞや?「たいがく」は「退学」で学校をやめることである。
学校をやめる理由にはいろいろある。
①学費が払えない。
②所定の試験の成績に達しない
公序良俗に反する言動、振る舞いが見られる、など

 はっきり言うと「諭旨退学」とは、本人と保護者に理由を説明し、「強制的」に学校をやめてもらうことである。
いったい「東光先生」は何をやらかしたのか?
関西学院」はキリスト教プロテスタント)系の学校で、牧師の娘に、今風に言えば「ちょっかい」を出した、のが、退学の原因であるらしい。

 しかし、oldboyくん「東光先生」を弁護するつもりはないが、このはなし何か、「腑に落ちない」思いがある。
戦前の「中学」は男子のみで女子はいない、就学期間は5年、年齢は12才~16才までである。
お相手の女子は、もちろん、女子禁制の中学部にいるはずがない。
ならば、考えられるのは当時「女子高等女学校」なる課程が、中学校同様12才から「4年制・5年制」として存在していた。

 このような事を考えるなら「今(こん)先生」の片思いだけでは、決して「どうにかなるものではない」し、女性の側の「今先生に対する、何か(恋慕など)が無くては、成立しえない話なのであるまいか。
その彼女が「牧師の娘」で、この牧師がなんらかの「関西学院」関係者であった事を併せて思うなら、「諭旨退学」と言う名の処分の裏の事情がなにやら見えてくる。

 ところがどっこい「今先生」、「関西学院・諭旨退学」のあと、同じ兵庫の県立、豊岡中学校に入学するも、地元の「文学少女」と「その仲」になり、これまた「退学処分」となる。
今度は、「文学少女」をと聞くと、「今先生」の悪意とはいえないまでも、なにかしらの意思を感じて、oldboy君、彼をかばう気にはなれない。
しかし、さすが「今東光・こんとうこう」先生、中学時代を通じて、2回の退学、それも2回とも「女性」がらみ、が原因なのが、「いかにもの」納得感が嬉しい。


 「今東光先生」この後、学校と名の付くところには入らず、全て独学であったらしい。

 そんな「今東光さん」、長じて、天台宗の仏門に帰依し僧侶となり、戦後、昭和26年(1951年)に八尾市の東端の山本町にある「天台宗末寺の天台院」の住職として来られたのがこの地「河内」との縁の始まりで以来23年間の長きわたり、この地の住人として過ごされたのある。

 「今先生」、「河内」入国の折の齢は、すでに50才を幾分過ぎたころのことである。
それまでに、天台宗の入山(僧侶になる)修行は厳しく、比叡山での勉学、僧侶試験、などの関門を突破されたのである。

 その後、文筆活動は中断されていたのが、この天台宗叡山の末寺・天台院の住職として特任されてから、「河内の歴史・河内人の気質・風土・言葉」に接し、再び彼の作家魂に火が付いたのである。

 彼、中学時代での「女性関係での退学処分、それも違う学校で2件」長じて「無類の喧嘩好きで無頼漢的素養あるも、良い意味での自由人」などの、もともとの彼の内なる人格が、この地、「河内の人々と風土」と合体した時、彼の身に、ある種の「化学反応」がおき、「今東光」としての「書き手」に、新たにエンターテナー的要素が加味された瞬間だったように思う。

 この河内・八尾・の天台院の住職期間、昭和26年(1951年)~昭和50年(1975年)の23年間が文筆家としての1番の高揚期であったのかもしれない。
彼の多くの著作の中に、いわゆる「河内もの」と言われるジャンルがある。
作品名で言うと
「悪名」「闘鶏」「悪童」「こつまなんきん」「河内風土記」「おのろけ説法」
お吟さま「河内フーテン」「河内カルメン」・・・・エトセトラ
おいろけ・喧嘩・河内の風土・河内人・などがその小説のモチーフである。
中でも、「お吟さま」は1957年、直木賞・受賞作品でもある。

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 さて長い前振りであったが
このブログのタイトル「今東光さん、oldboyくん達の成人式来賓の折のスピーチが「へそのない女を見た、あれはイカン!?・いったいなんのこと?」を読み解くためのものであり、「さもありなん」と思っていただくための「導入部」なのである。
それゆえ彼の基本的な「人と成り」を知っていただき、「河内・八尾」の風土にインスパイア―された彼の作品(小説・映画など)がひろがり、同時に、この「河内」の印象も「良きにつけ、悪しきにつけ」拡散していったのです。
とくに言葉としての「河内弁」は最悪です。
むすめさんが話す「大阪弁」はミミズラにも良く全国的にも、そう悪い印象は無いようだが、「河内弁」としての男言葉の「印象と評判」は最悪です。

 「オンドレ・ナメチンケ・ヨコズラ・ヒッチンド・ワレ」
この言葉、あえて訳さなくてもほぼ解るかと思うので、このままにしておきます。
oldboy君が思うに、「河内弁」の特徴は「大阪弁泉州弁・和歌山弁」など語尾が下がり気味になり、滑舌の悪さが気になるのですが、何故か「河内弁の男言葉」の活舌は言葉の語尾までしっかりしたものがあります。
それが「われ」言葉を強調してるように感ずるのですが、どうでしょうか?

 さて八尾市としても、「わてが町の全国区の有名人で文化人(河内では珍しい存在?)に、「成人の日」の特別ゲストとしてお出ましを請うたのも至極当然の成り行きであったろう、と思います。

 これで「今東光さん」が「河内・八尾市」の成人式・来賓スピーチの壇に居られた経緯を「およそ呑み込んでいただいた」ことと思う。


 市長か役所の担当者か知らないが、恐縮のしたり顔で「時間はこれぐらいで、その上 (今先生の河内物の小説を読んでいるせいか)少々危険を感じながらも「もうスピーチの内容は先生におまかせで結構です」などの依頼の様子がoldboyくんには、なにやら目に見えるようです。

 oldboyくん、本当を言うと、この日の「先生」のスピーチのこの文言「へそのない女性を見た、あれはいかん!」のみ鮮烈に記憶していて、他の訓話的おはなし、は記憶にはありません。

 上に、ラインダンスのイラスト画像を貼りつけたのだが、これであらかた察しがついた方もおられるかもしれない。

 このイラスト、若い女性のレヴィユーにおける「ラインダンス」の画像である。
それも終戦後20幾年ぐらいの「宝塚音楽学校」のラインダンスの図と思って頂きたい。

 「東光先生」がいかなる経緯で「宝塚」に行かれたか知る由もないが、
難関な試験を突破して入学された、若く、美しく、躍るような何十人もの女性の肢体がタップを踏みながら、ラインダンスをする光景には、「先生」ならずとも、ココロオドルものがある。

 さてここで先生、眼前の踊り子さん達を見て「あれ!おや?」と、自分の「美意識」にそぐわない、ものを発見されたようです。
当時の宝塚のラインダンスの衣装がどんなものかは分かりませんが、先生の言葉から推察するに、最低、おへそが見えてもオカシクないものだったはずです。
ところが、ところが、それが見えなかったとおっしゃっているのです。

 原因は衣装の下に、ベージュと言うか、肌色のタイツ様の肌着を付けていたのが、真相のようです。
昔も今も「宝塚音楽学校」のモットーは「清く、正しく、美しく」で体現されているのです。

 このことが、「東光先生」の美意識にはそぐわないようでした。
そこで(当然、見えるものが見えないのは、不自然だ)となり、あの発言に至ったのが、その経緯であり、真相のようです。
「へそのない女性を見た、ありゃいかん!」の「お話」は本音だったように思えるのです。
これが「新成人」にたいする言葉としてふさわしいものかどうかより、実に「今東光」さんらしいものだったとoldboy君は思うのです。
なぜなら、半世紀も経った今、この一言のために、ブログを書くはめに陥った老いた男が一人ここにいるのですから。

 おへその事は別にして、人間の肢体、四肢のバランスは不思議なものです。
昔、大学生のころ、友人O君の下宿先の寺、観智坊の住職に案内され「東本願寺」の観光客が入れない奥域まで入った事があり、そのおり、広い、畳敷きの大広間に足を踏み入れたことがありました。

 その大空間には、一人の方がポツネンと仏殿に向き合い座っておられたのですが、薄暗い中の彼のシルエットを感じるだけでどんな方かは判然としません。
ただ言えることは、その座っている状態や雰囲気になにか違和感があったことは否めません。

 ちょうどその方、お祈りを終えたようで、立ち上がらずに、両手を畳の前に差し出し、体が少し遅れて滑るように付いて前進されるのです。
そう、どうも両足がないようなのです。
さきほどの、座った姿勢の影に「なにか違和感を感じた」のはこれが要因だったのでしょう。

 薄明りの中の、座っておられるシルエットを見ただけで、なにかが違うと、感じる人の脳や目の能力、不思議なものです。

 ましてや「東光先生」が宣う「あるべきおへそがない」のはもっと違和感が強烈だったかも知れません。

  因みに、「今東光」さん、「OSミュージック」の「ストリップショー」の企画・演出を担当をされたこともある、いかにも彼らしい。
もちろん、レビューにおけるラインダンスは「おへそ」は見れたはずです。
見ていないoldboy君、返す返す、も残念の限り、の気持ちです。
すこし俺、エロじじいぽくなってきたようである。

 最後に二度目の奥様、きよ夫人の述懐でこの駄文を終えることにする。

「本山(天台宗延暦寺)から給料がでるわけでもなし、お布施も30円ぐらい、
今(こん)の印税あっての暮らしでした。
檀家の話は喧嘩・博打・夜這い(よばい)・女郎(じょろ)買い、そればかり、NHKはじめ放送局が取材に来ても放送(録音)できない状態でした」・・・ウィキペディアより

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(雑感・雑記帳 No.12) 除夜の鐘、騒動記・「うるさい、騒音だ!」との声。 いつもの通り「独断と偏見でもって語ってみる」 by oldboy-elegy

 

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 oldboy-elegyくん、「さあーて、どこから書こうか」と思案中に、唐突に「木枯らしとだえーて、さゆる空より~・・・」の一節が機能障害一歩手前の脳に去来。たしか、文部省唱歌の「冬の星座」のはず、さっそくG検索を実行。ふだん検索で固めた(文)はoldboyくん、お好みではないのだが、なぜなら少々の「ボンヤリ感の漂う文章」の方が「自分らしく」て「よかろう」と勝手に思っているのです、ハイ。
ありました、ありました、この歌詞の1番のうしろの方に「ものみないこえる、しじまのなかに」のしじま」の部分です。
除夜の鐘→ご~ん→深夜→静寂→しじま→木枯らし途絶えて→そして
「冬の星座」へと連想、そしてここに行き着いたようです。

 
この「しじま」、漢字でも「静寂」とするらしいのですが、それも「まったくの同義語」でもないようです。
そこで、申し訳ないのですが、oldboy-elegyくん的に以下のように解釈させていただきました。

 「静寂」は「おのれが現在いる、近しい空間」の静けさで、五感で感知できる範囲のもの。
「しじま」は「はるか、自分を離れて、天空から宇宙まで」を含む静寂で、五感を離れ、心で感じるもの、とさせてもらいます。
そうすれば、「しじまのなかで」の前節「ものみないこえる」の、作詞の意図がはっきりするように感じるのです。
「ものみないこえる」は「者、皆、憩える」で、「人間を含む、動植物や物、存在する全てが憩える」と解釈するなら、「天空・銀河、果ては冥界」までもアリかなと思えるのです。

 oldboy-elegyくん、およそ50年前の大晦日のお話です。

 夜具(当時せんべいふとん)に入り、枕元のラジオも消し、部屋は真っ暗闇の状態です。
身も心も、外界と一体となり、静寂の中に在り、ある意味「至福」の時かも知れません。

 「うむ?!」とおよそ50年後の今、思う事があったのです。
時空を行ったり来たり、申し訳ない。
「そう言えば、俺、生で、除夜の鐘、聞いたことないなあ」この事です。
自宅のあった「河内」のこのあたり、ほんの近場に、真宗系の大寺院が二つあり、中堅寺院や末寺の坊などを入れると無数にある土地柄なのに。

 oldboyくん、実家を離れたのが、二十歳過ぎで働き始めたころのことである。
すぐ近場に大寺などあったが、記憶に鐘撞堂(かねつきどう)や鐘の存在は知らない。
本堂とは別に境内の敷地脇にあった建物は決して鐘撞堂(かねつきどう)ではなかったはず。
3階建てぐらいの楼閣のような建物で、当時、1階にはソロバン塾があり、じっさい、oldboyくん、母の強要でここに入塾したことがあるが、1、2か月で強制退塾とあいなったのです。
「こらoldboyうるさい!!」と、一喝、読み上げ算用のテキスト本を投げつけられ、これを反射的にハッシと受け止め、みんなの喝采を集めたのが、原因だったようである。
かようにここも、けっして鐘撞堂(かねつきどう)ではなかったはず。

 このあたり、寺がたくさんあったのに、なぜ除夜の鐘が一つとして鳴らなかったのか?
今思い起こしても、原因はこれしか考えられないのだが。
戦時中、半強制的に金属器などを「お国のためと」お上にさしだした時期があった。
梵鐘(かね)などは金属の王様、これ1個で鍋、釜いくつ分に相当するのか見当もつかない、そんな鐘が鐘楼に無事にぶら下がっている訳はない。
そして、戦争も終わり、そんなに経っていないころ、国中が貧乏の極致、失った鐘の再設置など、考えもしないし、食うだけで精一杯の時代であった。

 2、3Km先に国鉄(JRではない)の貨物専用の広い操車場があり、冷たい冬の夜間など、貨物列車の編成中の連結器の音が「ガチャ・ガチャ・ガチャ・ガチャ―ン」と「静寂」を破り、聞こえてくることはoldboyくん、記憶にあるが「ナマ除夜の鐘」の覚えはない。

 「天空の凍てついた夜の静寂(しじま)」を緩やかに破る、鐘の音を一度は聞いてみたかった思いは今もある、それも真っ暗な自分の部屋の寝床の中で、きっと心地の良いものだと想像する。

 はてさて、21世紀のこの時代「除夜の鐘」が「うるさく、騒音」に聞こえる人達が結構、いるそうである。

 札幌のある寺院、苦情のため、今年初めて、除夜の鐘撞(かねつき)を中止するはめになったらしい。
鐘の音が「ある種」環境破壊?であり、自然音でもなく人為的なものであり、もっと言えば「騒音いがいの何物でもない」と電話による苦情が入るらしい。

 普通に考えれば、現代の建築物は昔に比べ、気密性に優れ、防音にも配慮された造りなっているはずである、にもかかわらず「除夜の鐘の音」を騒音と感じる人が増える傾向にあるというのである。

 この人たちを、あながち「文句言いのモンスター」と決めつけるのは短絡的で、
本当に「騒音」として聞こえている可能性もありうる。
本人にとっても「あんなうるさい」を「情感あふれる日本の音」と愛でる人の気持ちが、心底、理解できないのかもしれない。

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 たとえば、セミの声だが、日本人は幼い時から種類別の鳴き声(擬音として)を結構表現できるのが普通である。
例えば
ヒグラシ(カナ、カナ、カナ) 
ツクツクボウシ(ツクツク、ボーシ)
クマゼミ(シャー、シャーシャー、シャワシャワ)
ミンミンゼミ(ミーン、ミーンミーン、ミンミンミン、ミー)
アブラゼミ(ジャー、ジャー、ジージー
ニーニーゼミ(チィーチィーチチチー)
などなど、鳴き声のオノマテぺ(擬音・擬態語)はoldboyくんが勝手につけたが、ご不満の方もあろうかと思うがおゆるしを。

 まずセミの(種類別のなまえ)(姿かたち)(鳴き声)(出現時期)など答えられる日本人は結構おられるはずである。
欧米人、とくに白人では、クマゼミの集団がうるさくそこで鳴いているのに、聞こえない、聞き取れない人も大勢いるらしい。

 なぜか、多くの外国人と日本人とでは、これらの「音おと」を処理する「脳の認識する分野」が違うのが原因であることが分かっている。
日本人は左脳の言語を司る分野で聞き、処理し、多くの外国人(アジア人も含む)は右脳の音楽、音に対処する分野で聞いているのだそうな。
言っておくが、これらのことは「遺伝的素因」とは関係はなく、幼児から大人になる過程で付与されるものらしい。

 あと虫の種類とその鳴き声も同じで、

これだけの分類ができるのは、学者で無い限り「日本人」だけのようである。

 また「松尾芭蕉」の有名な俳句で
「静けさや 岩にしみいる 蝉のこえ」と言う超有名な俳句があるのだが、
欧米人にこの歌を説明しても、理解してもらうのは、不可能に近いものがあるようだ。

 説明で一番困難な部分は
うるさい蝉の音(声ではない)が、なぜ「静けさ」と同居しているのか理解できないこと、またそれ以上に「蝉の声」自体が聞こえない人もいるようで、よしんば聞こえたとしても「雑音・騒音」ぐらいの認識であるらしい。
ふつう日本人なら、「山寺に向かう芭蕉が途中、「ニイ、ニイ」と鳴くニイニイゼミか「カナ、カナ、カナ」と鳴くヒグラシあたりを想像すると思うがどうだろう?
蝉が鳴くことで、うっそうとした木立のなかにある小さな池にカエルが一匹飛び込む姿を見て「静けさ」が深化し、強調される感覚は欧米人には理解してもらうのは不可能かもしれないし、「それがどうした」となりかねない。

 このジレンマが日本人同志でも起こりうる可能性が今のグローバル化の世、有りうるのは、当然かもしれない。
どちらが正しい、間違っているの問題ではない、と思っている。
今後、「除夜の鐘」を聞き、これを「好もしく」聞く大きなグループであるはずの、いわゆる「日本人」の中にも、徐々に「騒音としか認知できない人達」の存在が増加していくことは確かなことかもしれない。oldboyくん的には、残念ではあるが。

 セミの「声」や虫の「音・ネ」を、聞き取れない「日本人」、あるいは聞こえても「騒音」いがいのなにものでない、と感じる「日本人」。
いくら説明しても「静けさとセミの音(おと)とが一つの句に同居する感覚を理解できない「日本人」、も、少しずつではあるが増加傾向にあることも「事実」なのかもしれない。

 しかし、これらの現象(セミの声、虫の音が聞こえない、聞こえても単に騒音)は、世界的にみればごく普通で、日本人の方が特殊なのだそうな、あとわずかに、南洋諸島の幾つか国、島々の人々の中に日本人同様に左脳の言語野で聞く人々が存在しているらしい。



 そこで、ここからは、いつものoldboy-elegyくん的解決方法(すこしおおげさ)を「独断と偏見」をもって提示してみたいと思う

その根拠はある著名な心理学者の研究を参考にしたものである。
「除夜の鐘」と「心理学者」を結び付けた研究や言質(げんち)をまだ知らない、もしおられたらゴメンナサイ。

 心理学者(カール・グスタフユング、1875~1961)その人である。
多少前後はあるが、「フロイトアドラー」を加えてスイス生まれの「心理学者3人衆」である。

上記の黒線太字の部分訂正いたします。当方の勝手な思い込みで記事化してしまいました。申し訳ありません。 
ユング=スイス生まれ フロイトアドラーオーストリー生まれ
             訂正日 2020.03.31


フロイト」などは「夢判断」などで有名だが、現在の心理学者の殆んどは、この3人の研究、業績を基本とした系譜に属していると言われている。

 oldboy-elegyくん、この3人の内、特に「カール・グスタフユング」の言葉に注目している、と言うより、もともと自分に一番しっくりする「考え・論理」だなと思っている。

 「民族による音や音楽にたいする感じ方の違いは古代から伝わる神話や伝説、芸術など、人類の心の中で脈々と受け継がれてできたもの(集合的無意識)を土台に、その上に(個人的無意識)が存在し、その最上部に固有の(意識)が形成される」と言うものである。

 個人の心理的要因、形に「社会や民族」と言う概念を基本に据え、人の心を普遍化し、イメージパターン化、した初めての心理学者である。

 考えてみなさい、もしあなたが今日、明日にも結婚するとイメージしてください。
あなたと、彼(彼女)は今までの数十年間、全く違う環境で生活してきたのです。
育った土地と風土を始めあらゆる環境と経験は違ったものであったはずです。
それぞれA国、B国としても良いでしょう。

 しかし、ひとつ屋根の下に住んだ場合、今まで知らなかった、相手の言質(げんち)、食事、行動など、になにかしらの「違和感」を感じてしまうことも多々あるのは事実です。
小さな「文化」の衝突です。

 あらゆる育ちの環境の違いが、「ユング」の言う、深層に「集合的無意識」として、自分も気がつかない心の形質が育ち、備わっていたはずです。

 現代の若者はある意味、「結婚したら発生する不都合にたいする」予知能力が、高度の情報化時代の中、見えているのかもしれない、それも過剰に。

 ともかく、結婚・同居の不都合の発生は「集合的無意識」が出会いとして「意識化」される。
残念ながら、これを是正する方法は、話あうことしかありません。

 いえることは、ある個人が不快に感じる「自然音・環境音・騒音)に出会った場合、個人が既成社会の(集合的無意識)を壊すことは出来ません、ただし今ある既成社会を形成する大部分の人々は、彼を文句言いの「怪物モンスター」「不寛容の人達」として対立せずに「実際そのような人達は存在しているのだ」と認識し、誠意を示し、科学的に説明し、少しの時間を拝借し、緩やかな納得を得るしか方法はないのかと思うのだが。
どうだろう。

 根本から解決はできなくても、「了解・納得」は可能であるはずと思うのだが。

 グローバル化・急激な情報化文明は、予想もしなかった新しい文化の概念・ストレス・衝突を生むのかも知れない。(文化の交流)

 よく「日本人」はこの国の良い事の一つに「明確な四季」をあげる。
もっと言えば一年を「70節季」に分ける「粋人」もおられる。
俳句の「歳時記」の世界の事だが、この「除夜の鐘」もこの内の、「日本人」が長年にわたり育んできた「心象風景」の一つである。
やや大仰(おおぎょう)に言えば上記の「70節季」一つ一つ「除夜の鐘」同様に、危機に晒されていくのかもしれない、残念ではある。

 だが一概に嘆いてばかりの一方通行の概念ではない。
近頃、「日本人」にしか理解が難しい「心象」が様々の形でイクスポートされ始めたのである。
例えば、「まんが、アニメ、小説、映画」「日本のさまざまの節季行事・歴史」など、ユングの言う「古代から伝わる神話・伝説・芸術などの、人々の心の中で脈々と受け継がれてきた集合的無意識」から生まれ、具現化された「意識や心象風景」が発信されている。

 ここで取り上げた「虫の世界とそれを取り巻く人間との世界」を描いたアニメ、「蟲師」なども外国に紹介され、それなりに、好評なのだそうな。
蟲の名、蟲の音を愛でる人達、が日本以外の地に現れてもおかしくない時代なのである。
ひょっとしたら、外国の地でダンナが「虫かごで蟲を飼い、あ~、良い音(ね)だ」などと愛(め)でていたら、それこそ「離婚問題」になり「訴訟」の対象になる時代が来るのかもしれない。
「除夜の鐘をうるさい・騒音だ!」と対をなす話である。

 こうなれば、最終、文化の「相互理解・mutual understanding」しか手がないのかもしれない。
想像するに、ある意味、可笑しくも楽しい世界で、対立と憎しみそして不寛容な方向には絶対向かってはならないで欲しいものだ。

 


 いやはや小難しい世になってきたもんだ、「ノー・ストレス」を、生きることの基本としてきたoldboy-elegyくん、「やれやれ、つかれる」の思いが本音かも。


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oldboy-elegy (17)茫洋の君(きみ)と、50年以上前の教室の風景そしてその現実

/> 同じ授業でも、今からの話は、体育のペーパーテスト中での守山君との、

 

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彼、守山君(仮名)とは中学、高校と同窓で同じ学校に通った。
その茫洋(ぼうよう)とした風貌と行動はoldboy-elegy君にとっては、すこぶる好ましい人物として映っていたのである。
「茫洋」と言う言葉、多分にフレキシビリティ(柔軟)な言葉で、使用する場所や場面で肯定的側面から否定的な感覚まで幅広く表現することができるようである。

 勿論、ここではoldboyくん、肯定的な意味で使っている。
「広々と果てしなく、心もゆったり、ただ多少のぼんやり感があるのは否めない」と、これがoldboy君が思う守山観である。

 ただし彼、学科・教科に関してはすこぶる優秀なのである。
俺などより数段上位のはずである。
そんな彼が時折見せる信じられない位のバカげた行為と馬鹿さ加減が、その茫洋感と重なり、たまらない魅力を醸し出すのかも知れない。
クラスでこのような見方をしていたのは、恐らく、oldboy-elegy君一人だけだったはずである。

  まず守山君、物事に取り組む姿勢は常に真摯で真面目なのである、この点、やらないで済むことなら、やらないのが一番と思っている不埒者なのがoldboy君である、こういう性格、自分自身、良く判ってるだけに、余計に彼の事を好もしく思えたのかも知れない。

 そんな彼が時折見せる「茫洋感」の負の部分でもある「ぼんやり感」を皆にお教えしようと思う。
重ね重ね言うが、彼の事を「諫めて」いるのではない、oldboy君、その事も併せて彼(守山君)の事を好もしく思っているのである。
否!、もっと言えば、ときおり見せる、「信じられぬ行動とぼんやりブリ」と普段の「成績優秀、生真面目」な彼との、その落差がたまらないのかもしれない。

 まづ、最初の「ぼんやり話」と言うか、それを通り越して「うすらバカ」の極致と言えるあきれたものを一つ披露しょう。

 イラスト画像は、見た通り、なんの変哲もない教室の画像である。

 そのころ、そう今から50年以上昔の教室の風景も、さして現在(今)と見た目は変わらないと思うがどうであろう。
学校も生徒の急増のため比較的新しく建てられた校舎である。
ただここに生身の生徒を放り込めば、その光景は一変する。
一番の違いは、何といっても、その当時の生徒数の多さでないかと思う。

  記事の内容は勿論、守山君の事ではあるが、もう一つ、50年以上昔の教室の現実を合わせて記述して行こうと思っている。
そこに繰り広げられる滑稽にして、同時に哀しいドタバタ劇を見て欲しい。
同年配の方には懐かしく、若い人達には遥か昔の非現実の世界を感じていただけたら嬉しい。

 今では国からの指針、指導もあるが、およそ1クラス、40人前後で、田舎や過疎域に行けばもっともっと少人数のはずである。
それがoldboy-elegy君の時代、一クラス、50人以上は普通であった。

 
英語としての時間は週に4~5時間設定されているのだが、そのうちの1時間はクラス人数が60人を超えてしまうのである。
英語の時間に限って週1回、何故そうなるのか想像できます?
見当のつく方は多分年配の方だと思うがどうだろう。

 この教室のイラスト画像からは想像もできない当時の現実があったのです。


 そのキーワードは「就職」と言うことばです。
貧困や、親の無知(特に女性の教育不要と考える)などで高校への進学が叶わない人達が1クラスに7~8人はおられたのである。
ましてや国や自治体の無料化や助成がある時代ではない。

 oldboy-elegy君の住まうこの地域特有の現実でもない、多少の数字や率の違いはあるとは思うが、おしなべ、国中がこうであった、これが時代である。
集団就職」と言う言葉や映画「三丁目の夕日」がモチーフにする時代である。
因みにこの映画、「鈴木オートのたった一人の従業員、星野六子(むつこ・女優は堀北真希さん)」が青森からの集団就職列車に乗って東京にやって来る」設定になっている。
ここで感心したのが「六子」の名前である、実に時代背景を感じる。
女ばかり6人姉妹もありうることだが、兄弟・姉妹、含めて6番目と言う事だと思う。
この時代、5人、6人の兄弟の数は当たり前とは言えないまでも、そこまでも珍しいことでもなかった。

 oldboy-elegyくんの前回のブログ(雑感・雑記帳 No.11)の人口動態グラフの内の「合計特殊出生率」を見ると、最高値は(昭和24年・1949年)で「4.32」となっている、一人の女性が生涯で出産する子供の数の平均の指数である、したがって「六子」もムベなるかなの感がする。(このブログ、本記事下にリンクあり)

 oldboy君も社会に出たころ、九州は宮崎駅で「集団就職専用の列車」に遭遇したことがある。
寝台列車でもない、普通仕立ての4人掛け、今思えば古式蒼然とした車両である。

 行き先は20時間以上先の大阪であったと思う、
駅のホームは学生服姿、セーラー服姿の未だ、いたいけな容貌の多くの子供たちと、これを見送る親や先生など関係者でごった返していて、あちらこちらで人の輪ができ、その雰囲気は 嬉しさや、楽しさとは無縁のものであった。

 同時にoldboy君、自分の会社の工場女子寮の人達のたくましさを思い浮かべた時「今は不安だろうが、きっとやれる、やれるよ、心の内で励ましたくなったのも事実であった。
やがて「蛍の光」が流れ「さよならテープ」もちぎれさり、ホームでの悲しみの喧騒も終わる。
因みに、oldboy-elegy君、列車ホームでの「さよならテープ」を見たのは、この宮崎駅が初体験である。

 ひょっとしたら、oldboy君の会社に来る子も居るのでは、一瞬、思ったが、九州の労務出張所は奄美と聞いた事があり、鹿児島駅はあっても宮崎はないなと思い直した。

 oldboy-elegy君も母が居なければ、多分、ここで「就職組」に在席していたかも知れない、いや、きっとそのはづであったと思う。

 小学1年生の入学式を、oldboy-elegy君は経験していない。
ましてや幼稚園なるものも知らない。
小学校は2、3か月遅れで母に連れられ直接教室を訪れたのである。
床に白い大きな紙(模造紙)を何枚も床に広げ、子供たちが四方から寄ってたかってお絵かきの最中であった、勿論、oldboy君もこれに参加したものである。
これが彼の小学校の入学式であった。

 このことはoldboy-elegy君のブログ(雑感・雑記帳 No.1)母の日、にて既出である。

 いま思えば、教室の後ろで一人佇む母の顔に安堵の表情が見られたかの様に思うのも不思議な事ではない。

父は当初、自分の生業である「歯ブラシ職人」にoldboy君を仕立てようと思っていたふしがある。

 ここで本文に戻す、当時、この中学校での就職組の3年生は、週1回、「職業」なる教科があり、これを1時間捻出するため、英語を1時間削り、これにあてていたのである。
余分の教室がなかったのである。
つまり、就職クラス(1)・英語クラス(2)の3クラス(3教室)を一編成として同時間に行われるのである。
これに実人数をはめていけば、50人クラスx3・で総員150人、就職希望者がクラス8人とするなら8x3・の24人となる。
ゆえにに(150人-24人)÷2=63人(英語の1クラス人数)となる。
実際は一クラス、50人を超えていたので、もっと多かったはずである。

 英語の時間のクラス人数はなんと(一クラス50人としても)63人にもなるのである。
この日は生徒にとっても地獄である。
休み時間は、机、椅子の大移動で、就職組の教室はガラガラ、反して英語組の教室は通路も設定できぬほどの満員状態なのである。
今、思い起こせば、何気に、楽し気な気分になるが、遠いとおい昔の事である。

 なにか懐かしく、少し哀しい気分で、思い出すままに記事を書いていると、もう一つの主題である「茫洋の君・守山君の事」を忘れるところであった。
<br奇妙なやりとりを記したものである。
試験が中間試験か期末であったかは記憶にはない。
ここでイラスト画像を見て欲しい、クラスの人数は通常の50人少しで、席は俺が窓側の「おれ」と記入したあたりで、彼、守山君は、俺のすぐ前の「もり」と記入した席にいて、テスト中の図と思ってくれ。

 暫らくすると、彼、守山君の様子がなにか変で、当初はトイレでも行きたいのかと思っていたのだが、どうもそうでもないらしい。
何かじっとして居られない様子で、腰を浮かしたり、首を振り振り、終いには自分の頭をゲンコツで軽く叩き出す始末である。
その間、鉛筆はセッセと動いているのだが、すこし気になり「先生に言おうかな」と思い始めたその時、彼、守山君が、答案用紙の裏に何やら書きoldboy君にチラチラ見せ始めたのである。
一瞬、カンニングと思ったのだが、俺が要求したものでもなし、ましてや守山、そんな奴ではない。
先生、教壇から離れた窓際で眠そうにのんびりの御様子です。
書かれた文字は簡単に読むことができたのだが意味が分かりません。
それは「め、な のかたかな教えてくれ」と書かれていたのです。
oldboy君あれこれ質問することもできず、取りあえず言われた通り「め→メ・な→ナ」と答案用紙を小さく破り、そこに走り書き、伸びて来る、彼の手の平に握らせたのである。
するとすぐに彼の挙動不審の体の動きが止み、静かになったのです。

 みなさん、これ一体何だったと思います、試験が終わると、oldboy君が尋ねるより先に両手を合わせて「ゴメン、すまん、実は・・」と喋り出したのです。

 解答正解の「トーナメント」がいくら書いても「トーナナント」になってしまい、「メ」が書けなくなってしまい、あげくのはてに、頭が真っ白になってしまったのが
真相だったようです。

 oldboy君「そんだら、全部ひらかなで書けば」と言うと、はっとして「その手があったか、気が付かんかったわ」、と茫洋の君。

 はてこの行為、解答を教えたことでわなし、カンニングではないわな、と言うことで二人の間で決着したようであるが、みなさんどう思われます?

 このような彼のピンボケ行動は他にもいくつかあるのですが、

運動場で三角ベースの野球(ソフトボール)しているおり、超大飛球を背走しながら、素手でナイスキャッチ、大ファインプレーです。
試合状況は確か1アウト、ランナー2塁、ここで彼なにを思ったのか、キャッチしたボールを地面に叩きつけ、本人大喜びで走って来るのです。
あまりの喜びで、ゲームの状況がすっ飛んだようです。
ボールはあらぬ方向に転がり、2塁ランナー、無事ホームイン、1点献上です。

 もう一つはバレーボールの授業。
当時9人制が基本の時代です。
ポジッションは固定で彼、後衛の真ん中。
セカンドサーブ(一人で2回のサーブ権あり)のボールがバックラインを越えようとしたとき、やおらボールに飛びつき、大声で「アウト」とのたまう。
ボールに触れずに、コート外に見送れば、労せず1点、頂けたのに。
当然、審判は「ホールディング」の判定にてこれも相手に1てん献上。

 書こうと思えばまだ幾つかあるのですが、まあこの辺で置いておきましょう。

 Viva「茫洋の君・守山君の笑顔」そして「超・満員の教室」の喧騒が50年の時空を超え、今もoldboy君の脳裏に、目に、耳に残っている残影に賛。

 最後に、彼の名誉のために報告すれば、高校卒業後一浪の後、見事、公立
の大学に受かったそうだ。
oldboy君など比べて、よほどの根性の持ち主なのである。

                了  
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(雑感・雑記帳  NO.11)    子供たち(花)はどこに行ったの? oldboy-elegy君的「人口動態表」の見方

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内閣府発表の人口動態に関する統計資料です、都道府県別「合計特殊出生率」など興味がつきません。以下にリンクを貼っておきます。

出生数・出生率の推移: 子ども・子育て本部 - 内閣府

※上記のリンク案内、現在では「not found]」扱いになっています。申し訳
ありません。
記事内容は、上記グラフのみでも、通用いたします。
失礼します。 (2022年・04にて付記)

 

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  oldboy-elegy君、幼少のみぎり、大勢のガキンチョ(腕白坊主)の集団の中で生きるすべを学んで?来た様に思う、良し悪しは別にして。

 ブログ記事のいくつかは、その折の事をおもしろ、可笑しく、
そしてちょっぴり哀しく書き上げたつもりだ。
読んでいただいて、何か読者諸氏のためになるような情報があるのかと言えば皆無かも知れない。
食べ歩き?ないない、「本人、おなかが空いた時の食事が最高の御馳走」と思っている節がどこかにある。
パソコンのスキル情報の発信、これは絶対にない、「教わるスキルは山ほ
どある」が。
何か商品情報でも?これはもッとない、「壊れた時が買い替え時」ぐらいにしか思っていない。

 
それでは、何を売りにブログ記事を?
oldboy-elegy君の立ち位置、目的の事なら?、「コーヒーブレイク」のための「お休み処」ぐらいのつもりで書いている、と言えば良いのかな。
「チョットした懐かしさとelegy(哀しさ)」を感じ共有していただければ、それが嬉しい。
また、御同輩の方なら、今は亡き父母の事や、成就を得なかった彼女の事などに「人知れず、寸時の間」思いをはせ、頬を緩ませるのも、一興かもしれぬ。
まあ、そんなところである、自分が思うに、迫力の無い事、おびただしい。

 そして、また新たな気持ちで、戦いの大海原に出航して欲しいものである。

 自分(oldboy君)には戦いの場は似合わない。
これまでの人生、自分にプレッシャーを与える物事からは極力避けてきた経緯がある。
もし、この21世紀に社会人として出発せねばならぬなら、oldboy君、1年、いや数か月のうちに脱落すること請け合いである、すなわち天性の「根性」なしで「グータラ」な御仁なのである。
それが証拠にoldboy-elegy君の「ブログ一行紹介」ではこうなっている。

「ずいぶん長きにわたり、グータラな人生を送ってきたもんです。これからも
きっとこうでしょう、ハイ」

ふざけた野郎である。

 さて今日のトップ画像はいつものイラスト画像と違い「資料画像」である。
それも日本の「人口動態統計」と言う少々重い雰囲気のものだ。

 先ごろ、厚労省は、「今年中に(令和元年)新生児数は90万人を割るのが確実」と発表、これは統計を取り始めて(明治以後)初の事らしい。


 oldboy君のブログを読めば、ワイワイ、ガヤガヤと大勢の子供たちが登場するのが常である。
それに比べて21世紀の現在、彼等が街中や児童公園、広場などで学年に関係なく子供達だけの集団で遊ぶ姿は殆んど、いや全く見なくなったように思う。
たまさか見かけても、親の監視のもとに遊ぶ子たちだけである。


 そこで実際の人口「動態」、つまり「経年」に渡る「実数」を見たくなり、厚労省
(2016年・H28年)発表のこのグラフを記事に貼る事にした。
このグラフ、「出生数」の棒グラフのほかに「合計特殊出生率」なるものが、赤字の折れ線グラフで同時表示され、特異年のみではあるが、実数が記載されている。
oldboy君、「自身の感覚」と「事実」の間に「乖離」があるのか、もしあれば何故なのかとの思いで見たかったのである。

 つまるところ、「この少子化に対する危機的状況」に「政府がどうの、こうの」ではなく、単純に「oldboy君には、この実数以上に子供の姿が見えない」と言う「現実」の「意識と実感」に就いて書いて見たいのが主旨である。

  例えば、(若いお父さん、お母さんが、子連れで歩いてはいるが、その視線の先は自分達の、それぞれのスマートホンに一生懸命)、みたいな事である。
まあ、いつもの「彼、一流の独断と偏見に満ちた」感想だと思ってくれ。


 そこでこの記事のタイトルは「子供たち(花)はどこにいったの?」となっている、のである。

 往年のプロテスト、フォークソング「花はどこへ行った?」をもじったものだ。
「Where have  all the flowers gone」がそれである。
作詞、作曲は米国のフォーク歌手、ピート・シーガーで、後に多くの有名歌手がカバーを出している。
有名どころでは「キングストン・トリオ」「ブラザーズ・フォー」「PPMこと、ピーター・ポール&マリー」、日本人では「加藤登紀子」など大勢いる。

 今の若者たちには、上記の人達すべて「それだれ?」と言う事になるのかな?。

 実はこのピート・シーガー、oldboy-elegy君とは多少にして、大いなる縁?がある、と勝手に思っている。
彼(ピート・シーガー)の生年月日は1919年、5月3日生まれである、1919年を除いて月日はoldboyくんと全く同じである。
ここで「あほらし」と少し軽蔑の念をもって「笑えたくば笑え」、笑うのは自由である。
確率365分の1、稀有なことと俺は勝手に思っている。

 それにoldboy君、昔からの現行憲法の擁護(論)者である。
5月3日は祭日にして休日であることが、その主たる事由で、政治的意味は皆無であるのが彼らしい。

 歌詞の後半は「男たち、どこに行ったの? みんな戦場に行ったよ、それでみんな墓場に入ったよ、それで娘たちは墓場の花を摘んでいったよ」・・・意訳。

 その昔、その詩から強烈な印象を受けた事も憶えている。

 もう一つ「If ,I had a Hammer・天使のハンマー」なども欧米人特有のアイロニーが効いた作品であったように思う。
もし俺が訳詩するなら「天使のハンマー」ではなく、ここはストレートに「俺がハンマーを持ったなら」とするが。

 おまけにもう一つ、これは彼(ピート・シーガー)の原曲ではないが「We shall over come・進もう乗り越えて」も彼とともに、存在感を発揮した曲である。
合衆国60年代、マルチン・ルーサー・キング牧師を先頭に黒人解放のための「公民権運動」の原動力をなす「主題歌」でもあった。
ジョン・バエズもそこにいた。
またPPM(ピーター・ポール&マリー)のマリーはこう言った「社会の変革には必ず、音楽の声が、ともにあった」と。
21世紀のこの時代、歌の好みもあまりにセグメント化(細分化)され、マリーの言うような事が現実に起こる事があるのかどうか疑わしい。

 さて肝心のグラフに戻ろう。
「出生数」とは文字通り、その年に生まれた新生児の単純合計である。
S24年・1949年がベビーブーム頂点の年で新生児数は2.696.638人である。
ほぼoldboy君と同年配のかたがたである。
途中、丙午(ひのえうま)・新生児の厄年(やくどし)や第二次ベビーブームなど、曲折はあったものの漸減傾向に歯止ハドメがかかることはなかった。
最終、右端のH28年・2016年には百万人を切り、976.978人にまで落ち込む
ことになる。
S24年ピーク時の36~37%の水準である。
これが今年・令和元年末には90万人を下まわるらしい。

 それでもoldboy君、超満員の小学校の教室、70人越えの中学校の英語の教室などを経験してきたが、現在の今、数字以上に子供たちが少なくなったと感じてしまうのだが?
 
 これは実数の事より、社会の在り方、有り様が完全に様変わりした事の方が意味が大きいのではないか。
oldboy君、子供の頃、親と遊ぶ事なんてなかった、よしんばあったとしても、年1回遊園地に親の義務感で連れていかれるのが関の山、親は親、必死に働きづめ、こちら子供としても
「かえってアリガタ迷惑」で、その「ギコチナサの感覚」は「いかにも喜んで見せるが」正直、芯から喜んでる訳でもない。
イケ好かぬ子どもである、「どこか太宰」の「人間失格」を思いおこす。

 学校から帰るやいなや、玄関先にランドセルを投げ置き、すぐに外に飛び出し、暗くなるまでヤンチャし、遊びほけているほうがヨッポド良いのである。

 街の児童公園(今では街区公園と言うらしい)から子供が消えて久しい。
ボール投げ禁止、大声を出さない、走り回らないなどの注意書が書かれた街区公園もあるとのこと。
これでは子供達に静かに公園でケータイゲームでもしろと、それなら家でおやつを食べながらゲームをし、時おり親に勉強を強要されているほうがましかと思ってしまう。
 
 今の子供たちに「この広場自由に使って遊んでも良いよ」と言っても、ただただ戸惑うばかりで、あまり嬉しい事では無いのかもしれない。

●まず、他人との生身の接触がなく安全なのは自分の家
●住居形態の変化 特に都会では、戦後一貫して地方からの流入者は中層、高層のアパート、マンションに居住。隔絶された隣家、近所、町内、地域を長年にわたり形成
●両親の共働き、による子育ての物理的困難さ。
●極端な都会集中、東京一極集中と言っても良いかも
●PC,スマートホンの発達、それとともに、SNSによる人間関係の疑似体験(自分に合わないものは初めから関係は持たないし、煩わしい事は簡単にボタン1個で拒否・消去できる世界)
●人間同士の生身の接触は初めから「なかよし広場」、合わないもの、やっつける相手はいくらでもいる、ゲームの中に。
●大人も、同じく、この環境の中に入る、「帰宅して、少しでも気に入らない人」と「同居」するよりSNSの向こうの気の合う人とコンタクトする方が楽しい。そしてセックスレス化。

 こう列挙すれば、子供が危険を冒してまで、外に出る必要もないし、ある意味自己完結も可能である。
このように見て来ると、oldboy君、数字以上に子供達が眼前から消えてゆくのを納得せざるを得ない。

 結論として言えるのは、「文明の発達、進化が、これまで余り影響を受けなかった文化(民族としての美徳や特性)と言う牙城にまで変化をもたらし始めたのかも知れない」

 もう一つの聞きなれない言葉が「合計特殊出生率」であるが、一人の女性が生涯に産む新生児の平均の数である。(赤い折れ線グラフの部分)
中でもエポックメイキング的な年、二つのベビーブームや、ひのえうまの年、最低率の年などがピンクの棒グラフで記載されていて、それぞれ白枠に実数が書かれている。
条件として15才から49才までの間と言う縛りがある。

 夫婦2人で2人の子、大まかに言えば、かろうじて「人口の維持」が可能な数字で、「合計特殊出産率 2.0 」と言う事だ。

2016年・平成28年では
全国平均(1.44) 東京(最低で1.24)沖縄(最高値で1.95)
平均値以下、北海道、大阪を始め(11都道府県)
平均以上(36県)

注目すべきは、中国・四国・九州域の全ての県はこの平均値をうわまわっているのである、特に戦後一貫して若者が、関東、関西の工業地帯に移動して行ったことを考えると特筆ものであると思う。
ところが東北各県のこの数値は意外に低く、平均以下の県も数県存在する。
それだけ、特に関東以北(東北など)は東京への若者の吸引力が強力だったことが分かる。

 映画「ALWAYS 3丁目の夕日」の時代背景はこの頃のことである。

 oldboy-elegy君も若かりしころ九州は宮崎駅で「集団就職列車」に遭遇したことがあった。
このことは 「oldboy-elegy NO.8・初めて社会に出て働き始めたころの話」としてブログ化している。
 最下段に記事をリンクしておくので読んでいただいたら嬉しい、なお時代の雰囲気を感じてもらえば最高だ。

 文明、文化、移民、IT, 首都圏の分散化、などとトータル的に手を打つことができるのか、あるいは全て放置して流れるままに行きつくとこに行けば良いと「ケ・セラセラ」精神の無手のまま行くのか、勿論oldboy-elegy君にはわからない。

     oldboy-elegy君、当然この行く末を見ることは決してない。

                了
                oldboy-elegy

 

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oldboy-elegy (16)  石畳、路地奥「インデラ・コーヒー・カレー店」の脇を子供達の集団が歓声とともに、白いケム(けむり)の精霊となり走り去った

 

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 このイラスト画像、この雰囲気、右端の丸椅子に腰を下ろしコーヒーをすすれば、oldboy-elegy君の50年前の姿そのものである。
なぜ画像の右端かと言うと、ここが行き止まりであるため人が通ることは無い、その上、壁に身を預ける事もできる。この並びに丸椅子は4脚、あとカウンターの左端から鍵型に奥に向かって折れ、そこに2脚とコーナーにもう一人分、計7人分、これで全て、当然別個にテーブル席などないし場所もない。
ただし満員のおりの非常用に椅子が別に2脚用意されているが、これが使用されている場面にoldboy君、遭遇した事は無かったように思う。
店員さんはナシ、ママ一人で切り盛りしておられた。
店の2階が彼女の居住区である。
背は、ガラスの格子窓、その向こうは石畳みの路地になる。

 
「ママ」は当時で50過ぎのふっくら、丸顔、美人ではないが好感が持てるお人であった。
当然彼、ママの名字、名前もキッチリ今も記憶にある。

 oldboy君、この店との成り染が、何故かはっきりしない。
ただこの辺り、幼少の頃からの「訳知り」裏道で、人通りが多い商店街を通らず、この裏路地を利用していたのである。
oldboy君にすれば、家から駅方面に出るための「ショートカット」メイン通りである。


 すぐそばに「真宗系」の大寺があり、門前の立派な石段はガキンチョ(こなまいきな子供達)のある意味「集団博打場?」であった。

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●上記掲載のイラスト画像
 子供達がべったん(めんこ)で遊んでいる様子である。
一番基本形である「裏返し」(または単にかえし)とoldboy君達は言っていた。
一枚ずつ出し合い、交代ではたく(自分のべったんで、相手のそれの下に風を送り込
む)、裏返しした者が勝ちで、負けたら、自分のそれを失う。
一見、単純そうに見えるが、奥は深い。


   この寺院の石段はべったん(めんこ)の気合の入った他流試合の主戦場なのである。
まあ、昨今なら「べったん甲子園」というべき場所である。

 参加者は5~6人の1チーム編成で学年も低学年の子から最上級生まで、双方の状況に合わせて「柔軟」にメンバーを組む。
時には、近隣の街、町内併せて6~7チーム、人数にして50人ほどの員数になることもある。
当時、遊び仲間は同学年同志で徒党を組むことはなかった。
小学生の場合、1年生から6年生までが1グループを成し、上級生が下級生の面倒を見ながら出来るだけ行動を共にしていたように思う。
もちろん、これらの中には、大人は一人もいない、すべて自分達だけで仕切るのである。
べったん(めんこ)と言えど、彼等にすれば、「命の、次の次のもう一つ次ぐらいの大切なものである、これを勝負で掛け合うのである。

 場合によっては「血の雨が降りそうな」双方、険悪な状態になることもある。
しかし大ゲンカの乱闘騒ぎに、至った事はない。
何故かって?!!。
それはsafety device(安全装置)が存在し、それがきちんと働いていたからである。
そのdevice(装置)とは、我がチームの長、勇吉(仮名)の存在である。

 勇吉の家の商売は「香具師・的屋」の親分である。
この地域に真宗系の大寺が2つある。
これを結ぶ参詣道に「お逮夜市・おたいや」と呼ばれる市(いち)が月2回(11日、27日)立つのである。
「縁日」ではあるが、遊びの要素より、もっと「生活感」が強く前に出た、いわゆる「市が立つ、の市」で市場(いちば)に近い感覚である。
戦争直後の必然の形かもしれない。
生活雑貨、古着、農具、種苗、各地の漢方系の薬、名産食品、それに射的、ヨーヨー、金魚すくい等、それに今でゆうところのストリートフードなどが混じり簡易店舗を設営し、それぞれ独特の口上(商品の効能等の宣伝文)で呼び込むのである。
「これではお昼の弁当のおかずが足りまっしぇん、卵3個4個、これでは家のオゼゼ(お金)が火の車・・・・」これは卵焼きの増量パウダーを売るオネーさんの口上である。

 参詣道の表通りはもとより、脇道、裏道から路地、ちょっとした空き地には怪しげな小屋が、どれほどの数の的屋(てきや)がここに集まっているのか想像もできないほどの賑わいである。
遠くは大和(奈良)あたりからの参詣人も多い。

 母などは、自分の故郷・鹿児島の味、かちわり黒糖(サトウキビから生成)を買うためだけに市(いち)に出向く、用のある時などoldboy君、お使いとして頼まれることもある。
その折おばさんが、「母ちゃん元気か~」と言いながら、黒糖の2、3欠片(かけら)をおまけに頂くのが常であった。

  勇吉は寺の石段のべったん大会には、選手として出た事がなっかったと思う。
「勇吉さん、これキッチリ2ッチンになっとるけ」「この親札、油塗りすぎ違うけ」
「6枚もんの親札は最初だけやぞ」「小ふだに蝋塗ったらあかんやろ」などなど、
最終判定を勇吉に委ねるのである。
彼の偉いのは、出身母体の我々のチームにも1寸たりとも依怙贔屓(えこひいき)することは決してなかった事である。
みんなが彼を最終審判者と認めているのは、彼のこのような普段の振舞いにある。
●用語説明 「2ッチン」2枚重ねるの意味で、石段の前部に重ねた大量の「べったん」を「親札」の大きな「べったん」でハタキ、下の石段に飛ばす、2枚重なった時が勝ちでその分だけを貰え、べったんが無くなるまで戦う。

 よくよく考えてみるに、勇吉の爺さんや父親は、香具師、的屋の元締めとして寺を始めあらゆる利権に関して不平、不満が出ない事を第一義として、双方を取りなす、公正さ、信頼、最終的には有無も言わせぬ強面(こわおもて)な迫力など、なまじっかな力量で務まるものではないはずのものである。

 こんな折(べったん)の勇吉は本人が家の環境に身に置くうちに、知らずのうちに
身に就けたものかも知れない。
ここでは、「べったん」の遊び方やルールを説明するものでもない、いずれ適切な場面があった時には別途、紹介するかもしれない。

 さて、「インデラ・コーヒー店」との成り染だが、後付けだが思い当たることがある。
この路地の真ん中あたりに1軒の花屋があり、店の屋号は忘れたが、店主の「ハルさん」には随分とお世話になった。
インデラコーヒ店とは10メートル程度しか離れていない。
oldboy-elegy君、人生初のアルバイトが彼の元でのもので、多分、中学2年の夏休みのことであったはず。
この事が「インデラ・コーヒー店」との縁であったように思うが、これしか思いつかないのだが。

 そのアルバイトの内容が、花屋とは全く関係のない「氷運びの助太刀」である。
ハルやん、まだ30才前の独身青年で、男前且つ、爽やかな人であった。
朝早くから三輪ミゼットで花市場へゆき、店に帰って大急ぎで下準備、販売はおばちゃん(ハルやんの母親)に任せ、
自身は俺をミゼットの荷台に乗せ製氷会社に、デカイ氷柱を何本か乗せ、町中のかき氷屋さん、甘味処、駄菓子屋さんに小分けしながら卸していくのである、真夏のこととて、とにかく時間との勝負である。

 そのおりのエピソードを一つ、
氷と俺を荷台に乗せ町中を走行中、〇〇信用銀行の横の裏通りに入ろうとした時、ハルさん自慢のミゼットが何を感じたのか「オットット!!」と右斜め前方に「コロリ」と転倒、日除けむしろとともに氷を道にぶちまけた。
一方oldboy君、超 スローモーの転倒が幸いしたのか、転倒したミゼットの脇にすくっと仁王立ち、ハルさん、薄い鉄板のドアーを持ち上げ「怪我ないかー」のありがたいお言葉。
しかし、これをビルの高見から見ていた信用金庫の女子職員、けが人がないと分かると口を押え、笑いをこらえている人もいる、余りに迫力のない自動車事故、こちとらは何故かこのことが気恥ずかしくもあった。
横転した車を起こすのも、銀行の職員さんが2,3人介添えしていただいたので、oldboy君など、力を入れるまでもなく「スック」と起き上がり、元の「雄姿」を寸時に取り戻したのであった。
もちろん、「氷」以外実害はないようで、警察には報告しなかったようである。

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 「べったん」もそうであるが、月2回の「お逮夜市」も「悪ガキども」の人気の遊びフィールドである。
寺の石段脇には、羽織はかま姿の傷軟膏(きずなんこう)売りの、ちょんまげはないが、サムライがいた。
脇には赤茶けた木製の漆塗(うるしぬり)りの刀置きがあり、そこには黒っぽい大刀が一振り本物然として掛けられている。
口上では「さあー抜くぞ、やれ抜くぞー」と言いながら、ついぞ抜いたためしがない。
それでも子供達は茶化すことはしない、何故なら、刀がもし本物だったらの思いを捨てきれてないのである。

 当方、お逮夜市(おたいや)の様子を記事にしたブログもある。
この記事の最下段にリンクを張り付けておくので、よろしかったら見ていただければ嬉しい。

 何十年も後に、この商店街を妹と落ち合い「インデラ・コーヒー店」の方角に歩いたことがある、oldboy-elegy君のリクエストである。
因みに、彼女は他県に嫁いでいる。
駅からここまで、子供はおろか、人の行き来そのものがほとんどない。
「兄ちゃん、この通りさびれたな~」の妹の一言。
ときおり、商店の店頭脇に「お逮夜市・おたいやいち」と染められた昇り旗を見るが、余計に侘(わび)しく、ウラビレた感覚に陥る、子供の頃のあのキラキラした陽光はもうない。

 oldboy君の幼少の頃の行状、振る舞いを見るなら、随分とこの街に溶け込んでいるように見える。
しかし彼がこの地、大阪は河内のど真ん中に母の手に引かれてやって来たのはそうそう前のことでもない。
oldboy-elegy君の名字は母のもので、親父とは違っている、私生児と言う事である。
まあ、言ってみれば、お妾さんが男の子を一人連れ、押しかけて来たと言えば分かり良いのかも。
因みに俺、小学校1年の、6月か7月かの途中入学であり、学校なるものの初体験であった。したがって幼稚園は知らない。
この間、随分と母と親父の間に葛藤があっただろうことは想像に難くない。
親父には先妻、イヤ本妻との間に男の子ばかり、3人がいた。
3人の義兄もすでにこの世の人ではない。

 その辺の事は、ブログ・プロフィールに少し書かせていただいた。
妹は、こちら・大阪の生まれで、oldboy君とは7才違いである。
それから随分と年月がたった、彼の心の内でのデラシネ(フランス語で根無し草・故郷の無い人)感は今も続くが、親父を憎いなどこれぽっちも思った事はない。
むしろ良くやった方かもしれない。
父も大阪の人ではない、学歴も尋常高等小学校卒で自身の才覚だけで生き抜いた人であった。
遊びも「ビリヤード」「ダンスホール」「おしゃれ」と所謂「モダンボーイ」を地で行った人である。
亡くなったのは「行年100歳」となっている、苦労も多かったが、人生を大いに楽しんだように思う。
●因みに、「デラシネ」なる言葉は大昔「五木寛之」さんの小説で仕入れたものである。


 今は、妹を除いてだれもこの世の人ではない、ましてや顔見知りや親交のある親戚などは皆無である。

商店街を「インデラ・コーヒー・カレー店」があった近くまで来たが、もう「歩・ほ」が進まぬ。
oldboy-elegy君、この閑散たる通りの佇まいを見て、感じて「いまさらなにも」の気持ちが湧きあがってくる。
今ここで「インデラ・コーヒー・カレー店」の残滓を目にしても決して心地の良いものではないことは想像に難くない。
oldboy-elegy君のelegy(エレジー・哀しさ)のまま、そっとしておくのが最良であると感じた。
「〇子、もういいわ駅に戻ろ」と兄は妹を促した。
走り去った子供たちの「歓声」は今はもうない。

 高校時代、アルバイト代が入ったおり、Tenko(同級生の女性)を誘い幾度か「インデラ・コーヒー・カレー店」に来たことも思い出していた。
7才年下の妹は、この女性のことは知る由もない。
----(oldboy-elegy 9)で既出。

妹は高校の演劇部で役者ではなく「裏方」をしながら、理論指導をしていたらしい。
その彼女の愛読書が「ベケット全集」であった。
一度、こんな彼女を誘い、京都大学西部講堂前広場での「唐十郎・テント劇場」の公演を見に行った事がある、演目はたしか「ベンガルの虎」だったように思うがさだかではない。

  

「おとなは、だれも、はじめは子供だった。

しかし、そのことを忘れずにいるおとなは、

いくらもいない」    星の王子さま by  サン・テグジュペリ



               了
            oldboy-elegy
下のブログ記事のリンクは

子供の目線から見た「お逮夜市」と「彼等の行状」を、楽しく書いた記事である。
卵焼きの増量パウダー屋さんの、呼び込み口上(宣伝文)を何故憶えていたのか、笑ってしまう、もっと必要なことがあったろうに。

 

 

 

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(雑感・雑記帳 NO.10)「エアーたばこで禁煙中」2年9か月になります oldboy-elegy

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 2019・6・13 エントリーのブログの追記事である。

 重度の風邪(かぜ)によるヨレヨレ状態で近所のクリニックへゆくも、「完治までタバコの吸引禁止」の「ご宣託」。
oldboy-elegy君、「禁止命令」がなくとも、吸える状態ではないのです。
咳はゴホゴホ、鼻汁はのべつ、熱は8度少し、悪寒ありの、いわゆる「風邪のデパート状態」なのである。
 
 日記を見ると病院に行ったのが2017・1・27となっており、その日からの禁煙、およそ本日で禁煙2年9か月になるようです。
ただし「禁煙中」ではあるのですが、今もパソコン脇のサイドボードの引き出しには「メビウス・スーパーライツ」が1箱入っております。
外出時にメビウスは、oldboy君のショルダーバッグに移動するのです。
それでも決して、これに火をつける事はありません。
ただただ自分の「心身」に「タバコが無いぞ」とのプレッシャーを
与えないための方策なのです。
それほど、この「喫煙習慣」なるもの「一朝一夕」では排除できるものでは
ありません。

 2年9か月禁煙中のoldboy-elegy君、これでも「タバコを止めました」とは言えません、あくまでも「禁煙中」の身なのです。
考えもしてください、1日約30本のノルマ?を実に半世紀近く律儀に実行してきた身です。
あ~、それに彼の母を加えると、母子2代の重度の喫煙家系です。

 母に就いては「教頭、担任の前で、紫煙をプカリ・oldboy-elegy(2)」にて既出です。

 
さてここでoldboy君が言う「エアータバコ」の概念?を知っておく必要があります。

賢明な読者諸兄にはおよその見当は、ついておられると思うのですが、

「シャベル(スコップ)や座敷ボウキを手にエレキギターを疑似演奏、または何も持たなくともその気になりきる奏者?の本気度とそのパフォーマンスをエアーギター(エアーエレキ)などと言うらしいのだが、そのシャベルやホウキを本物のタバコに置き換え、火を付けず疑似喫煙する行動をエアータバコと言う」


 上記の表現が彼の言う「エアーたばこの概念」らしいのですが理解して頂けたでしょうか?

 何故、再度、この記事について書こうかと考えたのかは以下の通りです。
新たに二つの新事実が発生し、是非ぜひ、これらを書き加えたくなった事が本当のところです。

● つい最近「エアーたばこ」なる言葉で「グーグル検索」をかけたところ、
 約6百70万件もの記事数がヒットしたのです。
 「禁煙」は社会の大きな関心時であるのが分かります。
 今年6月の時とは大きく様変わりしているのにはビックリです。
 「なんじゃこりゃ!」と言う気持ちが素直な感想です、それで
 グーグル検索1位から幾つか「エアーたばこ」に関する最新記事を
 見ておこうと読み始めたのです。

 Topは整体師さんが、本物のタバコは使わない、文字通りの脳内訓練によるエアーたばこでのお話です。
これを買ってください式のものではありません。
次からは電子タバコの類で、新しいものでは、「天然植物成分配合のビタミン吸引器」なる新商品がアマゾンを初めとする通販系の案内記事などが並んでいます。
ここで4番目に「雑感・雑記帳(NO.2)エアーたばこで禁煙中・・・oldboy-elegy」??!!なる文言が目に飛び込んできたのです。
間違いなければ、確か彼の以前のブログ記事のタイトルのはずです。
6百70万件の4番目です、信じられないの気持ちで「急ぎ、慌てふためいてクリック」、画面を見て、もう一度「ビックリ」
何があったと思います、皆さん、
「Entory is not found」の横文字が目に飛び込んできたのです。
確かfoundはfindの過去分詞、「エントリーは見つかりませんでした」が日本語ですよね、
みなさん「寄ってらっしゃい、見てください、そして笑ってやってくださいまし!!!」の心境です。
それでもタイトルとサイドバーのエントリー記事一覧が存在し、ちゃんと機能しているのですね。
しかしたまたま、タイトルを見たコンシューマさんがクリックして、現れた画面が
「Entory is not  found」では、次の瞬間「ハイ、さよなら」が常識で当たり前ですよね。
記事元の彼とは、「会うは分かれの初めとは」以前の問題です。

 PCに弱いoldboy君、「これが404表示」と言うやつかと分かっただけで「何がダメでこうなったのか」は原因不明のまま。
大会社の会社案内のホームページなどにもこの404記事が散見できるとの事、そのおりは、ページのカスタマイズをして、お客の気分を害しないようにしているらしい。

 つまりoldboy-elegy君、not foundページの改修をするだけの技量がないので、新記事としてUPしょうと考えた次第です。
何か月後に、上手く上位にランクされればいいな位のスタンスです。
これが「当記事作成」の一つ目の要因です。

● もう一つは喫茶店でのしゃべくり仲間のKさんの事。

 彼、oldboy君と同年齢、年寄りどうしの歳など、およそ「じじい」で一括りの
 存在、時おりの集まりも「スピーキング能力の維持」が目的みたいなもの。
 因みに、彼がブログを始めた事は3人とも知らない。

 いつだったかの集まりの時、彼Kさん達に「エアーたばこ」の「概念と効能」
 を少し話した事があります。
 手にしてるタバコに火を付けないまま「ぷかぷか」疑似吸引しているのを
 見て「なにしてんのoldboyさん」と聞いてきたのが始まりです。
 他の二人は非喫煙者です。
 因みにこの喫茶店、今はやりの「スターバックス」などではなく、所謂、
 普通に昔からある「純喫茶」タイプのお店です。
 置き新聞、週刊誌、雑誌が豊富なのが気に入っています。

 このKさん、ただいま、oldboyくんの「提唱?」する「エアータバコ」の
 実践中なのです。 
 まだ初めて半月ばかりだそうです。
 彼の偉いのは、体調の良し悪しとは関係なく「oldboyくんが言うとったな、
 ワイも気張らず やってみよか」ぐらいのノリで始めたそうです。

 ・まず、喉のイガイガが取れ、痰(たん)が減った。
 ・尾籠な話でゴメン、鼻くそ、鼻汁が白くなってきた、
    などを実感して、それが「大きな、モチベーションになり、続けられそう」
       との事、提唱者のoldboyくんとして、誠に嬉しいかぎりです。
 
  Kさんの場合、喫煙量は、三日に二箱ぐらい、月20箱程度でoldboy君に比べて
随分と少ないようです。
それに喫煙による体調の不良も特に感じていなかったらしいのですが、上記の
「良い変化」を目の当たりにして「エアーたばこの継続」をユルク決心。

 現に今も、着火してないタバコを時折、口に運び「疑似吸引」をなさっている。
ごく自然体であられるのが良い、本人曰く「月に少ない年金が1万円ほど増えたと
思えるのが良い」との弁。

 以上2点が今回のブログ記事を書くための「モチベーション・動機」となっている。

 この禁煙方法は誰もがうまくいくものでもないと思っている、ニコチン・タールなどを体内に大量に取り込むのを目的に、煙を深く肺に吸い込むタイプの人達にはこの「エアーたばこ」なる禁煙方法は向かないような気がする。
oldboy君、自身の喫煙習慣を思い出して見た時、このタイプの喫煙者とは違っていたようである。
まず、煙を目一杯、肺におくり込む人では無かったようです。
喉の入り口ぐらいで寸止めして、鼻腔からの排煙ではなく、再度口からのそれで、
擬音で表現するなら「チュパ、チュッパ」かな、およそ昔の映画やドラマのような
カッコよいものではなかったように思う。

 そこでoldboy君よくよく考えて気が付いた事がある「俺はタバコのニコチンやタールの中毒ではなく、その一連の吸引の動作が身に沁み込み強い習慣性の中毒になっていたのではないのかと。

 朝、目を覚ます、ベッドの中でまず1本、新聞を読みながら1本、朝食の後に1本、コーヒーブレイクでまた1本、電車のホームの端の喫煙コーナーで無理に1本、
全てが自分の行動の変化の区切りに必ず吸っていたように思う。
たばこが旨い、美味しいからの喫煙でないのである。

 それが証拠に映画館で、上映中に喫煙のため席を立ったことはなかったはづである。
上映中の1時間半なり2時間の間「喫煙」の事は忘れていたように思う。

 比較的、このようなタイプの喫煙者に「エアーたばこ」は向いているように思う、Kさんも含めて。

 ここからは「エアーたばこ実践編」として、順を追って記述してみる。
  
●1  必ずフィルタータバコを購入すること。
   1本で2、3日ほど使用可能、タバコを包む紙とフィルターの境界部分が
   湿り気をおび、折れやすくなったら替え時。
   1か月1~2箱、500円~1000でOK
   因みにoldboy君の場合一月1箱
●2  1本費消するたびにフィルター部分を分離保管、葉の部分は廃棄。
   ブログ記事を書いている時など、上記の分離したフィルター部分
   に横から爪楊枝を指し、使用、何故なら「エアーたばこ」に変わりは
   ない、のであるから。
   フィルターのみでの吸引はタバコの葉のかすかな風味と香料の香りは
   期待できない。  
   ただし外ではしない事、恥ずかしすぎる。
●3  この方法で「禁煙」を始めたら、自身に「何が何でも」などと
   プレシャーをかけない事、いつでも吸えるんだから、ただし
   「エアータバコ」で。
●4  まず、1週間~10日、「エアーたばこ」を継続しながら「自己」の体調の
   細かな変化を観察しましょう、「喉の調子」「味覚」「鼻汁・鼻くその
   色の変化」 など、自覚できるものが一つでもあれば、それは継続
   意欲への強い「モチベーション」になるはずです。
●5 「エアータバコ」について「うまくいった・ゆかない」等のことは全て
   自己責任と言う事でお願いする。
   またこの方法に医学的な治験が存在するものでもない事は了承して
   おいてくれ。


追記
  母もoldboy-elegyくんに劣らずヘビースモーカーであった。
 85歳、亡くなる間際まで吸っていらっしゃった。
 「エアーたばこ」を実践中の彼oldboy君は当然、時折タバコを買う。
 その封を切り、吸い良いように1本だけ1/3程度引き出し、遺影の前の
 小皿に入れ、そえてあげる、写真の母は着物姿である。
 斜に構えた母が、「フン、小生意気な」と顔を俺に向け、目が少し
 笑ったように思うが、どうだろう。
 

               了

             oldboy-elegy

今回の記事は「下記・リンク記事」を受けてのものである。
目を通していただければ嬉しい。

 

記事一覧 - oldboy-elegy のブログ

(雑感・雑記帳 No.9) ラグビーW杯のoldboy君的、独断と偏見による総括・そしてそこから見える日本文化論

 

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 oldboy-elegy君、前回、(雑感・雑記帳 No.8)ラグビーを真ん中に・・・・での記事を書き公開しました。
そのブログは当記事最下段に、リンク貼り付けしましたので、よろしければ併せて目を通していただけたら幸いです。


 今日はその時の内容を受け、大会を終えた今、いつも通り「独断と偏見」満載で記事化しました。

 ラグビーW杯・日本大会が11月2日をもって全日程(約1.5か月)を終え、
優勝は南アフリカ、準優勝はイングランドで日本は初の一次リーグ・プールAを強豪アイルランドスコットランドなどを破り、首位で突破と言う偉業を成し遂げましたが、ベスト8(トーナメント戦)では優勝した南アフリカに26-3のスコア、ノートライで敗れます。


 スポーツ新聞や大方の報道は日本のベスト8での敗退を非常に残念なものとしていますが(世間のあり様としては当然と言えば当然なのですが)、oldboy君は少し違った見方をしていました。


 「もうこの辺りで、敗れても良し、敢えて極論するなら、完敗ならなおの事よしぐらいの気持ちでテレビ観戦していたのです


 物事を成就するには、何事にも順序、段階が必要だと考えるのですがどうでしょう。
特にこのスポーツ(ラグビー)はまぐれ勝ち(fluke)が非常に少ない事で知られています。
ほぼ同等の力関係にあるチーム同士が対戦するなら、Aが勝ったりBが勝ったりすることはよくある事ですが、明らかに格下とされるチームが最上位にランクするチームに勝利するのは殆んどないのが、このスポーツの特徴かもしれません。
この意味では前回のW杯で日本が今回優勝した南アフリカに勝利したのは、異例中の異例の事でした。


 今回の大会でも、オールブラックス(ニュージランド)が(スプリングボックス南アフリカに敗れたとは言え3位なのですから、次での対戦はどうなるか分かりません。

 ただ日本が、W杯や他の国際試合でベスト8を堅持するのも難しいかも知れません。
それでも日本は簡単に勝てるチームではないと言う、印象を与えた事は間違いのないところです。
この地位をまず盤石にすることが向こう4年、8年かかるかも知れません。
もしここで、間違って優勝や準優勝するような事が起こるなら、そこに到達する険しく苦しい過程が抜け落ち、安く軽いものになりかねないものになってしまう気がしたのです。
日本のラグビー関係者のみならず、社会的にも。

 日本のラグビーの歴史は他国に比べてもそう劣るものではありません。
折角、ラグビーというスポーツを今回初めて見て「面白い」「ルールもある程度分かってきた」などの初心者も含めて多くの人がこの球技を認知する事からの出発と捉えて、しっかりと歩んで欲しいのです。

 oldboy-elegy君、そう言う意味で冒頭で「この辺で敗れても良し」と、呟いていたのですが理解して頂けたでしょうか?

 プール戦が始まり初戦のロシア戦に30-10と勝利、このころのテレビ視聴者の反応。

●1「案外つよいやん」
●2「ルールよう判らんわ、ごっついオッサンがごちゃごちゃ喧嘩しとるみたい」
●3「アメフトみたいにボールなんで前に投げたらだめなの」
●4「日本人殆んどおらへん、これ日本チーム」
●5「実況アナウンサーがジャパン、ジャパンとウザイ、なんで日本て言われへんのや」
●6「たった3年日本に居住しただけで、代表になれるんだ、こんなの日本チームと言われんやろ」

 概ね、ラグビーと言うスポーツの基本的ルールの理解が、進みだした事と、それに対する疑問など、選手たちの名前や風貌がチーム・ジャパンと呼ぶにはあまりに違和感があり、これに馴染めず、拒否反応を起こす人の二つに大別されたように思います。
ただ、ラグビーと言うスポーツが、野球のように毎日でもやれる競技ではなかった事が良かったと思っています。
例えば日本の場合、最初のロシア戦が9月20日、pool戦最終の4戦目スコットランド戦が10月13日で初戦から24日目でほぼ六日間で1試合のペースである。
この1週間の間が利用され、あらゆる媒体(新聞、テレビ、ネット)などが他の会場の試合や、ラグビーの基本的情報(ルール・ラグビーの精神性・チームの特性・各選手のステイタス)も同時に大量に拡散されだしたのです。

●1 例えば、「ノーサイド精神」試合が終われば、「こちらのsideも敵のsideも」 関係なし、つまり「ノーサイド」、実際には「full time フルタイム」と言われるが、「ノーサイド精神」は脈々と今も流れている。
●2 ラグビーは素人目には15人×2チーム、30人が1個の何処に転がるか分らぬ楕円ボールめかげて乱闘中に見える、しかし実は繊細にして細かい分担があり、それぞれがこの分担を忠実に実行して「勝利」が見えてくるのである。
例えば、前3人は「太っちょ」で力持ち、4、5番はスクラム時、前を支え、ラインアウトではジャンパー(飛び上がる人)を務める、一番後ろの15番は防御ラインの最後のかなめ、等々。
そこで生まれた言葉が 「one for all , all for one」つまり「一人はみんなのために、みんなは一つの目的のために」である。
この言葉を社訓に掲げる企業も結構あると聞く。
●3 ネイティブで日本人、田村優君、5歳で帰化した松下幸太郎君、韓国国籍の具智元君、大阪弁の上手い?帰化組のトンプソン・ルークさん、他多種多様な人達が代表として参集しておられるのです。
●4 代表資格条件は幾つかあるのだが「当該国に3年以上居住」など緩っぽい感があるが、これらを制約する厳しい・しばり・が存在するのです。(2020年から5年以上に変更)
それは、「一度ある国の代表としてプレーしたら、その当該国以外の国では国家代表になることを、禁止しているのです。
そう、一度でもどこかの国のナショナル・チームでプレーすれば、その後他の国の代表にはなれないのです、たとえ自分の生まれ育った国であっても。
そのため、当該国の代表になりプレーするのは生涯で1チームしかありません、その国の人々や文化を愛してなくては決断できません。
それは自分自身の青春の全てを賭けるほどの「決心」が要求されるのです。
これらの代表への制約とプライドがなければ、ゲームでの真のファイトなど出来るものではありません。
このことはジャパン(ブレイブ・ブロッサムズ)だけではなく、20チーム全てが同じ思いのはずです。

 以上のようなゲーム以外のラグビーの精神性やジャパンのチーム、選手個人の情報などが、勝ち進むにつれ大量かつ詳細に発信されていきました。

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 一次リーグの、2回戦、9月28日アイルランド戦、
なんと、このチーム、この時点で世界ランク1位、ベスト8の常連国、ジャパンはどこまで食い下がれるのかが注目、大方の下馬評はジャパン不利となっていました。
そうそう、このアイルランドチームは北アイルランドも含み、この点サッカーとは違うナショナル・マインドがあるようです。

 1次リーグAプール戦でのこのゲーム、19-12(1トライ1ゴールの僅差)で、大方の予想を覆して日本勝利。


 この結果を踏まえて、各種媒体のコメント欄に変化が生じてきたのでした。
このスポーツ、ラグビーに対しての技術的コメント、各ポジションの専門性や、この勝利の意味など肯定的コメントの圧倒的な増加です。
「実況アナウンサーのジャパン、ジャパンの連呼がウザイ」や「外人軍団」、「人種的な不寛容さ」などの書き込みが明らかに減ってきているのです。

 「松島幸太郎くんのヘヤースタイルの事」「帰化しているトンプソン・ルークさんの事」「韓国籍のまま代表入りしている具智元くんの事」「バルアサエリ愛さんの奥さんの事」勿論キャップテン「リーチマイケルさんの事」「ネイティブ日本人・田村くんや福岡君の事」などおおむね肯定的なコメントである。

 世界的には人種的、宗教的、経済的ヒエラルキーに現代は「不寛容」な時代と言われているが、これらの多くのコメントが、国籍、人種、帰化、容貌などに関係なくチームとしての存在に多くが語られたのがoldboy君、嬉しかったのです。

 ゲームとゲームの時間的間隔が長くこれらの肯定的コメントがメディアだけでなく、職場 家庭、学校などのプライベートな空間まで広がり始めたのです。
oldboy-elegyくんも、気の置けない人達と街の喫茶店での会話のネタになったのも良い思い出です。(お前が好きだから無理やり引っ張りこんだのでは、と仰る方もおられようかと思うが、自然の成り行きでした。

 翌月10月5日のサモア戦も、あの重戦車に耐え38-19の完勝。
翌週、Aプール最終戦はこれも強豪のスコットランドとの闘い、台風19号のせいで中止も懸念された中でのゲーム決行でした。
巨大台風19号は各地に風雨、河川の氾濫などによる、人的被害始め甚大な災害をもたらし、ゲームも3試合が中止となりました、(これはラグビーW杯で初の事)。

 ゲームは亡くなった方始め、被災者に対する黙とうから始まりました。
これも、28-21、ワントライ・ワンゴールの僅少差で辛うじての勝利、苦しんで苦しんでのAプール4連勝で首位突破です、もちろんジャパン初の快挙です。

 トーナメント初戦10月20日(ここからは勝ち抜け戦で、準々決勝)は因縁の南アフリカ、前大会で終了間際の逆転トライで勝利した相手です。(この時の映像はユーチューブで視聴可能)
結果3-26 ノートライの完敗でした。
22メートル ラインを超えたのは、前後半通じて2回か3回ぐらいしかなかったように思います。
攻撃も南アの速い出だしとプレッシャーのため殆んど前進出来ないのです、ダブルラインの前をダミーで、内側を多用するのですが「南ア」の的確な防御は破れず、ボールは保持するも横に滑るばかりです。
それでも前半は僅差で追走していたのは秀逸ものです。
後半に入るとラインアウトの破綻と、強力モールに押され始め、あの結果となってしまったのです。

 特筆すべきはこの試合のテレビ中継、総視聴者数が推定で5.500万人、国民の約半数近くが観戦したとのことです。

 この頃になると、視聴者の反応には、当初見られた人種的多様性に対する「否定的、不寛容」なものは少なくなり「良くやった」「本当に楽しめた」「新たな発見」等の「肯定的」コメントが殆んどを占める様になってきたのです。

 ラグビー日本代表の個人の種々のステイタスの形をもう一度見てみよう。
名前は例として入れている。

●1 日本国をもともと国籍にしている選手
 田村、福岡 選手等
●2 両親、曾祖母 の内どちらかが日本人
 松島 選手(幼児期に帰化
●3 帰化
 トンプソン・ルーク、リーチ・マイケル、中島イシレリ選手 等
●4 日本滞在期間3年以上(2020年から5年以上にルール変更)
 具智元(国籍・韓国)等

 以上の内どれか一つクリアーしているなら代表資格条件は有効です。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 ●4など見ると、なんじゃこれ、「ユル、ユルやんけ」と思われるかも知れないが上記の四つの資格条件を縛り、制約する「各種法律の最上位の憲法みたいな条件」がデンと
存在するのです。
それがこれ
● 他国での代表経歴がない事

この縛りを適用すると●4 の重みと意味が全然違ったものになるのです。
例えば具選手の母国である韓国が対外Aマッチのゲームがあったとしても具選手は招集され、出場することはできません。
ラグビーと言う競技における、肉体的過酷さ、それもプロップ3番はスクラムの要です、これに耐える肉体はそうそう長きに渡り代表チームで活躍するのは難しいものです。
自身の青春の一時期、この日本での代表参加は並大抵の決心の上での決断だったと考えると頭が下がると同時に「ありがとう」の気持ちが口をつきます。
これを「たった3年の滞在で代表」とは絶対言えません。
(実際は中学1年生からの日本滞在実績)

 今度のこのラグビーW杯で感じたのは、意外に「日本人と外国人」「国籍」「帰化」「長期滞在外国人」らに対して「日本人」は思っている以上に「寛容」であるということです。

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近年、公衆電話の設置数が増加しているとの事、停電、電池ぎれの時でも、電話基地局の電源さえあれば通話可能との事


 それではなぜこれらの見た目も、国籍も、多種多様な人達が参集してくれたのでしょう。
ラグビー選手の契約金や俸給はサッカーに比べると「天と地」の開きがあるのにかかわらず。
まず第一に「ラグビーが大好き」なのは当然の事として「この日本の風土、人々、文化を愛していただいているのが理由なのです。
それがあのゲームでの「ファイティング・スピリット」の力の源泉ではないのでしょうか。

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 ここからは、この日本の文化・文明に関して外国人、特に欧米人の人達の関心のあり方などを中心に記述したく思います、もちろんoldboy-elegy君の独断と偏見での記述なのですが。

 この国の文明の先端には「文字通り世界に伍する機器や物」が存在するのですが、同時にこの文明的先端品に周回遅れの機器(ガシェット)も同時に存在する、世界的に見ればやや不思議な現象が存在します。


 例えば、CD・レコード・ガラゲー・紙媒体の本・公衆電話・非キャッシュレスニコニコ現金払い・FAX・そろばん・アーケードゲーム店・など今思いつくままに列挙してみたのですが、まだまだ出て来るでしょう。
公衆電話などはここ最近増える傾向にあると言われているようです。
巨大災害時における通信手段と機能を考えての事らしい。
欧米型合理主義では絶対に存在しない思想かもしれません。
「なぜ、いつ起こるか分からない事に多大のコスト(費用)を払うのか」理解しがたいものに見えてしまうのではないでしょうか。


 先端と時代遅れが同時存在する文明、それらを可能にする社会、それが日本文化の特徴のひとつかも知れない、そう思うのです。
これらの事が未だ有効で意味あるものとして存在する。
従ってoldboy君などは、どうにかこうにかこの日本の片隅で、生存が可能で「まだ生きていても良いよ」と言われているような気がする存在なのです。

 この文化が寺・神社・そこに付随する祭礼や儀式、祭り・天皇即位式の不思議など欧米などの合理主義の観点から見れば、意味が見出せない不合理の極み的存在であるのかもしれません。

 これまで一部の社会学者が興味を持つ対象でしかなかったが、マンガ、アニメなどがその専用の機器とともに多くの外国人読者やファンを生み出している現実があります。
日本史などでも江戸期などoldboyくんなどより博学の外国人の方が大勢おられるのには驚きです。

 現在の文化輸出のもとは、日本独特の「その時代時代の日本人の残余癖」の賜物であるように思うのですが、どうでしょう。
お隣の韓国人のブログコメントなど覗くと「韓国のキャシュレス化90%越え世界一、日本18%未開国」とか「未だに投票所に行き、紙の投票用紙に手書き投票・未開日本」とか日本を揶揄するのに忙しい事です。
ところが、ドイツのキャッシュレス化が日本より低いことを知ると、急にダンマリをきめこむ、oldboy君、これらを読むのが楽しい人なのです。
彼等にとっては「文明」の最先端にいることが誇れる最重要、要件であり、「文化」的視点が殆んど存在しないかのようです。

 文化は積み上げる事は可能だが、日本人はおいそれと、今まで無かったように消せないのである。
日本文化があらゆる方面で残し、積み上げてきたもの(一見意味のないようなものまで)を、ここに来て初めて発信し始めたのです。

 つまり世界的価値観から見れば、日本人の考えや思想は理解しがたいものが多くあるはずです。
これも近年、この残余文化に魅力を感じる一部欧米人が増え、それらを見、体感するために来日する人達が大勢いるのです。
アーケードゲイム、LPレコード,CD,はては高層ビル横の神社・仏閣の撮影、列車・電車の撮り鉄、など日本人が意識しないで残したきた「歴史的残余物」に価値が付きだし
世界的には合理的でないため姿を消したものが、この日本にはたくさんある、それらを見ることで自分たちの心に、ある意味、安らぎと言う「合理性」が生まれる、そのために高価な航空運賃を払ってまで来日するのである。

 外国人から見れば一見、この不合理な精神性を日本人自身が自分達で少しづつではあるが、「一見無価値と思えた日本人的価値観が世界に通用する部分も大いにある」、と自己認識しだしたように思うのだがどうだろう。

 日本人は一見多様性に欠ける、「村社会」のようであると言われるが、今回の「多様性の権化のようなラグビーチーム「ブレイブ・ブロッサムズ」を多くの人が違和感なく心から応援し、誇りに思った事が知れて、oldboy君、本当に嬉しかった。

 これからも、この一見、欧米人及びそれに感化された非西洋人(現代中国人や韓国人)が思う日本の不合理と思われる「残余・残置 社会を文化とする日本」の事を日本人自身が意識して好きにならねばとoldboy-elegy君は考えるのである。


この記事3000字ぐらいでと考えていたのだが、途中でいろいろの想念が去来し、長くなってしまった。
誤字、脱字、意味不明の言葉など満載だと思う。
ゆっくり校正する、お許しを乞う。

               了
            oldboy-elegy

 このたびの記事は先日公開した下記記事を受けてのものです。
目を通していただければ幸いです。

 

 

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oldboy-elegy (15)ソウル(Seoul)暮色   官吏の横暴・闇の両替商・この部屋を予約する理由・ベルボーイの視線の先

 

 
 彼、井野(仮名)さんに初めて会ったのは、韓国ソウルの零細商社がホテルに迎えによこした社用車に相乗りしたのが最初だった。

 以後長い付き合いになる。

 そう彼とは同宿(ホテル)
の身であった。

oldboy-elegy君より10~15歳くらい年上だと思うが、今思い起してみても、互いに正確な年齢の

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事は聞いた事が無かったように思う。

 左のイラスト画像が、当時の彼の風貌、印象に酷似しているので使わしていただいた。
ただしネクタイ姿は印象にはな。

 彼、井野さんとは、取引上の付き合いは全く無かったが、ここ韓国での、商習慣、彼等の考え方等いろいろの局面で知恵をいただいた。

 いわゆる「ウマが合う」と言うのか、良くしていただいたのである。
ただし彼は当方の会社のことはある程度、御存じであったようである。

 彼を知ってる人は彼の事を「一匹狼」「ソウルごろ・ゴロツキの事」「情報や」「利権や」など悪く言う人もいたが、oldboy-elegy君にとっては温厚な人柄で、頼れる人との印象は崩れる事はなかった。

 「ソウル暮色」として今回、四つほどのエピソードを取り上げた、折々に「井野さん」が登場される。



   この記事は、以前「oldboy-elegy(6) 戒厳令下のソウル(Seoul)」の続きのつもりで書いている。
あの時は空港税関の手荷物検査員などの小悪(少額賄賂)を記事にした。
その記事からもう半年になる、長い間うっちゃったままになっているのが胸のつかえとなっていた。

 あの頃は、ブログがどんな物かは想像できなかったが、今では、少しは気持ちに余裕ができ書けそうな気がする。
出来事に関しての良し悪しの判断は一切せずに、見たまま、感じたままを素直に綴るのみで、「嫌韓もの」とは一切関係はない。
当時の韓国の市井の「人々」「情緒」「雰囲気」などに、貴方の身を置き、それも併せて、楽しんでもらいたい。

★1   第一話 官憲と露店商人
下級官吏が路端で小商いをする老婆の野菜を入れたザルを足蹴にし、路上にぶちまける。

 夜のとばりが降りたばかりの明洞(ミョンドン)は雑踏の中にある。
この地域は今も昔もソウル、いや韓国で一番の繁華な街(ディストリクト)なのである。
仕事を終え、タクシーや仕事先の社用車でホテル近くまで来ると雑踏を避け乗り捨てて歩くのが一番である。

  oldboy君、雨でも降らない限り、新世界百貨店前(シンセゲイ・ペグファジュム・アぺ)あたりで降り、ぶらぶらと街の喧騒と雰囲気を楽しみながら、ホテルに帰るのが常であった。
 そんな折、あまり見たくもないこんな光景に遭遇したことがある。

 白い、いわゆる韓服(チマ・チョゴリ)姿の老婆がデパートの前、道路脇の歩道の街灯の下で大きな竹ザル2個に青物の野菜を一杯にして小商いをしていた。

 oldboy君、この光景を目の端に入れながら通り過ぎようとした時である。
何処から出て来たのか分からないが、紺色のズボンに白いシャツ、頭には同じ紺色で、ひさしの付いた制帽、シャツには何のマークか分からないが、両肩に肩章が厳(いか)めしく乗っかっている屈強な男二人が、あろうことかいきなり老婆の売り物の野菜が入った大きなざる2個を足蹴にし歩道にぶちまけたのである。

oldboy君、一瞬凍り付き、その場に立ちすくむばかりで、何が起こったのか理解できずにいる。

 おばあさん、なにやら大声で叫び、二人の男達に、つかみかかり、食ってかかっている。

日本でもしこんな光景を見たら、おばあさんの身の上がなにやら哀れで、理不尽な男達に「罵声の一つ」でも浴びせたくなるのが普通の想念であり感情だろうが、今ここで見ているのは何であろう。
不思議なのが、繁華街を行き交う人々の多くが、全てとは言わないが、この出来事に比較的無関心なのである。
oldboy君、歩みを止め、この衝撃的な光景に「あんぐり」、だが通行人にとっては、
「氷ついたかの様に突っ立っている」俺の姿の方が、非日常の景色であるかのような雰囲気である。

 ホテルに帰り、遅くに「ホテルに帰宅」して来た井野さんにインスタントコーヒーをいただきながら聞いてみた。
「それ警官やは、明洞一帯の露天商の所場代、めちゃめちゃ高騰していて、そこの権利だけの売り買いもすごい事になっているらしい、利権争いも半端ではないと聞く」
続けて「そんな場所でのそのおばあさんは多分、無許可、無賃の露店行為やから、皆、醒めて見ているのとちがうんかな、まあそれでも、我々日本人と基本、情緒が違うからな、なにがあっても普通その二人の警官が真っ先に非難されるのが日本やろな」

 oldboy君、今は、そんな現場からそそくさと離れ、デパート前から横断歩道を渡り、明洞側からこれを見るとはなしに見ている、まだ気になっていたのである。
おばあさんは散乱した野菜をひろい集め、ザル2個を頭に乗せ手を添え、去って行くまで目の端で見ていた。

 この日、ベッドの中でも、老婆の残影が消えない。


★★2  闇の両替商

 ホテルを背にして前の一方通行を右に数丁行けば、先ほどの「新世界デパート」に、左にすこし歩けば、ここにも「デパート」がある、名前は「美渡波」だったか「美登波」だったのかは忘れた。
「新世界デパート」は韓国一の、業容を誇る老舗店(戦前は三越・ソウル店)であるが、この「美渡波デパート」は似ても似つかぬ「しょぼくれデパート」である。
いわゆるビル全体が「店舗貸し・テナント」で小売店の集合体であるらしい。
その業態は、昔、大阪にあった「千日デパート」のようなものである。

 実はこの得たいの知れぬ「デパート」もあの「井野さん」の紹介で、訪韓の折、必ず1・2回くるのがoldboy君である。
それでも、一階の飴色の金属枠扉は高級感漂う重厚さがある。
この重々しい両開きのスイングドアーを押し開き中に一歩入ったなら景色、雰囲気が一変、4、5坪程度の朝鮮人参店ばかりが結構広い1階売り場全体を埋めているのである。
読者の方は知っておいでかどうか知らないが、朝鮮人参の化粧箱は基本、赤色が中心であるから、この空間の異様さは特別の感がある。

 もちろん「朝鮮人参」を購入するために教えてもらった訳でもない。
読者諸兄はお分かりかな、そう闇の「両替商」も、これら店の裏の顔なのである。
井野さん曰く「まあ5万円も両替したら2万ウオンぐらいトクになるんかな、なあ朴ママ」と女性店主に、念を入れる様に目配せする、すべて日本語である。
「もし人参のみやげ買うなら、ここで買ったらいいわ、これほど粗悪品掴まされる品物あらへんからな」と井野さん。
朴ママ、ニコニコ首を縦にふりふり「よろしくね、まかいしといて」となまりの無い日本語でoldboy君にご挨拶。

 いらい両替は、よもやま話を含めてこの朝鮮人参店でやっている。
そのおり、濃いこいーいコーヒーが出でて来る。
朝鮮人参は以来、頼まれ物で何回か買い、日本に持ち帰っている。
人参そのままの形状の物は買ったことはない、顆粒状の小袋入りのもので、母は一度口にしたが、それきりである。


★★★3  第三話  いつもこの部屋を予約する理由

 

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 oldboy君、この日も無事仕事を終えホテルにご帰還。

レセプションカウンターでキーを受け取り、自分の部屋に。
日程が決まれば直ぐに、日本から予約を入れるのだが、それでも時折満室で、
1日だけだがよそのホテルに宿泊することがある。

そんな時の手配は全て定宿にしているこのホテルがやってくれる。

 基本的な日用品やはては電気スタンドまで段ボール1箱にまとめてホテルカウンター裏の小部屋の一隅に預けて帰国する。
何故か、ホテルの照明、oldboy君にとってはルクス不足に感じてしまうのだが、
彼だけの感覚なのか、わからない。

 予約する部屋は決まっている、4階エレベーターホールを出て右に、長い廊下の突き当りを鍵型にさらに右に、そして一番奥の右側の部屋がお気に入りなのである。
それには、oldboy君なりにキチンとした理由が存在するのである。
まず、ベッドの広さがダブルである事、普段、布団で寝ている身にとり、この贅沢は何にも代えがたい感覚なのである。
次に、突き当りの部屋であるので廊下を行き来する人が、向かいの部屋の宿泊客以外は皆無なのが嬉しい。

 最後に、この部屋が気に入っているもっと重要な事がoldboy君にはある、さてそれが何かお分かりかな。
「火災の恐ろしさ」に関係がある。

1971年の師走、クリスマスの朝に出火、200人近くの人々が亡くなった「大然閣ホテル火災事故」が起きている、そんなに昔の事ではない、火災現場もここ明洞(ミョンドン)からそう離れていない。

「大然閣ホテル火災」の死者の多さの原因は、22階という、高層造りで、火の回りが
異常に早く人々は火炎に追われ、飛び降りた事とされている。


 そこでoldboy君の投宿しているホテルの4階の廊下の突き当りには、鉄枠、両開きのガラス窓が、設えられていた。
開けるのに、何の造作も要らぬ。
ただし安全に関する備えは全くない、外付けの非常階段は勿論、避難用縄梯子(はしご)は無論、一筋のロープさえ無いのである。
ホテルの名誉のために言っておくが、21世紀の現在の話ではない、40年以上昔の状況をお話しているのである。

 だがこの窓のすぐ下は、アスファルトの地上ではなく、お隣の、3階建ての有名中華料理店の大屋根なのである。
通常時、この大屋根に飛び降りろと言われれば、運動音痴の彼にはちとしんどいが、いざとなれば、「やれん事はない」程度の高さなのである。
そう、この事が「この部屋を気に入っている」一番の理由でもある。

 「お前、小心者すぎるやろ」と言う人もおられるかも知れないが、何も手間暇(てまひま)かかるものでも無し、「自分の意識の奥にインプットしておくだけのこと」で安心感が違う、「夜は高イビキ」で眠れるということである。

 
★★★★4  第四話  4階廊下に10人ばかりの男女、わいわい、キャーキャー
      と辺りかまわぬ嬌声の中

 暮れなずむ夕日の中、oldboy君、やや早めにホテルにご帰還である。
今日、井野さんのお誘いで、「新村・シンチョン」ロータリーの「兄弟カルビー店」での食事会にご招待。
繊維会社の会長さんである「張・チャン」さんと言う方の招待である。
ビジネスの用向きでなく、「久しぶりに会って、楽しくお話しましょう」、が主旨とのこと。
当然、oldboy君の同席は了解済みのことである。

 井野さん曰く「この張会長はきれもので、出身は北朝鮮の平城(ピョンヤン)近郊の村、特筆されるのは戦前の日本が設立した「平城師範学校卒」との事。

 のちにoldboy君、何が気に入られたのか不明だが、ビジネスとは関係なく、幾度も食事のお誘いを受けている、中でも特筆ものは、彼の会社行事のハイキングにも参加したこともある。

 早朝、ホテルの部屋の呼び鈴がなり「誰だろう?こんなに早くに」と出てみると、そこに出勤途中の張さんが立っておられ、「昨日会社で山登りに行き、これを買いました」とリンゴ4~5コの入った竹ザルを土産に手渡されたこともある。
二つ下げておいでになるので、今から上階の井野さんも訪ねられるのだろう。


 彼、張さんに就いては、いずれ一つの記事として書くつもりである。
oldboy君が知る朝鮮、韓国人の中で、唯一無二の知識人だったかも知れない。

 

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 さて、井野さんとの約束時間まで少しある、ルームキーを受け取り、自室に手荷物を置きに戻るため、エレベーターで4階に上がる、扉が開くとベルボーイの黄(ファン)君が仲間のもう一人のクロークとホールの横に置かれている簡易机の横に立ち、二人して同時にoldboy君みる。
イラスト画像のベルボーイ君は赤色、詰襟姿であるが、黄(ファン)君はやや濃いベージュ色だったと記憶している。

 ファン君、困り顔で俺を見て、通路、廊下の奥を指さし、oldboy君に懇願の様子。
廊下突き当りの角部屋の前で10人ちょいの男女が「ワーワー、キャーキャー」と大騒動、アルコールも入っているらしい。

 その嬌声の中から、日本語も聞こえてくる、男は皆、日本人であるらしい。
ファン君「別にいいんですが、もう少し静かに、部屋の中でと、頼んでいただけません」と遠慮がちにoldboy君にお願いする、顔には「日本人同士のよしみで」と、無言のプレッシャー。

 僕ちゃん(oldboy君)、急に気弱になる。
不得意な事、数々あれど、根っからの「不戦論者」である彼の一番の不得意種目である。
君子でもないが「危うきに近寄らず」は彼の主たるモットーの第一番目をなすものである。

 嬌声の中から「アミダで決めよ、それが一番公平やろ」の大声が、耳にはいる。
今晩のお相手を、アミダくじで決めようとの事である、
見ていると、この提案に、みんな同意らしいが、部屋に入る様子は見えない。
どうもこの場でクジをやるらしい。

 ファン君、oldboy君の後ろに回り、押し出そうとする素振りである。

対面(といめん)の迷惑団体が、一層声を張り上げ、掛け声をかけ始めたのである。
どうやら準備ができアミダくじが始まったらしい。

 oldboy君、この一層の喧騒と「ホイホイ・・・」の掛け声に押されるかの様に意を決したのである、まさか死ぬこともないだろう、それにこれからもこの慣れ親しんだホテルのスタッフに、あの人、「あかんたれ」」と影で後ろ指を指されるのはもっと苦痛である、との思いがさせたのかも知れない。

 決心すると、逆に義憤が生まれ、即、彼等の方にスタスタと足早に近づいて行く。
この行動、自分でも信じられないoldboy君である。

 「あんたたち、この廊下は君たちだけのものではないんよ、やめろとは言わないが、せめて部屋の中で遊んだらどうだ、あそこにいるベルボーイ達の表情、見て見ろ、あの視線」的なことを、oldbou君、言ったようだ。

 すると、男達の中の一人が,顔を斜にしながら、oldboy君にツッカカリ両襟首を持たれることになったが、何故か怖くはなかった、これが「肝が座った」状態と言うのだろう。


 この時である、この集団の内の年配格の男が「こらxxxやめとけ」と襟首をつかんだ若者をしかりながら「みんなわしの部屋に入れ」と仲間を語気荒く恫喝したのである。

 この日、この後(あと)、井野さんと張さんの待つ「新村カルビー店」へ急ぐことに。


翌日の夜、ルームサービスでコーヒー&ハチミツシロップつきのパンケーキが届く、勿論、ただである。
ファン君(ベルボーイ)の精一杯のoldboy君へのお礼の意味である。

                 了  

              oldboy-elegy

 

oldboy-elegy.hateblo.jp

 

(雑感・雑記帳 No.8)ラグビー を真ん中に、oldboy-elegy君の各種スポーツ観を、独断と偏見を持って話してみる。

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  左のイラスト画像、「いらすとや」さんからお借りした、ラグビー、プレー中の図柄である。
赤いユニホームが「日本」で緑が「アイルランド」と見立てるなら、ピッタリ感、100%です。

 こころなしか赤のジャージの彼は
福岡選手に見えぬこともない。

 今、巷(ちまた)では、スポーツ・シーズン花盛りで、「ラグビーW杯・日本大会」「サッカーW杯アジア予選の始まり」「バレーボールW杯」などの国際試合などが目白押しの状態である。
この先導役はラグビーなのではと勝手に思っているがどうだろう?!。
oldboy君、基本スポーツ向きの体躯や根性を備えていないのだが、それだけにテレビ観戦は大好きなお人である。

 今日はラグビーを中心にスポーツ全般について、私見を語りたいと思う。
多分に「お前の偏見や」と憤慨される場面もあるかと思うがお許しあれ。

ここで本音を言ったなら「もうお前のブログなんぞ読まないわい」と仰る人もおられるかも知れないが、とにかく嘘は書けないので初めに公言することにする。

アメリカンフットボール」「野球」に「ゴルフ」、このみっつ、最近ではテレビで視聴することもないし、関心もないoldboy-elegy君である。

 ただ野球に関しては、幼少のころ、地元の高校が夏の甲子園に出場した折、義兄に連れられ行った事が野球実観戦の唯一の体験である。
ここでの「ゲームとしての野球」そのものの記憶はゼロである。

 ただし、甲子園球場の雰囲気は「緑のグラウンドと、それを取り囲む白一色の観衆」
という視覚的記憶は今も強く残っている、もう一つの嫌な体験とともに。

 義兄からお金を預かり、「かち割氷(かちわりこおり)とラムネ」を買うために席を離れたのが運の尽き、二度と元の場所に帰還できず、半べそかきかきの小一時間、ようやく見つけてくれた時、ビニール袋の氷はほぼ水に、たしか7歳の真夏のある日の出来事であった。
これが原因で「野球は見ない・関心がない」と言う訳でもない、それにはoldboy君なりの理由が存在するのである、人はこれを屁理屈と言う。
お前のそれは、単に「屁理屈」で「偏見」と言うお方は多いと思うが、こればかりはどうにもならぬ。
特に、「野球」はこの国では「国民的スポーツ」でコアなファンは圧倒的な数になるはず、これを否定するのには、多少の勇気もいる。

 あと、オリンピック・世界陸上など普段見る事のない競技などはそれなりに関心もある。陸上競技のトラック、フィールド、マラソン、それに柔道、水泳 等々特に、これはダメと言う物もない。
あーそうそう、駅伝競走はもう一つ好きになれない競技の一つである、これもoldboy君なりの理由がある。

 この競技(駅伝)、団体競技個人競技の両方の要素を合わせ持つ不思議な競技である、走るのはその区間は己一人である、その区間をリレーで繋ぎ、それぞれのタイムの合計が成績であり、ここの所は団体競技と言える。

 陸上競技の中で、一番過酷な競技は5千Mや1万Mの中距離帯であると言われることがままある、まさに駅伝は、競技全体しては長距離を(団体競技)、これを中距離で6~7区間程度に分割され、それぞれの区間が1人のランナーにまかされる、ここの所は「個人競技」なのである。
 oldboy-elegy君、まさにこの団体競技的な部分がお気に召さないのである。
近年、この競技、箱根駅伝を頂点に人気は高い。

XX大学、△△会社、**高校の名前入りの昇り旗の下を選手たちが必死の形相で、団体競技としての栄光を勝ち取らんとして、坂道を登り、下って行く。
そしてコースに林立する昇り旗だが、疲労困憊の選手がこれを見て、再度心身が鼓舞されるものなのか、怪しいものである。
所属チーム名の恰好の宣伝媒体になっている感がある。
むしろテレビ映りを意識した、商業主義のシンボルではないのか、近年その傾向が強く感じられがどうであろう。

 駅伝が持てはやされるようになって、相当の年月が経つが駅伝出身のマラソン、や中距離、著名選手の名前はあまり聞かない、ましてやオリンピックや世界陸上などでも同様である。
とくにマラソンと、箱根駅伝を考えるなら、およそ相関関係は、素人目には無いように思うし、むしろ科学や心理学的根拠とのそれは、限りなくゼロに近いもののように思う。
オリンピックや世界陸上でのマラソンは、箱根駅伝コースとは別物である。
またスピリッツも「仲間のため、学校のため」で自分自身は「犠牲」以外に思いつかない、oldboy君こうした「考え」が嫌いで性に合わない。
「個人の極限」を超えて「それ以上の極限」を「団体競技」は「根性」と言う言葉で「強要」する、見る人はそれを美化して「落涙」する。
もっと言うなら、古式騒然とした「日本的想念」を書き換え、上書きしたもののようである。

 このことなど、真に科学的・心理学的に検証されねばならないと感じる。
「俺はもう走れない、ここでコースを外れるか、倒れるかギブアップしたい、しかし仲間がいる、それを無にしたくない、走れ、いやもうダメだ、監督は言う、根性だ、あと1Km」と。
「根性」と「商業主義」の権化のような競技に、oldboy君には見える。
それ故か、この「駅伝競技」なるもの、世界に拡散、輸出される気配は見えぬ。
原因はこの、日本的な想念と個人に与える強烈なプレッシャーが嫌われているのかもしれない。
しかし、このことがまさに、日本人の好きな観念、想念なのである。
「駅伝」に関してのoldboy-elegy君の独り言はここで終わりにする。


 ここから、この記事の冒頭で呟いた(野球・アメフト・ゴルフ)に関心がない、oldboy君の理由(人は屁理屈と言う)を披露する。


●野球
① まずゲームでの休憩が多すぎる、そのため少し無理すれば毎日でもゲームが
可能。
たいへんな練習と年月を経てのゲームであることは理解するが、観客に披露する
場面での運動量・エネルギーカロリーが少なすぎる。

② 攻守が入れ替わり、攻撃側はバッター以外はご休憩、あとはピッチャーと
キャッチャーだけのボールの交換。
守備の内野、外野手も緊張はしてるんだろうが基本静止画像+程度。
そのため、いい場面の時は、概ねトイレに行ってるか、キッチンで冷蔵庫を
漁っている時におきる、結局、録画を見ることになる。

③ 道具が多すぎる。経済への波及効果は認めるが、個人的には金がかかりすぎる。

④ 本家アメリカのMLBメジャーリーグ)の優勝決定戦を「ワールドシリーズ
と言う!これ如何に、USAが何時から世界になった。

アメリカンフットボール
① これも攻守が完全に入れ替わり、半分の人が肉体的には全休である、
アメリカ発祥の人気スポーツはお休みが好きらしい。

② ヘルメット着用義務のため、初見者には、誰が誰だか分からない、バック
ナンバーが頼り。
背番号がやたら大きいのはこれのためだと、密かにoldboy君は思っている。

③ 攻守とも完全に役割が決まっている、花形ポジッションが幾つかあり、
フレキシビリティ(柔軟さ)に欠ける。

④ 休憩中の選手がサイドラインに沿って居並び、その風景は甚だ異様に映る。

⑤ 日本でもそれなりに歴史はあるが、大学での強豪校はいつも概ね一緒。
見た目は華やかだが、組織は古い因習に満ちている感がある、特に関東では。


●ゴルフ
① 学生のころ、塾の生徒(中学生)、20人ほど引率し、六甲にハイキングをした
事がある。その帰り、少し山道をそれ、やがて金網の長い長いフェンスに
遭遇、随分の遠回りを強いられたことがある。
フェンスの内側はゴルフ場であった、3、4人のおじさん達のグループが広い広い
コースにチラチラと見えた、何故かその時「このスポーツ?だけは生涯絶対しな
いぞ」と決めた。
クラブは握ったこともない、したがって駅のプラットホームでコウモリ傘を
クラブに見立て、振り回し(スイングする)た事もない。

  これらの真逆のスポーツが「ラグビー」と「サッカー・フットボール」かも知れない。
兎に角、40分x2 の間、休憩は許されない、その時は交代でコートの外に出されることになる。
敵は同じコートの内にいる、体と体の接触、ぶつかり合いはもとより、意図的に(ラグビーの場合)二人、三人がかりで、100Kgを超える全身を使いぶっつかってくる、勿論ルールの範囲内の事であるが、それでも殆んど怒りを伴う争いは起らない。

 ただサッカーに就いては残念な事は「simulation(まね・ふり)」「diving(ファールを受けたふり)」「無駄なパス回し」などファールにまで至らなくても見ていて気持ちが良いものではない。
とくに残り時間10~15分でスコアー(1-0)などの場合、勝っている側はあらゆる手段をこうじてまでボール保持に努める、これルールでなんとかならないものか。

 それでは「ラグビー」と「サッカー」の一番の違いは何だろう。
もともとは同根のスポーツで発祥は英国である。
どちらも、必要な道具は「ボール1個」のみである。
サッカーに限れば路地や空き地、あとは人がいれば、それでOkである。
ただチョットした試合形式のプレーは「ラグビー」には無理がある、
キックなどの練習はできても、遊びにはならない。
この点、サッカーは「ボール1個と一人から5人10人と人がいても」それなりに遊ぶことが可能である。

南米などの映画や動画を見る時、サッカー遊びをする子供たちが映り込むことがよくあるが、ラグビーではまず見ない。

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 はっきり言えば、oldboy-elegy君の団体競技での一番は「大学ラグビー」であった。
つい先年までは花園ラグビー場、鶴見球戯場、長居球戯場そして気が向けば京都は西京極、宝ヶ池まで出向く事もあったが、数年前に免許証を返納したこともあるが、それ以上に、あまりにも母校の弱体化が進み、最近では「大学サポート番組」のブログをお気に入りに保存しているのみである。

 ここでoldboy-elejy君が体験したチョットした話をはさむ。

 もう今となればそこそこ以前の「花園ラグビー場」での事である。
母校は第二試合で、2時からのキックオフであるが、今は未だお昼前で、第一試合開始までも少々の時間がある。
バックスタンドの裏に広い空き地があり、そこが当時、無料駐車場になっていた。
ここから徒歩でラグビー場正面の入場券売り場に出る。
また近鉄東花園駅からここまで徒歩で10分少々、ここも濃い人の列が続く。

 oldboy君少々小腹が空き、ラグビー場メインスタンド裏の2階通路奥にある大食堂(セルフサービス)に直行、カレーライスを注文、先ほど学生君から頂いた、母校発行のスポーツ新聞を読みながら食事をする。

 そこに「ここいいですか?」と若い女性の声。
顔を上げると、杖をついたそこそこ年配のご老人とそのお孫さんと見られる娘さんが目の前に。
oldboy君、あわて立ち上がり「どうぞ、だれもいませんよ」と右手、手の平を上向きにどうぞと前にだす。
ひょっとしたら(母校の大先輩かも)の意識が彼を反射的に、起立さしたのかもしれない。

 老人は、お孫さんらしき女性の手をかり、食堂のパイプ椅子に、ヨッコラショと着席、女性はそのままキッチンカウンターの方へ。
ご老人、oldboy君が見ていた母校発行のラグビー特集が掲載された新聞に目をやりながら「今年はどんなもんでしょうかな?」と話しかけてこられた。
お聞きすると、やはり同じ大学の大先輩で和歌山市在住との事、女性はお孫さんとのことである。
そこに彼女、トレーにカレーライスを2皿乗せてご帰還、我々が何やら話していることを察知、ニコッと笑顔をoldboy君に差し向ける。
「この時期になったら、毎年私の運転で1、2回和歌山から出て来るんですよ、今日と、うまくいったら大学選手権の初回の花園開催の時と・・・お爺ちゃん、普段あまり外出しやらへんのに、なにかこの季節、元気にならはるみたいで・・」とお孫さん。
「そうや、もし俺が、しんどいから今年は辞めとこか、など言いだしたら、もう遠くないと思っとときや・・」とニコニコ顔のご老人。
お孫さん「冗談言わん時、それも人前で」と作り顔でおかんむり。
oldboy君「先輩のその感覚、分かる気がします・・」と相づち。
「先輩など言われるだけで、なんやら若返った気分ですは、有難う」と、これまた先輩。
ラグビーでの母校の活躍、あまねく卒業生達の「健康」と「心身状態」の良し悪しを司る(つかさどる)ことを、学校当局は知っていなければならないが、そうでもないらしい。

 「それでは、ここで失礼します、未だ席も決まってないので」とお孫さんの軽い介添えで立ち上がりスタンドのほうに。
oldboy君、立ち上がり直立不動「先輩もお元気で」と、会釈とともに、軽くコウベを垂れる。
学校発行のスポーツ新聞、持っておられなかったので、勿論お渡ししておきました。oldboy君なにやらチョットしたふんわり気分である。

 たったこれだけのラグビーにまつわるお話、第一話として、取り上げさしていただきました。

 ラグビーにまつわる話の第2話である、oldboy君、ときおり駅前商店街に出て、お茶会(コーヒー店にて)を友人数人と催すことがある。
勿論、今はやりのスターバックスなどではなく、昔からの所謂「街の喫茶店」であり、タバコOKの店ではあるが、一応、簡単な衝立でコーナー分けがされているだけである。
oldboy君も含めて4人だけの参会であり、喫煙、非喫煙者は半分、半分である。
席はいつも、喫煙席に入る。
もちろん、oldboy君、禁煙中の身で、やがて3年になるが、受動喫煙などと目くじら立てる事もしない。

 そこでのよもやま話に、ラグビー日本代表(ブレイブ・ブロッサムズ・勇敢な桜の戦士)の話が出た。

 「よくあんだけ、ぶつかり合いするのに、喧嘩にならへんのが不思議、あれでルールの内側のスポーツって新鮮」

弥生人の中に、濃い外人がたくさん居るジャパン、なんか違和感あるな」
「究極の観戦のためのスポーツやな、自分も参加したいとは思わないし、殺されそう」
などなど。
oldboy君以外はラグビーを腰を落ち着け、テレビ観戦したのも初めての事らしい。

 「ジャパンのキャップテンの名前、知ってる?」とoldboy君が聞く。
スポーツ新聞を片手に「リーチ・マイケルやけど」と友人の一人。
他の二人も「そやそや」と相づち。
「リーチ・マイケルってなんか名前に違和感あらへん」とoldboy君。
「外国人やろ、普通に」「日本人、キャプテンにしといたらいいのに」などの返事。

 「彼、日本人やで、帰化してはるんや、15歳の時に札幌にきて、今も勿論奥さん、お子さんと日本住(ずみ)やし、それに奥さんは日本人。
だから、リーチ・マイケルは英語でなく、ある意味、日本語のカタカナ表記や、もともとニュージランド人でマイケル・リーチ(Michael・Reach)がそれまでの彼の名や」一同キョトン顔。
「普通、マイケルはファミリーネームではないわな、名前やわな、だから帰化申請の時
日本流に家の名前を前に、自分の名前をあとにしはったやんや、つまりリーチ家のマイケル君に、彼の強い決意の表れでもあるんやと思うが。

 ここからは喫茶店での話を離れて、代表選手の基本的なステイタスを記述しておく。帰化してない外国籍選手もおられるが、また違った条件の縛りの中での日本代表選手なのである。

●当該国に3年以上(36か月)の居住。来年から(2020年から)は5年以上(60か月)以上の居住が必要と改定される。
●上記の居住の問題よりももっと強い国家代表になるための制約がラグビーにはある。
一度、ナショナルチームの選手になり公式戦に参加したら、その後、他国の国家代表にはなれない、の規定である。つまり、国籍はネイティブのままで他国の代表に一度でもなればその時点で自分の生まれ育った自国の代表は勿論の事、他の国家代表にもなれないのである。
他のスポーツでこれほどの制約を課したものは知らない。

 ラグビーの選手生命は概ねそう長いものではない、自分の青春に、全てを懸けることを決心して参加して頂いているのである。

 これらの事がラグビー国家代表の強烈なファイティングspritsの源泉なのかもしれない。
それ故、彼等は助っ人ではない、彼等自身のことである、こんな思いでジャパンに参加してもらっている、外人だからと非難する人も多いが、これらの事を知れば、むしろ感謝せねばならない、日本と言う国を選んでもらったのだから。

 もう一つ、外国籍の選手数であるが、日本だけが多いわけでもない、ただ日本人顔の中に彼等の風貌はいささか異質に見えるのが原因かも知れない。
他の外国チームの中に入れば、ある程度、同族・同質に日本人には見えてしまう。
調べて見れば日本より多くの外国人が在席するチームもある。
これを記述するなら今回のワールドカップでは以下の通りである。

各国における外国籍選手の人数
サモア(13人) ウエールズ(12人) トンガ(12人) スコットランド(12人)
日本(選手31人中11人) フランス(10人) オーストラリア(9人) イタリア(9人)
アメリカ(8人)などである、決して日本のみが多い訳でもない。

 この記事を書いている最中に、日本(ブレイブ・ブロッサムズ) がスコットランドを破ったゲームをみることができた、プールAで4戦全勝の成績でベスト8に進出、日本初の快挙である。

 はじめ松島選手のヘヤースタイル、変わってるなと思っていたのが、今では彼の笑顔とともに、最高のベスト・マッチングと思えるようになった。
人間か、俺だか知らないが、いいかげんなものである。

                 了
               oldboy-elegy

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oldboy-elegy (14)救いの神(ボンネットバス)降臨、しかし元凶は俺なのか??!!

 

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 このイラスト画像、勿論バスである。 
ただしバスはバスでも昔懐かしボンネットバスと呼ばれる形式のものである。
 アメリカなどのスクールバスは概ねこのスタイルのものが今でも多く使用されているとのこと。
 塗装はウオーニング(危険認識)カラーの黄色が主流なようである。
 車両の構成部分の中で一番重量比が高いとされるのがエンジンである。
その部分が運転手、乗員の部屋とは別にボンネット部分に格納されている。
そのため衝突時にも人身に与える障害が軽減されると言うのが理由であるらしい。

 「
なぜそんなにボンネットバスにこだわるの?」と諸兄はお思いなさるかと。
今回の記事、one noteをネタ帳替わりに使用しているoldboyくん、そこに、「山中良樹くんの事(仮称)・ボンネットバス」のメモがブログを始めたころにすでに記入されていたのである。

 
記事化するにはどうしてもこのボンネットバスのイラスト画像が必要条件であり、無ければ、話の印象が随分と棄損されてしまうとまで思っていた経緯がある。

 
今回も、ネタ帳を、ぼんやりした頭で繰って(スクロールする)いたら、これまた、なんとはなしに「ボンネットバス」の部分でストップ、「まあ無いやろな」
いつもの通り初めからあきらめムード。
つまり探しても「あるはずがない」とoldboy-elegy君、決めつけているのである。
「まあいっか、どうせ暇なんやし、検索して見よ」の声が、これまたうつろに後押し。
取りあえず、いつもお世話になっている(いらすとや)さんで「ボンネットバス」にて検索。
すると、なんとなんと、あったではないですか、それも一枚だけ、またその一枚がoldboyくんが、「さもありなん」とイメージしたものとピッタシ一致。
瞬間、「この記事一丁出来上がり」と感じて、今こうして作業中(記事を書くこと)の身でございます。

 「いらすとや」さん、いつもいつもお世話になります、もう少し、私のブログに人気があればと思うのですが、この点お許しくださいね。

 さて前書きが少し長くなったのですが、何故「ボンネットバス」の画像が必要だったのかを含めて、納得して頂ければ嬉しい限りでございます。

 oldboyくん、幼少の頃、確か、小学3年生の頃のお話です。
年は変わったと言えど春は未だ未だ先のこと、近所の同学年の「山中良樹」くんと連れだって登校途中のことです。
彼とは学年は同じだがクラスは違っています。
山中君ははoldboy君の家の裏手にある畑に沿い、4,5軒ある小ぎれいな平屋の1軒に住む子であるが、そう仲が良いとか、普段の悪さ遊びの連れとか言う訳でもありませんでした。

 つい最近越して来たらしいのですが、どこか我々と違い粗野な部分は全く感じられず、言葉も同じ関西言葉ではあるが、河内弁ではありません。
そうそう彼、この寒空に半ズボン姿なのです。
誰か近所の大人を介して、お母さんともども挨拶に来られての付き合いであり、母などは「朝、学校に連れもって行くんやで」と気に入っている様子なのです。

 それを言えばoldboyくんも小学1年の途中入学と言う事もあり、当然生粋の河内弁を駆使出来るわけもなく、言わばエセ河内弁なのですが、そこは少々の調子の良さといい加減な性格でカバーしている存在なのです。
「おんどれ、なめちんけ、よこずらひっちんど、われ」は河内弁の定番フレーズですが、oldboyくんが言えば何処か調子が狂うようで笑われるようです、「よう、われ」。

 軒を連ねた町中を抜けると、すぐに視界が開け、やや広めの農道が真っすぐ東に伸びていて、小学校の西門に突き当たるのです。
道幅3m位で門までの距離、300m位かもう少し短いかな、この道を鋏んで田圃と畑が続きます。

 ただここで、言っておかねばならぬ事が一つ、それは、この農道の南側にもう一本並行に走ってた府道(県道)が存在していたのです。
府道と言ってもバラス(ジャリ)を敷いたギリギリ対抗2車線程度の道です。

 二人は農道を離れ、田圃(たんぼ)に降り嬉々として飛び跳ねています。
今朝は良く冷えたのか絶好のコンデションです?。
刈り取った稲の株に昨夜来からの冷え込みで霜柱が立ち、薄い氷が張っているのです。
これをズック靴(薄いゴム底の運動靴)を履いた両足で跳ねるように踏んづけて走り回るのです。
「バリバリ、ギュ、キュウ」など、踏みつける調子でいろいろな音が発生するのと足裏から伝わる感触はたまりません。

 ひとしきり、嬉々として飛び跳ね、遊んだ二人は元の狭い農道ではなく、広い府道(県道)の近くまで来て、そのままこの広いジャリ道に上がろうとしていたのです。
この道路脇の辺りは田圃(たんぼ)ではなく、府道に沿って畑となっていたのです。

 その時、考えもしない大変なことが起きてしまったのです。
良樹の悲鳴と水音が殆んど同時に聞こえてきたのです。
oldboy-elegyくん、とっさに振り替えるが良樹の姿が見えないのです。
水音、時折悲鳴、くぐもった声がするばかりです。
それでもわずか10メートルも行かない先に彼を見つけたのです。

 そこにあったのは!、皆さん分かります、畑の造作に隠れるように野井戸、野井戸があったのです。
彼が覗きこんだ時は良樹ほとんど水没状態で、このあとすぐに手足をばたつかせた彼が現れたのです。
野井戸は直径1.2~1.5Mぐらいの円形、縁の高さが畑の地面から20~30センチぐらいしかないコンクリ製で、子供でも足をすくい取られるほどの代物です。

 とにかくランドセルを放り出したoldboyくん、懸命に手を差し出しのですが、あとわずかの所で届きません、良樹のランドセルの肩バンドにも同様です。
そうこうするうちに良樹、水に沈んだり浮いたりで、このままでは大変なことに、の思いがoldboyくんの脳裏をかすめるのです。
あたりに、誰かいないか、縄か棒切れでもとキョロキョロした時、oldboyくんの目に飛び込んできたのが府道を西からやって来る、バス、そう近鉄バスボンネットバスなのです。
oldboyくん、もう必死です、府道に飛び上がり目の前に来たボンネットバスに身を投げ出すようにして止め、自分でも何を言ったのか、言葉にならない言葉で何かを言ったのでしょう。

 運転手さんや、乗客、女性の車掌さんも含め、5~6人の人たちが道からドタドタと畑に飛び降りすぐに良樹をなんなく野井戸からひっぱりあげてもらったのです。
oldboyくん、人生でこれほど怖い思いをしたのはこれが唯一の事だったかもしれません。

 良樹は意外に元気で「ゲホ、ゲホ」しながら泣くこと泣くこと、ただ助けていただいた人たちがどんな方なのかなどの記憶は全くありません。
それでも良樹、「家に帰る」と、泣き泣き言うので目前の学校ではなく家に連れ帰ることにしたのです。
付き添って彼の自宅まで言って事の顛末をおばさんに報告したまではoldboyくん、記憶にハッキリと残っています。

 もしもしあの時、あのボンネットバスが通らなかったらと(考える度胸)は彼にはありません。
へたすれば一生の負のトラウマをあの時、背負うことになったかも知れないのです。

 偶然の神様に感謝、そしてなによりもあのボンネットバスの走り来る雄姿に乾杯。
これこそが「救いの神の降臨」と言わずになんと言えば良いのでしょうか。

 その後、良樹のお母さん、近くの寺で新しい名前をいただき彼に与えたのです。
祝い事としての紅白饅頭の入った白い箱に新しい名が書いてあり、母に読んでもらったのですが今は記憶としては残っていません、勿論饅頭の事はしっかり覚えています。
この事件の後のそう遠くない日に良樹は隣町に引っ越して行ったのです。
勿論小学校も転校と言う事になります。

 ここまでブログを書き進めたoldboy-elegyくん、「ウム」とあまり気分の良くない思いが胸に引っかかったのです。
よくよく考えてみるに、彼を救ったのはoldboyくんであるのは確かですが、同時にこの事件が発生した、もともとの原因もoldboyくんに有ったと言う事実を今この時に(記事をかいている)初めて知ったと言うか、思い至ったのです。

 霜が立ち、氷の張った田圃(たんぼ)の切り株を嬉々として踏みつけ廻り、その音と足裏の感触の楽しさを教えた張本人は、誰あろう、oldboyくんなのです。
つまり、俺と連れ添って登校さえしなければ良樹は野井戸にはまらずに済んだ事になるのは明瞭です。
 良樹の引っ越しは単なる引っ越しであったのか?と今この瞬間に疑問がわいたのです。
oldboy君の母が言うには、引っ越し先はそう遠くでもないらしい。
特別に引っ越し、転校の理由がどう考えても見当たらないのである。
なにやら、いにしえ人が吉凶をみる「方違え」の風習を見るようでもあるのです。

 当然、親としては、元凶は「あいつ・oldboy」であるとの思いがあるはず。
「彼さえ居なければ、息子がこんな目に合う事は無かった」と考えるのが自然なのでは。
その元凶に「命を救われた」ことで、胸の内は複雑である、のは普通です。


 改名から始まり、方違え引っ越し、転校はすべてoldboyくんから、大切な我が息子を切り離すための方策と行動ではなかったのか、と思えるのです。

 考えすぎの「穿った見方」なのか、今となっては全て時空の彼方のことであり本当のことは永久に謎のままなのです。

 ただあの賢明な私の母があまり、ことの次第をoldboyくんには伝えていないように思うし、「言ったところで、せん無い事」と考えたのかもしれない、と、この瞬間(記事をかいている今)思いいたったのです。
つまり、「母は全ておみとうし」で、このことを、彼には言わずにいたのかもしれないように思うのだが、いやきっとそうだと思う。
なにも小学3年生の子に、無駄な贖罪(しょくざい)を背負わす必要はないと考えたのかもしれない。
「ゴメンな、母ちゃん!」

 ともかく、このoldboy元凶論、このブログ記事を書くまで、恥ずかしながら気が付かなったのです、ただ自分がボンネットバスを止め、彼を曲りなりにも救った事が全てだったのです。

 俺はこの歳になってまで、亡き母の庇護(嫌な思いをさしたくない)のもとで生きているのかとの思いが募るばかりです。

 この記事、ボンネットバスとoldboyくんの手柄話のまま終わるつもりのものが、何故か後味の悪い妙な気分のものになってしまったようです。


 それからあの危険な野井戸の存在がその後どうなったのか、知りません。
今の時代ならそこそこのニュースになっていたかもしれないがどうでしょうか?。

                 了
        
             oldboy-elegy

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(雑感・雑記帳 No. 7)大好きな男性デュオ・Simon&Garfunkel・について。 殆んど言及されていない?こと!!

f:id:oldboy-elegy:20190918175355j:plain  oldboy-elegyくんの記念?すべき最初のブログはアメリカン・ポップス、あるいはカントリー・シンガーのパティ・ペイジが歌う「テネシーワルツ」であった。
あろう事か、その時のブログタイトルが「ラジオとパティペイジ、テネシーワルツそして千〇ミュージック」である。
千〇ミュージックとはその昔京都に実在したストリップ劇場のホールの名前である。
別にペイジを諫めるつもりは全くない、むしろ懐かしさとほろ苦い哀しさを主題に書かせていただいたつもりである、それがoldboy-elegyくんの(elegy・哀しさ)たる由縁で全記事に通じる、ある意味、主題でもある。

それでも不謹慎なと思われた方には、ここで「御免なさい」と謝るほかない。

 そのおり、「ペイジ」が歌う、「テネシー・ワルツ」の「Tennessee・・・」の部分の発音が「Chennessee・・・」に聞こえる、つまり、日本語で表現するなら「テネシー」ではなく「チェネシー」とoldboyくんの耳に入る、他の外国人さんのカバーなどを聞けば、普通に「Tennessee・・・」と聞こえるんだが?。
そんなこんなを、「千〇ミュージック・ホール」を通じて書かしていただいたのが、oldboy-elegyくんのブログの始まりであった。

 タイトル画のイラストはアメリカ合衆国はニューヨークのセントラル・パークにて開催された「サイモン&ガーファンクル」の野外コンサートのシルエット画像である!!と思ってくれ。
その記念の日が1981September19・(9月19日)(現地時間)なのである、38年前のことである。
メモリアルデイに記事を公開しょうかと思ったのだが、oldboyくん、自分にプレッシャーを課すこと事を極端に嫌う御仁で「マアーいいやできた時で、ユックリ書こう」に、気分変更、この日になった次第である。

 時刻は日の入り前から夜間の公演である、集まった観衆は50万人をこえる。

 薄い残照の中、「Mrs Robinson」から始まる。

ステージのセットは何を表現しているのか、中西部の農場のサイロかそれともシカゴを中心とした東部工業地帯の重工業、自動車産業の衰退の始まりの象徴なのか、あるいは都会のバックストリートの荒廃した佇まいなのか、ともかく電飾もなし、キラキラ感はゼロ、簡潔そのもの、あるのは撮影の為の最小限必要なライトのみである。

 二人の衣装は?これが全くステージ衣装とは無縁の普段着然としたもの、「ポール・サイモン」はラウンドネックの白のTシャツに黒っぽい薄地のカジュアルスーツ、一方「アート・ガーファンクル」は着古したインディゴカラーのジーンズに細めの黒のベルト、白のややハイカラーの木綿地らしき長袖のシャツ、そこにボタンも止めないまま黒のベストをハオッテいるだけ。
寝起きのベッドサイドに散らかっていた昨夜の服装かもしれない(冗談)。
笑ってしまうのは、「ガーファンクル」のシャツの後ろがジーンズにキッチリ収まらず、はみ出していることである。


 日本なら誰かが気が付き、それとなく伝えるのが普通であるが、それもないままオープニング曲へ。

 ただ一つ残念な事は、アンデス北部のボリビア、ペルーあたりを発祥とする「フォルクローレ南アメリカ民族音楽)」をもとに編曲した名曲「El Condor Pasa・コンドルは飛んでいく」が今回のコンサートで歌われていないことである。
この曲、特に日本人に好まれているものでもある。
峻烈、極まるアンデスの峰々の間に横たわる氷河と谷底の緑の間をゆったりと飛翔するコンドルの姿は、曲調と重なり何故か強く惹かれるものがある。

 この1981セントラル・パーク・コンサートは入場無料(フリーコンサート)である。
当時、財政難に喘いでたニューヨーク市地域活性化のため彼等にお願いしたある種のチャリティコンサートと言う性格がある。
このため曲の選定も(アメリカ、ニューヨーク)などの言葉が入った曲や、彼等のオリジナルが殆んどのように感じる。
ここに「El Condor Pasa・コンドルは飛んで行く」を入れるのは、いくら彼等のアレンジでもコンサートの主旨からも異質感があるのは否めないと思うがどうであろう。

 時代は合衆国東部の鉄を基盤にした重厚長大な産業(鉄鋼、自動車)が斜陽化し、西部のカリフォルニアなどを中心に勃興しつつあった電子機器やIT産業の時代に入って行く前夜のことである。
重要な事はこれ以後、あれほど強固に思えたアメリ中産階級が雪崩をうって縮小し、資産、所得の社会的階層(ヒエラルキー)が、「持てる者はより豊かに、持たざる者はより貧しく」の時代の入り口にあった事だと思う。

 ここからがoldboyくんが考えるサイモン&ガーファンクル」のオリジナル話(ばなし)である、多分。

 いろいろ日本語での検索を試みたのだが、多くはアマゾンを初めとするレコード販売の案内で、時折ブログ記事にてそれぞれの人達の思いや 日本公演時の出来事・エピソードが語られたものである、oldboyくんが記事化しょうとした主旨のものは無かったように思う。
ただコンサートそのものを収録した画像に関する英語での反応については、oldboyくんの拙い英語力では手に余る。

なにせ、これから俎上に乗せる問題の曲(明日に架ける橋)のみで3000を超える英文の書き込みがある。
それでも50件(わずかすぎる)ぐらい、よろよろ、ヨタヨタ読ませていただいたが、oldboyくんが考える方向からの書き込みは無かったように思う。
ただ読み残した3000以上(余りに多い)の英文の書き込みの中にoldboy-elegyと同じ趣旨の文言があったときはご堪忍のほどお願いする。

 その事とは「アート・ガーファンクル」についてのものである。
もう随分前の事であるが、ブログでは絶対ない、youtubeとも違う、多分NHKの教育テレビだったと思う、(間違っていたらゴメンなさい)。「 アート・ガーファンクル」の1時間ほどの単独ロング・インタビュー番組を見た事がある、製作はアメリカのテレビ局のものであったと思うがどうであろう。
検索でこの動画そのものを探そうとしたが見つからず失敗、どなたか見た方がおられても不思議ではない。
oldboyくんこの動画内容の殆んどは失念、しかしただ一か所、強烈に印象に残る場面があったのである。
それは彼(アート・ガーファンクル)の口腔(こうくう)と口蓋(こうがい)の形について語っている場面である。
解剖学的に口腔とは口の内側の事で、口蓋とはその上側の部分の事であるらしい。
口腔外科(こうくうげか)と言う専門の診療科もあるぐらいである。
つまるところ、彼、アートの口の中、口腔(こうくう)の形が解剖学的見地から、歌をうたう事にいかに理想的なものであるかを延々と語っていた場面である。
 このロングインタービューを思いだした時、「アーそれで!!」と強く納得することがあった。
今回、ポールもアートもソロで各々2~3曲歌っているが、そのうち「アート・ガーファンクル」のソロ「明日に架ける橋・Bridge over Troubled Water)を視聴して、なんだこの撮影はと、感心するやら、ゾクゾクするやら、最後は感嘆のあまり、歌い終わると同時に、良い意味の心地良い疲れを感じるほどの感覚をいただいた。

いままで、幾度となく見て来た録画だが、今回初めてあのインタビューの事を意識し、視聴して全く異次元の感動を得ることができたのである。
少し、視点を変えてみるだけなのに、こうにも印象が違って見えることには驚きであった。

 歌唱時間は約4分半ぐらいで、始めから2分20秒位までは、いつも見ているそれとそんなに違った所はなく、チョット力(ちから)が入ってるな、思ったぐらいである。
撮影スタイルと言うのか、撮影技術と言うのも普通で、全身から顔のアップに入ったり、カメラ位置が反対サイドに変わったりと、なんら特別感は無かったのだが、曲の半ば過ぎから、画像の撮影スタイルがガラリと変わったのである。


 それ以後、彼のステージ上の全身を撮影することは殆んどなくなり、大部分が彼の頭部と言うか、顔のアップに費やされ、彼の口内、口蓋、舌の動き、喉の奥、喉ちんこまでが画面一杯にド・アップされて撮影されだしたのです。
しかも、この状態がほとんど歌い終わるまで継続されているのである。
最後にカメラが彼のUPから離れ、全身を映し出した時、腰のあたりで左手で力一杯、こぶしを握るが、それでも控えめな動作は、観衆に見せたものではなく「よし完璧にやれた」と自分自身に言い聞かせた動作だったと思う。


 この特殊な撮影はガーファンクルとカメラマン、あるいはディレクターなどとの了解の上、意図的になされたもののように思うのだが?!!どうだろう。

 そこで兎にも角にも、これらの事を意識して視聴して欲しいのである。
当初、ここにyoutubeのURLのリンク張るつもりだったのだが、権利関係が分からないので各々個人として閲覧するのがベストと判断した。
該当コンサート名を記述しておきますので興味のある方は視聴されて確認されるのも一興かと思います。

★下記の画像アドレスはリンクされておりません。
 検索にて、コピー&ペーストでお願いします。
 
直接「明日に架ける橋」に入ります、2分20秒あたりからあとがoldboyくんの
 気になる箇所です。


Simon&Garfunkel-Bridge over Troubled Water (from The Concert in Central Park)

 oldboyくんにとっても、あのインタビューの記憶が完全に具現化された瞬間でした。


 ずっとずっと昔、高校生の頃だったと思います。
「サマーセット・モーム」の小説、「月と六ペンス」を読んでいた時のことです。主人公は「ゴーギャン」と言われいます。
特別面白いとか興味があって読んだわけではないし、学校の課題でもなかったはず、ただ「モーム」の名にひかれて手にしたぐらいの事です。

 南の島(タヒチ)で、主人公が自堕落な生活をしていたジャングルの葉っぱ小屋に、誰かが訪れたのです。
その小屋に入った瞬間、粗末な小屋の壁いっぱいに描かれた彼の絵が圧倒的な力で訪問者の目に飛び込んできたのです。

 oldboyくん、このくだりで、フイに背骨から脳髄にかけて何かが走り、涙が出そうになったことを記憶していますが、それを引き起こした原因も感覚もそれ以来二度と我が身に訪れたことはありません。
もとの平和な凡人に戻っただけのことです。

 芸術家とは、そんな感覚を一生持ち続けることができる特殊な人達だと思うのですがどうでしょう。

 「ガーファンクル」はあの時、その極みの感情の頂点にあったように思います。
人によっては、それは演出だったかも知れないよ、言うかも知れませんが、oldboyくんそんなことどうでも良いことで、あのテレビでのロングインタビューとセントラル・パークでのソロの歌唱表現が一本の紐で結ばれた瞬間だと感じたのです、同時にこのことを記事化にしょうと決めた瞬間でもあったのです。

 ともかく、oldboyくん、このことを曲がりなりにも記事にできたことは嬉しい限りです。          ではでは

                    了
              oldboy-elegy

  下記のリンク記事がoldboy-elegy君の記念?すべき第一作のものである。
良かったら、合わせて目を通していただければ感謝。

oldboy-elegy.hateblo.jp

 

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oldboy-elegy (13)  些細な、ささいな事。互いに口にすれば面白くなくなるとの思い、20年ぶりに無事決着の運びとなりました。ホッ!

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  講義が始まるまで少し時間がある。
4階の教室まで上がると、三々五々と学生が集まってきている。
講義名は?今は完全に忘却の彼方のoldboyくんである。
ただ必須科目であったことは確かである。
何故なら、彼がわざわざ受講のためにお出ましされたのがその証拠である。
K館4階のこの教室、3人掛け10脚×5列ぐらいの広さである、受講者は約100人位だと思う。

 
教室内にもすでに学生がちらほら、友人のOくんも間もなく来るはずである。
oldboy-elegyくん、記念のブログ第一話の記事(ラジオとパティペイジとテネシーワルツarchive(1))に登場の九州出身のあのOくんである。
在学中、ストリップ劇場の半券50枚を収集して「我が家のお宝にする」と豪語していたあの御仁である。
その目標は10枚弱で敢えなくとん挫、今は麻雀ギャンブラーの身である。
雀荘「夕日荘」に昼夜お出まし、グレーのジャンパー姿で、両切りの安物タバコをくゆらせている格好はまさしくそのものである。

 やがてその彼が、トレイドマークのモスグリーンのショルダーバックをタスキに懸けて教室に登場である。

 
ここでチョット説明しておきたい事がある。
タバコと言おうか、喫煙に対する、認識がいま現在とは全然違っていた当時(約50年前)の事である。
「なぜ今、唐突にタバコの話を?」

 
実はこの教室の後ろからの出入り口の外の脇に、デッカイ灰皿が設置されていたのである。
鉄製の60~70センチ位の高さの黒色の4本足に、アルミ製の洗面器をもう少し大きくし、なお且つ浅くした格好の灰皿が置かれていたのである。
中には火消の意味で少量の水が入っている。

 
ここは大学である。
それも講義室の後部と言えども出入り口である。
「タバコを吸うのはここだけにしときなさいね」と言う大学からのメッセージなのか、
学生へのサービス精神なのかは知らない。
今では信じられない光景であることは間違いない。

 これが50年ほど昔の当たり前の風景であり、当時の喫煙に関する文化が見て取れる。
今では教室はおろか、キャンパス全体が禁煙域なのは常識であり、さもなくば学生も集まらないし、大学の存在・存続も考えらないのが常識である。
それが現在の人たちが見る喫煙に対する文化なのである、隔世の感がある。

 
そのスタンド灰皿を囲み5~6人の学生が煙をくゆらせている。
何の変哲もない当時の教室前の風景である。

「どう調子は」とOくんに、賭け麻雀の勝ち負けのことを聞いたのである。
「勝ったり負けたり、多少プラスかな」
「講義終わったらどうするの」とOくんが聞いてきた。
今晩の宿の事である。
「今日から、3日連チャンの塾のアルバイトですわ、ありがとう」とoldboy-elegyくん。
塾のない日は時折、彼の下宿に留めていただいているのである。
特に翌日午前中の講義の時は大いに助かるし、前日の夜遊びも時間を気にせず勤しむことができる。

 
「そろそろ講義時間やな、タバコ1本、吸うとこ」今日は(しんせい)である。
「あ~そや、マッチがなかったんや、火貸して」とoldboy-elegyくん。
まだ100円ライターが存在しない時代のことである。
彼Oくん、アルミ製のスタンド灰皿の前から離れて講義室の中へ、手をヒラヒラおいでおいでとooldboyくんを招いてるOくんのこの行動に「??」、今からタバコを吸うのである、灰皿から離れてなんとしょう。
するとOくん、ショルダーバックを自分の体の前面に移動、バッグを開け始めたのである。
Oくん、ダンマリで無表情のままである。
なにか、タバコ1本吸うのに、事がなにか重大な雰囲気なのである。
マッチを俺に渡すだけの事、oldboy君は「なんだこの雰囲気は!!」と心の中で感じている。
彼、「なんでもないよ」との様子のまま取り出したのはデッカイ卓上用のオイルライターである。
陶器でできたナツメ型の白い壺の表面に、なにやら群青色の葉っぱの模様が入っている焼き物で、高級そうである。


その壺の中に大きなライターが収まっているのである。
それらのセットを立ったままカバンからウヤウヤシク、ゆっくり取り出し、3人掛けの木製の机の上に、ソロリとこれまた無表情のまま置く彼。

 
oldboyくん、おもわず笑い、吹き出しそうになったのだが全て急遽撤回、無表情、ダンマリのまま、彼のうながすまま、ガチャリと火を付けていただき、顔をライターに近づけタバコに着火、いつもより胸に深めの一服を吸い込みゆっくりと吐いて、無言のままこの儀式を終えたのである。
すこし頬の筋肉がバカらしさと可笑しさのためピクピクしたかもしれない。
その卓上ライターが彼のバッグに納まっても、マッチを借りたぐらいの意識のままで、とりたてて変化はない。
そしてそれ以降、互いがその事について、何かを、口にすることは一生無かったのである。

 oldboyくん、この日、この講義だけで塾のため大阪に帰って行ったのである。
彼Oくんはこのまま(麻雀屋、夕日荘)に直行のはずである。

 
たったこれだけのことであるが、あの豪華な卓上ライターが、誰の物で、何処にあったのかをoldboyくんは知っていたのである。
その上での行動なのである。
普通なら「ウッヒッヒ、なんじゃこれ、お前こんな重いライターカバンに・・」と彼を指さし、笑い転げるのが普通である。
しかしO君とoldboyくんとのアクッションは、これとは真逆のものである。
考えて見てくれ、いい大人が、無言のまま、自然(?)に、しかも教室での事である、
一瞬でこの反応の仕方が「かれに対する一番の反応」であり、「かれ一流のユーモアへの返礼」と感じたoldboy-elegyでもある。
この奇妙なセレモニーを見ていた学生もいたはずである。
デッカイ、陶器の卓上ライターを見て「なんじゃこいつら?!」と思ったはず。

 
このOくんの下宿先は寺である。

観知坊(仮称)と言う名の真宗系の末寺の小さな御坊である。
本物はこのタイトル画像のお寺をさらに小さくしたような雰囲気である。
多分この画像は一応本堂と思われるが実際の観知坊はこの向かって左脇に庫裏が存在し、住職さん一家の生活の場として使われていたのである。

 
して彼の下宿部屋はどこに。
この寺も京都市内の町中にある。
画像の左端の庫裏からさらに左に幅1m位の道が奥に向かって続いている。
あと、高いブロック塀が民家との密集を隔しているのである。

 そうこの狭い道筋のドン突き右側がOくんの下宿部屋の玄関である。

Oくんの取り出した、豪華な卓上ライターは庫裏にある応接部屋の大きな卓上に鎮座していたあの卓上ライターに間違いありません。

 去年の秋、寺の住職さんが松茸づくしの夕食会にOくんともども招いていただいのがこの部屋なのです。
oldboyくん、この事を母に告げると、なんと1KGの牛肉を手土産に持たしてくれたのである。
普段から、実家での食事は「お金をくれとは言わぬ、ただしおかずに文句を言うな」と言われてきた自分にとってはビックリである。
これも亡き母との良き思いでとして残っている。

 その時、松茸ずくしの料理を食したのがこの部屋であり、そこに鎮座していた卓上ライターがまさしくこれだったのです。
当然、その時oldboy君、このライターを使っているのである。

 
もうあれからほぼ50年の年限が過ぎ去りました。
ただ彼Oくん、我々の仲間内で最初に亡くなった人でした。
お葬式にも、緩い(ゆるい)お誘いがあったのですが、近いうちに線香をあげるためお伺いするとだけ約束をしてお断りしました。
40才を少し出た若さでした。

 それから1年も待たず、oldboy-elegyくん、Oくんの遺影の前で手を合わすことになったのです。
お母さん、とお嫁さんの二人だけの参会者です。
 あの卓上ライターの始末は付かないままの状態です。
今日oldboyくん、ある決心のもとにここに来たのです。

 お寺の庫裏での松茸ずくしの夕食会の事、勿論ストリップ劇場の半券のことなど、
そして最後に卓上ライターの事、教室での様子から雰囲気まで全てお話し、聞いていただいたのです。

 そして今日ここで終止符を打つのが最良の上策と思っている事も併せて。

  その言葉がこれです。

「これ下宿の庫裏の応接部屋の卓上ライターやん」とoldboyくん。
「そうや!!」と覗きこむように、ニタと笑う彼。

 たったこれだけの事です。
すべて彼が仕掛けた彼一流のワナであったはずです。
かれもきっと憶えてたはずです。


 
全て彼一流のユーモアがなせる事なのか、兎も角も20年以上にわたる中途半端な状態が今日、お母さん、お嫁さんの下で無事終止符が打たれたのです。

 
始めの内、少し解せんな顔をなさっていた、目前のお二人も、最後にはニッコリと納得、を超えて涙顔。

 ここで 遺影も何故かシタリ顔に、変化したように思うがどうだろう。
「これで良かったんやな?」

皆さんどう思います。
バカみたい。
暇な奴やな~。
なんとなくわかる。

その後長きにわたり季節のハガキが来ていたのだが、最近ではそれも途絶えた。

                  
     了

              oldboy-elegy

  O君との交友録の第一ページが下記の記事である。
良かったら、目を通していただければ感謝。

 

 



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